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とある夫婦(11)妻の家出①
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「ギャッッーーーーッ!!??」
バターンッ
ドアを開けて妻のキャロラインの顔を見た途端、夫のエリックは卒倒して仰向けに倒れた。
「…………………………」
顔を見ただけで卒倒するとは。
どれだけ妻を恐れているのだろう。
キャロラインはそれを静かに睥睨してから部屋の奥へと視線を向ける。
そこには気絶したエリックを見て怯えている女が一人、こちらに背を向ける形で寝台に腰掛けていた。
女は肩甲骨辺りまで服をずらしており、白く滑らかそうな頸が露わになっていた。
ここは男女が逢瀬を楽しむ特別な宿屋だ。
そんな所で男と女が二人きりでヤル事といったらそれはもう……
「ハイ浮気確定っ!!」
キャロラインは指差し確認で告げた。
そして、
「今すぐ離婚してあげるから、こんな安宿じゃなくご自分の屋敷でどーーぞっ!!」
とドスの利いた声で言いながらエリックの股間を踏みつけた。
「☆◇○♧□▽€※!?」
そのショックで意識は戻ったものの、痛みで蹲る夫を見下ろしてキャロラインは言った。
「あばよっ!!」
踵を返して宿屋の狭い廊下を早足で歩き去る。
後ろから呻き声で「待ってキャロ…」とか「誤解だっ…」というような声が聞こえたが当然無視だ。
この状況で何が誤解というのだ。
『元騎士爵の娘だからとバカにしてっ……!』
キャロラインは怒りで目の前がチカチカするも、それに構わず階段を駆け降りた。
が、しかし……
血圧上昇の所為か狭まった視界で駆け降りたのがいけなかったのか。
キャロラインは段差を踏み外し、そのまま階段を落下した。
「奥様っ!!」「キャロっ!!」
専属メイドのカナとエリックの声が聞こえる。
エリック……あの野郎っ……
この裏切り者っ!!
それがキャロラインが意識を保っていた最後に思った言葉だった。
◇◇◇◇◇
数日前、屋敷の者のヒソヒソ話がキャロラインの耳に入ったのは本当に偶然だった。
たまたま書庫に用事があって廊下を歩いている時に、掃除中の部屋の片隅で小声で話すメイド達の声が聞こえたのだ。
「ホントに?その男は旦那様で間違いなかったの?」
「旦那様を見間違える訳ないでしょっ?何年このお屋敷に勤めてると思っているのよ、アレは間違いなく旦那様だったわ。それにもう二度も目撃したのよ?」
「でも信じられないわ、あの旦那様が安宿で浮気なんて……」
『な、なぬっ!?』
聞き捨てならぬ単語にキャロラインは耳を疑った。
その後もこっそり聞き耳を立てて聴いた内容によると、
王都の下町にある安宿に、夫のエリックが若い女性を伴って入っていくのを二度も見かけたそうなのだ。
伯爵家当主であるエリックがわざわざ下町の宿屋を使うなんて、よほど誰にも見られたくないのだと。
そうなればその宿で女性と度々逢瀬を繰り返しているとしか考えられないだろう……とそのメイドは言っていた。
あのメイドは確か先代の代から屋敷に仕えている者で、東の下町に住んでいると雇用名簿にあった筈。
そのメイドが二度も見たとなると、彼女の生活圏の中であると思われる。
という事は逢瀬に使う二人の御用達の宿屋は東の下町にあるというわけか……
これはキャロライン自ら出向いてその話が本当か確かめねばならない。
キャロラインはそう決めた。
夫は王宮に文官として仕えている。
休みの日は屋敷にいるか、先代の屋敷に呼ばれているかである。
妻の目を盗んで女と会うなら終業後の僅かな時間だろう。
「どうかメイドの見間違いであってほしい……」
キャロラインはポツリと呟いた。
