春雷とアンドロメダ

立夏

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初めて知る、あなたを

43 恋人の提案02

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「おはようございます。ご加減はいかがですか」
「見ての通り」
「そうですか。朝食は御準備しております」
「あ、ありがとう、縣」

 縣がてきぱきと二人分の朝食をいつもの居間に並べてくれる。
 白ご飯に味噌汁、鮭の塩焼きにお漬物、ショウガとかつお節を乗せた冷や奴。
 当然のように朝食を頂いてしまうけれど、私が遠間邸に滞在すべき理由はもうない。

 昨日は何もかもが終わったことへの達成感で気が抜けたのと、凄まじい疲労のあまり、まったく何も考えられずに習慣で遠間邸に戻ってきた。家に上がるなりそのまま、春久に無理矢理手を取られ、最低限の怪我の処置と、指先に口づけられて調整を施されていた。
 ほっとしたせいか意識が随分朦朧としていてよく覚えていないけれど、春久に半ば引き摺られるようにしながら布団に引き倒されて抱えこまれ、眠ったことは覚えている。

(俺は、きみが欲しい)

「―――!」
 夜明け前の神社の境内で、春久に言われたことがパッと蘇って頭が真っ白になりそうになった。いたたまれなさに叫びそうになったのを慌てて抑える。
「ほたる?」
「な、なんでもないわ」
 向い合せになった春久が少し訝しげな顔をする。それ以上追及されなくてほっとした。
 とはいえ今、春久の顔を正面から見るのは無理だった。無理矢理追いやった意味がなくなってしまう。
 気のせいだ。私は幻を見たに違いない。何も意味は無い。いつもの軽口の一つで私をからかっているだけ。
 そう思わないとやってられない。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした。美味しかったわ」

 食べ終わると同時に、縣が見計らったように食器を下げる。
「お口に合ったようで幸いです。コーヒーをお持ちします。高原様はミルクと砂糖もご入用でしたね」
「よく覚えてるのね……よろしくお願いします」
 私はブラックコーヒーはあまり得意じゃない。

 春久は今日、珍しく無言で朝食を食べていた。口数は多くないにしろ、春久は無口でもなく、それなりに話をする。
 気のせいかもしれないが、朝のことといい、なんだか今日は春久の様子がおかしいように思う。
 縣がコーヒーを出してくれた。春久の様子は、気になる。それに私は昨日の修羅のことも、まだろくに、面と向かって春久に言えていない。この家にはなんだかんだ言って、すごくお世話になったのだ。
 でもどう言えばいいのか、纏まらない。春久の顔を見ると余計なことを思い出しそうだから、というのは大きな原因だと思う。
 砂糖とミルクを入れ、コーヒーを一口、カップを置くと手持無沙汰になる。
 切りだし方を迷ったあげく、私のやり方は到底、上手いとは言い難いものだった。

「春久」
「なんだ?」
「え、っと、―――あの、昨日まで、ありがとう」
 縣の入れたコーヒーをブラックで飲んでいた春久が、カップに口をつける前に手を止めた。綺麗な神鳴色の目が、ちょっと驚いたように、鋭い刃物のような雰囲気をして私を見る。
 決して優しいとは言い難い視線だが惹きこまれそうになり、余計なことを思い出しかけて、思考がパッと真白になりかける。わずかに無理矢理視線をそらす。

「あなたに、すごく助けられたし、……その」
「何を言うつもりだ? まるで別れの挨拶だな」
「え?」
 私の言い分を全部聞く前に、珍しく被せられる。
 不愉快だ、と言いたげに金色の目に睨まれる。

「金輪際会うつもりがない人間にするような口調だ」
「は、い? いえ、そういうつもりは、―――でも、あなたは別に、そもそも「私」に特別用事があるわけでもないでしょう? そもそも私がここにいる理由も無くなったわ。だから、私は自分の家に帰、」
「短慮」
 呆れたとばかりに大きく溜息をつかれる。
 何なの? さすがにむっとする。
「ほたる。なかったことにする気か?」
「な、」
 何のこと、と言いかけて二の句が継げなくなる。

「俺は昨日の返事を聞いてない。―――きみが好きだって言ってる」

「は、はい?」

「俺の恋人になって欲しい、と言えば理解するか?」

「は、え、えええ、あ、あ、っ?!」
 こい、びと!?

「あ、あなたね、なんなの?! なに?! 今日はどうしたの? 疲れてるの?!」
「酷い言われようだな」

 わ、たしのこと、すきでもないのに?!

「な、なんであなたが私?!」

「焦りすぎだ」
 溜息をついた春久が、席から立ち上がって、こちらへ来る。
「えっ、わ、ちょっ―――!? こっちにこないでよ?!」
 反射的に退いて、体が逃げようとするものの、春久に勝てるわけもなく腕を取られてしまう。主張を今更聞かれるわけもない。春久はだいたい自分勝手で傲慢で強引だ。
「引っ張らないで、っ! やだ、やめて、春久っ!」
 ぐい、と引き寄せられて、抱きしめられる。
 何回もこんな動作を繰り返した。
 なのに、―――なのに、いままでの、どんな状況よりも、どきん、と心臓が跳ねた。

「きみが好きだ、ほたる」

 見つめて頬を取られて、改めてもういちど言葉を口にされると、ぶわあああと顔が熱くなる。
 なにそれ、なんなの?!
 綺麗過ぎる春の神鳴色に真摯に見つめられていることに耐えられなくて、思考が完全にオーバーヒートした。
「―――っ!」
「、っ、ほたる、!」
 その結果、そのまま春久を突き飛ばした。
 予想外だったのか、珍しく春久がよろめく。
「わ、私は! か、帰る! 帰るから!」
 近くにあった荷物だけひったくるようにして、バタバタと遠間邸を脱走した。
 一切振り返らずに走るといつのまにか駅を通り越し、自宅に辿りついていたけれど、何がどうなって、どこをどうしたのか一切合財何も覚えていない。電車に乗った記憶さえない。

「す、き……すき? わ、たしを……?」

 春久、が?

