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むかしむかし、「月の勇者」と呼ばれる義賊がいました。
月の勇者と呼ばれるようになったのは、暗闇を照らす月のような存在であるとか、月明かりがさす夜によくあらわれるとか、月のように美しい姿をしていたとか、いろいろな噂があり、どれが本当なのかはわかりません。
月の勇者と呼ばれるその義賊は貴族の屋敷から金を盗んで貧困層の人々に分け与えたり、奴婢の逃亡に手を貸したりと、民衆からは英雄視されていました。
そんな民衆の人気者である一方で、支配階級から見れば月の勇者は目障りそのものでした。
支配階級の人々を中心に月の勇者を捕まえようとしたそうなのですが、いっこうに月の勇者につながる手がかりは見つかりませんでした。
とうとう月の勇者は指名手配犯にまでなってしまいました。
しかし、全く手がかりがないので見つけようがありません。
噂でさえもどれも特徴がバラバラです。
銀色の髪だったというのもあれば金色の髪だったという噂もあり、青い目をしていたというのもあれば赤い目をしていたという噂もありました。
美しい姿だったというのはどの噂でも共通でしたが、手掛かりになるはずもありません。
男なのか女なのかもわかっておらず、指名手配のビラだってイメージの人相書きだったそうです。
こうして「月の勇者」は都市伝説のような存在になっていきました。
月の勇者がこのように手がかりを残さずに、多くのことができたのは理由があります。
この月の勇者は、人には聞こえない音が聞こえていました。
危機がせまると知らせてくれたり、迷ったときに正しい方向を教えてくれる音が聞こえるというのです。
鈴のような音で、月の勇者自身にしか聞こえないものです。
どうしてこんな音が聞こえるのかは本人にもわかりません。
月の勇者はこのおかげでたくさんの危機を乗り越え、生き延びてきました。
そして、突然、月の勇者は姿を消してしまいました。
使用人たちの朝は早い。
テオはいつもどおり、分厚く長い前髪の寝ぐせを直し、量の多い茶色い髪をひとつに束ね、度の入っていない眼鏡をかける。
そうすると、鏡には過去と全く違う自分が映る。
身支度を済ませたら、テオたちは掃除に駆り出される。
上司の目を盗んで、朝早くにも関わらずたいがいの女は仲の良い同僚とおしゃべりを楽しむ。
「ねえねえ、伯爵様、領地が没収されたらしいわよ。」
「ええっ。そうなの?でも、ざまあって感じよね。あそこのお嬢様、すごく態度が悪かったもの。うちの旦那様に奥様がいるってのに、絶対狙ってたわよ。」
「しーっ!言い過ぎよ。でも正直、私もあそこのお嬢様のこと嫌いだった!」
使用人たちの会話やくすくすと笑う声が、テオの耳に自然と入ってくる。
多くの使用人は朝から話に花を咲かせているが、テオは例外だ。
決してテオが真面目だからというわけではない。
ただ話し相手がいないだけだ。
その理由は決して明るいといえない性格だということもあるが、もっと大きな理由がある。
せっせと使用人たちが働いていると、すぐに朝日が昇り、主人たちの活動する時間がやってくる。
テオは3年もここで働いているが、ずっと洗濯係のままだ。
手は荒れるし、冬場は凍えそうだし、人気のない役割だ。
「ちょっと、テオ。旦那様のところにお茶持って行ってちょうだい。」
テオが関わったことがある中で一番えらい使用人がテオにもとにやってきて言う。
「はい。」
テオは、仕事を他の洗濯係の女に任せて、その場を去る。
ただの洗濯係では、この屋敷の主人であるレイ・アルマンディン侯爵のお茶をいれることなど許されない。
これが、ほかの使用人たちがテオを敬遠する理由だ。
アンナに渡されたお茶はいい香りがしたが、気分は良くない。
こうやってわざわざ人の注目を集める形で呼び出すのは、嫌がらせでしかない。
長い廊下を歩いてようやく雇い主の執務室にたどり着く。
ノックをするといつも通りのさわやかな声で入室の許可を出してくる。
「お茶、お持ちしました。」
レイはいつもどおり奥の机に腰かけて、優雅に仕事をしているように見えた。
「ああ、ありがとう。ここに置いてくれませんか。」
机の端を指でとんとんと鳴らして言うと、すぐに書類に目を戻した。
テオはレイの机の近くに移動して、カップにお茶を注ぐと、指定された場所にカップをそっと置く。
その時いきなり髪に触れられ、テオは一瞬体が震わせた。
「びっくりさせたね。ほら、また髪を染め直すのかなって思って。」
そう言って、レイは自身の頭頂部を指さして、「根本の色。」と付け足す。
テオは、自分の髪の根本の色がほんの少し地毛の銀色に戻ってきていることを思い出した。
「私はテオさんの地毛の色、好きですけどね。いつ染めるのやめるんですか?」
「やめる予定はありません。」
「もったいないし、大変じゃない?」
「いえ。」
「それに伊達眼鏡と長すぎる前髪、不便でしょ?」
テオの眼鏡は度が入っていない。長すぎる前髪と眼鏡は、自分の瞳を少しでも隠すためのものだ。
ぱっと見たところ黒い瞳なのだが、よく見ると深い赤い色をしている。
眼鏡に効果があるのかわからないが、レンズが一枚あるだけでなぜか安心できる。
「かまいません。」
「私は、かっこいいテオさんが好きなんですけどね。昔のテオさん、すごくきれいだったでしょう。」
テオはレイを無視したが、レイはかまわず話し続ける。
「ああ、そうだ。伯爵の領地の件、うまく行きそうです。」
「それはよかったです。」
テオは表情も声色も変えずに返事をした。
レイは伯爵の領地が今後重要な場所になるのを見越していて、伯爵の領地をどうにかして奪えないかと画策していた。伯爵はレイと対立する勢力に属していて、振る舞いも目に余るものだったそうだ。
そこで、テオの登場だ。レイはテオに伯爵の失脚に足る証拠を見つけて来るように命令し、テオは無事その命令を遂げた。
テオは、このような汚れ仕事を何度か請け負っている。
「今回も大変だったでしょう。ちょっとここで休んでいってください。」
レイはテオに微笑みかける。
レイは妻帯者だが、まだ22歳と若い。
澄んだ湖のような蒼い目にはっきりとした目鼻立ちという見た目や、男性らしいしっかりとした骨格、育ちの良さを感じる丁寧な話し方やこれぞ好青年という振る舞いから、世の淑女をとりこにしている。
が、テオはその世間と同じ価値観をもっていない。
「いえ、私はもう仕事に戻ります。お気遣いありがとうございます。」
テオはすぐに部屋から脱出することにしたが、遅かった。
「私は命令しているのですよ。」
目を細めて笑顔を作っているので、目の奥底がどういう色をしているのかはわからない。
テオは大人しくドアノブから手をはなし、レイに向き直った。
「立ちっぱなしも辛いでしょうし、かけてください。」
来客用に置いてあるソファに座るようにテオに言う。
一介の使用人ごときが普通ならこんなところに座っていいはずもないが、テオが言われた通りに従うと、レイは奥にある机からテオのすぐ左隣に移動した。
テオはすぐに距離をとるようにソファの端に移動する。
が、レイはおかまいなしだ。
「右足、見せてください。」
「理由はなんですか。」
テオは疑いの感情を全面に出す。
「なんでもです。」
そういうと、テオの両足をすくって自分のひざの上にのせた。
あわてて足を元の位置にもどそうとするが、レイに制止させられる。
レイはテオを無視してスカートのすそを少しだけまくる。
テオの右足首には包帯がまかれていた。
「やっぱり、怪我してたんですね。伯爵の件でですか?」
レイはテオの足を包帯の上からさする。
とてもやさしい手つきだが、素直にやさしさとして感じられない。
テオが足をひっこめようとした。
がその瞬間、足の痛むところを力をぐっといれてつかまれた。
「昔のあなたならこんなことなかったのでしょう?」
レイはテオの目をしっかり捉えていた。
昔の自分なら。
テオも怪我をした時にそう考えてしまった。
でも現実は。
「そんな悲しい顔をしないでください。私があなたを『月の勇者』に戻してあげますから。」
そう言ってテオの右足首をそっとなでた。
かけた月が空に浮かんでいる。
ベッドの上に三角にした足を抱えるように座ってテオは今朝のことを考えていた。
右足に手をそえてレイの言葉を頭の中で思い返す。
「『月の勇者』に戻してあげる」
3年前、レイがテオの前に現れた日もそう言って、テオをアルマンディンの屋敷へ連れてきた。
テオは昔、世間を騒がせた『月の勇者』だった。
しかし、突然、テオを『月の勇者』たらしめたあの音が聞こえなくなってしまった。
すると何もかもがうまくいかなくなってしまい、都から逃げるように去った。
それから誰も知らない田舎でひっそりと暮らしたが、3年前、過去を知っていると言われ、昔のように戻る手助けをしたいとごり押しされる形でレイの屋敷へやってきた。
侯爵の目的は、テオにはわからなかった。
が、最近、伯爵の失脚の証拠を盗んでくるというような、テオを政治の汚い部分を担う駒のように使うようになってきたので、これが目的なのかと納得している。
テオを月の勇者であったころに戻したいというのはテオを働かせるための餌だった。
それをそのまま受け取って、また昔の自分に戻れるなんて期待して、言われた通りにしてきた結果、こんなことをしている。
自分は馬鹿だとテオはつくづく思う。
テオは、目をとじて耳をすませる。
風でかすかにゆれる木の音。
静かな夜だ。
やはりあの鈴の音は聞こえない。
自分の才能である「音」はもう戻らないのに、なぜまだあの音を聞こうとしているのか。
「『月の勇者』に戻してあげる」と言われるたびに心がぐちゃぐちゃになっていく。
区切りをつけられていない心の隅をつついてくる。
いつのまにか自分の目から涙がこぼれているのにテオは気づく。
テオは幸いにも一人部屋だ。
テオは目を閉じた。
翌日。
朝、鏡で目元が腫れていないことを確認し、いつものように身支度をととのえた。
部屋から出ると同時に、足を滑らせて盛大に転んだ。
見ると、テオの部屋に泥が混じったような汚い水がまき散らしてあった。
テオ自身は侯爵にテオは利用されているだけだと理解しているのだが、多くの人には侯爵のお気に入りに見えるらしい。
たいがいの人は侯爵になぜか気に入られている洗濯係を敬遠して関わらないようにする。
侯爵や侯爵夫人に心酔する過激な使用人や侍女は、こうして嫌がらせをときどきしてくる。
昨日の呼び出しが原因だろう。
気がぬけていた数分前の自分に後悔した。
そして、やはりあの音が聞こえていたらと思う。
その考えを振り払い、汚水の掃除と着替えをすることにした。
少し早めに行動していたおかげで、始業の時間にはぎりぎり間に合った。
テオが間に合っているのが気に食わなさそうにじろじろ見ている使用人の女のグループがあるのにすぐに気が付き、今日の汚水の犯人だとわかった。
今日の犯人は、同じ洗濯係の女4人だった。
あとで分からない程度にさりげなくお灸は据えてやらないとと思いながら、もくもくと雑巾がけをこなす。
その具体的な方法を考えていると、自然とそのターゲットである洗濯係の4人の声が耳に入る。
「今日の午前中に、鍛冶職人が旦那様の新しい剣をもってくるらしいわ。」
「へえ。毎日鍛錬されてるし、新しい剣必要になったのかなあ。旦那様はいつもじきじきに剣を受け取りに行くから、玄関で旦那様の姿見れるかも!」
「それもそうなんだけどね、今日は新しい鍛冶職人にお願いしたそうなのよ。」
「それがどうかしたわけ?」
「その人、とっても若いんだって。かっこよかったらどうしよう!」
「ええ、そんな男が気になるわけ?私たち旦那様を見てるのよ?ちょっとイケメンでも比べ物にならないわよ。」
「そうそう。それに、職人でしょ。頑固そうだし、かっこよくてもいやだわ。」
「でも20代なかばなのに旦那様の剣を任せてもらえるってすごいことじゃない?」
テオは、剣という単語になつかしさを覚えながらも、針でちくちくさされるような痛みを感じた。
テオは『月の勇者』時代、剣を持っていて、時にはそれで交戦することもあった。
自分にこっそりと剣を提供してくれる、もの好きな鍛冶職人がいて、お世話になっていた。
都をたつ前、最後に寄った場所がその年老いた職人のお爺さんもとだった。
その鍛冶職人は、テオが都をさり再び侯爵に連れられて都に戻ってくるまでに亡くなったようだった。
「ねえねえ、こっそり見に行かない?」
1人が周りにテオくらいしかいないのを確認すると取り巻きに提案した。
「ええっ。そんなのばれたら怒られるよ。」
「それに、午前中でしょ。今日の仕事が終わらないかもよ。午後だったら、はやく済ませて見れるかもだけどさ。」
「そうねぇ。そうだ!」
するとなぜか4人の話し声がやみ、こちらに気配が近づいてくる。
「テーオさんっ。」
「はい。」
悪だくみを楽しんでいるような鼻につく口調で呼ばれ、テオは雑巾を置いて立ち上がった。
「今日、私たちの午前の仕事代わりにお願いできないかな?」
「はい?」
「いやあ、ちょっと外せない急用ができちゃったの。」
「それって鍛冶職人がかっこいいかどうかを確かめる用事ですか?」
