【完結】レンタル孫 ―愛を知らなかった僕が、誰かを想うようになるまで―

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第11章 届いた一行

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 訃報は、意外なほど静かなかたちでやってきた。

 その日も、事務所ではいつも通り、スタッフがシフト表を確認し、
 電話応対をし、書類を整理していた。
 昼下がり、奥のデスクで書類をまとめていた優真の耳に、
 受付のほうから、少しだけ沈んだ声が届く。

「……はい。佐伯絹枝さまのご家族ですね」

 聞き慣れた名字に、手が止まった。
 ペン先が空白の紙の上で、じっと動かなくなる。

「……そうでしたか。お知らせくださって、ありがとうございます」

 受話器を置いたスタッフが、振り返る。
 目が合った瞬間、その表情だけで、何があったか理解できてしまった。

「天野くん」

「……はい」

「絹枝さん、ね。昨日の夜、ご家族の方に看取られて……」

 最後の言葉は、少しだけ声が揺れた。

「穏やかだったそうよ。苦しまずに眠るようにだったって」

 「穏やかに」「眠るように」
 という言葉が選ばれていることが、かえって現実味を与える。
 目の前の景色は何も変わっていないのに、
 足元の感覚だけが、じわりと遠のいていくようだった。

「ご家族から、“いつもお世話になっていました”って。
 それから、“直接お礼が言えなかった方もいらっしゃるから、
 もしよければお通夜かお葬式のどちらかに来ていただければ”って」

「……そう、ですか」

 口の中が、急に乾いた。
 それでも、声は思ったより普通に出る。

「日時と場所、控いておいてもらえる?」

「ええ。あとで知らせるわね」

 スタッフはそう言って、メモ用紙を取り出した。
 その動きがあまりにも日常的で、
 優真は自分が少し場違いな場所に立っているような気がした。



 通夜の席は、驚くほど静かだった。

 小さな斎場の一室に、白い花と淡い照明。
 前のほうには、遺影の中で微笑む絹枝がいる。
 いつものカーディガンに似た色の服を着て、
 少しだけ若いころの顔で、穏やかにこちらを見ていた。

 ご家族や、かつての教え子らしき人たちが、ぽつぽつと集まっている。
 皆、声を潜めて話しているが、その空気は重苦しいというより、
 どこか懐かしさを分かち合っているように見えた。

「あなたが、例の“孫さん”?」

 焼香を済ませて席に戻ろうとしたとき、声をかけられた。
 振り向くと、絹枝の娘だと聞いていた女性が立っていた。
 母親によく似た目元をしている。

「あ、はい。天野です。レンタル孫サービスの……」

「母、よく話してました。
 “最近の若い子はねえ、本当に賢くて優しい子がいるのよ”って」

 微笑には、涙の跡がかすかに残っていた。

「母が倒れたときも、あなたの話をしていました。
 “また手紙の続きを読んでもらわないと”って。
 だから、来てくださって、本当にありがとうございます」

「……こちらこそ、お世話になりました」

 頭を下げながら、胸のどこかで、現実が静かに定着していく。

 ――もう、「続きを読みましょうね」と言われることはない。
 ――「私が忘れたら先生をしてちょうだい」と笑われることもない。

 それでも、遺影の中の絹枝は、いつもと変わらない笑顔だった。
 それがかえって、救いでもあり、少しだけ胸を締めつけるものでもあった。



 数日後、事務所に一本の連絡が入った。

『母の部屋の整理を始めています。
 もしよろしければ、一度だけ、母が使っていた座卓のところを見ていただけますか』

 電話の向こうの声は、あの通夜で話しかけてきた娘のものだった。

「突然すみません。
 母、お宅の“孫さん”のことを本当に可愛がっていたものですから……
 母と孫さんが触れていた場所を、そのまま片づけるのが、何となく躊躇われて」

 優真は、少し考えてから答えた。

「僕でよければ、伺わせてください」

 絹枝がいなくなった家に行くことが、怖くないと言えば嘘になる。
 それでも、「行きたい」という気持ちのほうが、少しだけ勝っていた。



 玄関を開けた瞬間、いつもの花瓶が目に入った。
 小さなガラスの器に、一輪だけ白いカーネーションが挿してある。
 誰かが新しく替えたばかりなのだろう。茎の切り口がまだ瑞々しい。