そうして終業後にエリックが王宮から出て来たところを尾行して、彼が下町のカフェで女と落ち合い、二人並んで安宿に入って行く姿と一緒に部屋にいる姿をバッチリ確認したという訳なのである。
階段から転げ落ちたキャロラインの意識はまだ戻っていない。
屋敷中の空気が重く、暗く沈んでいた。
専属メイドのカナと家政婦長が付きっきりでキャロラインを看ている。
夫のエリックも、その二人の冷ややかな視線に晒されながらもキャロラインの側にいた。
『キャロライン、目を覚ましてくれ。どうか、どうか俺に、ちゃんと説明をする機会を与えてくれ……』
エリックはベッド脇に座り、ずっとキャロラインの手を握り心の中で語りかけていた。
その念がキャロラインに伝わった訳ではないと思う。
だけどキャロラインはエリックの夢を見ていた。
出会った頃の夢だ。
キャロラインの父は王国騎士団の一師団長を務める騎士だった。
平民だったが、数々の武勲を立てて一代限りの騎士爵を賜ったのがキャロラインが16歳の時。
そして同時に叙爵した数名の者を祝う小さな祝賀パーティーに娘として出席した時に、エリックと出会ったのだった。
一介の騎士の娘として自由にのびのびと成長したキャロラインが、急に飛び込む事になった社交界に馴染める筈もなく……。
壁の花で居続ける事に辟易としたキャロラインは中庭へと抜け出した。
「ふぅ……」
外の空気に触れてやっと息が出来る心地がした。
月明かりの下で柔らかい風に吹かれて深呼吸をする。
王宮もパーティーも貴族連中も馴染めなくて嫌いだけれど、ここの庭は好きだなぁとキャロラインは思った。
青々としたフカフカそうな芝生を見て、キャロラインは思わず生唾を呑む。
素足で歩いてみたい衝動に駆られてどうしようもない。
本来田舎で野猿のように育ったキャロライン。
素足で地面を踏む心地よさを久々に思い出してどうしても我慢できなかった。
『どうせ誰も見ていないわよね』
遠くのテラスで談笑している人間の姿はチラホラ見受けられるが、庭園まで足を伸ばしている者はいない。
キャロラインはこのパーティーの為にあつらえた華奢なパンプスを脱ぎ、そっと足を芝生の上に乗せた。
「ふわっ……!」
なんて事だっ!!
王宮は芝生まで高級品なのかっ!!
毛足(?)いや、芝丈が長く細くて柔らかい。
芝の一本一本が折り重なり合って纏まり、ふわふわの綿のような状態になっているのだ。
キャロラインはそのフワフワふかふかの芝生を、感動しながらゆっくりと素足で踏みしめて歩いた。
「きゃー……気持ちいい……どこまでも歩けそう」
キャロラインは夢中になって足裏をくすぐる芝生の感触を楽しんでいた。
だからまったく気付かなかったのだ。
まさかその姿を人に見られていたなんて。
もうそろそろ会場に戻らないと父が心配するなと思い、キャロラインが脱ぎ捨てた靴の元まで行くと……
脱ぎ捨てた靴を持って、呆然とキャロラインを見ている青年がそこに居た。
「えっ!?」
当然キャロラインは驚く。
だって青年がキャロラインの靴をとても大事そうに持っているのだから。
いや、王宮の庭で素足で歩いている女を見つけた青年の方が驚いているのだろうが、何故にそんなに恭しく靴を掲げているのだろう。
キャロラインは青年から少し離れた所で立ち止まり、声を掛けた。
「あの……それ、わたしの靴……」
何かに憑かれたようにキャロラインを見ていた青年がハッとして答えた。
「あ、ああ。こんな所に靴が脱ぎ捨ててあったから驚いたんだ。もしかしてご婦人が連れ込まれて乱暴でもされていたらと心配になって辺りを見回っていたら……」
のほほんと芝生の上を裸足で歩いてるわたしが居たと……
「それはお騒がせをして申し訳ありません。ご覧の通りわたしは何の問題もありませんから、安心してお戻りになって下さい」
とっとと靴を置いて……
とキャロラインは思ったが、青年は素朴な疑問を投げかけてきた。
