ゾンビの坩堝

GANA.

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ゾンビの坩堝【3】

ゾンビの坩堝(23)

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 117号室……――
 南東の角部屋の前に立ち、自分は片引き戸をにらんだ。頭に熱がこもり、高まっていく……ノックして、しばらくしてからがらがら開き、右に傾いた老ヒツジ面が現れる。その寒色半纏姿の後ろは、ゆったりとしたベッド、木製の渋いテーブルと椅子、どっしりとしたキャビネットに大画面薄型テレビの、148号室とは雲泥の差がある個室……――
「何か用かね?」
 鼻先をそらした自治会長は、じろりとこちらをうかがって、手短に、とそっけなく付け足した。こっちの青みをうつされたくない、と考えてそうだった。
 言ってやる――火照りのままに自分は、別の部屋に移りたい、と切り出し、ノラ――2540番との生活がいかにひどいかを訴えた。吐き出すほどのぼせ、両手を振りながら我慢できない、世話なんてしたくない、重症化リスクがある、と語気を強め、最後には哀願っぽくなった。自治会長は片引き戸の取っ手の方を見ており、どれだけ聞いているのか分からなかった。
「大変なのは分かる」
 こちらを一瞥もせずに返した自治会長は、空きがないので移ることはできない、誰かが面倒を見てやらなければいけないのだ、と取り付く島がなかった。
 それが、なぜ自分なんですか!――
 かっとなると、自治会長は横顔を向け、そのまま後ろに回りそうになった。
「同室者と助け合う、それがここのルールだ。そうそう、あのシートがなくなる前にタブレットで注文しなさい。自分のナンバーではなく、2540でログインして――」
 互いのウォッチが鳴り出し、冷や水を浴びせられる自分……自治会長はため息をつき、もうじき昼休みが終わる、帰りなさい、と片引き戸を閉めてしまった。目の前を塞いだこれを思いっきり蹴って、怒鳴り込んでやろうか……しかし結局自分は静まったウォッチを下げ、鈍く痛む腹をさすりながらとぼとぼ引き返した。
 いつしか北西の角に差しかかっていた。さっきまで南館にいたことで、こちら側の陰気な薄ら寒さが身にしみる。マール、マール、マール……帰りたくない……手すりにつかまり、行き止まりとは逆方向に曲がると、向こうから時計回りに独白が近付いてくる。黒ヤマネコのウォーキングだ。
 同じ一日、泣くよりも笑った方がいい……嫌なことは自らを磨く、よい経験……――
 そうしたことを唱え、端に寄った自分の前を通っていく……香水か、ファミレスのワイン風のにおいが鼻をくすぐった。黒髪の後ろに連なったフォロワーの最後尾が北西の角を曲がって見えなくなり、ジャイ公とミッチーのいやらしい顔が部屋の中に引っ込む。
 ちょっと運動、するか……――
 自分はぐずつく腹をさすり、黒ヤマネコたちの後に続いた。前に倣って背筋を伸ばし、腕を振って歩幅を広げる。北通路を進んで右折、東通路を下って……南館には入らずに連なりから外れ、歌声がかすれたケロノの前を横切って西通路に戻った。疲れが増しはしたが、多少は体がしゃんとした気がする。
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