「どうぞ、上がってください」

 娘に促されて、優真は靴を脱いだ。
 廊下を進むと、居間の戸が開いている。

 座卓は、以前と同じ場所にあった。
 ただ、その上には、少し大きめの段ボール箱がひとつ置かれている。

「母のところに通ってくださっていたとき、
 ここで手紙を読んでくださっていたと伺いました」

「はい。あの箱の中から、いくつか……」

「こちらにまとめました。
 処分しようかと思ったのですが、何となく、
 その前に一度見ていただいたほうがいい気がして」

 段ボールの中には、見覚えのある封筒の束が収められていた。
 あの日、座卓の上に広げた手紙たち。
 そこに、いくつか新しい紙も挟まれている。

「母、あれからもしばらく、一人で手紙を眺めていたみたいなんです。
 それで、途中から、『これはあの子に読んでもらいたいわ』って言い出して……」

 そこで、娘は少し笑った。

「“でも、全部読ませるのは恥ずかしいから、何通かだけね”って。
 そう言って、選びかけたところで、体調を崩してしまって」

 未完の動作が、そのまま箱の中に残されているようだった。

「お手数でなければ、少しだけ中をご覧になってください。
 何か、あなたにお渡ししたほうがいいものがあれば……」

「分かりました」

 優真は、小さく息を吸い込み、箱の中に手を伸ばした。

 封筒の束をひとつ持ち上げる。
 「○○くんへ」「△△さんへ」と名前が並んでいる。
 どれも、まだ封が切られていない。

 あの日読み上げた「こうたくん」宛ての手紙も、その中に紛れていた。
 その便箋を思い出すと、胸の奥が少し温かく、少し痛くなる。

 束をそっと戻そうとしたとき、間に挟まれていた小さな紙片が、ふわりと落ちた。
 黄色いメモ用紙。
 封筒とは違う、簡単な罫線だけの薄い紙。

「あっ……」

 拾い上げて、表を返す。
 そこには、見覚えのある筆致で、短い一文が記されていた。

 ――あなたはいい子よ。また会えますように。

 息が止まった。

 筆跡は、間違いなく絹枝のものだった。
 便箋に並んでいた、あのやわらかくて少し丸みのある字。

 でも、それは誰かの名前を冠していなかった。
 「○○くんへ」も、「△△さんへ」も書かれていない。

 ただ、その一行だけが、ぽつんと紙の中央に浮かんでいる。

「それ、母の字ですよね」

 背後から、娘の声がした。

「はい」

「宛名が書いてないので、家族ではないと思うんです。
 私でもないし、父でもなくて」

 少しだけ首を傾げるような声音。

「でも、見つけたとき、ふと思ったんです。
 “これ、あの子に向けて書いたんじゃないかな”って」

 あの子――
 レンタルの孫。
 天野優真。

「根拠はないんですけどね。
 母、最近はよく、『あの子は本当にいい子なのよ』って言っていましたから」

 その言葉に、胸の奥がきゅっと狭くなる。

 ――あなたはいい子よ。

 これまで、その言葉を自分に向けられたことは、ほとんどなかった。
 「もっとできる」とか、
 「これくらいで満足してどうする」といった言葉なら、
 いくらでも記憶にあるのに。