「何故、裸足で芝生を歩いていたのですか……?」
そりゃ~気になるわよねぇ。
普通は意味もなくそんな事はしないよなぁ……
キャロラインは心の中でそうひとり言ちてから答えた。
「深い意味はないんです……ただ、芝生が気持ち良さそうだなぁと、裸足で歩いてみたいなぁと思って……実際、最高の踏み心地でした……」
正直に答えたキャロラインだったが、裸足で芝生の調査をしていたとでも適当な事を言って、お茶を濁しておけば良かったか。
見たところその青年は貴族に間違いない。
お貴族様に鼻で笑われるようなバカな事を言ったと、キャロラインは内心歯噛みした。
『まぁいいわ、どうぞ好きなだけ冷笑でも嘲笑でもして下さいな』
やさぐれた気持ちで思いながら身構えると、青年は「ふむ……なるほど」とだけ言って、自身も徐に靴と靴下を脱ぎ始めた。
「え?」
キャロラインが目を白黒させてその様子を見ていると、青年は素足を芝生の上に乗せてこう言った。
「あはっ、本当だね。これは最高の踏み心地だ!」
青年のその弾けるような笑顔が印象的だった。
「で…でしょう?これは一度は踏んでおかないと人生損するレベルですよね!」
「あははっ、確かにっ!」
青年は更に破顔する。
それに釣られてキャロラインも満面の笑みになる。
その後一頻り二人で芝生の上を歩いて、フカフカの踏み心地を楽しんだ。
それから青年は、足が汚れたままで靴を履くと靴が台無しになるからと言って、自分のハンカチでキャロラインの足を拭き清めてくれた。
そしてまるで壊れ物に触れるように優しく靴を履かせてくれたのだ。
今思えばその時には既に、キャロラインの乙女にしては頑丈なハートは鷲掴みにされていたのだろう。
そしてその後すぐにその青年……エリック=ワート伯爵から求婚された時は驚き過ぎて思わず、今は亡き父の首を締めてしまったのだったっけ……。
あの夜の事をキャロラインは忘れられなかった。
すぐに求婚してくれたという事は、エリックも同じ想いでいてくれたのだろうと嬉しかったのに。
本当に、本当に嬉しかったのに。
人の想いというものは、時が経てば色褪せるものなのだろうか……
あれから三年。
キャロラインの想いは決して今でも変わらない。
でもエリックはそうではなかったのだろう。
だからあんな……
人の目を盗んで、キャロライン以外の女と関係を持てるのだ。
大切な思い出の夢を見て、キャロラインは自分の意識が段々浮上してくるのが分かった。
意識が戻って目覚めるのであろう事が感覚で分かる。
自身の耳が少しずつ音を拾い始めた。
誰かが側で話している。
まずは家政婦長が呼ばれて部屋を出て行くのが音と気配で分かった。
そして次に聞こえてきたのは……
夫、エリックと執事の声だった。
「今は伺えないとお伝えしてくれ」
「しかし大旦那様がどうしてもと……レリーヌ様が旦那様を心配して、不安そうにされていると……」
「レリーヌが?」
『レリーヌ……誰かしら……?』
キャロラインは目を閉じたまま聞こえて来る音を辿る。
エリックが大きくため息を吐いたのがわかった。
「……すぐに戻る。妻を頼む」
そう言ってエリックが部屋を出て行く音がキャロラインの耳に届いた。
レリーヌって……多分あの人ね、宿屋でエリックと一緒にいた女性。
妻の意識が戻っていないというのにそちらへ向かうというのか。
いや、そちらの方が大切だから向かうのだろう。
なんていうかもう、本当に………
「ムカつく」
目覚めて直ぐ、開口一番にキャロラインはそう言い放った。
キャロラインの為に一人だけ部屋に残っていたカナが驚愕の顔でキャロラインを見ていた。
「奥様っ……!?意識がっ……!!」
カナが騒ぎ出す前にと、キャロラインは酷い倦怠感を抱えながらも慌てて告げた。
「カナ、目覚めて早々で悪いんだけどお願いがあるの……」
