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胸騒ぎ
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茉由花に久々に会おうと言われたとき胸騒ぎがした。直感だった。
前任のトップスターが花蘭を退団する1週間前のことだった。
彼女が来ると彩りを取り戻す俺の部屋も、今日はひっそりと影を落としている。
「まさくん、ごめん。お別れしたい。」
あまりにもストレートな言葉だった。
時計の針が沈黙を埋めるように鳴り響く。
「どうして?」
責めないように、出来るだけ優しい口調を心がけた。
責められる気配が無いことに安堵したのか、少しだけ茉由花の表情が和らいだが、目の奥に揺るぎのない強さがあった。
「私と一緒にいても、まさくんには何もメリットがないよ。私は支えてもらっているけど、私は自分のことに必死できっと何もお返しできない。結婚だってまだまだ考えられないし、出産なんてもっと先。下手したら産めない年齢になるまで、舞台に立っているかもしれない。まさくんと一緒にいることで、あなたの普通の幸せを奪ってしまうと思うんだ。」
美しい顔を歪めて必死に言葉を紡ぐ彼女は、どこかもう遠くにいる人のようだった。
覚悟を決めてここへ来たような感じがした。
「俺は、茉由花が輝く姿を見るのが好きだから、茉由花を支えたいと思っているんだよ。」
俺は、茉由花を失いたくなくて抵抗する。
「まさくんはどんな私にも、変わらない態度で接してくれる人なんだってわかって、すごく嬉しかった。でもだからこそ、私まさくんがいるともっと甘えてしまう。迷惑をかけたくない。」
「それで、茉由花は平気なの?」
俺の言葉に、茉由花はゆっくりと、けれど確実に頷いた。
「男役を全うするって決めたから、最後までやり遂げるよ。」
「妥当な時期が来てから考えるというのでは駄目なの?」
「妥当な時期?」
「うん。まだ茉由花も俺も若い。好きという感情だけで付き合っていても良いと思うんだ。今は茉由花の仕事を二人で乗り越えて、それからゆっくりと未来を考えるんじゃだめか。今は茉由花の近くにいたいという感情が、俺の全てなんだ。」
嬉しい言葉だけど…と茉由花が耳たぶをギュッと引っ張った。彼女が涙をこらえているときの癖だった。
「でもそれ、後悔しても後戻りできないよ。まさくんを疑うつもりじゃないけど、人の心は移ろうものだから。今は私との未来だけを見てくれているかもしれないけど。きっとこの先、私の立場上、あなたと過ごせない時間がどんどん増える。その時期に周りが結婚ラッシュだったら、あなただって結婚がよぎるはず。でも、私と付き合う限り結婚はもっと先になっちゃう。子供だってまだ望めない、でもご両親から孫の顔が見たいと言われてしまう。デートだってろくに出来ないし。疲れて帰ってきても、私はまだ劇団にいて、食事も一緒に取れないし、おやすみさえも言い合えない。そんな毎日が続いたら、ああ、普通の子と付き合っていればなぁってなるよ。私だったらなっちゃう。」
堰を切ったように、茉由花の口から言葉が溢れ出る。
言葉が震えているのが伝わってきて、抱きしめたくなる衝動を必死で抑える。
「あの時、決断しておけば良い思い出になっていたのにね、なんて会話はしたくないよ。」
「そんなこと…」
彼女は俺の未来を、俺以上に真剣に考えている。
「まさくんのことを考えて、別れたいって言っているように聞こえるかもしれないけど、これは私のためなの。まさくんに嫌われてから別れたくないんだよ。」
俺の心の声を見透かすかのように、彼女は言った。
「今の気持ちが、月日と共に風化するとは思えないんだよ。確かに茉由花とは一般的な幸せは手に入れられないのかもしれない。でも、俺は君と付き合って一般的な幸せを手に入れようとしていたわけじゃない。茉由花の輝きを一番近くで見続けていることが、俺にとっての幸せなんだ。」
茉由花が困惑したように目をしばたたかせる。
「茉由花と別れる未来なんて想像できないし、例え別れることになったとしても今までの思い出が悪いものになったりはしないよ。」
小さく息をのむ茉由花の肩を引き寄せると、俺の肩に頭を寄せた。
肩に乗ったこの小さな重みをもう感じられなくなってしまうかもしれないと思うと、堪らない。
俺たちはどうしてこんな形で出会ってしまったのだろうか。
もっと違う形だったなら…いや、そうしたら俺たちは出会うこともなかったのかもしれない。
今考えるべきことではないのに、変な方向に思考が働く。
「まさくんは、楓柊花のファンなんだよね。」
「うん。」
「まさくんは、言ってくれたよね。楓柊花の魅力は舞台での情熱だって。」
「うん。」
「でも今、私揺らいでいるの。こんなに自分を思ってくれる素敵な人との普通の幸せを放棄して、楓柊花として生きるのが本当に正しいのかって。」
茉由花の声が、俺の耳元で震えている。
