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プロローグ

プロローグ:1 捨てたから得られた物もあるんです

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 生きてる実感が消え去るというのは存外つらいものでもない。

 周りとのずれを実感することもあるが、そもそもそれが悪いことかも考えることはないのだから。

 そのうちに自分という存在もなくなり、気づけば周りに合わせ、なんとなしに生命維持をするだけの存在へとなり下がるだけなのだから。

☆——

 小さな少年は考えた。

 なぜ僕は怒られたのか。

 どんなに考えても、その小さな頭では悪いことをしたからだということにしか思い至らなかった。

 なぜそれが悪いことだったのか。

 生まれて十年とたたずの彼には説明されても理解することは難しく、ましてや、説明もなく怒鳴られる日々にいつしか、相手から高圧的な態度を取られることは、すなわち自分のせいであると結論付けることしかできなかった。

 そこからさらに数十年。

 彼が15を迎えたころ。

 自分は周りからずれているのだということをようやく理解した。

 そのずれは、治ることはなく、彼がたどり着いた結論は、自分を捨てることだった。

☆——

 春の陽気がまだかすかに残り、それでいて、湿った空気が流れるような日。

 久々に晴れたその様子に机に突っ伏して寝てしまうのは至極当然であると言わんばかりに意識を空の彼方へと飛ばしている影が一つ。

 特徴といった特徴がない顔立ちで、気持ちよく熟睡している彼は宿木 傀儡やどりぎ くぐつ

 さすがの堂々とした彼の姿には周りも眠気を誘われるようだが、残念なことに今は授業中。

 ではなぜ彼が教師にとがめられないか。それは教卓目の前の席だからである。

 教室全体を一段広い視点で眺める彼女はむしろ、灯台下暗しというように、手前の影が一つ消えていることに気づきにくいのだ。

 とは言え、さすがにずっと見つからないはずもなく、ため息一つ、彼女が起こしに近づいたその時、授業の終わりを告げる鐘がなる。

「はぁ。まあいいでしょう、、、。皆さん授業は終わりです。課題に関しては来週のこの時間に集めますので、それまでに終わらせてきてください。それでは」

 もう一度ため息を吐き、いまだ寝ている彼を一瞥し、クラスの号令を受けながら彼女はそそくさと退出していった。

「おっはよおお!!」
 
 教師が出て行った瞬間、チャイムの音ですら目覚めなかった彼に後ろから大声とともにとびかかる人物が一人。

「ぐはぁ!?」

「そんなに授業がめんどくさいなら学校に来なけりゃいいだろ?」

 とびかかった人物は寝ていた彼のうめき声に悪びれる様子もなく、むしろ疑問を投げかける。

「光、、、寝てる人にとびかかるなって教わらなかったか?特に父親に」

 寝ぼけながら彼がそう呼んだ人物。

 黒髪黒目に特徴のない、かといって凡庸ではなく整った顔立ちの、いわゆる男前な彼、白井 光しらい ひかるは傀儡に睨まれてもどこ吹く風といった様子だ。

「そら、休日の寝てる父親に甲高い声で飛び込んだら怒られるだろ」

 さも当たり前のようにきっぱりと言い切った光。

 その姿に肩を落として、ならなんでという目を彼に向ける傀儡。

「だってお前は俺の父親じゃないだろ?」

 その視線に気づいた彼はふざけた様子でそう言った。

「別に父親じゃなかったらやってもいいなんてことはないだろ、、、まあいいか」

 これ以上この話を広げる必要もないかと傀儡はツッコミをあきらめる。ここだけ見ると人見知りに突撃してダルがらみしているそれのようだが、二人のコミュニケーションとしては当たり前になっているものだった。

「そうだよ、そんなことはどうでもいい。それ持ってかなきゃだろ。」

 そう言って光が指さした机の上には、【これをもって職員室に来てください】と書かれた札だった。

「また呼び出しかよ、、、」

 傀儡がまたというように、彼は何度もこの札で呼び出しを受けていた。ちなみに、こんな方法で呼び出される理由は、わざわざ起こして呼び出すより楽だからである。

 寝ているだけで呼び出されるほどなのだから、彼の睡眠欲の底深さは底知れない。

「さっさと行って来いよ。今日はあれの日だぞ」

 そう、彼らは今日約束していることがあった。それこそ彼らにとっては一番大事な日だ。

「、、、そうだったな。ふぁぁ、行くか!」

 眠気を気合で黙らせ、札を手に取り彼は重い足取りで教室を後にした。

☆——

「おや?今日は早かったですね」

 職員室に到着した彼が呼び出された相手、担任の教師。

 茶色で長い髪を後ろでまとめ、少しきつめの目月でありながら、優しさも感じさせる雰囲気の彼女、星谷 美乃ほしたに みのは開口一番少し意外そうにそういった。

「先生が直接起こしてくださると、もっと早く済むのですが」

 そうたたいた軽口には少しけだるげで、面倒臭さを隠そうともしていなかった。

「別にたまにならそれでもいいですが、さすがに毎回毎回同じように起こしていたら、埒が明きませんから」

 態度を隠そうともしない彼を意に介していないかのようにそのまま話を進める美乃。

「それはそうと、今日呼び出したのは寝ていたことだけではありません」

 そう言って傀儡の目の前に差し出したのは進路調査票と書かれた紙。

「別におかしなところはないと思うんですけど、そんなに突拍子のないこと書いてないと思うんですが」

 彼が言った通り、進路調査票は埋まっていた。それも、思春期特有の反抗的な態度のようなふざけたものではなく、むしろ普通過ぎると言ってもいいほどだった。

「だからこそ呼び出したんです。いいですか?私は無理にでも進路を変えさせるような本人の意思とは関係のない意見の押し付けをするつもりはありません。ですが、あなたの場合あまりにも過ぎるんです」

 彼女はまくしたてるように実力に見合っていないと彼に告げ、どうにかその意思を変えさせることができないか苦心する。

「別に、授業中ずっと寝ている僕がこのくらいの進路を目指すのは当たり前でしょう」

「あなたがたいして勉強していないというのは、提出物の提出状況でよくわかっていますが、なぜかあなたは試験だけはまじめに受けるんです。そのうえ赤点ギリギリではなく、平均点付近の点数です」

 このままでは埒が明かないと思った彼女は、自分自身が口にしたくなかった言葉を口にせざるを得なかった。

「単刀直入に言います。傀儡君、もっと上の学校を目指しなさい。」

「だから、授業中寝てる僕にはそんなの無理だと、、、」

「無理ではありません。あなたは勉強ができないのではなくしないだけでしょう。もう高校3年生の夏に差し掛かるというのにこれでは、教師としては見過ごせません」

 傀儡の言葉をすっぱりと切り捨て、なおかつ、立場上これ以上は譲歩できないことを告げる。

「勉強ができるできないを教師が勝手に決めないでください」

「何年私があなたを見てきたと、、、いえ、これ以上はやめましょう。とにかく、もっとしっかりと考えてからもう一度提出してください」

 この話は一度おしまいだと、まっさらな進路調査票を傀儡に渡す。彼自身を表すようなその紙を受け取り、職員室を出る。

「私はあなたのこと、あきらめてないから」

 その声が聞こえたのか、はたまた手に持つ紙に何かを感じたのかわからないが、彼の歩みは一瞬止まったように思えた。
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