そしてこの後直ぐに、
キャロラインはワート伯爵家の屋敷から姿を消した。
つづく
(ごめんあそばせ☆)
バターンッ
ドアを開けて妻のキャロラインの顔を見た途端、夫のエリックは卒倒して仰向けに倒れた。
「…………………………」
顔を見ただけで卒倒するとは。
どれだけ妻を恐れているのだろう。
キャロラインはそれを静かに睥睨してから部屋の奥へと視線を向ける。
そこには気絶したエリックを見て怯えている女が一人、こちらに背を向ける形で寝台に腰掛けていた。
女は肩甲骨辺りまで服をずらしており、白く滑らかそうな頸が露わになっていた。
ここは男女が逢瀬を楽しむ特別な宿屋だ。
そんな所で男と女が二人きりでヤル事といったらそれはもう……
「ハイ浮気確定っ!!」
キャロラインは指差し確認で告げた。
そして、
「今すぐ離婚してあげるから、こんな安宿じゃなくご自分の屋敷でどーーぞっ!!」
とドスの利いた声で言いながらエリックの股間を踏みつけた。
「☆◇○♧□▽€※!?」
そのショックで意識は戻ったものの、痛みで蹲る夫を見下ろしてキャロラインは言った。
「あばよっ!!」
踵を返して宿屋の狭い廊下を早足で歩き去る。
後ろから呻き声で「待ってキャロ…」とか「誤解だっ…」というような声が聞こえたが当然無視だ。
この状況で何が誤解というのだ。
『元騎士爵の娘だからとバカにしてっ……!』
キャロラインは怒りで目の前がチカチカするも、それに構わず階段を駆け降りた。
が、しかし……
血圧上昇の所為か狭まった視界で駆け降りたのがいけなかったのか。
キャロラインは段差を踏み外し、そのまま階段を落下した。
「奥様っ!!」「キャロっ!!」
専属メイドのカナとエリックの声が聞こえる。
エリック……あの野郎っ……
この裏切り者っ!!
それがキャロラインが意識を保っていた最後に思った言葉だった。
◇◇◇◇◇
数日前、屋敷の者のヒソヒソ話がキャロラインの耳に入ったのは本当に偶然だった。
たまたま書庫に用事があって廊下を歩いている時に、掃除中の部屋の片隅で小声で話すメイド達の声が聞こえたのだ。
「ホントに?その男は旦那様で間違いなかったの?」
「旦那様を見間違える訳ないでしょっ?何年このお屋敷に勤めてると思っているのよ、アレは間違いなく旦那様だったわ。それにもう二度も目撃したのよ?」
「でも信じられないわ、あの旦那様が安宿で浮気なんて……」
『な、なぬっ!?』
聞き捨てならぬ単語にキャロラインは耳を疑った。
その後もこっそり聞き耳を立てて聴いた内容によると、
王都の下町にある安宿に、夫のエリックが若い女性を伴って入っていくのを二度も見かけたそうなのだ。
伯爵家当主であるエリックがわざわざ下町の宿屋を使うなんて、よほど誰にも見られたくないのだと。
そうなればその宿で女性と度々逢瀬を繰り返しているとしか考えられないだろう……とそのメイドは言っていた。
あのメイドは確か先代の代から屋敷に仕えている者で、東の下町に住んでいると雇用名簿にあった筈。
そのメイドが二度も見たとなると、彼女の生活圏の中であると思われる。
という事は逢瀬に使う二人の御用達の宿屋は東の下町にあるというわけか……
これはキャロライン自ら出向いてその話が本当か確かめねばならない。
キャロラインはそう決めた。
夫は王宮に文官として仕えている。
休みの日は屋敷にいるか、先代の屋敷に呼ばれているかである。
妻の目を盗んで女と会うなら終業後の僅かな時間だろう。
「どうかメイドの見間違いであってほしい……」
キャロラインはポツリと呟いた。
そうして終業後にエリックが王宮から出て来たところを尾行して、彼が下町のカフェで女と落ち合い、二人並んで安宿に入って行く姿と一緒に部屋にいる姿をバッチリ確認したという訳なのである。
階段から転げ落ちたキャロラインの意識はまだ戻っていない。
