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第5話:冷雨に濡れる小鳥
冬の入り口の雨は、まるで無数の針のように冷たく、容赦なく肌を突き刺す。
「……っ、は、あ……」
城の中庭、泥濘の中に這いつくばるエルゼの体は、もはや震えることすら忘れたかのように凍てついていた。
先ほど、リリアーヌによって薄い下着同然の姿で放り出されたのだ。「不気味な歌声で殿下を惑わせた」という、理不尽な罪を着せられて。
「あ、……あさま……」
視界はもう、左右が闇に呑み込まれ、中央が白く濁っている。
それでもエルゼは、泥にまみれた右手を、懐のあたりに強く押し当てていた。そこには、かつてアルベルトが演習中に捨てた、土埃に汚れた古いハンカチを隠し持っている。彼にとってはゴミでも、彼女にとっては、唯一彼に触れることを許された、温もりの名残だった。
その時、重厚な車輪の音が、雨音を切り裂いて近づいてきた。
王家の紋章が刻まれた馬車。アルベルトが、公務からの帰還で通りかかったのだ。
(ああ……殿下。……どうか、そのお体が、冷えませんように……)
自分自身の死がすぐ隣にあるというのに、エルゼの脳裏を過るのは彼の健康のことばかりだった。
馬車がエルゼのすぐ横で止まる。窓が開き、そこからアルベルトの鋭い眼差しが向けられた。
「……何をしている、エルゼ」
その声は、雨よりも冷酷にエルゼの心臓を凍らせた。
アルベルトは、泥を跳ね上げられ、濡れ鼠のように震える義妹を、ひどく不潔なものを見る目で一瞥した。
「そんな惨めな姿を晒して、誰の気を引きたいのだ。リリアーヌから聞いたぞ。お前は最近、奇行が目立つと。……あのような清廉な女性を困らせるなど、恥を知れ」
「ちが、います……私は、ただ……」
声が出ない。喉が焼けて、掠れた吐息が漏れるだけだ。
リリアーヌが、あらかじめ彼に嘘を吹き込んでいた。エルゼが自ら服を脱ぎ、注目を集めようとしているのだと。
「……汚らわしい。二度とその不快な姿で、私の前に立つな。視界に入るだけで、せっかくの快復が台無しになる」
アルベルトは吐き捨てるように言うと、御者に馬車を出すよう命じた。
発進する際、車輪が泥溜まりを跳ね飛ばした。
バシャッ、と。
冷たい泥水が、エルゼの顔を、髪を、そして大切に抱えていた懐のハンカチを無慈悲に汚した。
「……っ、……あ……」
去りゆく馬車の灯りを見送りながら、エルゼは泥の中に突っ伏した。
汚されたハンカチを、泥だらけの手で必死に拭う。だが、拭えば拭うほど、泥は白かった布を黒く染めていく。
それはまるで、自分の人生そのもののようだった。
彼を想い、彼を救い、けれど彼に触れようとするたび、その想いは汚れ、憎まれ、踏みにじられていく。
「……あ、りがとう、ござい、ます……」
凍える唇が、なぜか感謝の言葉を紡いだ。
馬車の車輪に跳ねられたことさえ、彼に関心を持たれた(――たとえそれが嫌悪であっても)証拠のように思えてしまう。
意識が混濁し、雪のような白濁が視界を完全に覆い尽くそうとしたその時。
エルゼは、泥だらけのハンカチを口元に当て、微かな彼の残り香――戦場の砂埃と鋼の匂い――を吸い込んだ。
「……死ぬ、ときは……。……あの、光の、中で……」
雨はいつまでも降り続き、泥濘に沈む小さな「小鳥」の体温を、音もなく奪い去っていった。
「……っ、は、あ……」
城の中庭、泥濘の中に這いつくばるエルゼの体は、もはや震えることすら忘れたかのように凍てついていた。
先ほど、リリアーヌによって薄い下着同然の姿で放り出されたのだ。「不気味な歌声で殿下を惑わせた」という、理不尽な罪を着せられて。
「あ、……あさま……」
視界はもう、左右が闇に呑み込まれ、中央が白く濁っている。
それでもエルゼは、泥にまみれた右手を、懐のあたりに強く押し当てていた。そこには、かつてアルベルトが演習中に捨てた、土埃に汚れた古いハンカチを隠し持っている。彼にとってはゴミでも、彼女にとっては、唯一彼に触れることを許された、温もりの名残だった。
その時、重厚な車輪の音が、雨音を切り裂いて近づいてきた。
王家の紋章が刻まれた馬車。アルベルトが、公務からの帰還で通りかかったのだ。
(ああ……殿下。……どうか、そのお体が、冷えませんように……)
自分自身の死がすぐ隣にあるというのに、エルゼの脳裏を過るのは彼の健康のことばかりだった。
馬車がエルゼのすぐ横で止まる。窓が開き、そこからアルベルトの鋭い眼差しが向けられた。
「……何をしている、エルゼ」
その声は、雨よりも冷酷にエルゼの心臓を凍らせた。
アルベルトは、泥を跳ね上げられ、濡れ鼠のように震える義妹を、ひどく不潔なものを見る目で一瞥した。
「そんな惨めな姿を晒して、誰の気を引きたいのだ。リリアーヌから聞いたぞ。お前は最近、奇行が目立つと。……あのような清廉な女性を困らせるなど、恥を知れ」
「ちが、います……私は、ただ……」
声が出ない。喉が焼けて、掠れた吐息が漏れるだけだ。
リリアーヌが、あらかじめ彼に嘘を吹き込んでいた。エルゼが自ら服を脱ぎ、注目を集めようとしているのだと。
「……汚らわしい。二度とその不快な姿で、私の前に立つな。視界に入るだけで、せっかくの快復が台無しになる」
アルベルトは吐き捨てるように言うと、御者に馬車を出すよう命じた。
発進する際、車輪が泥溜まりを跳ね飛ばした。
バシャッ、と。
冷たい泥水が、エルゼの顔を、髪を、そして大切に抱えていた懐のハンカチを無慈悲に汚した。
「……っ、……あ……」
去りゆく馬車の灯りを見送りながら、エルゼは泥の中に突っ伏した。
汚されたハンカチを、泥だらけの手で必死に拭う。だが、拭えば拭うほど、泥は白かった布を黒く染めていく。
それはまるで、自分の人生そのもののようだった。
彼を想い、彼を救い、けれど彼に触れようとするたび、その想いは汚れ、憎まれ、踏みにじられていく。
「……あ、りがとう、ござい、ます……」
凍える唇が、なぜか感謝の言葉を紡いだ。
馬車の車輪に跳ねられたことさえ、彼に関心を持たれた(――たとえそれが嫌悪であっても)証拠のように思えてしまう。
意識が混濁し、雪のような白濁が視界を完全に覆い尽くそうとしたその時。
エルゼは、泥だらけのハンカチを口元に当て、微かな彼の残り香――戦場の砂埃と鋼の匂い――を吸い込んだ。
「……死ぬ、ときは……。……あの、光の、中で……」
雨はいつまでも降り続き、泥濘に沈む小さな「小鳥」の体温を、音もなく奪い去っていった。
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