「盗み聞きしてたの?」
「いえ、声が大きかったので勝手に聞こえただけです。」
テオの態度にイライラするのが見て取れた。
「じゃ、お願いするわ。」
もうテオと建前でも交渉するのはあきらめたのか、1人が強引に話を終わらせようとする。
「お断りですけど。」
「いいじゃない、ちょっとくらい。私たちは用事があるのよ。」
「いえ、私も鍛冶職人を一目みたくて、あなたたちに仕事を代わってもらおうかと思ってたんです。」
テオは思いがけず仕返しの機会を得たと思い、口からでまかせが出る。
「出まかせはやめてちょうだい。テオさんは恋愛とか結婚とかに興味ないでしょう?」
1人がテオの頭からつま先を見て、馬鹿にするように言う。
使用人でさえ、テオと同い年くらいの女たちは身なりに気をつかっている。
テオとほとんど変わらない年の洗濯係の女も、髪の手入れに気をつかったり、薄く化粧をしたりと、おしゃれを楽しんでいる。
一方テオは、さえない眼鏡に、目が半分は隠れるほど長く分厚い前髪。
まったく化粧もしていないし、正直いけてない。
そんな容姿を馬鹿にするような言い方だ。
いろいろと溜まっていたものが、一気に吹き出てくるような感じがした。
「ええ、私は恋愛とか結婚とかそんなものにはこれっぽちも興味はありませんよ。」
そういうと、勢いよく足を回して馬鹿にしてきた女の顔のすぐ横で止める。
女は「ひいっ」と声を上げて、よろめいて尻もちをついた。
他の女は、あまりの速さに状況を理解できていないのか、叫び声さえあげれずに固まっていた。
「武術や剣術なら多少心得ていますので、鍛冶職人がどれほどのものか気になったもので。」
そういうとやっと状況が理解できたのか、取り巻きの3人が床に倒れている1人を抱き起す。
「ちょっと、ひどいじゃない!」
1人が勇敢にもテオに言い放つ。
「その言葉、そのままお返しします。」
テオは静かに答える。
相手が興奮しているときほど、冷静でいるこちら側が有利であることを知っていた。
「ああ、それと今日は私の分まで仕事してくれるってことでいいですか?朝っぱらからあなたたちが余分に私の仕事を増やしたせいで、大変なんです。」
「な、なによ・・・!」
力の差があるのは今分かったはずなのに、まだ数の有利を信じているようで、テオは念を押すことにした。
「あなたたち4人なんて、どうとでもできるんですよ。今すぐにでも。」
そういうと4人は口ぐちに捨て台詞のようなことをぶつぶつと言い残して去っていった。
しばらくは大丈夫だろうとテオは思ったので、仕事を再開した。
掃除を一通り終わらすと、テオは時間を持て余していた。
先ほど、仕事をあの4人に交代させたのはいいが、やることがない。
部屋でぼうっとすることも考えたが、他の使用人に他の仕事を押し付けられるのも面倒だ。
いろいろ考えた結果、午前中にくるという鍛冶職人を見に行くことにした。
あの4人が見たがっていた鍛冶職人を見るというのも、面白いと思わないこともない。
侯爵の剣ということはお飾りのものだろうから、期待はしていない。
この際、心のちくちくはひとまず頭から取り去ろうとテオは思い、屋敷の入り口に向かった。
侯爵自身がじきじきに鍛冶職人に会って受け取るらしいので、鍛冶職人は正面の入り口からくうだろうと予想した。
が、入り口は無駄に広く、物もあまりないので盗み見をするのは無理そうだ。
この入り口はふきぬけになっていて、2階からでも十分入り口が見えるので、そこから見物をすることに決めた。
テオが見物する場所を決めてしばらくすると、目的の鍛冶職人らしき人物が使用人と共に入ってきた。
あの4人が噂していた通り、若い職人だった。
が、それ以外は全く想像していたのと別物だった。
テオが想像していた職人は、昔お世話になった職人そのもので、頑固だが、誠実で人情味あふれる人だ。
が、なんだか少し不貞腐れたというか、いかにも女遊びがひどそうな人だ。
男にしては細い体格、少し長い黒い前髪からのぞく気だるげな金色の瞳、ぽってりとした唇が特徴的だ。
意外だったので、テオはその鍛冶職人をじろじろ見てしまっていたのか、一瞬目があった気がしてすぐに目をそらす。
「君がジェイデン?」
侯爵が、いつものようにさわやかな笑顔をしてやってくる。
「そうですけど。」
侯爵にも無礼な態度をとるので、となりにいる使用人はジェイデンと呼ばれた職人を睨む。
「なんだか先代とは随分と雰囲気が違いますね。」
ほほえみながら侯爵は言う。
「そうですか。」
ジェイデンは全く悪びれる様子を見せない。
「じゃあ、さっそく見せてもらいましょうか。」
そういうとジェイデンは大事そうに抱えていた箱を開ける。
侯爵は、中に入っていたものを手にとった。
それにテオは目を奪われた。
太陽の光にあたって、銀色の光が反射する。
ただのお飾りではない、美しい剣だった。
そして、どこかで懐かしさも感じた。
「うん、素晴らしい。」
侯爵は剣をまた箱に収めた。
そこでテオは我に返り、掃除をするふりをする。
が、すぐに視線を感じてその方を見ると、ジェイデンとまた一瞬目があったような気がした。
2日後。テオは久しぶりの休暇をつかい、街に出かけることにした。
あの美しい剣を見てから、昔のことを思い出してしまう。
『月の勇者』と知っていながらも、1人の人間としてやさしくしてくれた鍛冶職人のことが頭から離れない。
その鍛冶職人はきっと、『月の勇者』の奥にいるテオ自身を見ていた。
最後にあの工房に訪れたのは、『月の勇者』の最後の日だ。
それも5年も前になる。
今もその工房があるのかわからないし、街も変わっているだろうからたどり着けないことも覚悟していた。
しかし、工房はちゃんとそこにあった。
工房と住居が一緒になっているその建物の外観は昔と変わらない。
少し迷ったが、テオはたどりつくことができた。
が、たどり着いてから何をするかなど決めていなかったため、工房の前でしばらく立ち尽くしていた。
「そこのおねーさん、人の工房の前で何してんの?まさか仕事の依頼?」
テオは急をかけられ、すぐに声の方を向いた。
「えっ。」
思わず声が漏れる。
めんどくさそうにテオを見ているのは、あのジェイデンと呼ばれていた鍛冶職人だった。
しかし、盗み見をしていた使用人です、などと名乗れるわけもなかった。
「まあ、せっかくだし、工房でもみてったら。」
「いいんですか?」
テオはすぐに追い返されるとばかり思っていたので、少しうわずった声になった。
「まあ、そんな見るようなものないかもだけど。」
そういって工房の中に入っていくジェイデンにテオは少し遅れてついていく。
工房の中のにおいは、昔のままだった。
少し薄暗い雰囲気も、昔のままだった。
テオは涙を流すまいと目に力をいれる。
「おねえさん、まさかとは思うけど、俺の爺さんの客?」
そう聞かれて声をだそうとすると、なぜか涙が零れ落ちた。
「ええっ。ちょっと、どうしちゃったんだよ。」
そう言うとすぐにジェイデンはタオルを持ってきて、テオにわたした。
「ほんと、なんなんだよ。あんた。」
そんなことを言いながらも、ジェイデンはテオを落ち着かせようと、椅子に座らせてくれたり、飲み物を持ってきたりと世話をやいた。
なんだかんだ世話を焼いてくれるところが、あの鍛冶職人そっくりで、またテオは泣いた。
テオは落ち着いて声が出るようになると、すぐに謝った。
「ご迷惑おかけしました。なんだか、いろいろ思い出してうわってなっちゃって。」
テオは泣いて少しすっきりしていた。
「ほんと迷惑だよ。こっちはいきなり来られて、泣かれるんだから。」
「すみません。あと、ありがとうございます。」
テオがそういうと、ジェイデンはテオから顔をそむけた。耳がほんのりと赤くなっていた。
テオが昔、客としてここに昔いた鍛冶職人にお世話になって、それ以上に世話をやいてくれたこと、都に戻ってくるまでにその人は亡くなっていたことを自分の素性がばれない程度に話した。
それを聞くと、ジェイデンはテオが昔世話になった鍛冶職人について教えた。
ジェイデンの両親は早くに亡くなっている。
育ててくれたのがジェイデンの父方の祖父の鍛冶職人だったらしい。
「テオって若く見えるけど、実は40代だったりとかする?」
「何言ってるの。今、25歳。」
「俺と同い年か。てことはさ、あんた最低でも20歳の頃から、爺さんのお得意様って頃だろ?そんな若い女の客って、目立つと思うんだけどさ。いたかな・・・。」
「私は父親のおつかいできてたから。」
「ああ、そっか。」
テオはとっさに上手く言い訳を考えたと思っていたが、ジェイデンはなにかひっかかったような顔をした。
「あとさ、テオってアルマンディン侯爵のとこで働いてない?」
「え、なぜそれを・・・。」
「盗み見てるのばればれだったし。」
テオはおかしくなって、笑い出した。
それを見て、ジェイデンはふっと鼻をならして笑った。
なんだか久しぶりのふわふわとした感情だった。
が、こういう時、時間は早く感じられる。
もう既に今帰らないと時間内に屋敷まで帰れない。
屋敷に住み込みで働いている使用人には、門限がある。
それまでに帰らなければ、問答無用で使用人の使う入り口の扉はしまる。
「長居してごめんなさい。もう帰るね。」
「ああ、そう。」
テオが扉の方へ向かうと、その後ろをジェイデンはついてきた。
「今日、ありがと。また会うとき・・・、はないか。」
テオは扉から一歩外へ出ると、ジェイデンの方に向き直ってそういい、笑った。
「たぶんまた侯爵から依頼があったら行くし、会うと思うよ。」
そういうと、少し姿勢を低くしてテオの方に顔をぐっと近づけた。
「その時は普通にしゃべりかけて。盗み見とか趣味悪いことしてないでさ。」
いきなりだったので少しびっくりして、テオはごまかすようにして笑う。
「わかったって。」
一呼吸置くと、「じゃ。」と言ってジェイデンに背を向ける。
「あ?そこまで一緒に行くつもりだったんだけど。」
ジェイデンは急いでテオの隣に追いつき、並んで歩き始めた。
「大丈夫だよ。」
「道、複雑だから。」
確かに、大通りからジェイデンの工房までは道が複雑だが、行きは一人でこれた。
「ほんと大丈夫だから。」
「いや、女の子おくらないとか。いくら俺でも気をきかせるでしょ。」
「そっか。」
テオはジェイデンはいくら言っても引き下がらないので、断るのをやめた。
女の子という言葉に少しうれしいと思っている自分がいるのもわかった。
大通りへ出るころには、少しあたりが暗くなってきていた。
細い道から見える大通りは、人がいきなり多くなっていて別世界のようだった。
居酒屋のランプが明るくあちこちで光っていて、労働のあとのにおいや酒のにおい、夜の仕事をしているのであろう女の人のきつい香水のにおい、吐しゃ物のにおいなどいろいろな匂いが混ざり合って立ち込めていた。
「うわ。」
テオは、都にきてからこんな時間まで街に出ていたことがなかったので、行きと同じ道なのに景色が全く別になることを知らなかった。
「5年くらい前はたぶんこんな感じじゃなかったんだけど、ここ最近で急にこうなったんだ。」
「知らなかった。」
「でしょ?だから送ってやるって言ったんだよ。」
「ありがとう。」
テオは素直に言った。
普通の女がここを一人で通るのは確かにこわいだろう。
そこまで考えてくれていたのは、素直にうれしい。
「ほら、手。」
ジェイデンは手のひらをテオの前に出す。
「は?」
テオはその意図がわからずに間抜けな声がでる。
「ああ、もう。」
説明するのも面倒だったのか、ジェイデンはテオの手首をつかむと、そのまま人の波の中に入っていった。
それでようやくテオは意味がわかった。
「ありがとう。」
雑踏のなかで、少し声を張ってテオ言う。
「なにか言った?」
テオの少し前を歩くジェイデンは聞き返す。
絶対聞こえてただろ、などと思いながらもテオはもう一度、礼を言った。
「あっ、ジェイっ。こんなとこで何してんの!?」
いきなりジェイデンが足を止めたのでテオはぶつかりそうになった。
ジェイデンの前には、派手に着飾った若い女がいた。
「ん?君、どこかで会ったっけ?」
ジェイデンは顔に思い切り不信感を示すが、派手な女はめげない。
「なによ、そんな冷たくしてさ。おとつい一緒に楽しく飲んでたじゃん。」
「ああ、そうだったかも。アンナちゃんだっけ。」
まったく悪びれる様子もなく、表情は変えずにジェイデンは答える。
まだ話しの途中のようだが、ジェイデンは派手な女の横をすり抜けていこうとする。
が、女が立ちふさがる。
「え、アンナって誰。もしかして今そこにいる女?」
そこで派手な女はテオをにらむ。
「新しい子?また新しい女の子つくって大丈夫なの?今でも名前とかちゃんと覚えられてないくせして。」
そういって、派手な女はテオを観察する。
テオにとって男女のいざこざなど遠い存在だったので、目の前で起こっていることに対して、これがあのいざこざかと他人事のように思っていた。
「それにジェイ、女の趣味変わった?なんかこうさ・・。地味っていうか。」
徐々に女の声が大きくなる。
「はいはい、そういうのいいって。」
そういうとジェイデンは女の耳元に顔を近づける。