屋敷中の空気が重く、暗く沈んでいた。
専属メイドのカナと家政婦長が付きっきりでキャロラインを看ている。
夫のエリックも、その二人の冷ややかな視線に晒されながらもキャロラインの側にいた。
『キャロライン、目を覚ましてくれ。どうか、どうか俺に、ちゃんと説明をする機会を与えてくれ……』
エリックはベッド脇に座り、ずっとキャロラインの手を握り心の中で語りかけていた。
その念がキャロラインに伝わった訳ではないと思う。
だけどキャロラインはエリックの夢を見ていた。
出会った頃の夢だ。
キャロラインの父は王国騎士団の一師団長を務める騎士だった。
平民だったが、数々の武勲を立てて一代限りの騎士爵を賜ったのがキャロラインが16歳の時。
そして同時に叙爵した数名の者を祝う小さな祝賀パーティーに娘として出席した時に、エリックと出会ったのだった。
一介の騎士の娘として自由にのびのびと成長したキャロラインが、急に飛び込む事になった社交界に馴染める筈もなく……。
壁の花で居続ける事に辟易としたキャロラインは中庭へと抜け出した。
「ふぅ……」
外の空気に触れてやっと息が出来る心地がした。
月明かりの下で柔らかい風に吹かれて深呼吸をする。
王宮もパーティーも貴族連中も馴染めなくて嫌いだけれど、ここの庭は好きだなぁとキャロラインは思った。
青々としたフカフカそうな芝生を見て、キャロラインは思わず生唾を呑む。
素足で歩いてみたい衝動に駆られてどうしようもない。
本来田舎で野猿のように育ったキャロライン。
素足で地面を踏む心地よさを久々に思い出してどうしても我慢できなかった。
『どうせ誰も見ていないわよね』
遠くのテラスで談笑している人間の姿はチラホラ見受けられるが、庭園まで足を伸ばしている者はいない。
キャロラインはこのパーティーの為にあつらえた華奢なパンプスを脱ぎ、そっと足を芝生の上に乗せた。
「ふわっ……!」
なんて事だっ!!
王宮は芝生まで高級品なのかっ!!
毛足(?)いや、芝丈が長く細くて柔らかい。
芝の一本一本が折り重なり合って纏まり、ふわふわの綿のような状態になっているのだ。
キャロラインはそのフワフワふかふかの芝生を、感動しながらゆっくりと素足で踏みしめて歩いた。
「きゃー……気持ちいい……どこまでも歩けそう」
キャロラインは夢中になって足裏をくすぐる芝生の感触を楽しんでいた。
だからまったく気付かなかったのだ。
まさかその姿を人に見られていたなんて。
もうそろそろ会場に戻らないと父が心配するなと思い、キャロラインが脱ぎ捨てた靴の元まで行くと……
脱ぎ捨てた靴を持って、呆然とキャロラインを見ている青年がそこに居た。
「えっ!?」
当然キャロラインは驚く。
だって青年がキャロラインの靴をとても大事そうに持っているのだから。
いや、王宮の庭で素足で歩いている女を見つけた青年の方が驚いているのだろうが、何故にそんなに恭しく靴を掲げているのだろう。
キャロラインは青年から少し離れた所で立ち止まり、声を掛けた。
「あの……それ、わたしの靴……」
何かに憑かれたようにキャロラインを見ていた青年がハッとして答えた。
「あ、ああ。こんな所に靴が脱ぎ捨ててあったから驚いたんだ。もしかしてご婦人が連れ込まれて乱暴でもされていたらと心配になって辺りを見回っていたら……」
のほほんと芝生の上を裸足で歩いてるわたしが居たと……
「それはお騒がせをして申し訳ありません。ご覧の通りわたしは何の問題もありませんから、安心してお戻りになって下さい」
とっとと靴を置いて……
とキャロラインは思ったが、青年は素朴な疑問を投げかけてきた。
「何故、裸足で芝生を歩いていたのですか……?」
そりゃ~気になるわよねぇ。
普通は意味もなくそんな事はしないよなぁ……
キャロラインは心の中でそうひとり言ちてから答えた。
