【完結】偽りのα、真実の恋 ー僕が僕として生きるためにー

天音蝶子(あまねちょうこ)

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1.兄の苦悩、弟の決意

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 昼下がりの風は、夏の匂いを帯びていた。
 開け放たれた窓から流れ込む熱気が、白いカーテンをゆるやかに揺らす。

 その動きに合わせて、陽光が床を滑り、壁に淡い金の模様を描いては消えた。
 蝉の声が遠くで鳴き続け、静まり返った部屋の中に、時間の重さを刻み込む。

 ベッドの上、アレンは浅い呼吸を繰り返していた。
 額に滲む汗が頬を伝い、枕をしめらせている。
 窓辺から吹き込む風が、その髪をわずかに揺らした。

 指先は力を失い、ベッドの端で微かに震えている。
 机の上には開きかけの教科書と、途中で止まった文字のノート。
 未提出の課題が積まれた束が、彼の努力の証のように静かに横たわっていた。

「……あと少しなのに……」

 掠れた声が、空気に溶けていく。
 その弱々しい響きに、リオンは胸の奥がひきつれるのを感じた。

 ベッド脇の椅子に腰を下ろし、兄の手をそっと握る。
 その体温は驚くほど冷たく、しかし確かに、生きていた。

 いつも穏やかで、弟に優しい兄。
 病に伏してなお、努力を惜しまなかった人。
 そんな兄が、今は苦しげに眉を寄せている。

「無理しないで、兄さん……」

 リオンの声に、アレンは微かに笑った。
 けれどその笑みには、自嘲の影が差していた。

「無理なんかしてない……ただ、体が……ついてこないだけだ」

 言葉とは裏腹に、握り返す力は弱い。
 その瞳の奥には、悔しさが滲んでいた。

「俺はαなのに……どうして、こんなに弱いんだろうな。努力しても、誰よりも勉強しても、結局ベッドの上だ。情けないよな……」

 リオンは、その言葉を聞くのがつらかった。
 αとして生まれ、家の期待を一身に背負ってきた兄。
 誰よりも真っすぐで、誰よりも努力家だった。
 病弱な体でさえ、その志を止められなかった。
 そんな兄が、自分を責めている――それが痛かった。

「兄さんは、誰よりも頑張ってる」

 思わず言葉が漏れる。
 それでも、アレンは首を振った。

「それで結果が出なければ、意味がない」

「そんなことない!」

 声が、思った以上に強く響いた。
 蝉の鳴き声さえ一瞬、遠のいた気がする。
 リオンは震える拳を握りしめ、俯いた。
 喉の奥が熱い。涙が込み上げそうで、必死に飲み込む。

「……僕だって、兄さんがどれだけ頑張ってきたか、知ってる。αだから強いとか、Ωだから弱いとか、そんなの関係ないよ……兄さんがここまでやってきたこと、それだけで十分だよ」

 その声は震えていたが、真っすぐだった。
 アレンは一瞬、驚いたように弟を見つめる。
 けれど次の瞬間、苦しげに目を閉じた。

「ありがとう、リオン……でもな、俺が卒業できなければ、家の期待を裏切ることになる。俺は、家を継ぐ“次期当主”なんだ」

「……兄さん」

 その言葉に、リオンの胸が締めつけられた。
 “当主”という言葉が、どれほどの重みを持つかを知っている。
 αは導く者、Ωは支える者。
 この世界の掟は、そう決まっている。

 自分には決して課せられない重圧を、兄は背負ってきた。
 それでも笑いながら、前に進もうとする姿が誇らしくて、痛ましかった。

 ――兄さんの代わりに、苦しみを引き受けられたら。

 そんな思いが、胸の奥で静かに芽生える。

 夕暮れ、カーテン越しの陽が赤く染まり、部屋に長い影を落とした。
 その影が、ふたりの姿をひとつに重ねたように見えた。

 その夜。

 窓の外では、鈴虫の声が絶え間なく続いていた。
 リオンは兄の寝息を確かめながら、静かに月を見上げる。

 銀色の光が、カーテンの隙間から床を照らしている。
 胸の奥で、ひとつの決意が形を取った。

 ――自分にできることが、ひとつだけある。

 翌朝。

 淡い朝焼けが窓辺を染め、空気がまだ冷たい。
 リオンは兄の枕元に膝をつき、その穏やかな寝顔を見つめた。

 アレンの額には、まだ熱の名残がある。
 その頬にそっと触れると、指先が震えた。
 言葉が漏れる。

「兄さん……僕が行くよ。兄さんの代わりに、学園へ行く。αのふりをしてでも、兄さんを助けたい」

 それは誰に向けた誓いでもなく、静かな祈りのようだった。
 守られるだけのΩではいたくない。
 兄の痛みを、ほんの少しでも分かち合いたかった。

 窓の外では、朝の光がまぶしく差し込み、鳥の声が響く。
 世界は、何も知らぬように新しい一日を始めていた。

 リオンの瞳に、その光が映る。
 その奥に、決意の炎が、静かに燃えていた。

 ――これが、僕の決意。

 兄のために生きる。
 そして、いつか自分のために、生きられるようになるまで。

 こうして、双子の運命は静かに交わりはじめた。
 まだ誰も知らない、“偽りのα”としての物語が、静かに動き出す。
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