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第6章

世界の変転

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そのとき、そっとイブが手を上げた。
「私が話すわ。」
そういうとイブは居住まいを正した。
そうして、イブはサマーズに来る前の、自分が住んでいた町の話をはじめた。

私は、トーソンという町に住んでたわ。スパンやトーイやエヴァとは別の街。赤い砂漠を越えてサマーズにきたの。
「トーソンか、知っているよ」
博士はそういうと「つづけて」とイブを促した。

トーソン、東の国の中ではもっとも西に位置し、200年前に始めて西の国の人間が訪れた歴史の古い町。そのせいか今でも西の国との国交が盛んであり、交通はもっぱら船が主流だったが、海が赤い砂になってからは国交は途絶えたままとなっている。
地理的にはサマーズが一番西の国に近いが、西の国の東の端にある街リラとサマーズの間には深い渓谷と険しい岩だらけの山がある。その渓谷を越えるにはヤナギ渓谷が一番近いのだが、渓谷の橋をこえ、西の中心都市ヤマギへ行くには車で3日かかる。そんな理由からトーソンから船で西に中心都市ヤマギに渡るのが一般的だった。

トーソンは西の科学技術が一番浸透している町でもあった。そのせいか西の思想と東の思想が混在し、両方の国とは少し違った思想があった。

「私、トーソンの町も人もみんな大好き。陽気で、優しくて…」
イブはほんの一瞬、思い出に浸っていた。
「砂が現れたとき、私たちは情報を収集しようとしたの。『情報もなく闇雲に突っ走ってもうまくいかない』って。コーカスが言ったの。あ、コーカスというのは私の恋人だった人。」
イブはスパンの表情をチラリとみた。スパンはいつもの優しい顔でイブの話に耳を傾けている。イブは小さく溜息を吐くと、視線を中に浮かべ、話の続きをはじめた。

コーカスは西からきた技術者だった。東の自由な思想に惹かれトーソンに移り住んだ。トーソンでは学校に勤め子供たちにいろいろなことを教えた。コーカスはトーソンの人々の尊敬を集め、町の人間から慕われた。
コーカスには、相手の頬に大きな手のひらを当てて話す癖があった。それは子供たちを安心させ、年頃の女性は彼に恋をした。
イブもその一人だったが、コーカスも同じ気持ちだったのか二人はいつしか恋人同士になった。そのまま何事もなく日々が過ぎれば、二人は結婚し、何人か子供を産んで、人生を終える。そのはずだった。
イブは、彼の大きな手のひらが大好きだった…。
「その彼が砂になってしまったなんて…」
イブは、当時を思い出したのか、辛そうに眉をよせ自分の両肩を強く抱きしめた。まるでゆりかごを揺らすように、抱きしめた体をゆらゆらと揺らした。
そっとエヴァが彼女を抱きとめる。
イブはエヴァを見つめてちょっと笑うとまた、続きを話し出した。

コーカスは赤い砂の情報を集め、分析し、そして打開策を見つけようとした。町の人々も協力し情報を集めた。必要とあらば西へ、東へと走っていった。
コーカスの望むような情報は集まらなかった。そのころあちらこちらで外出禁止や通行禁止の命令がでており、情報は日を追うごとに減っていった。
望みは西へ行った人たちがもどってくることだったが、誰一人もどってくることはなかった。そして、コーカスもいつしか他の町同、様孤立してしまった。町の周りは赤い砂に覆われ町にも少しずつ砂が入り込み始めていた。
コーカスは情報収集を諦め、集めた情報とトーソンにある技術を持って、この危機を打開しようと考えた。研究設備は学校にある設備しかなかったが、コーカスの技術を持ってすればそれも可能性があるように思えた。町の人々はコーカスに希望を託した。
そうこうしているうちにも人々は、一人、一人と砂になっていった。
食料も水も限られている中、人々の神経は極限まで追い詰められていった。
コーカスの成果は、赤い砂は何かの微生物であり、成分は70%が鉄に似た成分でできている。ただ残りの成分はまったくの未知のものだった。
この赤い砂は、二つとして同じような結果を生まなかった。例えば水をかけたときに一瞬にして水を吸い込み、痕跡さえ残さないかと思えば、いつまでも水を吸い込もうとしなかった。
また、植木の砂として使ったときに、植物をあっという間に砂にしてしまうかと思えば、葉を枯らすだけで砂にはならない植物もあった。
完全に枯れなかった苗木を調べたが、水が無いために枯れたとしか思えなかった。
何が正しい結果なのか、結局なにも分からなかった。
砂は、真っ赤な血よりも赤い色をして、まるで呼吸しているみたいに見えた。