「深い意味はないんです……ただ、芝生が気持ち良さそうだなぁと、裸足で歩いてみたいなぁと思って……実際、最高の踏み心地でした……」
正直に答えたキャロラインだったが、裸足で芝生の調査をしていたとでも適当な事を言って、お茶を濁しておけば良かったか。
見たところその青年は貴族に間違いない。
お貴族様に鼻で笑われるようなバカな事を言ったと、キャロラインは内心歯噛みした。
『まぁいいわ、どうぞ好きなだけ冷笑でも嘲笑でもして下さいな』
やさぐれた気持ちで思いながら身構えると、青年は「ふむ……なるほど」とだけ言って、自身も徐に靴と靴下を脱ぎ始めた。
「え?」
キャロラインが目を白黒させてその様子を見ていると、青年は素足を芝生の上に乗せてこう言った。
「あはっ、本当だね。これは最高の踏み心地だ!」
青年のその弾けるような笑顔が印象的だった。
「で…でしょう?これは一度は踏んでおかないと人生損するレベルですよね!」
「あははっ、確かにっ!」
青年は更に破顔する。
それに釣られてキャロラインも満面の笑みになる。
その後一頻り二人で芝生の上を歩いて、フカフカの踏み心地を楽しんだ。
それから青年は、足が汚れたままで靴を履くと靴が台無しになるからと言って、自分のハンカチでキャロラインの足を拭き清めてくれた。
そしてまるで壊れ物に触れるように優しく靴を履かせてくれたのだ。
今思えばその時には既に、キャロラインの乙女にしては頑丈なハートは鷲掴みにされていたのだろう。
そしてその後すぐにその青年……エリック=ワート伯爵から求婚された時は驚き過ぎて思わず、今は亡き父の首を締めてしまったのだったっけ……。
あの夜の事をキャロラインは忘れられなかった。
すぐに求婚してくれたという事は、エリックも同じ想いでいてくれたのだろうと嬉しかったのに。
本当に、本当に嬉しかったのに。
人の想いというものは、時が経てば色褪せるものなのだろうか……
あれから三年。
キャロラインの想いは決して今でも変わらない。
でもエリックはそうではなかったのだろう。
だからあんな……
人の目を盗んで、キャロライン以外の女と関係を持てるのだ。
大切な思い出の夢を見て、キャロラインは自分の意識が段々浮上してくるのが分かった。
意識が戻って目覚めるのであろう事が感覚で分かる。
自身の耳が少しずつ音を拾い始めた。
誰かが側で話している。
まずは家政婦長が呼ばれて部屋を出て行くのが音と気配で分かった。
そして次に聞こえてきたのは……
夫、エリックと執事の声だった。
「今は伺えないとお伝えしてくれ」
「しかし大旦那様がどうしてもと……レリーヌ様が旦那様を心配して、不安そうにされていると……」
「レリーヌが?」
『レリーヌ……誰かしら……?』
キャロラインは目を閉じたまま聞こえて来る音を辿る。
エリックが大きくため息を吐いたのがわかった。
「……すぐに戻る。妻を頼む」
そう言ってエリックが部屋を出て行く音がキャロラインの耳に届いた。
レリーヌって……多分あの人ね、宿屋でエリックと一緒にいた女性。
妻の意識が戻っていないというのにそちらへ向かうというのか。
いや、そちらの方が大切だから向かうのだろう。
なんていうかもう、本当に………
「ムカつく」
目覚めて直ぐ、開口一番にキャロラインはそう言い放った。
キャロラインの為に一人だけ部屋に残っていたカナが驚愕の顔でキャロラインを見ていた。
「奥様っ……!?意識がっ……!!」
カナが騒ぎ出す前にと、キャロラインは酷い倦怠感を抱えながらも慌てて告げた。
「カナ、目覚めて早々で悪いんだけどお願いがあるの……」
そしてこの後直ぐに、
キャロラインはワート伯爵家の屋敷から姿を消した。
つづく
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