「俺、そういうの嫌いなの知ってるでしょ・・・。」
ジェイデンはぼそっと言う。
最後に何か言ったのだが、テオは聞き取れなかった。
が、その時、女が少し頬を染めたのはわかった。
ジェイデンはテオの手をひいて、派手な女の横をすりぬけて出口を目指した。
「ちょっとお、待ってよぉ。」
女の甘ったるい声が遠くに聞こえるが、束の間で人混みの中に消えっていった。
賑やかな大通りから出ると、ジェイデンはテオの手首をそっと離した。
そしてテオの様子を伺うように見てくる。
言いたいことがあるようなのはわかる。
が、早くしないと屋敷に入れなくなってしまう。
鬱陶しくなってきて、
「なに?」
と自然と尖った声でテオは聞く。
「ごめん。さっきの人、失礼だったから。」
「なんとも思ってないから大丈夫。」
テオは本当に何も思っていない。
馬鹿らしいことにいちいち感情を動かしていれば、疲れてしまう。
この容姿になってからは、馬鹿にされることが多く、それのかわし方も慣れてしまった。
それに、いざとなれば一般的な人間であれば、体のなまっている今でもどうとでもできると思ってしまうところがある。
「俺のこと軽蔑してるよね。」
「ん?なんのこと。」
本当になんのことかテオはわからなかった。
もし、さっきの女の子のことなら、初めてみたときから予想はついていたし、今更だ。
「じゃあ、まだ友達で・・・いてくれますか・・・。」
ぼそぼそと話しているのに加え、最後になるにつれ声が小さくなっていくので聞こえずらい。
それがなんだか小さな子供のように見え、おかしくなってきて、テオは笑いがこみあげてくる。
が、すぐに屋敷に入れなくなってしまうことを思い出し、一方的に挨拶をしてジェイデンと別れた。
疲れているはずなのだが、ジェイデンのことを思い出すとおかしくて口角が自然とゆるんでしまう。
すぐに人目があるかもしれないと思い出して、引き締める。
それを繰り返しながらテオは屋敷にたどり着いた。
ぎりぎり間に合ったと、安心してテオは使用人たちが入る裏口のドアノブに手をかける。
屋敷の周りの庭を囲むようにぐるっと大きな鉄の柵がある。
庭は正面にだけあるのだが、柵はぐるっと敷地内をぐるっと囲んでいる。
まずはその柵をこえるための扉を開けなくてはならない。
が、そのドアが開かない。
何度もドアノブをひねるが、ノブが動くだけで扉は開かない。
嫌がらせか、それともたまたま早くしめられたのかは分からない。
背筋にいやな汗が流れる。
主人が使う門にまわるが、開いているはずもない。
大きな柵ごしに見える屋敷にはまだ明かりがついているが、休暇中の使用人が一人いなくなっても気づくはずもない。
ここから町へ戻って宿をさがすのも、金がないので無理だ。
ジェイデンのところに戻ることは、あの通りを通らなくてはならなくて危険だし、ジェイデンが家にいるかもわからない。
見た感じ女遊びをしていることは確からしいし、今日だってあのあと飲み歩いているかもしれない。
屋敷の中にどうにかして入るしかなさそうだ。
誰かに気づくまで待つか、この柵をよじ登るか、ドアをピッキングで開けるかといろいろな選択肢が頭の中に浮かぶ。
もうあたりはすっかり暗くなって、月が出ている。
夜は日中よりずいぶん冷えるので、はやく屋敷の中に入りたい。
柵をよじ登るのが一番はやそうだとテオは柵に手をかけた。
月明りがあったため、すぐに柵の中に入ることができた。
が、そこからが問題だった。使用人たちの1日は長く、仕事は深夜まで続くことがある。
ドアをピッキングして中に入りたいのだが、たまにしかしないからなのか、腕がにぶったからなのか、けっこう時間がかかるし、できる保証もない。
耳をすませて中の様子をさぐるが、全然使用人たちが寝静まる様子がしない。
そこで、窓の閉め忘れを確認することにした。
しかし、使用人たちは優秀で、閉め忘れが1階部分に全く無い。
2階まで確認するのは気が引けたが、仕方ない。
幸いにも、この屋敷には足場となるバルコニーや装飾がたくさんあるので、2階にのぼるのは簡単だ。
しかし、こんな月明りがあるので見られる可能性もある。
誰も来ないことを祈りながら、目立たない部分から確認していく。
が、開かなかった。
そこで、最後の手段だ。
この屋敷の主人の執務室の窓だ。きっと今は寝室にいるはずだ。
耳をすませてみるが、部屋から音はなく、やはり大丈夫そうだ。
窓は開かないようだが、ここにはバルコニーがあり、部屋に入ることのできる扉がある。
ドアノブに手をかける。
すると、ドアに鍵がかかっている様子ではない。
おかしいとテオは思った。
何かの罠のようだ。
こういう時、あの鈴の音が聞こえたらと思ってしまう。
鈴の音の代わりに心臓の鼓動が大きく聞こえた。
テオは覚悟を決めて、ゆっくりとドアをあけてカーテンに隙間をつくり中を伺う。
物音ひとつせず、静まりかえっている。
テオは安心して、中に入る。
そのとき突然、口元をふさがれた。
何が起こったのかわからず、後ろに立っている口を押えている人間の腹部を肘で思い切り突いた。
その瞬間、自分の背後で誰かがよろめいているのに気づいて、素早く距離をとる。
「さすがといいたいところですが、思ったより痛いんですね・・・これ。」
そこには腹をおさえているレイがいた。
「す、すみません。」
反射的に雇い主を殴ったことを誤ったが、殴られた本人はそれを無視して話し続ける。
「完全体でないのにこれなら、月の勇者に戻ったテオさんだったら死んでたかもですね。もうテオさんを襲おうなんて考えませんよ。」
そういいながらレイはランプに明かりをつける。
ぼうっと照らされたレイはいつもどおりの笑顔なのだが、それが余計に不気味だ。
「少し帰りが遅かったので、雇い主としてお仕置きといいますか。いや、それは言い訳ですね。少しばかり早く全ての扉を締め切るようにいったんです。月の勇者復活が待ちきれなくて、フライングしてしまいました。でも、ここまで誰にも見つからずにくるなんてさすがです。それにこの景色。月光に照らされる月の勇者。ほんと最高です!」
少し早口になるレイにテオは驚いて、何を言えばいいかわからなかった。
レイはテオの方に近づいてきて淡々と続ける。
「今日、鍛冶屋に行ってたんですよね。私が剣を新調していたからですか。私が依頼していたあのふてくされた鍛冶屋のとこですよね?」
テオは心臓をぎゅっとつかまれるような錯覚をおこした。
なぜそのことを知っているのか、そう聞けばいいのに言葉が出てこない。
きっと誰かレイの指示でつけていたんだ。
それに気づかないなんて自分はなんて愚かなのかと、テオは唇をかんだ。
「今日のお話、ぜひ聞かせてくれませんか。また、剣を持とうと決めたんですよね。こんなに遅くなるまで話し込んで作ってもらうなんてどんな仕上がりなんでしょうね。月の勇者には最高の剣が似合いますから楽しみです。ああ、それともし良ければその費用、私に払わせてください。気にしないでください、月の勇者の復活に私が関われるなんて夢のようですから。」
レイがテオを見る目は、なにか焦点がさだまっていないようだ。
テオはようやくこの時、理解した。
侯爵はテオを利用したくてここにつれてきたのではなく、『月の勇者』を復活させるためだったのだとテオは確信した。
目の前のレイはまるで『月の勇者』は神様だというふうに、うっとりとこちらを見ている。
その異常な光景に、テオにはとても恐ろしく見えた。
「ほっといてください。」
本能的にレイを拒絶する言葉がテオの口から出てくる。
前髪からのぞく黒に近い深い赤い目が、言葉にできないほど冷ややかな目つきでレイを見ていた。
「そんなこと言わないで。ね?」
そう言って、レイはテオの腕をつかもうとしてくる。
テオはのびてきたレイの腕をよけ、後ずさりする。
「剣はつくりません。もう、かまわないでください。」
恐怖の感情に任せて、テオは言い放つ。
「ああ、私のはやとちりってことですか・・・。少し残念ですが仕方ないです。私がついてますから、ゆっくりでいいんですからね。」
テオの「かまわないで」という部分はレイには聞こえていない。
テオはレイとの会話を諦めた。
「今日は旦那様に無礼なことをして申し訳ございませんでした。解雇でもしていただいて結構です。」
そうまくしたてるように言うと、何か言われる前にさっさと部屋を出た。
テオが出て行った後、レイは執務用の椅子に腰をおろした。
月の光に照らされるテオを見ると、少年時代に見た景色を思い出す。
自分とさほど年が変わらないのに、あの凛とした出で立ち。
瞼を閉じればいつでもその光景が思い浮かぶ。
「このまま逃がすわけないじゃないですか。あなたは僕の希望ですから。」
レイはぼそりと独り言を言った。
翌日からテオはまたいつもの仕事に戻ったが、おかしいほど前と全く変わらない。
レイがなぜか月の勇者の復活に固執していることを知って、それを拒絶するような態度をとったが、解雇されるような兆しもない。
ときどきいつものようにテオにお茶を頼むのだが、その時も普通に話すだけ。
月の勇者の話題にはならない。
が、無意識のうちに考えてしまう。
自分の感情がわからないからだ。
レイが月の勇者に異常に固執しているのを知ったとき、恐怖を感じた。
が、今考えると、少し度が過ぎるだけで、自分を応援しているのには変わりないのではないかと思うようになった。
テオが今でも月の勇者だった自分に戻りたいと思っているのは確かだ。
あの頃の自分は、なにもかも持っていたような気がする。
世間で英雄あつかいされて、あの鈴の音のおかげで無敵であるかのようにも思えた。
そんな自分に戻りたいと思わないはずがない。
それだったらレイが月の勇者の復活を望んでいることはいいことではないか。
でも、自分が月の勇者の頃に戻ることは不可能だとテオはわかっている。
あの鈴の音が聞こえないからだ。
今後も聞こえることはないと、なぜか確信している。
レイが異常なまでに月の勇者の復活を期待しているのが、なぜかつらい。
「テオ、テオ!」
自分を呼ぶ声でテオは我に返った。
使用人たちの仕事道具や生活用品の買い出しを頼まれ、案の定、誰も手伝ってくれなさそうだったので一人で市場にきていた。
だから、自分を呼ぶ人などいないはずだ。
誰だろうと少し面倒に思いながら、声のした方を振り返る。
「もう、なんで気づかないかなぁ。何度も呼んだんだけど。」
そこにはジェイデンがあきれたような顔をしていた。
「うわ、ジェイデンだ。」
「うわってなんだよ。でも、名前、よく覚えてたね。ぼうっとしてるから忘れたのかと思った。」
いつものように少しふてくされたような態度でジェイデンは言う。
「ごめんって。」
テオは謝っておくが、内心ジェイデンが自分を呼び止めたことに驚いていた。
「で、今日はなにしてるの?」
「買い出し。」
「へぇ、一人で?」
既に両腕に荷物を抱えているテオを見て、ジェイデンは聞く。
「そうだけど。」
「仕方ないなぁ、手伝ってやるよ。」
そういうとジェイデンはテオの両手から荷物を奪う。
「え、金払わないよ?」
「俺のこと、なんだと思ってるの。暇だから手伝ってやるって言ってるの。で、次は?」
この前後をつけられていたことを思い出して、テオは後ろを振り返るが、それらしき人はいない。
あのときのレイはおかしかったが、最近はまったくそんな感じはなく通常だ。
それにつけられたところで別に危害を加えられるわけでもない。
「手縫いようの糸。」
そう言うと、テオは方向転換をしてどんどん歩く。
「了解。」
ジェデンはテオのあとをついていった。
買い出しが終わるころには、ジェイデンとテオの両腕をふさぐほどの荷物になっていた。
テオは最後の店を出ると、さっさと屋敷に帰ろうと市場を出る。
荷物をかかえて人込みをかき分けて進んできたので、市場を出るころにはどっと疲れていた。
「疲れた・・・。」
人込みからぬけだし、しばらくしてジェイデンはそう呟き、荷物を地面においてしゃがみ込む。
荷物が置かれる音でテオは後ろを振り向く。
テオはふうっと息をはくと、ジェイデンの方へ移動する。
「ありがと。ここからは自分でできるし、大丈夫だから。」
テオはそういうと、器用に両腕の荷物を片腕に持ち替え、ジェイデンが持っていた荷物をもとうと手をのばす。
すると、ジェイデンはテオが伸ばした腕の袖をつかむ。
「ねえ、ご褒美くれない?」
いつもふてくされた顔をしているくせに、ここぞとばかりに金色の瞳をきゅるきゅるさせてテオを見上げている。
「えぇー。いらないって言ってたじゃん。」
テオは思い切り眉根をよせた。
「それは、金の話。」
ジェイデンはあっけからんとしている。
テオは早く帰らないと嫌な顔されるかもと考えたが、自分に大量の仕事を押し付けてきたのだからちょっとさぼっても文句は言われないだろうとすぐに思い直した。
「わかった。」
「おお!やったね。」
そういうと自分の持っていた荷物を軽々と持って、テオの前を歩きだした。
テオはうまい具合にたかられたな、と思ったが口には出さず、ジェイデンの後を急いでおいかけ横に並ぶ。
「それで、何がいいわけ?安いものじゃないと奢れないよ。」
「んー?行ってからのお楽しみってことで。」
