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セラム

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Book 1 – 第1巻

Op.1-15 – Potential

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 光がレッスン室【5–F】に入るのを確認して折本恭子は再び缶コーヒーに手をかける。

 ハヤマ音楽教室には年齢及び生徒のレベルによってコースがいくつかに分けられており、光は幼児科、ジュニア専門コース、上級専門コースといわゆるエリート街道を突き進んでいる。
 光の世代ではジュニア専門コースまではグループレッスンと個人レッスンの週2回のレッスンが行われていたが、ピアノを辞めていく生徒が増えたことで中学2年生の秋頃にはグループレッスンが消滅し、週1回の個人レッスンのみに変更となった。

 通常、40分レッスン (場合によっては50分も有り得るが、異例である) を月3回行うが、光の才能と熱意に惚れ込んでいる折本は異例の50分レッスンを毎週、金額を変えずに行っている。

「ふぅ」

 折本はコーヒーを一口飲んだ後に一息つく。彼女は10時から13時10分まで4人の生徒をレッスンした後 (レッスン間に10分の休憩を挟んでいる)、光のレッスン開始時間の14時まで軽食を摂るための休憩時間としていた。

「(今日の調子はどんなものかしらね? 光ちゃん)」

 折本はハヤマのカリキュラム通りにレッスンすることを一切しない。生徒の進度・成熟度に合わせてレッスン内容を変える。

 生徒は十人十色。1つのカリキュラムに当てはめることなど不可能だというのが折本の考え方で1人1人に向き合ってその子が『何が得意なのか』『何が不得意なのか』を見極めて課題を選曲する。折本の幅広い知識と技術、それらに裏付けされた指導力と音楽に対する彼女の熱意がこの独特な指導法を可能としている。

 同じグループレッスンの生徒同士でよく「今、何弾いとるん?」といった会話が繰り広げられるが、折本の受け持つクラスではそれぞれ違う楽曲の話となる。そしてこの会話は生徒たちの音楽に対する興味を引き立て、中には「~君が練習している曲、弾いてみたいです!」といった自主性を促す。

 彼女はそもそもピアノの上手い生徒を育てようと考えたことはなく、純粋に音楽が好きな子を育てることに重きを置いている。そのため折本は生徒が成熟するまでコンクールに出場することあまり好ましく思っていない。

––––音楽は競争じゃない

 小さい頃からコンクールに身を投じると"コンクール用の演奏"が身に付いてしまって個性が死んでしまう。音楽の楽しさ、素晴らしさを理解し、自身の個性が確立されてきたと折本が判断した生徒にコンクールを紹介している。(それでも飽くまで紹介程度である)

 その中でも結城光という生徒は特異な輝きを放つ。

「(上手い……。けど不安定。今私が受け持っている子たち、いやプロへと羽ばたいていった子も含めてこれまで見てきた多くの生徒の中でも才能だけで言えば恐らくトップクラス。ただその日の気分とコンディションで300点にも30点にもなる……)」

 光はその気まぐれな性格と自由さ故に演奏が安定しない。好調時にはあのマルタ・アルゲリッチやウラディミール・ホロヴィッツのような凄みと存在感を発揮し、その場の空間を支配してしまう。
 
 2人の伝説的ピアニストに共通するのは強烈な『個性』と『自由』

 アルゲリッチとホロヴィッツはその圧倒的な個性と自由から賛否両論あるピアニストであることは確かだが、その実力は正に天才という言葉がふさわしい。2人は精神的な面でよく不安定さを露呈していたが、それをコントロールする術を経験によって身に付け、そして懸念材料を凌駕する才能が2人の地位を確固たるものにした。

 しかし、光は未だ16歳 (来月で17歳を迎える) の女子高生。自分をコントロールすることはできておらず、また、その奔放な性格と独特な感性、これらがより一層事態を難しくしている。そのため、疲労や思春期特有の悩みなどがあると一気に演奏のレベルは低下し、聴くに耐えないものとなる。
 対策の例として平日にレッスンしないこと、休日レッスンでも午前中にしないことが挙げられる。前者は学校帰りの疲労、後者は眠気からくるやる気の無さを警戒してのものだ。