ある日、コーカスの耳が砂になった。それからのコーカスはまるで人が変わってしまったようだった。それまでの研究の成果も、研究用の砂もすべて廃棄してしまった。コーカスは自分の耳だった砂のみを分析した。
コーカスは、一切食事も水も飲まなかった。分析を続けてて、5日たち、10日たっても彼は砂にはならなかった。
イブは悲しかった。コーカスは砂になるというのに、自分は何もできない。またコーカスはイブの存在すら忘れたように研究ばかりしていた。イブは赤い砂にジェラシーさえ感じていた。イブは砂を憎んだ。それと同じだけコーカスも憎んだ。憎みながらもコーカスの助手としてイブは献身的に手伝った。そして、16日目になりそれまでぶつぶつと何かをつぶやいていたコーカスは突然立ち上がって、嬉々として叫んだ。
「あった」だったのか、「やった」だったのか、それ以外の言葉だったのか…あまりに短い言葉だったので、誰にもその言葉は聞き取れなかった。その瞬間、コーカスは崩れた。そして赤い砂になって消えてしまった。イブには何が起きたのか分からなかった。
赤い砂になったコーカスの残骸をイブは抱きしめた。正確にはすくいあげただけだった。すくっても、すくっても手の隙間から砂になったコーカスはこぼれていった。イブは、泣き続けた。

コーカスのやさしい瞳も、骨も、髪も、なにもかも砂になってしまった。彼を思って流すイブの涙さえも砂に吸い込まれていった。
誰もイブを慰めることはできなかった。どれくらい泣き続けていたのだろうか、イブが泣きつかれ、涙も枯れ、やっと周りに誰もいないことに気がついた。
イブは町にでてみた。
誰もいない…。町はとても静で、イブはみんな砂になったんだと思った。自分ひとりが、この町で生き残ってしまった。そんな孤独感と絶望に心は締め付けられた。
町の中心にある公園に来たとき、そこに町の人々はいた。人々は円を描くように座っていた。その中心に「ミント」という女性が立っいてた。
ミントは人々に、とても静かでおだやかな声で語りかけていた。
『私はこの宇宙(そら)から、ある種のメッセージを受け取りました。私たちの先祖、この惑星マリアスの創始者リーはこの宇宙(そら)のなかにある、無数の星の中のひとつからやってきました。この宇宙(そら)には不思議なエネルギーがあります。そのエネルギーに導かれ、リーはこの惑星に降り立ち、その導きでこの東の国を造りました。宇宙(そら)のエネルギーはこの惑星に恩恵を与えます。その恩恵は私たち、そこに暮らすものにも降り注いでいるのです。
そのエネルギーはいま私たち、そしてマリアスを赤い砂によって覆い尽くそうとしています。私は宇宙(そら)からのメッセージの中で“神”という方に会いました。この神こそが、宇宙(そら)のエネルギーの源、そして私たちの運命を握っている方なのです。私たちは神のエネルギーの中から生まれ出ました。そして、いま、また、そのエネルギーの中へ、神の中へ戻るときが来たのです。安らかな気持ちで砂になる日を待ちましょう。そして砂になった後、私たちは心 ― 神は魂と呼んでおられた ― は新たなる創生の道へと導かれます。
私たちは決して自分から自分の命を殺してはならないのです。
私たちには、“生まれ変わる”という考えが、今までありませんでした。
私たちは死ぬとそれは、心も体もすべてが消滅してしまうことだと考えていました。そしてそれは自然のことだと受け止めてきました。
死は誰にでも訪れます。すべての生き物に訪れるのです。それは、肉体の死であり、心、魂は永遠に死なないのです。その魂は最初の肉体を死という形で脱ぎさると、次の新しい入れ物、肉体に宿ります。新しい命です。
そうして、私たちの命は生き続けるのです。
今、静かに死を迎え、砂になる日を待ちましょう。決してその恐怖から逃げないで、自分で自分を殺さないでください。
宇宙(そら)のエネルギーに戻らない限り、私たちは創生へと導かれないのです。自分で自分の命を絶つと言う事は、肉体の死と同時に魂の死をも招くのです。みなさん私と一緒に神に祈りましょう。安らかに砂になる日がくることを祈りましょう。』
そう言うと、ミントは空を仰ぎ、両手を宇宙(そら)へと高く差し出した。
周りにいた人たちも宇宙(そら)へと手を差し出した。