テオはジェイデンの少しうれしそうな顔をみると、それに水をさしたくなくて大人しくついていくことにした。
が、どんどん入り組んだ路地に入り、廃墟のような建物の中に入っていくのは少しためらった。
「え、ここ大丈夫なの?」
テオは疑うようにジェイデンを見る。
「平気。あ、暗いとことかだめだった?」
「そういうのは全然大丈夫なんだどさ。」
夜にひと様の家に忍び込むのは躊躇しないくせに、真昼間から知らない家に入るのはなぜか躊躇した。
「無理そうだったら言って。」
「うん。」
テオはジェイデンの後ろをついていく。
日差しが差さず、暗いらせん状の階段をのぼると、いきなり目の前が明るくなって思わず目を細める。
残りの階段を数段上ると、そこは建物の最上階で、ところどころの屋根が壊れているせいで太陽の光が差し込んでいた。
それがなんとも言えない良い具合だった。
「ほら、おいで。」
ジェイデンは適当に荷物をすでにおいてきたようで、手招きをした。
テオも近くに荷物を置くと、ジェイデンの方へ向かう。
そこにはかつては窓だったのだろうか、テオほどの背丈の大きな穴があいていた。
そこからはさっき歩いてきた道からずっと遠くにある海まで見えた。
「すごい気持ちよくない?ここ。」
ジェイデンは遠くの海を見つめて言う。
心地よい風がさらさらとテオの頬をなでる。
「うん。」
テオも遠くの海を見た。
「すごい全部が小さく見える。」
テオは、さっきまでいた市場や市街地、点のように見えるそこにいる人を見て言った。
「うん。」
ジェイデンは穏やかな声で相槌を打つ。
「最近、悩んでたことがあったんだけど、それが全部どうでもいい気分になってくる。」
自然と思っていることがするっと口に出た。
「そっか。」
そのあと、しばらくジェイデンは考えてから、言葉を発した。
「あのさ・・・悩みって俺の爺さん関係だったりする?ほら・・・この前工房でさ。その時、ちゃんと聞いてあげられなかったけど。もし良かったらさ・・・聞くよ?」
テオは少し驚いてジェイデンの顔を見る。
斜め上にあるジェイデンの顔や口調から、言葉を選んで慎重に話しているのがわかる。
工房でテオが取り乱していたのを今も気を使っているのが、いつものふてぶてしい態度からは想像できなかった。
「ほら、悩みとかって意外と知らない人の方が話しやすいとか言うしさ。」
なぜかあわててジェイデンは付け足す。
少しテオは考えてから口をゆっくり開く。
「昔に戻りたいって思うことある?」
「思わないかなぁ。テオは昔に戻りたいって思う?」
「昔の自分に戻りたいって思うことはある。」
「その理由って聞いてもいい?」
「昔の自分の方がかっこよかったからかな。ちゃんと自分があって、それでいて人に必要とされてたと思う。」
「テオは今もかっこいいと思うけどな。悩むこともあるし泣くこともあるけど、こうやってちゃんと生きてる。」
「なにそれ、かっこ悪くない?」
「それがテオにとってかっこ悪いことなら、俺はテオがかっこわるくてもいいと思う。」
「なんで?私はかっこよくないといけないの。誰がどう見てもかっこいい人じゃないといけないの。」
私は月の勇者なんだから、という言葉は口に出さず飲み込む。
テオはなぜか口調が強くなる。
そして、絞りだすような声で言う。
「かっこよくない私なんて、この世に存在してはいけないんだよ。」
それを見てジェイデンはいつものあきれたような顔をする。
「なんでそういうこと言うかな。」
「やっぱりジェイデンにはわからないよ。」
ジェイデンは、いつか戻れるよという無責任で甘い言葉を決してかけなかった。
それに無意識のうちにいらいらしていたのか、テオは突き放すようなことを言っていた。
それに気が付いて、やってしまったとテオはすぐに気が付く。
すぐにテオは謝ろうとしたが、それより先にジェイデンが口を開く。
「わからないね。いきなり泣き出すと思ったら強がるし、悩み事話してたら感情的になるし。だけどそういうところも全部、俺は好きだよ。」
テオはあっけにとられて、何も考えられなくなった。
ジェイデンはそんなテオを見て、「なんでわからないかな。」と言いながら片手でテオの頭をわしゃわしゃとなでる。
そして手をとめて、少しかがんでテオと目をあわせる。
「今のテオが好きだから、そのままでいてください。」
そのとき、テオの中でなにかが変わった気がした。
自分をつないでいたものにひびが入ったような感じだ。
かっこよくない自分を好きだと言ってくれる人がいる。
かっこよくない自分でも月の勇者じゃない自分でもいいと言ってくれる人がいる。
突然目の奥がじわりと熱くなって、それが堪え切れずにこぼれ出す。
音もたてずに静かに大量の涙があふれ出す。
「はいはい、気が済むまで泣きな。」
そう言って、テオをジェイデンの胸に引き寄せて、泣き止むまで背中をさすった。
テオはしばらくすると、そっとジェイデンの胸をおしてジェイデンから離れた。
目が少し赤くなっているが、もう涙はつきたようだ。
そのあと、アルマンディンの屋敷までテオの荷物を半分ほど持って行った。
屋敷につくまでは、ジェイデンが多めに話した。
テオは泣きつかれたのか、いつもより力が抜けたような笑い方をする。
が、これで良かったんだとジェイデンは思う。
少しでもテオの辛さが減ったならそれでいい。
昔、テオは覚えていないだろうが、ジェイデンはテオの姿を見たことがある。
いつも人目を忍んで夜にやってくる祖父の客。
祖父はジェイデンをまだ一人前として扱っていなかったからか、もちろんその客の剣にも触れさせてもらえなかったし、その客にも会わせないようにしていた。
この時間は工房に近づくなと言われると、行きたくなってしまうもので、ジェイデンはこっそり工房を覗いていた。
工房には、出来上がった剣を手に取る客がいた。
その姿を見た瞬間、目を奪われた。
自分とそう年が変わらないようなのだが、凛として一本の軸が通っているような力強さが感じられた。
銀色の髪に深い赤い目をしていて、人とは思えない神秘的な雰囲気も感じられた。
祖父の作った美しい剣がこの世で一番似合うのではないかと思う姿だった。
ジェイデンはこれが「月の勇者」なのだとすぐにわかった。
が、祖父は「あの子は普通の人間の子だ」とジェイデンに聞かれるたびにそう答えた。
それから月の勇者が世間から姿を消し、祖父が亡くなって、長い年月が過ぎた。
侯爵の剣をつくるという大仕事が舞い込み、それを届けにいった先で、目の前にありえない人物が現れた。
髪の色は違うが、よく見ると眼鏡の奥の瞳の色があの勇者のものそっくりの使用人がいた。
見間違いかもしれないとその場は大人しく帰った。
しばらくして、その使用人は自分の工房の前に現れた。
正体をつきとめてやろうと、工房の中へ入れた。
が、その使用人は自分の目の前で泣き出した。
そこで、正体をつきとめてやろうという企みを捨てた。
昔、月の勇者であっただろう目の前にいる女は、ただの人間だった。
こうしてちゃんと感情がある人間で、自分の好奇心のために一人の人を傷つけるようなことはできないと思った。
かつて祖父が言っていたことの意味がそのときジェイデンは理解した。
一人の人間としてのテオは、弱いところもある普通の人だった。
でも、ときどき見せる強さもある。
強いだけでない、人間らしいテオはなぜかとても愛らしく思えた。
今はまだテオをそっと支えられたらいい。
いつか全てを白状できる日が来ればいいのにと思いながら、ジェイデンはテオと別れた。
テオが屋敷に帰り、ジェイデンと別れると、いつもはテオとかかわろうともしない使用人たちが数人テオのもとへすぐにやってきた。
「あのイケメンは誰?」
「付き合ってるの?」
「どういう関係?」
突然、質問攻めにあい、テオは一瞬びっくりしたが、すぐにため息が小さく漏れた。
「知り合いです。」
そういうと質問してきた使用人を押し切って仕事に戻る。
うしろでは、きゃあきゃあ言っている使用人の声が聞こえた。
そういえば、ジェイデンは顔もいいし、女に人気があるんだったとテオは思い出す。
きっぱりと先ほどは答えたが、どんな尾ひれがついて話が広がっていくのか分かったものではない。
付き合っているらしいなど話が飛躍してもおかしくない。
「今のテオが好きだ」
なぜか突然、ジェイデンの言った言葉が脳内で再生される。
自分を励ますための言葉で、それ以上の意味はない。
すぐに頭から追い出して、先ほどの心配事を考える。
噂などたたず、テオはやぼったい見た目であるから、さっさと恋仲である可能性は切り捨てて、ジェイデンを紹介しろと言ってくるかもしれない。
それは少し嫌な感じがするが、後者のほうが可能性は高いなと思った。
どっちにしろ面倒くさいという結論にたどり着くとため息をついた。
ジェイデンから強引に荷物を奪ってでも逃げ帰れば良かったと少し後悔した。
その後も何人かにジェイデンについて聞かれたが、それ以外はいつも通りだ。
いつも通り、仕事がおわったころには、もう日をまたぎそうになっていた。
急いで寝る支度を一通りすませ、自室に戻る。
自室までたどりつくまでに自分以外の足音はせず、明かりもなかったので、屋敷中の使用人はもう寝静まったようだ。
ランプをつけるのが面倒なので暗闇の中、月の光だけをたよりに歩く。
ようやく自室までたどり着くと、使用人の間での嫌がらせ対策にいつも通りに自室の鍵を閉める。
緊張がきれて、ふうっとため息がもれる。
自室に来てもなおランプに明かりをつけるのが億劫に思えて、そのままベッドに身を投げた。
疲れで自然に瞼がおちてくる。
「今日もお疲れさまでした。」
突然、声がして、反射的に飛び起きるとその方を見た。
暗がりから現れたのは、いつもの笑顔のレイだった。
「え。」
小さく声が漏れた。
「驚きましたか?」
テオは黙ったままだ。
まだ何が起こったのか頭がおいついていない。
「今日は午前中、町に出たそうですね。あの鍛冶職人がテオさんをここまで送ったと聞きました。」
レイはテオの方にどんどん近づいてきて、テオのすぐ横のベッドのへりに腰掛ける。
テオはすぐに距離をとろうとするが、それより先にレイに腕をつかまれる。
ぎりぎりとレイの爪が手首に食い込み、それと同時に恐怖がどんどんとあふれてくる。
「おかしいと思いませんか?月の勇者にとって剣は大切なものなのは知ってます。でも、鍛冶職人とそれ以外で会う必要はないですよね?」
「手、放してください。」
テオは恐怖を自分の中におしこめて、レイに静かに言う。
「ふたりは恋仲ではないかと噂する使用人がいましたよ。全くふざけないでほしいです。月の勇者は孤独であるから強いんです。だから、大切な人などいらないんですよ。ましてや恋人なんて馬鹿馬鹿しい。」
「聞こえてます?」
テオは声は先ほどより大きくなった。
怖くなってそれが無意識のうちに声に出ていた。
「でもテオさんにその気はなくても、あいつはその気かもしれません。」
レイはテオの言葉を無視して話し続けるので、テオは心を落ち着かせて腕を器用にひねってレイの手から逃れる。
レイに掴まれていた部分にまだ掴まれていた感覚があり、それを拭うようにもう片方の手でさする。
「そんな邪魔が入ったら、今までの私とテオさんの努力が台無しじゃないですか。」
その時、首筋がちくりとした。
テオが横目でみると、注射針が首に刺さっているのが見えた。
「だから、その前に邪魔なものは消さないと。」
レイの目は確固とした意志をもち、テオが何をしても止めることができないのを物語っているようだった。
テオはすぐに針をぬき、首筋を抑える。
ちくりとしたところが、なんとなく痛い。
が、すぐに視界が歪む。
レイからとにかく離れなければ、と辛うじて脳がそう叫ぶ。
しかし、うまく手足が動かず、ベッドからおちて思い切り体を床に打ち付けた。
とにかく今はここから逃げないといけないということは意識が朦朧とする中でもわかっていて、よろよろと立ち上がり、そのままドアの方へ向かう。
指に力が入らずに鍵がなかなか開かない。
呼吸をするのも苦しくなって、テオはその場に崩れ落ちる。
それを見ると、レイはゆっくりとした動作でテオの方へ近づいてくる。
「やっと立ち上がれないくらいには効いてきたようですね。心配しないで。致死量ではないですから。ちょっと苦しいだけです。さすがに普通の状態だったら、私に勝ち目はないのは分かってますから。」
レイは穏やかな声でテオに話しかけ、近づいてくる。
レイはしゃがんで、テオの肩を押すとあっけなくテオは倒れた。
テオの肩をつかんで仰向きにさせると、茶色い髪が床の上に散らばり、前髪が横に流れ、テオのうつろな赤い瞳がはっきりレイには見える。
レイはテオの上にまたがると、テオの頬を撫でる。
「それにしても、美しい。自分のものだけにしたいなんて、なんておこがましい。」
レイは、先ほど自分自身が毒を注射したあたりにいたわるように口をつける。
「ごめんなさい。こうでもしないと、あなたは月の勇者に戻れないでしょう。」
その言葉を最後に耳に、テオは意識がなくなった。
テオは重い瞼をゆっくりと開ける。
最初に移ったのは、むきだしの地面だった。
少し体がしびれているが、息苦しさはない。