 じょう、だん、でしょう?!!!!!!!

 *

 家に帰って、靴を脱いで、部屋に上がって荷物を置いた瞬間、ずるずると座り込んで頭を抱えた。顔が熱かった。鏡を見なくても真っ赤になってることが嫌でも分かる。
「何……? 何なの? ばかなの……?!」
 一人になって膝を抱え込んでいても何も解決しない。解決するはずもない。
 恥ずかしいのか怒っているのか自分の感情が分からない。
「春久の、ばか!」
 とりあえず言いたいことはそれに尽きた。
「ばかばかばか……!」
 なんでいきなりそんなことを言うの?!

 いてもたってもいられずに外出した。どうせ昼食だの夕飯だのを作る材料は何もない。
 何をしても意識が離れない。外出先、雑踏の行き交う人波のなか、無理矢理入った本屋で立ち読みした。
 そのくせ『デート』だとか『カップル』だとか『彼氏』だとか!
 連想させるワードばかりで速攻遠慮した。
 結局気晴らしは全く上手くいかず、食材だけ買ってすごすごと家に帰る。

 昼食を作りながら、夕飯も同時に用意し始めると、なんだかふと、不足を感じる。
 約二週間ぶりの自分の家だ。私の一人暮らしの部屋。
 フローリングに窓にカーテン。家具は白い木材。洋風の私の部屋。
 遠間邸とは全く違う。越してきたばかりで馴染んだとはいいがたく、この部屋を、まだ自分の家だと思うことには少し違和感がある。

 手狭としかいいようがないのに、一人でこの部屋にいると、何故かひどく広いと感じた。
 テレビをつけると音声が聞こえてくるものの、当然ながらそれ以外、他に音がない。

 例えば―――遠間邸の木々のざわめきや、小鳥のさえずり。
 縣が夕飯を手伝ってくれるときの細かなやりとり。
 春久が私をからかって、名前を呼ぶ声。
 随分にぎやかに、この二週間ばかりを過ごしていたのをひしひしと感じる。

「……、……」
 さびしかった。
 さびしかったけどこれが普通だ。
「……でも、だからって、」
 だから、って、どうしろと?

 これが当たり前で、このあいだまでが、異常なのだ。
 一人で昼食を取ったし、夕飯も一人で食べていると、なんだか味気ない。
 今日の献立は自分で決めた。当然だ。春久が食べるようには作ってないから、リクエストされるはずもない。
「……はあ」
 春久のせいで、私は怒ってばかりいたけど、寂しさを感じたことはない。過ごした時間は決して長くはない。でも、凝縮されている。
 色々思いだすのはそのせいだ。
 一緒にいないたった数時間だけで、何故か強烈に意識させられる。

 一日の終わり、夕飯の食器を片付け終わって一息つくと、携帯がピピピ、と音をたてた。
 なんだろうと思って手に取る。着信の相手の名前にぎょっとする。春久だ。最初に電話がかかってきた一回目のときも、同じように強烈に戦いたことを思い出す。
 三回しかコール音で呼び出されていないのに、取るのが遅いと文句を言われた記憶は新しい。
 またしても取るのを躊躇ってしまう。

 いい加減少し冷静になってはいた。昼間、勢いとはいえ春久を突き飛ばしたのは悪かったなと思うし、突然好きだ、なんて言われて思い切り思考不能に陥った挙句、二週間近く遠間邸にお世話になったことや、修羅のことを結局、お礼が言いたかったのに、何も言えないままだ。私の態度はどう考えても随分薄情だ。
 後ろめたい思いを隠せないまま、戦々恐々、何を言われるか分からず、ごくりと唾をのんで、電話を取る。

「―――はい、もしもし?」
『取るのが遅い。待ち長い』
「あなたは気が短すぎよ」
『きみを待ってたら百年過ぎそうだ』
 あまりに大袈裟な言い方だったけど、憎まれ口の叩き方がいつもと同じでどこかほっとした。
「何の用なの、春久?」
『きみが勝手に逃げるから電話をかけたんだが、随分な言い草だな』
 く、とからかうように電話の奥で春久が笑う。どういう表情をしているのか、目の前にいないけれど想像がつくようだ。たぶんあの綺麗な金色の目を細めて、からりと喉で笑うあの表情だと思う。
『一週間やろうか』
「いきなり何の話?」
『昼間の話に決まってるだろ。一週間だけ、きみを待ってやろうか、っていう話』
「は、はい? ちょっと、勝手に決めないで、それに、……あなた、本当に、私のこと、」
 好きなの? と聞くに聞けなくて、口ごもってしまうと、電話の奥で春久が溜息をつく。今日は春久が呆れる声をよく聞いている。変な日だ。やっぱりすっきり目が覚めなかった日は一日不調だ。
『思った以上に酷いな、ほたる。まあいい。明日は大学だろ。昼、俺の分の弁当作ってくれ』
「お、お弁当? なんでそうなるの」
『俺が食べたいから』
「ちょっと春久!? あなたまたそうやって勝手に切るつもりね!」
『そういうところは良く分かってるじゃないか。また明日な。ほたる。おやすみ』
 ぷつり、と一方的に電話を切られる。
 むかついた! 何なの!? お弁当?! もう!
 腹立たしく思っていると、ピロン、と音を立ててメールが来る。

 ――藤ヶ浦の食堂上に十二時半

 ご丁寧に場所と時間まで指定付きだ。
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