ミントはイブの隣人だ。イブの両親が新居を構えた時から、イブの母親と同年代のせいもあって2人は気が合い、両家は家族ぐるみで付き合っていた。今はミントの子供たちは、成人し、みな他の町に移っていった。
イブの母が事故で死んだとき、イブたち家族を励まし力づけてくれたのもミントだった。
イブの母は、赤い砂が出る前に死んでしまった。家の近所に、大きなマースの木があり、その木によじ登り、落ちて死んでしまっていた。
突然の母親の死に、イブもイブの父もどうしていいかわからずに、たた、途方にくれ泣くことしかできなかった。そんな時にミントが身の回り、葬儀の準備など一切を仕切ってくれたのだった。

イブの母親がなぜ、マーリスの木に登ったかは結局誰にもわからなかった。
謎=ミステリーは誰でも好きだ。イブの母親の死は、いろいろな憶測を呼び人々の噂になった。なぜ、木に登ったのか…。心無い噂が多く、イブも父親も精神的に参ってしまった。そんな時でもミントは2人を励まし、力づけてくれた。後でイブも知ったことだったが、無責任な噂をする人のところへ行っては、噂を否定し、2度と噂をしないよう釘を刺していた。

あのミントが、みんなに語りかけ、そして祈っている。
イブはぼんやりとその光景を眺めていた。コーカスが砂になってからそれほど日数はたってはいないはずだったが、人々は、砂と戦うことを放棄し、神という得たいの知れないものにすがって、祈っている。その姿を見てイブには理解ができなかった。なぜ?砂と戦うのを止めたのだ?あんなに立ち向かっていたのに?なぜ?砂になるのを恐れていたのに、砂になる日を待っている?なぜ?判らない?
この数日でなにがあったのか。人々はどう変わってしまったのか。イブには見当もつかなかった。人々の輪をただ呆然と見ていると、その輪の中からイブに近づいてくる人影があった。
イブの同級生のマムだった。
マムとイブは抱き合い、お互いの無事を確認しあった。マムはイブの顔にこびり付いているコーカスの体の一部であった赤い砂を払い落とした。
「イブ、生きてたのね。よかった。あのままコーカスと一緒に砂になったと思ってた」
イブは黙って頷いた。そしてまだ祈っている人々の輪を見た。その視線を追うようにマムもその輪を見た。
「みんな何をしているの。マム?」
「祈ってるのよ」
「祈る?」
「ああ、あなたはずっとコーカスのそばにいたから知らないのね。」
イブはいぶかしげに頷く。
マムはミントを見て、とても安らかな笑顔を満面にたたえながら言った。
「コーカスが死んで、みんな絶望してしまったの。コーカスの存在そのものがみんなの、生きる希望だった。そうでしょう?」
マムはイブの目を覗き込んで言った。その瞳はとても熱を帯びていて不思議な輝きを放っていた。イブは一度もそんな目を見たことがなかった。
「コーカスなら何とかしてくれる。みんなそう信じてた。あなたもそうよね。絶望してもしかたないわよね。それだけコーカスの存在は大きかった。あなたはずーっとコーカスのそばで泣きつづけていたし、他のひとたちも誰も研究の続きを再開しようなんて考えなかった。私も、あなたも、街のひとたちにとっても、コーカスが生そのものだったのかもしれない。コーカスの死がみんなに知れると、最初は誰だったのかしら…」
マムは目を細めて思い出そうとしていた。しばらくして、マムはふふっと笑った。
「誰でもいいわね。そんなの意味ないもの。それでね、あなたのお母さんが落ちて死んだ、あのマースの木から飛び降りたのよ。そしたら、次々とみんな飛び降りて死んでいったわ。自分で自分を殺してしまったの。」
イブは思わず口を押さえてしまった。もう少しで悲鳴を上げそうだった。
(自分で自分を殺す?そんなばかな!)
イブにはマムの言葉が信じられそうになかった。足が震えてきた。
「誰もその人たちを止めようとはしなかったし。イブあなたのお父さんも悲しいことに、飛び降りてしまった。あなたが砂になったと思ったのね。私もイブはコーカスと一緒に砂になったと思ったもの。それで、私も木に登ろうとしたの。そのとき、ミントが飛び降りようとしていう人たちに向かって叫んだの。
『おやめなさい。神はそんなことは望んでいない』って。」
「か…み?」
「そう、神よ」
「神って何よ!?」
おもわずイブは口調がきつくなった。そんなことにはおかまいなしにマムはなにか新しい発見でもしたように興奮して語った。
「そうよ。私も最初“神?”って何って思ったわ。同時に“神”その言葉になにか、強い力のようなものを感じたの。私は、ううん、私だけじゃない。私たちは不安と迷いで一杯だった。なんてすてきなんでしょう!私たちは“希望の光”“生きる希望”をみつけたの。」
そういうと、マムは熱にうかれたような、夢を見ているような瞳でイブを見た。でもその視線はイブを素通りし、遠くをみているようであった。マムの言葉はまだ続いた。イブは得たいの知れない話を聞かされて、胸が苦しくなっていった。
「そしてミントと共に砂になるその日まで、祈りを捧げることにしたの。祈りを捧げている時に砂になってしまう人もいるわ。でも私たち、もう怖くないの。早く砂になりたいくらいなのよ。砂になって安らかに神のもとですごしたい。新しい世界に生まれ変われる時がくるまで。さあ、イブ、あなたもみんなと祈りましょう。」
そういうとマムはイブの手をとった。イブの手を引いて祈りをささげている人々の輪へと連れて行こうとしたが、イブは足が震えて動けなかった。頭の奥の方で何かが点滅している。イブを誘うように、ミントの祈る声が大きくなった。それに合わせて人々の声も大きくなった。イブは動けなかった。マムは、ゆっくりもう一度繰り返した。
「イブ、私たちと一緒に祈りましょう。さあ」
イブはゆっくりと、いやいやをするように首を振った。
「マムごめん。あの、気持ちの整理がつかなくて…、ごめん」
イブはマムの手を振り切るように闇雲に駆け出した。後ろを振り返るのはなんだか怖かった。