両手を動かそうとするが、後ろでしばられ、その上どこかに座った状態のまま固定されているようだ。
そのせいで立ち上がることもできなそうだ。
首を持ち上げてあたりを目だけを動かして確認する。
そしてどこにいるかすぐに気づき、血の気が引いていくのがわかる。
今いるのは、ジェイデンの工房だった。
窓から差し込む光は青白い月のもので、夜だということがわかる。
どれくらいたったのかは全くわからない。
が、ものすごく嫌な予感がした。
「月の勇者は孤独であるから強いんです。」
レイが言っていた言葉が蘇る。
テオは孤独でなくてはいけない。
だから、ジェイデンを排除するつもりだとテオはわかった。
あの失礼な女のところでもいい、どうかレイに見つからないところでいつものようにふらふらしていてほしいとテオは祈ることしかできなかった。
が、その願いはすぐに潰えた。
静かに奥のジェイデンの居住スペースにつながる扉が開いた。
そこにテオの一番見たくなかったものが目に映った。
レイが雇ったであろう、ごろつきたちにひきずられるぼろぼろになったジェイデンと、その後ろをゆっくりと歩くレイの姿だ。
テオは叫びたいのに、声はでなかった。
「おはようございます。テオさん。いえ、月の勇者様。今日、あなたを完全に月の勇者に戻して差し上げます。」
レイはテオが目覚めているのに気が付くと、ジェイデンやごろつきたちを押しのけレイのもとへやって来て言った。
レイは蒼い目を輝かせている。
ごろつきたちは、「月の勇者」という単語に反応したのかひそひそと話し始める。
「静かに。」
レイが冷たく言い放つとすぐにごろつきたちは黙った。
静かにするのを確認すると、レイは顔をすぐに笑顔に戻してテオに語りかける。
「今まで長かったですよね。今日はお祝いの日ですから、その前にゆっくりお話しでもしましょう。」
「意味がわからない。自分がなにしてるのかわかってますか?」
テオはできる限りの声を振り絞って言う。
「だから私が説明するって言ってるじゃないですか。少しくらい付き合ってくれてもいいでしょう。それとも、この鍛冶職人の手を使い物にならなくしてほしいですか?」
レイは冷たい目でジェイデンの方見て、首を動かして指し示す。
テオは言葉を飲み込んだ。
それを見てレイは満足そうにする。
「ありがとうございます。私は、あなたを見つけたとき、運命を感じました。覚えていますか?あなたはその昔、私を救ってくれたんです。妾の子だった私は、本妻から虐待を受け、異母兄弟からいじめられていました。父親も見て見ぬふりです。そんなとき、私の目の前にあなたは現れた。父親の不正を暴くためです。そこであなたは私に気が付いた。子供に虐待していると気づくと、その場で父親と本妻に鉄槌を下しました。その後、不正も暴かれ、父親は失脚し、貧乏貴族となり果てました。しかし、そんな中、なぜか私だけ養子に出されました。それもあなたの采配だったことは知ってます。中流の貴族でしたが、前の家族よりもずっと愛してくれました。私はその恩に報いようと努力し、こうして侯爵家に婿養子に入ることまでできました。」
テオは今、思い出した。レイに言われるまでは全く忘れていた出来事だ。
約10年も前のことだし、テオにとっては首をつっこんだ数知れない事件の中の一つに過ぎなかった。
それに、婿養子に入ったことで苗字も変わっている。
気づくわけもなかった。
「私は、無理だとわかっていましたが、ずっとあなたを探していました。そして遂に見つけ出したんです。片田舎で農民に紛れて生活するあなたを見たとき、運命を感じました。誰も見つけられなかったのに自分が見つけられたのは、私があなたを救い出すためだと。それから、あなたを連れて帰って、月の勇者に戻すためにいろいろな努力をしました。孤独になるために、1人の部屋に住まわせたり、周りの人が敬遠するような環境にしたり、体慣らしとしていろんな依頼もしました。」
そこでレイは一息ついてテオをうっとりとした目で見る。
テオは自分を見るレイの目が、おぞましく思えた。
「それでもなかなか戻れませんでした。でも、ついにわかったんです。月の勇者に戻る方法が。今までの過去と区切りをつけるため、この鍛冶職人を殺すんです。」
「なに、言ってるんですか?」
テオは声をのどの奥から絞り出した。
レイはしゃがんでテオを縛っている縄をときながら続ける。
「月の勇者はある鍛冶職人を心を許していたそうですね。知っていますよ。あなたの使っていた剣、この鍛冶職人の祖父がつくったものだったそうですね。それを知ってなにか昔につながるようなものをと思い、この鍛冶職人を雇いましたが、そこから思わぬ収穫がありました。月の勇者の弱さです。テオさんが月の勇者をやめてしまったのは、この鍛冶職人の祖父のせいではないですか?心によりどころができると、人間は弱くなります。月の勇者は人間離れした強さがないといけないんです。」
そういうとレイは立ち上がって、自分の腰にさしてあった剣を引き抜く。
そして持ち手をテオの方に向けた。
「だから、今、ここでその弱さのもとを消し去るんです。そうすればあなたは月の勇者に戻れます。」
テオはゆっくりと立ち上がり、差し出された剣を握る。
テオはジェイデンの祖父に会うまで孤独だった。
家族もはやくに亡くし、生きるために盗みをはたらいていた。
生きるためにいつも人を疑っていたから、信頼できる人なんていなかった。
いつからか鈴の音も聞こえて、大きな屋敷にも盗みに入れるようになった。
生きるために盗みをしていたら、いつからか「月の勇者」なんて大それた名前で自分が噂されているのを知った。
そうやって世間の人たちが自分をほめてくれると、そこが自分の居場所のように思えてきた。
が、ジェイデンの祖父はテオを月の勇者としっていながらも、一人の人としてやさしく接してくれた。
自分の居場所のように思えた。
なんだかすとんと自分にとりついていたものが落ちた気がした。
「レイ、なんだか、私、今、気づいた。」
「そうですか。それはよかったです。」
レイは心の底からうれしそうににっこりと笑う。
テオは剣を持ち、奥へと進む。
ごろつきの足元にぼろぼろのジェイデンがいた。
テオは剣を勢いよく振り上げると、ごろつきのリーダー格の首元で静止した。
「ジェイデンを放して、ここから消えて。さもないとこのまま首をおとす。」
「テオさんっ。何して・・・」
レイはテオが聞いたこともないような大きな声を出す。
テオはレイの方に少し顔を向ける。
それをみたごろつきのリーダー格は、好機とばかりにテオにおそいかかるが、レイは片手で腕をひねりあげ、柄の部分をつかって首のあたりを殴ると、すぐに床にのびた。
テオは残りのごろつきを見る。
その目つきは、ぞっとするほど鋭く、それを見た他のごろつきたちは、倒れている自分たちの仲間を残してすぐに工房から走って逃げて行った。
テオは、ごろつきたちにあきれながらふうっと息をつく。
そしてゆっくりと口を開く。
「レイ。私は月の勇者じゃない。ただのテオだ。」
「いいえ!あなたは月の勇者です!本当はあのころに戻りたいって思ってるのでしょう?」
レイはいつもの冷静さを失っているようだった。
「正直いうと、前までは思ってた。私はかっこよくないといけない。月の勇者でない自分に居場所はないって。でも、もうなれないってわかった。私には音が聞こえない。」
「音?なんのことですか?」
テオは誰にも音のことを話していない。
誰にも聞こえない鈴の音が聞こえるなんて、頭のおかしい奴だと思われるのがおちだからだ。
誰にも話さないつもりだったが、するりと言葉に出ていた。
「とにかく、もう戻れない。戻れなくていい。自分の居場所は月の勇者であることじゃない。」
そういうとテオは剣を手から離した。
かわいた音が工房に反響する。
レイはその場に静かに崩れ落ちた。
それを見るとテオは倒れているジェイデンの両手を縛っている縄を解きにかかる。
「こんなの、ださ。」
うつぶせに倒れているジェイデンの表情は見えないが、意識はあるようで、ジェイデンは小さな声で言った。
「ジェイデン、本当にごめんなさい。」
テオは自分の手元に集中しながら言う。
レイの行動はテオには理解不能だったとはいえ、自分のせいでジェイデンを痛い目に合わせてしまった。
テオから見える範囲でもあざだらけだ。
「あと、正体ばれちゃったね。私のこと通報してもいいよ。そしたら、ちょっとは金になるでしょ。」
テオはいつもの調子で言う。
さきほど、レイがごろつきたちやジェイデンの前で堂々とテオの正体をばらし、テオはそれを認めた。
さきほど逃げ帰っていったごろつきたちが、きっと賞金ほしさに通報するか、どこかに情報を売るだろう。
それだったらいっそジェイデンに通報されて、ジェイデンのもとに金が入ってほしい。
今思いつく、償いの方法はそれくらいだった。
縄をほどき終わると、ゆっくりとジェイデンを支えるように移動させ、あおむけの体制にする。
「苦しくない?とりあえず、冷やすものもってこないと・・・。」
テオがその場を離れようとすると、ジェイデンはテオの服の袖をつかむ。
「テオ、俺はテオが月の勇者だってこと知ってた。」
「え?」
テオは言葉がでず、固まってしまう。
「月の勇者ってなんとなくわかってた。けど、月の勇者じゃないテオのことが好きだ。」
テオの目から自然と涙が流れた。
「なんで泣くんだよ。」
いつものように面倒くさそうにジェイデンが言う。
なぜこんなにやさしいんだろう。
月の勇者じゃない自分を受け入れてくれることが、テオの心をじんわりと温めた。
「わからない。」
テオは涙を袖でぬぐうと、冷やすものを取りに行こうと立ち上がった。
台所の方に向かっているとき、テオはレイがいるはずの場所にいないのに気が付いた。
頭の中がぱっと切り替わり、すぐに行動に出ていた。
急いでひき返し、ジェイデンの方に向かう。
すると、ジェイデンのほうによろめきながら近づくレイを見つけた。
手には、先ほどテオが持っていた剣を持っている。
ジェイデンはそれから逃れようとしているのだが、手足がうまく動かせないようで、その場でじたばたしている。
「レイ!」
テオが叫ぶがそれにもレイは答えない。
テオは無我夢中で走り出す。
次の瞬間、テオの腹に熱が集まり、ものすごい痛みがテオを襲った。
「え?」
目の前にいるレイは、自然にそう声に出してぽかんとした顔でこっちを見ていた。
「テオ!」
ジェイデンの声でレイは我に返る。
自分の手にある剣がテオの腹部を貫通しているのを見ると、わけのわからない言葉を叫んで、すぐに剣を引き抜いた。
それが原因でテオから鮮やかな血が大量にあふれ出す。
テオはその場に崩れ落ち、刺されたところを抑えるが、血はどんどんあふれてくる。
「なんてことを。私は、テオさんを。」
そんなことをレイは繰り返し、なにもできずに立ち尽くしていた。
「あんたは、月の勇者に依存してたんだね。私みたいに。」
テオはぼそっとつぶやくが、それが届いたのかどうかわからない。
遠くでジェイデンの叫ぶ声が聞こえた。
が、なにを言っているのかは聞き取れない。
最後は月の勇者みたいだったなぁなんて、思ってしまった。
テオがゆっくりと目を開けると、薄暗い闇だった。
腹の痛みを感じて、まだここはあの世ではないのかと悟った。
少しやわらかいベッドの上らしく、近くの窓から差し込むかすかな月の光で、そこが見たことない建物だということは分かった。
だんだんといろいろなことが思い出されてきて、すぐに今の状況が知りたくなった。
ジェイデンはどうなったのか、レイはどうなったのか。
重い体を動かし、ベッドから出ようとするが、体はいうことをきいてくれず、すぐに大きな音をたてて盛大にベッドから転げ落ちた。
先ほどまで布団で隠されて気づかなかったが、自分の手足が驚くほどやせこけているのに気が付いた。
すると、階段をのぼる足音がきこえ、ドアの方を凝視する。
ドアが勢いよく開くと、松葉杖をついたジェイデンがいた。
「テオ。」
ジェイデンはそうつぶやくと、こちらに急いで来るとテオの近くに座り込み、テオを抱きしめた。
「もう死んじゃうかと思った。」
震える声でジェイデンは言う。
声を出そうとするが、思うように言葉にでず、黙った。
人の体温が暖かかった。
そのあと、いろいろとテオはジェイデンに教えてもらった。
今いるのは、ジェイデンの祖先がその昔住居にしていた場所で、工房からはだいぶはなれた場所にあるらしい。
あの事件から1か月ほどテオは目覚めなかったそうだ。
ジェイデンの方は、数か所の骨折で済んでいるため、自力で生活できているそうだ。
あの事件のことは、公にされておらず、強盗がジェイデンに負傷させたということになっていた。
そのためレイは普通に暮らしているらしいが、侯爵家の当主は最近病気でふせっているという噂が流れている。
テオはもともとその事件の現場にはいないことになっている。
「侯爵、テオのことだいぶショックを受けてるらしい。まあ、自業自得だけど。」
「そう。でも、あの子は私のせいで、ありもしないものに依存しないと生きていけない人になってしまった。」
テオは、遠い昔の少年時代のレイのことを思い出す。
一番愛されたかった家族に愛されなかった。