肩が湿って、彼女が泣いているのが分かった。
「そんな風に揺らいでいる自分が許せない。ファンや劇団のみんなを裏切るような考えだから。それに、楓柊花として生きると決めたのに、それが揺らぐなんて…ましてこんな大事な時期に。でもまさくんといると、こうやって揺らいじゃうの。花蘭やめて、まさくんのお嫁さんになりたいなって。描いちゃいけない未来を考えること、今までにも何度かあったんだ。その度に、自分を嫌いになってた。」
初めて聞いた、茉由花の本音だった。
俺は彼女と本当に向き合ってきたのだろうか。
「今のままだと、まさくんが魅力だと言ってくれた“情熱”も満足に発揮できない舞台人になりそうで怖いの。全部失ってしまいそう。」
俺が茉由花の負担になっている。彼女を苦しめている。
俺たちは、赤い糸で結ばれた二人ではないということか。
「茉由花を愛してくれるまさくんも好きだけど、やっぱり、自分が一番大切に育ててきた楓柊花を、まさくんにも愛してほしい。」
俺に身を委ねていた茉由花が、体を起こして俺の目をじっと見つめた。
彼女の葛藤を象徴するように、頬を何度も涙が伝っては零れ落ちてゆく。
「だから、ごめん。私のわがまま、聞いてくれない?」
残酷だ。
茉由花にわがままなんて一度も言われたことがなかったのに。
こんな時にそんなことを言うなんて。
もう引き留める言葉が見つけられなかった。
俺の想いを、彼女に強く訴えれば訴えるほど、その言葉が重荷になって彼女を一層苦しめる。
口を噤んでただじっと彼女の意志を尊重することが一番良いのだ。
真っ赤に腫れた目の奥が"私は大丈夫"と言っているような気がした。
泣きはらしたその目が、あまりにも逞しかった。
もう俺たちは、ここから同じ道を歩いていけないと悟った。
俺がここで縋ったら、それは彼女を苦しめる足枷になる。
「わかった。楓柊花のファンであることだけは、一生譲らないよ。」
絞り出すように言った。
声はちゃんと届いただろうか。
涙で霞んだ目で彼女を見たけれど、ぼやけてしまって表情は見えなかった。
しばらくして茉由花が声を震わせて「…ありがとう。」と言った。
俺の声は届いてしまった。
「もう泣かないで。」
どちらが言ったか分からない。
どちらも言ったような気がする。
出会えただけで良かったじゃないか。
俺たちが共に過ごした時間に偽りなんてなかった。
その事実だけで、良いじゃないか。
そんな言葉を頭の中で必死に反芻する。
震える手で彼女の涙を拭った。
彼女のしゃくりあげる声が聞こえる。
それから茉由花も震えた手で俺の涙を拭ってくれた。
これが彼女と触れた、最後の瞬間だった。
前任のトップスターが花蘭を退団する1週間前のことだった。
彼女が来ると彩りを取り戻す俺の部屋も、今日はひっそりと影を落としている。
「まさくん、ごめん。お別れしたい。」
あまりにもストレートな言葉だった。
時計の針が沈黙を埋めるように鳴り響く。
「どうして?」
責めないように、出来るだけ優しい口調を心がけた。
責められる気配が無いことに安堵したのか、少しだけ茉由花の表情が和らいだが、目の奥に揺るぎのない強さがあった。
「私と一緒にいても、まさくんには何もメリットがないよ。私は支えてもらっているけど、私は自分のことに必死できっと何もお返しできない。結婚だってまだまだ考えられないし、出産なんてもっと先。下手したら産めない年齢になるまで、舞台に立っているかもしれない。まさくんと一緒にいることで、あなたの普通の幸せを奪ってしまうと思うんだ。」
美しい顔を歪めて必死に言葉を紡ぐ彼女は、どこかもう遠くにいる人のようだった。
覚悟を決めてここへ来たような感じがした。
「俺は、茉由花が輝く姿を見るのが好きだから、茉由花を支えたいと思っているんだよ。」
俺は、茉由花を失いたくなくて抵抗する。
「まさくんはどんな私にも、変わらない態度で接してくれる人なんだってわかって、すごく嬉しかった。でもだからこそ、私まさくんがいるともっと甘えてしまう。迷惑をかけたくない。」
「それで、茉由花は平気なの?」
俺の言葉に、茉由花はゆっくりと、けれど確実に頷いた。
「男役を全うするって決めたから、最後までやり遂げるよ。」
「妥当な時期が来てから考えるというのでは駄目なの?」
「妥当な時期?」
「うん。まだ茉由花も俺も若い。好きという感情だけで付き合っていても良いと思うんだ。今は茉由花の仕事を二人で乗り越えて、それからゆっくりと未来を考えるんじゃだめか。今は茉由花の近くにいたいという感情が、俺の全てなんだ。」
嬉しい言葉だけど…と茉由花が耳たぶをギュッと引っ張った。彼女が涙をこらえているときの癖だった。