“神”
“砂になりたい”
“新しい世界に生まれかわる”
“魂は死なない“
(わからない。わからない。今までそんなこと、聞いたことも、考えたことも、なかった。)
イブはただその場から逃げたかった。頭の中をぐるぐる、ぐるぐるとマムの言葉が巡った。
生まれたときから、死はつねに当たり前のもので、生まれる、生きる、そして死ぬ。
それが人生だった。それ以外のものではなかった。
イブは、“生きる”という意味を何か見えないものに突きつけられているような気がした。
東の国の創始者リーはマリアスの降り立ち、生き延び、子供を育て、子孫を増やした。生きるということは、食べて、寝て、笑って、愛し合って、助け合って、子孫を増やして、そして、そして…
いま、イブにつきつけられた“生きる”は、もっと違う、何、かの、答え、を、求めて、いる、ような気がした。

夢中で走っていて、気がつくとマースの木が見えるところまで来ていた。マースの木。その先にイブの家はあった。思わずその木を見上げると、『あった』。
それは、イブの母の大切にしていたスカーフだった。母親が亡くなった後、いくら探しても見つからなかったスカーフだった。家の中になく、念のためマースの木の周辺を探したが見つからず、諦めていた。そのスカーフは人々が木によじ登ったおかげで、すっかり枯れた葉が落ち、裸の枯木となった枝に絡まっていた。
そのスカーフは、父が、母にプロポーズしたときのプレゼントだった。イブの母にとってそれは何よりも大切な宝物だった。なにかのはずみに風に飛ばされて、マーリスの木に引っかかったのかもしれない。
イブは、「きっとそうだ」と思った。それなら辻褄が合うと。そうであっても欲しかった。
イブはふらふらとマースの木に近づいた。
沢山の人々が木の周りに倒れている。すごい臭いが漂よってくる。腐っていく肉のにおい、血の臭い。死んだ人たちが腐りはじめていた。
奇妙に折れ曲がった手、足、体、首。
つぶれて脳みそが飛び出している頭。
幾人ものひとが、折り重なり、押しつぶされ、腐っている。
“その様は、ああ、阿鼻叫喚”
心のなかに、変な言葉が浮かんだ。
“その様は、ああ、阿鼻叫喚”
イブは吐いた。胃の中は空っぽで何もでないが、激しい嘔吐がイブを襲った。ようやく嘔吐感が収まると頭も冷めてきた。イブはあたりを見回した。さっきマムが言った言葉を思い出した。
(父がどこかにいるのだ。この中のどこかに)
マースの木から飛び降りた人たちの屍は誰も葬らなかった。
野ざらしにされたまま、腐ってりひどい臭いが立ち込めていた。腐ってもそれを食う虫はいなかった。赤い砂さえその屍には近づかないようだった。死体の周辺には赤い砂は見当たらなかった。正視できないような惨状ではあったが、脳の奥まった部分で砂にならない死体を見るのは、奇妙な安堵感を感じていた。イブはそのひとつ、ひとつの顔を確認してあるいた。
時折ふいに、声が聞こえる。うなるような、うめくような、まるで地の底から響いてくるようなその声は、死体の山から聞こえてきた。
「父さんが呼んでる。」
