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38. 思わぬ怪我で
しおりを挟む朝の空気は冷たくて澄んでいて、頬に触れる風が心地よい。
昨夜の自分を思い出して、私はこっそり唇を噛んだ。
(……まさか、あんなタイミングで眠ってしまうなんて)
礼司さんの隣で眠れて幸せだった。でも、それ以上に――本当は、もっと伝えたかった。向き合いたかった。あなたの特別な誕生日のお祝いだったから。
だからこそ、今日は少しでも挽回したいと、私は朝から張り切っていた。
「せっかくここまで来たんですし、行ってみたい場所があるんです」
そう言って、観光地の地図を手に、宿の人におすすめのルートを尋ねた。礼司さんは私の積極的な行動に少し驚いたような顔をしていたけれど、「行こう」と頷いてくれたことが、嬉しかった。
旅館のすぐ近くにある、有名な神社とその周辺の小道を巡るコース。風情ある町並みと、並ぶ土産物屋。湯気を立てる饅頭屋や、ご当地ソフトクリームの看板。歩くだけで心が弾む。
(手を繋いで歩きたいけど……)
気恥ずかしくて言い出せない。でも、その気持ちだけでも伝わっていればいいなと思いながら、小さな歩幅で彼と並んで歩いた。
――その時だった。
「きゃっ……!」
人がすれ違うタイミングで、小さく押されるような感覚。石段を下りていたその足が、思いのほか浮いてしまって、バランスを崩した。
ぐらりと視界が揺れ、次の瞬間、私は手すりに手をつくようにして転びかけた。
「……っ!」
咄嗟に着地した右手に、強い衝撃が走った。ぎり、と痛みが走る。
「静香!」
すぐ背後から礼司さんの声。気付けば、私は彼の腕に抱えられるようにして、なんとか倒れ込むことだけは避けていた。
「……ごめんなさい、大丈夫、ちょっと手を……」
そう言いかけて、痛む手首を見て愕然とした。
そうひどく腫れてはいないけれど、赤紫色になってじんじんと熱を持っている。手を動かすだけで、びりびりと痺れるような痛みが走った。
「無理はするな。すぐ診てもらうぞ」
そう言って、礼司さんはスマートフォンを取り出した。落ち着いた素振りで何かを調べている。
私はというと、ただ俯いたまま、情けなさと申し訳なさに目を伏せていた。
(せっかくの旅行なのに……また、私が……)
「今の時間なら、ギリギリ午前の当番医で診てくれるらしい。すぐ近くだ。行こう」
このままでは家に帰ってから、家事にも支障をきたしかねない。休日だから諦めていたのに、病院へ行けると聞いてホッとした。
けれどそれは、私にとって思いがけない再会と、小さな波紋の始まりだった――。
診察室の扉が開いた瞬間、そこに現れたのは、白衣の下に派手なシャツをラフに着こなした医師だった。
茶髪の緩やかなパーマに、垂れ目気味の優しげな瞳。だがその眼差しはどこか狡猾で、掴みどころがない。
「はーい、芹沢さーん……って、え⁉︎ もしかして、やっぱり礼司?」
その医師は驚きと、そしてどこか嬉しげな声で礼司さんの名前を呼び、信じられないというように目を見開いた。
「お前、こんなとこで何してんだよ! いや、マジで久しぶりじゃん!」
診察室の丸椅子に座っていた私は目に入らないかのように、隣に立っていた礼司さんに向かって親しげに話しかける医師。
どうやら礼司さんの知り合いみたいだった。
「……如月」
礼司さんも分かっていてこの病院を選んだようで、どこか照れくさそうに口元を緩めて応じている。
(こんな顔……外ではあんまりしないのに)
珍しい様子に複雑な気持ちになったのは、私のちょっとした嫉妬かも知れない。
「元気そうだな」
「お前こそ、変わってねぇなぁ……って、むしろちょっと落ち着いた? 高校の頃の爆モテ礼司が、まさか人妻連れで俺の病院に現れるとは……!」
よく見れば、確かに如月――という名札を白衣の胸に下げたその人は、信じられないものを見るように、視線を私の方に向ける。
「……ってことは、君が奥さん? うわぁ、めっちゃ綺麗! 随分と趣味が変わったねぇー……礼司。お姉様派だったのに、こんな可憐なタイプに落ち着くとは」
「余計なことは言うな」
不機嫌そうに礼司さんがぴしゃりと遮ったが、如月さんは悪びれる様子もなく、肩をすくめてみせる。
「いいじゃん、昔の話だし? 俺たち、高校時代は二人で無双してたよなぁ。放課後はファンクラブの女子達が出待ちしてたし、年上の看護学生と遊んだりとか……懐かしい」
知らなかった礼司さんの過去に、心がざわつく。だけど礼司さんは目線を逸らしたまま、そっと私の肩に手を添えた。
「……今は関係ない。それより、早く診てやってくれ」
「了解了解。あ、手首の捻挫だよね? はいはーい、診察するから、保護者は出て出て。また呼んでやるから」
そう言って、礼司さんは診察室の外へ追いやられてしまう。
私は礼司さんの友人に二人きりで診察してもらう羽目になり、少し居心地が悪い。
「さて、触診するから、ちょっとだけ我慢してね?」
如月さんはにっこりと笑いながらこちらへと近付き、顔を覗き込むようにして囁く。
「でもほんと、礼司の奥さんって思えないくらい柔らかそうな雰囲気だなあ……俺、実は人妻も好きなんだよね」
真剣な表情をしばらくした後、如月さんは茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。
「まあ冗談だけど? ……でも困った時はいつでも頼っていいよ。俺、意外と腕はいいからさ。いろんな意味で」
(……なんだろう、この人。礼司さんとは全く違うタイプの人……)
柔らかな笑顔、明るくて軽い口ぶり。けれどその言葉の端々には、無邪気とは言い切れない何かが滲んでいた。
(全部冗談、だよね……?)
あまりにも自然に口説くようなことを言われて、一瞬返す言葉に詰まる。
視線を外すのも、応じるのもためらわれて――結局、微笑んで曖昧に頷くことしかできなかった。
「はーい、礼司、入っていいよー」
(でも、礼司さんは……)
ふと見ると、礼司さんの眉間にはかすかに皺が寄っていた。何も言わないけれど、目の奥は確かに怒っている。
「如月、お前……俺が出て行く必要、本当にあったのか?」
「んー、まあいいじゃん。一応ちゃんと診察したし」
「……ふざけるな」
「まあまあ、怒らない怒らない」
(……やっぱり、私が如月さんと二人きりになるの、嫌だったんだ)
そのことが、何よりも胸をくすぐった。嫉妬されるなんて、自分には縁のないことだと思っていた。
けれど、こうして明らかに動揺している彼を見ると、なぜか胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
(私のこと……大切に思ってくれてるから……)
まだ知らないこともきっとたくさんある。礼司さんの過去も、この如月さんという人の本心も。
でも、それでも――
(私は今、礼司さんの奥さんだから)
そう思うと、手首の痛みを忘れるくらい胸がいっぱいになった。
如月さんは「念のため骨に異常がないか見ておこう」と、レントゲン室での撮影を勧めてきた。
「礼司さん……」
慣れないことに少し不安げに名前を呼ぶと、礼司さんは私の手を軽く握り、言葉少なに頷いてくれた。
「大丈夫。すぐ終わるから」
その声に背中を押されるようにして、私は看護師さんに案内されて検査室へと向かった。
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