政略結婚の相手は、御曹司の元カレでした〜冷たいはずの彼が甘過ぎて困ってます〜

蓮恭

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14. 心の変化

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 翌朝、目を覚ました瞬間、昨夜の記憶が一気に押し寄せてくる。

 ワンピースの裾が揺れる高級レストラン。真っ白なプレートに書かれた、繊細なチョコレートの文字。
 夜の海辺で、重なった手の温もりと――

 あの時、「……嘘じゃない」と言った礼司さんの、静かな声。

(全部……夢じゃない)

 私は一人、ベッドの中でぎゅっと胸元を抱きしめる。同時に顔が熱くなる。思い出す度に、昨日の自分の鼓動が蘇ってくるようで。

 あの夜、礼司さんの気持ちをはっきりと聞いたわけじゃない。だけど、確かに――あの手は、あの眼差しは、私のことを見ていた。

(……私、浮かれてる)

 けれど、浮かれていたっていいと思った。たとえ『契約』という言葉に縛られていたとしても、昨日のあれは、確かに二人の『記念日』だった。
 
 付き合っていた頃、礼司さんは一ヶ月ごとに記念日をお祝いしてくれた。
 私もその回数を増すごとに、自分が彼の隣にいる未来がはっきりと形を帯びてくるのを実感して、密かに嬉しかったのを今でもはっきり覚えている。

(一年……あと十一ヶ月しかないんだ)

 炊き立ての白いご飯の湯気が、静かに立ち上っていた。今朝の献立は西京漬焼き、ほうれん草のおひたしに、具沢山の味噌汁。

 お椀に味噌汁をよそいながら、私はふと、昨夜の記憶を思い出していた。

(夜の海……とても綺麗だったな)

 月の光が波間に反射して、キラキラと輝く景色は幻想的で、普段なら言えないこともスルリと口をついて出たんだと思う。
 
「礼司さん、朝食、出来ています」

 そう声をかけると、礼司さんは寝室から出て来る。私が念入りにアイロンをかけた白シャツにネクタイを締める手元はきっちりとし、どこかいつもより機嫌が良さそうに見える。

 席に着くと、礼司さんは一礼するように軽く頭を下げ、箸を取った。

「いただきます」

 その所作は、以前と変わらない。けれど、今朝の空気には、どこかあたたかな余韻が満ちていた。

 食後、礼司さんがコートを手にして立ち上がる。

「……行ってきます」
「いってらっしゃい」

 玄関を出る革靴の音とともに、ドアが静かに閉まる。
 その音が遠のいた後、私はそっと手を胸元に当てた。

(この時間が、いつまでも続いてくれたら……)

 そんな想いが、ふと胸の奥から浮かび上がった。

 キッチンに戻ると、いつの間にかテーブルの上にメモが置かれていた。

『今日の昼は戻れない。帰りは十九時ごろ。冷蔵庫の奥にプリン、食べておけ。礼司』

「……プリン?」

 冷蔵庫を開け、奥の方を探す。いつの間に買ったのだろうか――小さな苺のプリンが一つだけ置いてあった。
 見た事のないパッケージに、ちょこんと貼られた『限定品』のシール。

(……昨日の、続き……?)

 手に取ったらヒヤリと冷えるプリンの瓶。それなのに、胸がぽっと熱くなる。

「……単なる甘やかし、じゃないよね」

 誰もいないキッチンで、そっとスプーンをプリンに入れる。優しい苺の香りと、ふわっととろける甘さが口の中に広がって――思わず、目を細めた。

(いつまでこの生活が続くんだろう)

 一年の契約。それを忘れたわけじゃない。
 けれど、こうして小さな優しさに触れるたびに、『終わり』が怖くなる。

 いつか礼司さんの手も、あの声も、この食卓も――何もかも、私の居場所じゃなくなってしまうのだろうか。

「……それでも、もう少しだけ……そばにいたいな」

 ぽつりと落とした独り言が、静かな朝の空気に溶けていく。

(……一ヶ月)

 思い返せば、最初の数日は本当にぎこちなかった。契約結婚だと自分に言い聞かせながら、どこかで『距離を取らなきゃ』と思っていたのだ。
 
 でも気がつけば、礼司さんの歩調に合わせて家事を整えたり、彼の好みに気を配っていたり――誰に頼まれたわけでもないのに、自然とそうしていた。

 洗い物、掃除を終え、洗濯も終えた。ふと洗面所の鏡の前に立つと、見慣れた自分の姿。
 昨日までの『仮の妻』の顔じゃなく――少しだけ、表情が柔らかく見えた気がした。

 頬に軽く触れてみる。ほんのり熱い。

(……気のせいじゃない。私、変わってきてる)

 礼司さんの隣にいることが、怖くないわけじゃない。むしろ、『一年後に離れることが出来ないほど、好きになってしまいそうな自分』が怖いのかもしれない。

 でも――それでも、もう逃げたくはない。

「たとえ一年だけだったとしても、もうあんな風に後悔したくない。少しでも……変えたい」

 自分にだけ聞こえる声で、そっとそう呟いた。



 お昼前――私は近くのインテリアショップへ足を運んでいた。

(今まであのマンションには、『必要最低限のもの』しかなかった)

 決して無機質ではないけれど、どこか『仮住まい』のような空気が漂うマンション。けれど、少しずつ変わっていく関係の中で、自然と思ったのだ。

(この場所を、ちゃんと『帰る場所』にしたい)

 それは、仕事に真剣に取り組む礼司さんの為でもあるけれど――何より、自分自身の為に。
 ここで暮らすことを、もっと前向きに、大切にしたくなったのだ。

 柑橘の香りが漂うアロマディフューザー、柔らかな色味のブランケット、木製のフレームに入った小さな絵画。

 買い物かごにそれらを入れながら歩いていると、店の奥のテーブルセットの向こう側に、懐かしい横顔を見つけた。

「……佐々木さん?」

 声をかけると、優しい笑顔が返ってくる。

「おや……野々宮さん。こんなところで会えるとは」

 その人は――祖父の知人であり、私の勤めている美術館の館長――佐々木さん。

「お元気そうで何よりです。お祖父様の法要以来ですね。結婚生活はいかがですか?」
「おかげさまで、やっと慣れてきました」

 その言葉に、佐々木さんは「そうですか」と頷いてから、ほんの少し柔らかく目を細めた。

「先日、芹沢くんに偶然お会いしましてね。彼、野々宮さんと結婚してから、随分と表情が変わっていましたよ」
「……え?」

 佐々木さんが礼司さんと知り合いだったなんて知らなかった。あまりの衝撃に言葉を失っている私をよそに、佐々木さんは語り始める。

「以前よりずっと、人の『温度』を帯びた顔をしていましたね。ああ、彼はようやく心を取り戻せたんだなと、そう感じました。誰かが彼を変えたのでしょう」

 その『誰か』に自分が含まれているのかどうか――自信はない。
 けれど胸の奥がふっと熱くなったのは、確かだった。

「野々宮さん。あなたは昔から、誰かの心を柔らかくする力を持っていました」

 館長は、まるでそれを確信しているような声でそう言った。

「焦らず、ゆっくり。自分の心を、まず大事にしてくださいね」
「……はい」

 その帰り道。私は紙袋を抱えながら、初めて『この家での未来』をそっと思い描いた。

(この部屋が、帰りたい場所になるように――)
 
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