イブはうわごとのようにつぶやきながら、重なりあっている死体を、押しのけては、一体、一体確認してあるいた。ある死体からは、腐って目玉がずり落ちてきた。別の死体からは融けた肉体から内臓や流れだしているものや、腐った汁が地面をぬらし、何度その汁で滑って転んだだろう。今はイブは踏みつけた死体の肉片と汁まみれになっていた。
「父さん、父さん、どこなの?」
イブの足を掴む者があった。
「父さん!」
死体の中から細い手が伸びて、イブの足を掴んでいた。イブは重なっている死体を転がし、押しのけ、その下から手の主を探した。知らない女性だった。いや、知っているかもしれないが、イブにはその変わり果てた姿から彼女の元の姿を思い起こすことはできなかった。
血と埃でべっとりした髪は、顔を覆いその隙間から目だけがぎらぎらとしていた。周りの死体とたいして変わらないその彼女を見て、イブは落胆と安堵を感じた。父でなかった、また、母でもなかった。その人が多分知っている人ではあるだろう。この町で見知らぬ人間などありはしないのだから。が、その人物を特定できないというのは、奇妙な安堵感をイブに与えた。
彼女は、かすかに口を動かしている。イブは聞き取ろうと顔を近づけ、改めてその女性を見た。
“生きながら腐っている”
イブは急に恐怖を覚えた。
ギラギラした瞳。
血と汁でヌメヌメと光る唇。
口から漏れる腐敗臭。
イブは悲鳴を上げ、ただ闇雲に逃げようとした。彼女の手は意外と力強くイブの足を掴んでいた。イブはその足を振り払おうとした弾みに死体の中に転がり込んでしまった。起き上がろうと、ふっと横を見ると目があった。その目はゆっくりと眼孔の中からすべり落ちた。イブは必死でもがき、立ち上がろうとした。ふっと周りを見ると死体だと思っていた物の中からゆっくり動く影がある。生きながら腐ろうとしている人たちがイブに助けを求めているのだった。ゆっくり、ゆっくり、イブに近づいてくる。イブは荒い呼吸を繰り返した。何度も何度も。
肩に重みを感じた。耳元で
「み…ずぅ…」
とささやいた。イブははじかれたように起き上がると、わけの分からない声にならない声をあげ、逃げ出した。
どこをどう逃げたのかイブは夕暮れ近くに、自宅の玄関脇に座っていた。どれくらいそこにいたのかは分からない。遠くでさらさらと砂の流れる音がしていた。
寒さで我に返ったイブは、家に入るとドアを閉め、鍵をかけた。
ソファに倒れこむように眠った。長い、長い眠りだった。
どれくらい眠っていたのか、少しだったのか、数時間だったのか、数日だったのかイブには分からなかった。目を覚ますと夜が明けようとしていた。
貯蔵庫にある水を頭からかぶった。
イブは空を睨み付けた。水のタンクを開け、もう一回頭から水をかぶり、立ち上がった。
その日のうちにイブは町をでた。

どこへ行くあてもなかった。どこへ行きたいのかもわからなかった。ただ、ここ以外のどこか遠くへ行きたかった。

赤い砂漠の中で、イブとヨダは出会った。

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