そこに現れた月の勇者は子供のレイにどう映ったのだろう。
テオは何も考えず、ただ自分の正義感に任せてあの子の家族を陥れた。
レイは月の勇者を救世主だと思わないとやっていけなかったのかもしれない。
「ジェイデン、本当にごめんなさい。巻き込んでしまって。それなのに、私のことも面倒みてくれて。」
「俺は自分から、巻き込まれにいったんだ。だから謝る必要なんてない。むしろお礼をいわなきゃいけないと思ってた。あのとき、守ってくれたから。ありがとう。」
ジェイデンはテオの手に自分の手を重ねる。
「ねえ、テオはこれからどうするの?」
「何も考えてない。」
「それならさ、ずっとここにいればいい。テオはもう十分頑張ったから、もう好きに生きたらいい。ここだったら、衛兵に見つかることもないし、都からも遠いからテオのことを知ってる人もいない。」
「ジェイデンはどうするの?」
「俺はテオさえ居てくれればそれでいい。」
それが楽なのかもしれない。
自分のことを必要としてくれる人がいる。
テオはそう思ったが、そっとジェイデンが重ねている手をどけて、自分の手をひっこめた。
「でも、他にジェイデンのことを好いている女の子はどうするの?」
「縁を切るよ。俺は、本当にテオがいてくれたらそれでいいから。」
まっすぐな目は、こちらがそんなことできやしないと疑っていることを申し訳なく思わされるようなものだった。
「考えとく。」
テオはジェイデンとは目を合わせずに答えた。
ジェイデンは、今この瞬間は純粋にテオといたいと思ってくれているのだろう。
おそらく恋愛感情というものでだ。
だが、そのジェイデンの好きはたくさんあるのだ。
それに、自分のことを必要とする人に迎合して、自分の見たいものだけ見てきて、そのしっぺ返しに今みたいなことが起こったのかもしれない。
それなのに、また同じことを繰り返そうとしていることにテオは気づいた。
数週間がたった。
いつものようにジェイデンが起きると、やけに家が静かだった。
テオは使用人の頃の習慣からか、早起きだった。
いつもなら忙しくしている時間なのに、全くその気配がない。
急いでテオの部屋にいくと、そこはもぬけの殻で、きれいに整頓してあった。
ゆっくりとベッドの方に近づくと、そこに書置きがあるのを見つけて、手に取る。
「今までありがとう。ごめんなさい。」
それだけ書いてあった。
テオは、だいぶ体調を回復させた。
ジェイデンも順調に回復していて、平和な時間が流れた。
このままずっと、こんな時間が続くと思っていたが、それはいきなり終わった。
心に大きな穴が開いたようだった。
なぜか涙がこぼれた。
が、テオらしい決断だと心のどこかで思った。
数年後。
銀髪の女が雑踏に紛れ、歩いていた。
都は昔とかわらずにぎわっている。
が、数年前と違うのは、礼拝堂が増えたことだ。
噂によると、アルマンディン侯爵の後押しがあって、司祭の力が強くなったそうだ。
都へ戻ってきた理由はこれだ。
異教徒を排斥するような風潮があるらしく、不穏な動きがあるらしい。
あの怪物を生み出した責任は、自分にあるとテオは思っている。
が、その前に寄っておかなければならない場所がある。
懐かしい道を記憶をたどりながら進むと、まだそこには工房があった。
「ごめんください。」
そういって扉をあけると、元気よくまだ10歳くらいの男の子が出迎えてくれた。
「ごめんなさい。師匠は今、作業中なんです。」
「そうですか。出直した方がいいですか?」
テオは少しかがんで男の子に聞く。
「いえ、もう少しでひと段落だと思うのでお時間あったら待っててください!」
そういうと男の子は奥にひっこんだ。
工房では静かにジェイデンが作業をしていて、こちらに気づく様子もない。
それをまじまじと見ていると、ひと段落したようでジェイデンはこちらを向いた。
すると一瞬びっくりした顔になるが、またいつもの顔に戻す。
「盗み見は趣味悪いって言ってたよね?」
「ごめんなさい。つい。」
テオはジェイデンの方を向き直る。
「今日は、剣を作ってほしくて依頼にきました。お願いできますか?」
「もちろんだよ。」
その時、なにか鈴のような音が聞こえた。
何かが動きだすときの音だった。
月の勇者と呼ばれるようになったのは、暗闇を照らす月のような存在であるとか、月明かりがさす夜によくあらわれるとか、月のように美しい姿をしていたとか、いろいろな噂があり、どれが本当なのかはわかりません。
月の勇者と呼ばれるその義賊は貴族の屋敷から金を盗んで貧困層の人々に分け与えたり、奴婢の逃亡に手を貸したりと、民衆からは英雄視されていました。
そんな民衆の人気者である一方で、支配階級から見れば月の勇者は目障りそのものでした。
支配階級の人々を中心に月の勇者を捕まえようとしたそうなのですが、いっこうに月の勇者につながる手がかりは見つかりませんでした。
とうとう月の勇者は指名手配犯にまでなってしまいました。
しかし、全く手がかりがないので見つけようがありません。
噂でさえもどれも特徴がバラバラです。
銀色の髪だったというのもあれば金色の髪だったという噂もあり、青い目をしていたというのもあれば赤い目をしていたという噂もありました。
美しい姿だったというのはどの噂でも共通でしたが、手掛かりになるはずもありません。
男なのか女なのかもわかっておらず、指名手配のビラだってイメージの人相書きだったそうです。
こうして「月の勇者」は都市伝説のような存在になっていきました。
月の勇者がこのように手がかりを残さずに、多くのことができたのは理由があります。
この月の勇者は、人には聞こえない音が聞こえていました。
危機がせまると知らせてくれたり、迷ったときに正しい方向を教えてくれる音が聞こえるというのです。
鈴のような音で、月の勇者自身にしか聞こえないものです。
どうしてこんな音が聞こえるのかは本人にもわかりません。
月の勇者はこのおかげでたくさんの危機を乗り越え、生き延びてきました。
そして、突然、月の勇者は姿を消してしまいました。
使用人たちの朝は早い。
テオはいつもどおり、分厚く長い前髪の寝ぐせを直し、量の多い茶色い髪をひとつに束ね、度の入っていない眼鏡をかける。
そうすると、鏡には過去と全く違う自分が映る。
身支度を済ませたら、テオたちは掃除に駆り出される。
上司の目を盗んで、朝早くにも関わらずたいがいの女は仲の良い同僚とおしゃべりを楽しむ。
「ねえねえ、伯爵様、領地が没収されたらしいわよ。」
「ええっ。そうなの?でも、ざまあって感じよね。あそこのお嬢様、すごく態度が悪かったもの。うちの旦那様に奥様がいるってのに、絶対狙ってたわよ。」
「しーっ!言い過ぎよ。でも正直、私もあそこのお嬢様のこと嫌いだった!」
使用人たちの会話やくすくすと笑う声が、テオの耳に自然と入ってくる。
多くの使用人は朝から話に花を咲かせているが、テオは例外だ。
決してテオが真面目だからというわけではない。
ただ話し相手がいないだけだ。
その理由は決して明るいといえない性格だということもあるが、もっと大きな理由がある。
せっせと使用人たちが働いていると、すぐに朝日が昇り、主人たちの活動する時間がやってくる。
テオは3年もここで働いているが、ずっと洗濯係のままだ。
手は荒れるし、冬場は凍えそうだし、人気のない役割だ。
「ちょっと、テオ。旦那様のところにお茶持って行ってちょうだい。」
テオが関わったことがある中で一番えらい使用人がテオにもとにやってきて言う。
「はい。」
テオは、仕事を他の洗濯係の女に任せて、その場を去る。
ただの洗濯係では、この屋敷の主人であるレイ・アルマンディン侯爵のお茶をいれることなど許されない。
これが、ほかの使用人たちがテオを敬遠する理由だ。
アンナに渡されたお茶はいい香りがしたが、気分は良くない。
こうやってわざわざ人の注目を集める形で呼び出すのは、嫌がらせでしかない。
長い廊下を歩いてようやく雇い主の執務室にたどり着く。
ノックをするといつも通りのさわやかな声で入室の許可を出してくる。
「お茶、お持ちしました。」
レイはいつもどおり奥の机に腰かけて、優雅に仕事をしているように見えた。
「ああ、ありがとう。ここに置いてくれませんか。」
机の端を指でとんとんと鳴らして言うと、すぐに書類に目を戻した。
テオはレイの机の近くに移動して、カップにお茶を注ぐと、指定された場所にカップをそっと置く。
その時いきなり髪に触れられ、テオは一瞬体が震わせた。
「びっくりさせたね。ほら、また髪を染め直すのかなって思って。」
そう言って、レイは自身の頭頂部を指さして、「根本の色。」と付け足す。
テオは、自分の髪の根本の色がほんの少し地毛の銀色に戻ってきていることを思い出した。
「私はテオさんの地毛の色、好きですけどね。いつ染めるのやめるんですか?」
「やめる予定はありません。」
「もったいないし、大変じゃない?」
「いえ。」
「それに伊達眼鏡と長すぎる前髪、不便でしょ?」
テオの眼鏡は度が入っていない。長すぎる前髪と眼鏡は、自分の瞳を少しでも隠すためのものだ。
ぱっと見たところ黒い瞳なのだが、よく見ると深い赤い色をしている。
眼鏡に効果があるのかわからないが、レンズが一枚あるだけでなぜか安心できる。
「かまいません。」
「私は、かっこいいテオさんが好きなんですけどね。昔のテオさん、すごくきれいだったでしょう。」
テオはレイを無視したが、レイはかまわず話し続ける。
「ああ、そうだ。伯爵の領地の件、うまく行きそうです。」
「それはよかったです。」
テオは表情も声色も変えずに返事をした。
レイは伯爵の領地が今後重要な場所になるのを見越していて、伯爵の領地をどうにかして奪えないかと画策していた。伯爵はレイと対立する勢力に属していて、振る舞いも目に余るものだったそうだ。
そこで、テオの登場だ。レイはテオに伯爵の失脚に足る証拠を見つけて来るように命令し、テオは無事その命令を遂げた。
テオは、このような汚れ仕事を何度か請け負っている。
「今回も大変だったでしょう。ちょっとここで休んでいってください。」
レイはテオに微笑みかける。
レイは妻帯者だが、まだ22歳と若い。
澄んだ湖のような蒼い目にはっきりとした目鼻立ちという見た目や、男性らしいしっかりとした骨格、育ちの良さを感じる丁寧な話し方やこれぞ好青年という振る舞いから、世の淑女をとりこにしている。
が、テオはその世間と同じ価値観をもっていない。
「いえ、私はもう仕事に戻ります。お気遣いありがとうございます。」
テオはすぐに部屋から脱出することにしたが、遅かった。
「私は命令しているのですよ。」
目を細めて笑顔を作っているので、目の奥底がどういう色をしているのかはわからない。
テオは大人しくドアノブから手をはなし、レイに向き直った。
「立ちっぱなしも辛いでしょうし、かけてください。」
来客用に置いてあるソファに座るようにテオに言う。
一介の使用人ごときが普通ならこんなところに座っていいはずもないが、テオが言われた通りに従うと、レイは奥にある机からテオのすぐ左隣に移動した。
テオはすぐに距離をとるようにソファの端に移動する。
が、レイはおかまいなしだ。
「右足、見せてください。」
「理由はなんですか。」
テオは疑いの感情を全面に出す。
「なんでもです。」
そういうと、テオの両足をすくって自分のひざの上にのせた。
あわてて足を元の位置にもどそうとするが、レイに制止させられる。
レイはテオを無視してスカートのすそを少しだけまくる。
テオの右足首には包帯がまかれていた。
「やっぱり、怪我してたんですね。伯爵の件でですか?」
レイはテオの足を包帯の上からさする。
とてもやさしい手つきだが、素直にやさしさとして感じられない。
テオが足をひっこめようとした。
がその瞬間、足の痛むところを力をぐっといれてつかまれた。
「昔のあなたならこんなことなかったのでしょう?」
レイはテオの目をしっかり捉えていた。
昔の自分なら。
テオも怪我をした時にそう考えてしまった。
でも現実は。
「そんな悲しい顔をしないでください。私があなたを『月の勇者』に戻してあげますから。」
そう言ってテオの右足首をそっとなでた。
かけた月が空に浮かんでいる。
ベッドの上に三角にした足を抱えるように座ってテオは今朝のことを考えていた。
右足に手をそえてレイの言葉を頭の中で思い返す。
「『月の勇者』に戻してあげる」
3年前、レイがテオの前に現れた日もそう言って、テオをアルマンディンの屋敷へ連れてきた。
テオは昔、世間を騒がせた『月の勇者』だった。
しかし、突然、テオを『月の勇者』たらしめたあの音が聞こえなくなってしまった。
すると何もかもがうまくいかなくなってしまい、都から逃げるように去った。
それから誰も知らない田舎でひっそりと暮らしたが、3年前、過去を知っていると言われ、昔のように戻る手助けをしたいとごり押しされる形でレイの屋敷へやってきた。
侯爵の目的は、テオにはわからなかった。
が、最近、伯爵の失脚の証拠を盗んでくるというような、テオを政治の汚い部分を担う駒のように使うようになってきたので、これが目的なのかと納得している。