「でもそれ、後悔しても後戻りできないよ。まさくんを疑うつもりじゃないけど、人の心は移ろうものだから。今は私との未来だけを見てくれているかもしれないけど。きっとこの先、私の立場上、あなたと過ごせない時間がどんどん増える。その時期に周りが結婚ラッシュだったら、あなただって結婚がよぎるはず。でも、私と付き合う限り結婚はもっと先になっちゃう。子供だってまだ望めない、でもご両親から孫の顔が見たいと言われてしまう。デートだってろくに出来ないし。疲れて帰ってきても、私はまだ劇団にいて、食事も一緒に取れないし、おやすみさえも言い合えない。そんな毎日が続いたら、ああ、普通の子と付き合っていればなぁってなるよ。私だったらなっちゃう。」
堰を切ったように、茉由花の口から言葉が溢れ出る。
言葉が震えているのが伝わってきて、抱きしめたくなる衝動を必死で抑える。
「あの時、決断しておけば良い思い出になっていたのにね、なんて会話はしたくないよ。」
「そんなこと…」
彼女は俺の未来を、俺以上に真剣に考えている。
「まさくんのことを考えて、別れたいって言っているように聞こえるかもしれないけど、これは私のためなの。まさくんに嫌われてから別れたくないんだよ。」
俺の心の声を見透かすかのように、彼女は言った。
「今の気持ちが、月日と共に風化するとは思えないんだよ。確かに茉由花とは一般的な幸せは手に入れられないのかもしれない。でも、俺は君と付き合って一般的な幸せを手に入れようとしていたわけじゃない。茉由花の輝きを一番近くで見続けていることが、俺にとっての幸せなんだ。」
茉由花が困惑したように目をしばたたかせる。
「茉由花と別れる未来なんて想像できないし、例え別れることになったとしても今までの思い出が悪いものになったりはしないよ。」
小さく息をのむ茉由花の肩を引き寄せると、俺の肩に頭を寄せた。
肩に乗ったこの小さな重みをもう感じられなくなってしまうかもしれないと思うと、堪らない。
俺たちはどうしてこんな形で出会ってしまったのだろうか。
もっと違う形だったなら…いや、そうしたら俺たちは出会うこともなかったのかもしれない。
今考えるべきことではないのに、変な方向に思考が働く。
「まさくんは、楓柊花のファンなんだよね。」
「うん。」
「まさくんは、言ってくれたよね。楓柊花の魅力は舞台での情熱だって。」
「うん。」
「でも今、私揺らいでいるの。こんなに自分を思ってくれる素敵な人との普通の幸せを放棄して、楓柊花として生きるのが本当に正しいのかって。」
茉由花の声が、俺の耳元で震えている。
肩が湿って、彼女が泣いているのが分かった。
「そんな風に揺らいでいる自分が許せない。ファンや劇団のみんなを裏切るような考えだから。それに、楓柊花として生きると決めたのに、それが揺らぐなんて…ましてこんな大事な時期に。でもまさくんといると、こうやって揺らいじゃうの。花蘭やめて、まさくんのお嫁さんになりたいなって。描いちゃいけない未来を考えること、今までにも何度かあったんだ。その度に、自分を嫌いになってた。」
初めて聞いた、茉由花の本音だった。
俺は彼女と本当に向き合ってきたのだろうか。
「今のままだと、まさくんが魅力だと言ってくれた“情熱”も満足に発揮できない舞台人になりそうで怖いの。全部失ってしまいそう。」
俺が茉由花の負担になっている。彼女を苦しめている。
俺たちは、赤い糸で結ばれた二人ではないということか。
「茉由花を愛してくれるまさくんも好きだけど、やっぱり、自分が一番大切に育ててきた楓柊花を、まさくんにも愛してほしい。」
俺に身を委ねていた茉由花が、体を起こして俺の目をじっと見つめた。
彼女の葛藤を象徴するように、頬を何度も涙が伝っては零れ落ちてゆく。
「だから、ごめん。私のわがまま、聞いてくれない?」
残酷だ。
茉由花にわがままなんて一度も言われたことがなかったのに。
こんな時にそんなことを言うなんて。
もう引き留める言葉が見つけられなかった。
俺の想いを、彼女に強く訴えれば訴えるほど、その言葉が重荷になって彼女を一層苦しめる。
口を噤んでただじっと彼女の意志を尊重することが一番良いのだ。
真っ赤に腫れた目の奥が"私は大丈夫"と言っているような気がした。
泣きはらしたその目が、あまりにも逞しかった。
もう俺たちは、ここから同じ道を歩いていけないと悟った。
俺がここで縋ったら、それは彼女を苦しめる足枷になる。
「わかった。楓柊花のファンであることだけは、一生譲らないよ。」
絞り出すように言った。
声はちゃんと届いただろうか。
涙で霞んだ目で彼女を見たけれど、ぼやけてしまって表情は見えなかった。
しばらくして茉由花が声を震わせて「…ありがとう。」と言った。
俺の声は届いてしまった。
「もう泣かないで。」
どちらが言ったか分からない。
どちらも言ったような気がする。
出会えただけで良かったじゃないか。
俺たちが共に過ごした時間に偽りなんてなかった。
その事実だけで、良いじゃないか。
そんな言葉を頭の中で必死に反芻する。
震える手で彼女の涙を拭った。
彼女のしゃくりあげる声が聞こえる。
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