 メモ用紙の端を、指先でそっとなぞる。
 インクの跡は、まだはっきりと濃い。

「これ、もしよければ……天野さんに受け取っていただけませんか」

 娘の提案に、優真は顔を上げた。

「でも……」

「母が、実際にあなたに手渡したわけではありません。
 だから、“これは私のものだ”と強く言い切ることはできません」

 そこで一度言葉を切り、続ける。

「でも、誰にも宛てないまま終わる一文だとしたら……
 母とよく話してくださったあなたのところに、
 行ってくれたほうが、きっと喜ぶ気がするんです」

 静かな声。その奥に、確かな信頼がにじんでいた。

「……いいんでしょうか。僕なんかが、もらってしまって」

「“僕なんか”って、母に叱られますよ」

 娘は、少しだけ笑った。

「母、本当にあなたのことを好きでしたから。
 “あの子はね、ちゃんと人の話を聞くのよ。
 目を見て聞いてくれるから、ついしゃべりすぎちゃうの”って」

 その語り口が、絹枝自身の声と重なる。

 優真は、メモ用紙を見つめたまま、しばらく黙っていた。
 喉の奥に、何かがつかえている。

「……ありがたく、いただいてもいいですか」

 やっとのことで絞り出した声は、思ったよりも落ち着いていた。

「はい。ぜひ」

 娘は、深く頷いた。

「母の最後の“宿題”だと思って、受け取ってくださると嬉しいです」

 宿題――
 その言葉に、少しだけ微笑がこぼれた。

 帰り道、電車の中で、優真はポケットの中の感触を何度も確かめた。

 小さく折りたたんだメモ用紙。
 落としてしまわないように、財布のカードポケットに収めてある。

 家に着き、自分の部屋の机に向かうと、椅子に座る前にメモを取り出した。
 そっと広げる。

 ――あなたはいい子よ。また会えますように。

 たった一行の言葉が、紙の上に静かに佇んでいる。

 胸の奥が、じんわりと熱くなった。
 目の前の文字が、少しだけにじむ。

 涙が落ちる前に、指の甲でそっと目元を押さえる。
 それでも、堪えきれなかった一滴が、紙の端に小さな跡を残した。

「あ……」

 慌ててハンカチで押さえる。
 インクは、幸い滲まなかった。

 そこまでしてから、ふっと笑いが込み上げてきた。

「……泣いてない、って言えないな」

 ぽつりとひとりごとをこぼす。
 すすり泣くでもなく、声を上げて叫ぶでもなく。
 ただ、静かに、涙が落ちる。

 悲しいから、というだけではない。
 悔しさややるせなさと同じくらい、あたたかさも一緒に胸の中を満たしていた。

 ――あなたはいい子よ。

 以前、絹枝の手紙を読みながら、
 「先生はいつでもあなたの味方です」という一文を、
 自分宛てに借りたいと思ったことがあった。
 届けられなかったはずの言葉を、「少しだけ分けてもらえたら」と。

 でも今、目の前にあるのは、借りものではない。
 宛名こそ書かれていないが、この一文を自分が受け取っていいのだと、誰かが言ってくれた。

 それだけで、世界が少し変わって見えた。

「……僕は、いい子なんでしょうか」

 問いかけてから、自分で苦笑する。

「少なくとも、“いい子だと思ってくれた人がいた”ってことくらいは、信じてもいいのか」

 そう言葉にしてみると、胸の奥の強ばりが少しほどけた。

 「いい子であれ」と求められるのではなく、
 「いい子だね」とそっと言われること。

 その違いを、ようやく体で理解し始めている。

 紙を丁寧に折りたたみ、もう一度カードポケットに戻した。
 その上から、掌を重ねる。

 ――また会えますように。

 その一文が、どこを指しているのかは分からない。

 どこか別の場所で、という意味なのか。
 夢の中で再会できたら、というささやかな願いなのか。
 それとも、「誰かの人生の中で、もう一度思い出してもらえたら」という意味なのか。

 いずれにせよ、その言葉には、「ここで終わり」ではなく、
 「ここから先に続くなにか」を信じる気持ちが、静かに滲んでいた。

「また、会えたらいいですね、先生」

 誰もいない部屋で、小さく呟く。

 教え子たちに向けた数えきれない「がんばったね」「あなたのままでいいのよ」という言葉。
 届けられなかった手紙。
 そして今、自分の手元にある、たった一行のメモ。

 それら全部が、どこかでひとつにつながっている気がした。

 優真は、机の上に置いてある木片に視線を移した。
 国松から預かった、小さな端材。
 まだ、何になると決まっていないかけら。

「僕も、途中のまま、ですけど」

 木片の角を軽く指先で撫でる。

「とりあえず、“いい子だと思われたことがある人”として、生きてみようかな」

 それは、大仰な決意ではない。
 ただ、これからの日々の中で、自分を少しだけ違う目で見てみよう、という小さな試みだった。

 窓の外には、夕暮れの光が薄く残っている。
 部屋の中に差し込んだその光が、机の上の木片と、ポケットの中のメモに、淡く触れていた。

 静かな別れのあとに残されたものは、思っていたよりも多かった。
 胸の奥に、まだうまく名前をつけられない感情が、確かに息づいている。

 それが、絹枝から受け取った、一番大きな贈り物なのかもしれない、と優真は思った。
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