テオを月の勇者であったころに戻したいというのはテオを働かせるための餌だった。
それをそのまま受け取って、また昔の自分に戻れるなんて期待して、言われた通りにしてきた結果、こんなことをしている。
自分は馬鹿だとテオはつくづく思う。
テオは、目をとじて耳をすませる。
風でかすかにゆれる木の音。
静かな夜だ。
やはりあの鈴の音は聞こえない。
自分の才能である「音」はもう戻らないのに、なぜまだあの音を聞こうとしているのか。
「『月の勇者』に戻してあげる」と言われるたびに心がぐちゃぐちゃになっていく。
区切りをつけられていない心の隅をつついてくる。
いつのまにか自分の目から涙がこぼれているのにテオは気づく。
テオは幸いにも一人部屋だ。
テオは目を閉じた。
翌日。
朝、鏡で目元が腫れていないことを確認し、いつものように身支度をととのえた。
部屋から出ると同時に、足を滑らせて盛大に転んだ。
見ると、テオの部屋に泥が混じったような汚い水がまき散らしてあった。
テオ自身は侯爵にテオは利用されているだけだと理解しているのだが、多くの人には侯爵のお気に入りに見えるらしい。
たいがいの人は侯爵になぜか気に入られている洗濯係を敬遠して関わらないようにする。
侯爵や侯爵夫人に心酔する過激な使用人や侍女は、こうして嫌がらせをときどきしてくる。
昨日の呼び出しが原因だろう。
気がぬけていた数分前の自分に後悔した。
そして、やはりあの音が聞こえていたらと思う。
その考えを振り払い、汚水の掃除と着替えをすることにした。
少し早めに行動していたおかげで、始業の時間にはぎりぎり間に合った。
テオが間に合っているのが気に食わなさそうにじろじろ見ている使用人の女のグループがあるのにすぐに気が付き、今日の汚水の犯人だとわかった。
今日の犯人は、同じ洗濯係の女4人だった。
あとで分からない程度にさりげなくお灸は据えてやらないとと思いながら、もくもくと雑巾がけをこなす。
その具体的な方法を考えていると、自然とそのターゲットである洗濯係の4人の声が耳に入る。
「今日の午前中に、鍛冶職人が旦那様の新しい剣をもってくるらしいわ。」
「へえ。毎日鍛錬されてるし、新しい剣必要になったのかなあ。旦那様はいつもじきじきに剣を受け取りに行くから、玄関で旦那様の姿見れるかも!」
「それもそうなんだけどね、今日は新しい鍛冶職人にお願いしたそうなのよ。」
「それがどうかしたわけ?」
「その人、とっても若いんだって。かっこよかったらどうしよう!」
「ええ、そんな男が気になるわけ?私たち旦那様を見てるのよ?ちょっとイケメンでも比べ物にならないわよ。」
「そうそう。それに、職人でしょ。頑固そうだし、かっこよくてもいやだわ。」
「でも20代なかばなのに旦那様の剣を任せてもらえるってすごいことじゃない?」
テオは、剣という単語になつかしさを覚えながらも、針でちくちくさされるような痛みを感じた。
テオは『月の勇者』時代、剣を持っていて、時にはそれで交戦することもあった。
自分にこっそりと剣を提供してくれる、もの好きな鍛冶職人がいて、お世話になっていた。
都をたつ前、最後に寄った場所がその年老いた職人のお爺さんもとだった。
その鍛冶職人は、テオが都をさり再び侯爵に連れられて都に戻ってくるまでに亡くなったようだった。
「ねえねえ、こっそり見に行かない?」
1人が周りにテオくらいしかいないのを確認すると取り巻きに提案した。
「ええっ。そんなのばれたら怒られるよ。」
「それに、午前中でしょ。今日の仕事が終わらないかもよ。午後だったら、はやく済ませて見れるかもだけどさ。」
「そうねぇ。そうだ!」
するとなぜか4人の話し声がやみ、こちらに気配が近づいてくる。
「テーオさんっ。」
「はい。」
悪だくみを楽しんでいるような鼻につく口調で呼ばれ、テオは雑巾を置いて立ち上がった。
「今日、私たちの午前の仕事代わりにお願いできないかな?」
「はい?」
「いやあ、ちょっと外せない急用ができちゃったの。」
「それって鍛冶職人がかっこいいかどうかを確かめる用事ですか?」
「盗み聞きしてたの?」
「いえ、声が大きかったので勝手に聞こえただけです。」
テオの態度にイライラするのが見て取れた。
「じゃ、お願いするわ。」
もうテオと建前でも交渉するのはあきらめたのか、1人が強引に話を終わらせようとする。
「お断りですけど。」
「いいじゃない、ちょっとくらい。私たちは用事があるのよ。」
「いえ、私も鍛冶職人を一目みたくて、あなたたちに仕事を代わってもらおうかと思ってたんです。」
テオは思いがけず仕返しの機会を得たと思い、口からでまかせが出る。
「出まかせはやめてちょうだい。テオさんは恋愛とか結婚とかに興味ないでしょう?」
1人がテオの頭からつま先を見て、馬鹿にするように言う。
使用人でさえ、テオと同い年くらいの女たちは身なりに気をつかっている。
テオとほとんど変わらない年の洗濯係の女も、髪の手入れに気をつかったり、薄く化粧をしたりと、おしゃれを楽しんでいる。
一方テオは、さえない眼鏡に、目が半分は隠れるほど長く分厚い前髪。
まったく化粧もしていないし、正直いけてない。
そんな容姿を馬鹿にするような言い方だ。
いろいろと溜まっていたものが、一気に吹き出てくるような感じがした。
「ええ、私は恋愛とか結婚とかそんなものにはこれっぽちも興味はありませんよ。」
そういうと、勢いよく足を回して馬鹿にしてきた女の顔のすぐ横で止める。
女は「ひいっ」と声を上げて、よろめいて尻もちをついた。
他の女は、あまりの速さに状況を理解できていないのか、叫び声さえあげれずに固まっていた。
「武術や剣術なら多少心得ていますので、鍛冶職人がどれほどのものか気になったもので。」
そういうとやっと状況が理解できたのか、取り巻きの3人が床に倒れている1人を抱き起す。
「ちょっと、ひどいじゃない!」
1人が勇敢にもテオに言い放つ。
「その言葉、そのままお返しします。」
テオは静かに答える。
相手が興奮しているときほど、冷静でいるこちら側が有利であることを知っていた。
「ああ、それと今日は私の分まで仕事してくれるってことでいいですか?朝っぱらからあなたたちが余分に私の仕事を増やしたせいで、大変なんです。」
「な、なによ・・・!」
力の差があるのは今分かったはずなのに、まだ数の有利を信じているようで、テオは念を押すことにした。
「あなたたち4人なんて、どうとでもできるんですよ。今すぐにでも。」
そういうと4人は口ぐちに捨て台詞のようなことをぶつぶつと言い残して去っていった。
しばらくは大丈夫だろうとテオは思ったので、仕事を再開した。
掃除を一通り終わらすと、テオは時間を持て余していた。
先ほど、仕事をあの4人に交代させたのはいいが、やることがない。
部屋でぼうっとすることも考えたが、他の使用人に他の仕事を押し付けられるのも面倒だ。
いろいろ考えた結果、午前中にくるという鍛冶職人を見に行くことにした。
あの4人が見たがっていた鍛冶職人を見るというのも、面白いと思わないこともない。
侯爵の剣ということはお飾りのものだろうから、期待はしていない。
この際、心のちくちくはひとまず頭から取り去ろうとテオは思い、屋敷の入り口に向かった。
侯爵自身がじきじきに鍛冶職人に会って受け取るらしいので、鍛冶職人は正面の入り口からくうだろうと予想した。
が、入り口は無駄に広く、物もあまりないので盗み見をするのは無理そうだ。
この入り口はふきぬけになっていて、2階からでも十分入り口が見えるので、そこから見物をすることに決めた。
テオが見物する場所を決めてしばらくすると、目的の鍛冶職人らしき人物が使用人と共に入ってきた。
あの4人が噂していた通り、若い職人だった。
が、それ以外は全く想像していたのと別物だった。
テオが想像していた職人は、昔お世話になった職人そのもので、頑固だが、誠実で人情味あふれる人だ。
が、なんだか少し不貞腐れたというか、いかにも女遊びがひどそうな人だ。
男にしては細い体格、少し長い黒い前髪からのぞく気だるげな金色の瞳、ぽってりとした唇が特徴的だ。
意外だったので、テオはその鍛冶職人をじろじろ見てしまっていたのか、一瞬目があった気がしてすぐに目をそらす。
「君がジェイデン?」
侯爵が、いつものようにさわやかな笑顔をしてやってくる。
「そうですけど。」
侯爵にも無礼な態度をとるので、となりにいる使用人はジェイデンと呼ばれた職人を睨む。
「なんだか先代とは随分と雰囲気が違いますね。」
ほほえみながら侯爵は言う。
「そうですか。」
ジェイデンは全く悪びれる様子を見せない。
「じゃあ、さっそく見せてもらいましょうか。」
そういうとジェイデンは大事そうに抱えていた箱を開ける。
侯爵は、中に入っていたものを手にとった。
それにテオは目を奪われた。
太陽の光にあたって、銀色の光が反射する。
ただのお飾りではない、美しい剣だった。
そして、どこかで懐かしさも感じた。
「うん、素晴らしい。」
侯爵は剣をまた箱に収めた。
そこでテオは我に返り、掃除をするふりをする。
が、すぐに視線を感じてその方を見ると、ジェイデンとまた一瞬目があったような気がした。
2日後。テオは久しぶりの休暇をつかい、街に出かけることにした。
あの美しい剣を見てから、昔のことを思い出してしまう。
『月の勇者』と知っていながらも、1人の人間としてやさしくしてくれた鍛冶職人のことが頭から離れない。
その鍛冶職人はきっと、『月の勇者』の奥にいるテオ自身を見ていた。
最後にあの工房に訪れたのは、『月の勇者』の最後の日だ。
それも5年も前になる。
今もその工房があるのかわからないし、街も変わっているだろうからたどり着けないことも覚悟していた。
しかし、工房はちゃんとそこにあった。
工房と住居が一緒になっているその建物の外観は昔と変わらない。
少し迷ったが、テオはたどりつくことができた。
が、たどり着いてから何をするかなど決めていなかったため、工房の前でしばらく立ち尽くしていた。
「そこのおねーさん、人の工房の前で何してんの?まさか仕事の依頼?」
テオは急をかけられ、すぐに声の方を向いた。
「えっ。」
思わず声が漏れる。
めんどくさそうにテオを見ているのは、あのジェイデンと呼ばれていた鍛冶職人だった。
しかし、盗み見をしていた使用人です、などと名乗れるわけもなかった。
「まあ、せっかくだし、工房でもみてったら。」
「いいんですか?」
テオはすぐに追い返されるとばかり思っていたので、少しうわずった声になった。
「まあ、そんな見るようなものないかもだけど。」
そういって工房の中に入っていくジェイデンにテオは少し遅れてついていく。
工房の中のにおいは、昔のままだった。
少し薄暗い雰囲気も、昔のままだった。
テオは涙を流すまいと目に力をいれる。
「おねえさん、まさかとは思うけど、俺の爺さんの客?」
そう聞かれて声をだそうとすると、なぜか涙が零れ落ちた。
「ええっ。ちょっと、どうしちゃったんだよ。」
そう言うとすぐにジェイデンはタオルを持ってきて、テオにわたした。
「ほんと、なんなんだよ。あんた。」
そんなことを言いながらも、ジェイデンはテオを落ち着かせようと、椅子に座らせてくれたり、飲み物を持ってきたりと世話をやいた。
なんだかんだ世話を焼いてくれるところが、あの鍛冶職人そっくりで、またテオは泣いた。
テオは落ち着いて声が出るようになると、すぐに謝った。
「ご迷惑おかけしました。なんだか、いろいろ思い出してうわってなっちゃって。」
テオは泣いて少しすっきりしていた。
「ほんと迷惑だよ。こっちはいきなり来られて、泣かれるんだから。」
「すみません。あと、ありがとうございます。」
テオがそういうと、ジェイデンはテオから顔をそむけた。耳がほんのりと赤くなっていた。
テオが昔、客としてここに昔いた鍛冶職人にお世話になって、それ以上に世話をやいてくれたこと、都に戻ってくるまでにその人は亡くなっていたことを自分の素性がばれない程度に話した。
それを聞くと、ジェイデンはテオが昔世話になった鍛冶職人について教えた。
ジェイデンの両親は早くに亡くなっている。
育ててくれたのがジェイデンの父方の祖父の鍛冶職人だったらしい。
「テオって若く見えるけど、実は40代だったりとかする?」
「何言ってるの。今、25歳。」
「俺と同い年か。てことはさ、あんた最低でも20歳の頃から、爺さんのお得意様って頃だろ?そんな若い女の客って、目立つと思うんだけどさ。いたかな・・・。」
「私は父親のおつかいできてたから。」
「ああ、そっか。」
テオはとっさに上手く言い訳を考えたと思っていたが、ジェイデンはなにかひっかかったような顔をした。
「あとさ、テオってアルマンディン侯爵のとこで働いてない?」
「え、なぜそれを・・・。」
「盗み見てるのばればれだったし。」
テオはおかしくなって、笑い出した。
それを見て、ジェイデンはふっと鼻をならして笑った。
なんだか久しぶりのふわふわとした感情だった。
が、こういう時、時間は早く感じられる。
もう既に今帰らないと時間内に屋敷まで帰れない。
屋敷に住み込みで働いている使用人には、門限がある。
それまでに帰らなければ、問答無用で使用人の使う入り口の扉はしまる。