 また、光には他の生徒とは比べものにならないほどの量の演奏曲を与えている。しかし、折本には1回のレッスンで見るつもりはそもそもなく、その日の光の状態を確認して弾かせる曲を選択している。

 折本は防音ドアを開き、レッスン室へと入る。 

「はーい、光ちゃん、こんにちは」
「こんにちは~」

 折本に光も挨拶を返す。光はシャープペンを持って譜面に何やら書いているところだった。先に光がレッスン室へ入った場合、何をしているのかは1つの判断基準である。(遅刻の時は理由によるが最悪な場合が殆どである) 

 譜面台に1冊が置かれている時はその曲を弾きたいという意思表示または弾けなくて苛ついている、譜面台に複数の譜面を置いている場合にはやる気があって沢山弾きたいという意思表示である。現在の光のように曲を作っている場合も比較的に気持ちが安定していることが多い。

「新しい曲作ってるの?」
「はい。けど何だかな~って感じなんです」
「そうなのね~」

「(最悪かもしれない)」

 光との会話で折本は少し考え直す。そもそも光は高校になってから絶好調時というものがあまり見られなくなった。特に去年の今くらいの時期からだろうか? 明らかに光の演奏に揺らぎと迷いが生じ始めている。
 その綻びはこれまで折本が感じてきたものとは異質なもので彼女自身も困惑している。多感な時期ということもあって詮索しないようにしているものの小学校低学年の頃から受け持ち、光を娘ないし孫のように可愛がってきたために少し心配している。

「じゃあ、光ちゃんいつも通りハノン、20番までノンストップでやってみよっか」
「はい」

 そう言って光は五線紙を片付けてハノンを取り出す。

「いつも言ってるけど、作業にならないように。1つ1つの意味を考えながらね。それでいてテンポも速く」
「はい」

 光は返事をした後にピアノの前で1度静止した後に弾き始める。

「(速い。そして正確)」

 折本は光のすぐ隣に座り、譜捲りの準備をしながら感心する。光自身も自分の指の力が弱いことは自覚していて改善されてきていることが1音で分かる。
 ハノンの指示速度は♩=108。しかし、光はそれ以上のスピードで演奏し、それでいて1音1音がハッキリと聴こえるように演奏している。

 光は左手薬指をくぐらせるのが苦手でその場面に出くわすと明からさまに音が弱くなる癖があった。しかし、長くハノンを取り組ませてきた成果か、最近では速いテンポでも安定して音を出せるようになってきた。また、20番程度までならばバテることもなくなり、持久力も明らかについてきている。

「きちっと弾けるようになってきたわね。作業にならないようにすることが大事よ」
「はい、最近は疲れなくなってきました」

 ハノン20番までを難なく弾き終えた光を折本は褒め称え、光も嬉しそうに返事する。

「(さて……今日は何をやろうかしらね)」

 折本は譜面台の隣にあるスペースに積み上げられた数冊の教本を見ながら考え込み、しばらくしてから光に告げる。

「じゃあ、今日はバッハの平均律やってみようか」

 光は頷くと教本を取り出した。


<用語解説>
・Martha Argerich (マルタ・アルゲリッチ):1941年 アルゼンチン出身のピアニスト。『鍵盤の女王』と呼ばれ、その演奏は盤石の技術に支えられた女流らしい感性の発揚を特色とし、世界のクラシック音楽界で高い評価を受けているピアニストの一人である。若い頃はステージを怖がる故にキャンセル魔として知られ、難しい時代を過ごすことも少なくなかったが、その不安定さも彼女の魅力として語られる。

・Vladimir Horowitz (ウラディーミル・ホロヴィッツ):1903年–1989年 ウクライナ生まれのアメリカのピアニスト。『鍵盤の魔術師』と呼ばれ、20世紀を代表する孤高の天才ピアニストで、生きながらに伝説となった巨匠。ホロヴィッツの超個性的かつ超人的な演奏に加え、奇人変人伝説といった様々な話題に事欠かなかったことも彼の名声を大きくした要因の1つでもある。指をまっすぐ伸ばして指の腹で打鍵するスタイルから奏でられる超絶技巧と大轟音による非常に個性的でパワフルな演奏は「異端児」として彼を唯一無二の存在とした。



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