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1. プロローグ
しおりを挟む私達の結婚には、祝福も、誓いの言葉もなかった。
ただ一枚の紙に、淡々とサインをしただけ。
それが、私と芹沢礼司さんの『夫婦としての始まり』だった。
都心の高級タワーマンション。広々とし過ぎて静まり返ったリビング。
重厚なテーブルの上に、結婚契約書と弁護士立ち合いの合意書が並べられている。
まるで会社の取引みたいに、事務的で冷たい――はずなのに。
「……これで、契約は成立だ」
礼司さんは、低く静かな声で言った。彼の眼鏡越しの視線は淡々としていて、感情が読み取れない。
彼は今、芹沢グループの副社長として名を連ねる若きエリートで、整った顔立ちに知性と冷徹さを滲ませるような眼鏡がよく似合っていた。
私が『芹沢礼司』の名前を再び聞いたのは、祖父の四十九日法要の日。
私宛の遺言の中で、彼との結婚を望む一文があったと知らされた時――まさか、大学時代に付き合っていた礼司さんと夫婦になるなんて、夢にも思っていなかった。
でも、だからこそ――ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に揺れた何かに私は気付いてしまった。
「一年間。最低限の夫婦関係を築くこと。周囲には本物の夫婦として振る舞うこと。ただし――関係性の自由は、お互いに尊重すること」
「……はい」
読み上げられた契約の内容に、私は小さく返事をする。条件はすべて事前に確認していた。
だけど、こうして彼の口から『夫婦』という言葉を口にされる度、胸の奥が静かに波打つ。
礼司さんは何も変わっていなかった。仕立ての良い黒のスーツも、淡い香水の香りも、切れ長の目元も。
ただひとつ――昔と違うのは……。
「……眼鏡、似合ってますね」
ぽつりと、思わず漏れた言葉に、礼司さんはほんの少しだけ眉を動かした。
けれど、何も言わない。私とは必要最低限の関わりしか持ちたくない、と言われている気がした。
「指輪はこれだ。聞いていたサイズで仕立ててある。夫婦として過ごす間、常に付けておくように」
「……はい」
一年したら必要なくなってしまうというのに、多くの女性が憧れる高級ブランドの結婚指輪を礼司さんが選んだのは、彼の家柄に合う物を……という気持ちからだろう。
礼司さんは私の指に美しく曲線を描く指輪を嵌める。
「……サイズが合ってよかった……無駄にやり直すのは面倒だからな」
そう言って、ふいと横を向く。
そして自らの指輪はさっさと自分で嵌めてしまい、何事もなかったかのように指から視線を逸らせる。私はその光景だけでも何故か心が軋んだ。
(仕方ない事。だって私達の関係は……)
私と礼司さんはかつて恋人だった。初めて本気で男性を好きになって、ありがたい事に彼の方も私を好きだと言ってくれた。
大学時代――幸せだった日々。
けれど私は、彼を……振った。幸せな関係を自ら壊し、距離を置いた。
だから今、私に求められている役柄が『契約の妻』なのだとしても、何も文句なんて言えない。
契約書の上に私の名前が並んだ瞬間、ペンを置いた礼司さんの指先が、ほんの少しだけ震えていたことに――私は気付いてしまった。
(そんなに……耐え難いほど、私との結婚が嫌なの?)
もう二度とこの人に関わる事なんてないと思っていた。だけど今、私は彼の『妻』になった。
たった一年だけの、仮初めの関係として。
――終わったはずの恋が、仮面の下で静かに息を吹き返そうとしていることに、私はまだ気づいていなかった。
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