「長居してごめんなさい。もう帰るね。」
「ああ、そう。」
テオが扉の方へ向かうと、その後ろをジェイデンはついてきた。
「今日、ありがと。また会うとき・・・、はないか。」
テオは扉から一歩外へ出ると、ジェイデンの方に向き直ってそういい、笑った。
「たぶんまた侯爵から依頼があったら行くし、会うと思うよ。」
そういうと、少し姿勢を低くしてテオの方に顔をぐっと近づけた。
「その時は普通にしゃべりかけて。盗み見とか趣味悪いことしてないでさ。」
いきなりだったので少しびっくりして、テオはごまかすようにして笑う。
「わかったって。」
一呼吸置くと、「じゃ。」と言ってジェイデンに背を向ける。
「あ?そこまで一緒に行くつもりだったんだけど。」
ジェイデンは急いでテオの隣に追いつき、並んで歩き始めた。
「大丈夫だよ。」
「道、複雑だから。」
確かに、大通りからジェイデンの工房までは道が複雑だが、行きは一人でこれた。
「ほんと大丈夫だから。」
「いや、女の子おくらないとか。いくら俺でも気をきかせるでしょ。」
「そっか。」
テオはジェイデンはいくら言っても引き下がらないので、断るのをやめた。
女の子という言葉に少しうれしいと思っている自分がいるのもわかった。
大通りへ出るころには、少しあたりが暗くなってきていた。
細い道から見える大通りは、人がいきなり多くなっていて別世界のようだった。
居酒屋のランプが明るくあちこちで光っていて、労働のあとのにおいや酒のにおい、夜の仕事をしているのであろう女の人のきつい香水のにおい、吐しゃ物のにおいなどいろいろな匂いが混ざり合って立ち込めていた。
「うわ。」
テオは、都にきてからこんな時間まで街に出ていたことがなかったので、行きと同じ道なのに景色が全く別になることを知らなかった。
「5年くらい前はたぶんこんな感じじゃなかったんだけど、ここ最近で急にこうなったんだ。」
「知らなかった。」
「でしょ?だから送ってやるって言ったんだよ。」
「ありがとう。」
テオは素直に言った。
普通の女がここを一人で通るのは確かにこわいだろう。
そこまで考えてくれていたのは、素直にうれしい。
「ほら、手。」
ジェイデンは手のひらをテオの前に出す。
「は?」
テオはその意図がわからずに間抜けな声がでる。
「ああ、もう。」
説明するのも面倒だったのか、ジェイデンはテオの手首をつかむと、そのまま人の波の中に入っていった。
それでようやくテオは意味がわかった。
「ありがとう。」
雑踏のなかで、少し声を張ってテオ言う。
「なにか言った?」
テオの少し前を歩くジェイデンは聞き返す。
絶対聞こえてただろ、などと思いながらもテオはもう一度、礼を言った。
「あっ、ジェイっ。こんなとこで何してんの!?」
いきなりジェイデンが足を止めたのでテオはぶつかりそうになった。
ジェイデンの前には、派手に着飾った若い女がいた。
「ん?君、どこかで会ったっけ?」
ジェイデンは顔に思い切り不信感を示すが、派手な女はめげない。
「なによ、そんな冷たくしてさ。おとつい一緒に楽しく飲んでたじゃん。」
「ああ、そうだったかも。アンナちゃんだっけ。」
まったく悪びれる様子もなく、表情は変えずにジェイデンは答える。
まだ話しの途中のようだが、ジェイデンは派手な女の横をすり抜けていこうとする。
が、女が立ちふさがる。
「え、アンナって誰。もしかして今そこにいる女?」
そこで派手な女はテオをにらむ。
「新しい子?また新しい女の子つくって大丈夫なの?今でも名前とかちゃんと覚えられてないくせして。」
そういって、派手な女はテオを観察する。
テオにとって男女のいざこざなど遠い存在だったので、目の前で起こっていることに対して、これがあのいざこざかと他人事のように思っていた。
「それにジェイ、女の趣味変わった?なんかこうさ・・。地味っていうか。」
徐々に女の声が大きくなる。
「はいはい、そういうのいいって。」
そういうとジェイデンは女の耳元に顔を近づける。
「俺、そういうの嫌いなの知ってるでしょ・・・。」
ジェイデンはぼそっと言う。
最後に何か言ったのだが、テオは聞き取れなかった。
が、その時、女が少し頬を染めたのはわかった。
ジェイデンはテオの手をひいて、派手な女の横をすりぬけて出口を目指した。
「ちょっとお、待ってよぉ。」
女の甘ったるい声が遠くに聞こえるが、束の間で人混みの中に消えっていった。
賑やかな大通りから出ると、ジェイデンはテオの手首をそっと離した。
そしてテオの様子を伺うように見てくる。
言いたいことがあるようなのはわかる。
が、早くしないと屋敷に入れなくなってしまう。
鬱陶しくなってきて、
「なに?」
と自然と尖った声でテオは聞く。
「ごめん。さっきの人、失礼だったから。」
「なんとも思ってないから大丈夫。」
テオは本当に何も思っていない。
馬鹿らしいことにいちいち感情を動かしていれば、疲れてしまう。
この容姿になってからは、馬鹿にされることが多く、それのかわし方も慣れてしまった。
それに、いざとなれば一般的な人間であれば、体のなまっている今でもどうとでもできると思ってしまうところがある。
「俺のこと軽蔑してるよね。」
「ん?なんのこと。」
本当になんのことかテオはわからなかった。
もし、さっきの女の子のことなら、初めてみたときから予想はついていたし、今更だ。
「じゃあ、まだ友達で・・・いてくれますか・・・。」
ぼそぼそと話しているのに加え、最後になるにつれ声が小さくなっていくので聞こえずらい。
それがなんだか小さな子供のように見え、おかしくなってきて、テオは笑いがこみあげてくる。
が、すぐに屋敷に入れなくなってしまうことを思い出し、一方的に挨拶をしてジェイデンと別れた。
疲れているはずなのだが、ジェイデンのことを思い出すとおかしくて口角が自然とゆるんでしまう。
すぐに人目があるかもしれないと思い出して、引き締める。
それを繰り返しながらテオは屋敷にたどり着いた。
ぎりぎり間に合ったと、安心してテオは使用人たちが入る裏口のドアノブに手をかける。
屋敷の周りの庭を囲むようにぐるっと大きな鉄の柵がある。
庭は正面にだけあるのだが、柵はぐるっと敷地内をぐるっと囲んでいる。
まずはその柵をこえるための扉を開けなくてはならない。
が、そのドアが開かない。
何度もドアノブをひねるが、ノブが動くだけで扉は開かない。
嫌がらせか、それともたまたま早くしめられたのかは分からない。
背筋にいやな汗が流れる。
主人が使う門にまわるが、開いているはずもない。
大きな柵ごしに見える屋敷にはまだ明かりがついているが、休暇中の使用人が一人いなくなっても気づくはずもない。
ここから町へ戻って宿をさがすのも、金がないので無理だ。
ジェイデンのところに戻ることは、あの通りを通らなくてはならなくて危険だし、ジェイデンが家にいるかもわからない。
見た感じ女遊びをしていることは確からしいし、今日だってあのあと飲み歩いているかもしれない。
屋敷の中にどうにかして入るしかなさそうだ。
誰かに気づくまで待つか、この柵をよじ登るか、ドアをピッキングで開けるかといろいろな選択肢が頭の中に浮かぶ。
もうあたりはすっかり暗くなって、月が出ている。
夜は日中よりずいぶん冷えるので、はやく屋敷の中に入りたい。
柵をよじ登るのが一番はやそうだとテオは柵に手をかけた。
月明りがあったため、すぐに柵の中に入ることができた。
が、そこからが問題だった。使用人たちの1日は長く、仕事は深夜まで続くことがある。
ドアをピッキングして中に入りたいのだが、たまにしかしないからなのか、腕がにぶったからなのか、けっこう時間がかかるし、できる保証もない。
耳をすませて中の様子をさぐるが、全然使用人たちが寝静まる様子がしない。
そこで、窓の閉め忘れを確認することにした。
しかし、使用人たちは優秀で、閉め忘れが1階部分に全く無い。
2階まで確認するのは気が引けたが、仕方ない。
幸いにも、この屋敷には足場となるバルコニーや装飾がたくさんあるので、2階にのぼるのは簡単だ。
しかし、こんな月明りがあるので見られる可能性もある。
誰も来ないことを祈りながら、目立たない部分から確認していく。
が、開かなかった。
そこで、最後の手段だ。
この屋敷の主人の執務室の窓だ。きっと今は寝室にいるはずだ。
耳をすませてみるが、部屋から音はなく、やはり大丈夫そうだ。
窓は開かないようだが、ここにはバルコニーがあり、部屋に入ることのできる扉がある。
ドアノブに手をかける。
すると、ドアに鍵がかかっている様子ではない。
おかしいとテオは思った。
何かの罠のようだ。
こういう時、あの鈴の音が聞こえたらと思ってしまう。
鈴の音の代わりに心臓の鼓動が大きく聞こえた。
テオは覚悟を決めて、ゆっくりとドアをあけてカーテンに隙間をつくり中を伺う。
物音ひとつせず、静まりかえっている。
テオは安心して、中に入る。
そのとき突然、口元をふさがれた。
何が起こったのかわからず、後ろに立っている口を押えている人間の腹部を肘で思い切り突いた。
その瞬間、自分の背後で誰かがよろめいているのに気づいて、素早く距離をとる。
「さすがといいたいところですが、思ったより痛いんですね・・・これ。」
そこには腹をおさえているレイがいた。
「す、すみません。」
反射的に雇い主を殴ったことを誤ったが、殴られた本人はそれを無視して話し続ける。
「完全体でないのにこれなら、月の勇者に戻ったテオさんだったら死んでたかもですね。もうテオさんを襲おうなんて考えませんよ。」
そういいながらレイはランプに明かりをつける。
ぼうっと照らされたレイはいつもどおりの笑顔なのだが、それが余計に不気味だ。
「少し帰りが遅かったので、雇い主としてお仕置きといいますか。いや、それは言い訳ですね。少しばかり早く全ての扉を締め切るようにいったんです。月の勇者復活が待ちきれなくて、フライングしてしまいました。でも、ここまで誰にも見つからずにくるなんてさすがです。それにこの景色。月光に照らされる月の勇者。ほんと最高です!」
少し早口になるレイにテオは驚いて、何を言えばいいかわからなかった。
レイはテオの方に近づいてきて淡々と続ける。
「今日、鍛冶屋に行ってたんですよね。私が剣を新調していたからですか。私が依頼していたあのふてくされた鍛冶屋のとこですよね?」
テオは心臓をぎゅっとつかまれるような錯覚をおこした。
なぜそのことを知っているのか、そう聞けばいいのに言葉が出てこない。
きっと誰かレイの指示でつけていたんだ。
それに気づかないなんて自分はなんて愚かなのかと、テオは唇をかんだ。
「今日のお話、ぜひ聞かせてくれませんか。また、剣を持とうと決めたんですよね。こんなに遅くなるまで話し込んで作ってもらうなんてどんな仕上がりなんでしょうね。月の勇者には最高の剣が似合いますから楽しみです。ああ、それともし良ければその費用、私に払わせてください。気にしないでください、月の勇者の復活に私が関われるなんて夢のようですから。」
レイがテオを見る目は、なにか焦点がさだまっていないようだ。
テオはようやくこの時、理解した。
侯爵はテオを利用したくてここにつれてきたのではなく、『月の勇者』を復活させるためだったのだとテオは確信した。
目の前のレイはまるで『月の勇者』は神様だというふうに、うっとりとこちらを見ている。
その異常な光景に、テオにはとても恐ろしく見えた。
「ほっといてください。」
本能的にレイを拒絶する言葉がテオの口から出てくる。
前髪からのぞく黒に近い深い赤い目が、言葉にできないほど冷ややかな目つきでレイを見ていた。
「そんなこと言わないで。ね?」
そう言って、レイはテオの腕をつかもうとしてくる。
テオはのびてきたレイの腕をよけ、後ずさりする。
「剣はつくりません。もう、かまわないでください。」
恐怖の感情に任せて、テオは言い放つ。
「ああ、私のはやとちりってことですか・・・。少し残念ですが仕方ないです。私がついてますから、ゆっくりでいいんですからね。」
テオの「かまわないで」という部分はレイには聞こえていない。
テオはレイとの会話を諦めた。
「今日は旦那様に無礼なことをして申し訳ございませんでした。解雇でもしていただいて結構です。」
そうまくしたてるように言うと、何か言われる前にさっさと部屋を出た。
テオが出て行った後、レイは執務用の椅子に腰をおろした。
月の光に照らされるテオを見ると、少年時代に見た景色を思い出す。
自分とさほど年が変わらないのに、あの凛とした出で立ち。
瞼を閉じればいつでもその光景が思い浮かぶ。
「このまま逃がすわけないじゃないですか。あなたは僕の希望ですから。」
レイはぼそりと独り言を言った。
翌日からテオはまたいつもの仕事に戻ったが、おかしいほど前と全く変わらない。
レイがなぜか月の勇者の復活に固執していることを知って、それを拒絶するような態度をとったが、解雇されるような兆しもない。
ときどきいつものようにテオにお茶を頼むのだが、その時も普通に話すだけ。
月の勇者の話題にはならない。
が、無意識のうちに考えてしまう。
自分の感情がわからないからだ。
レイが月の勇者に異常に固執しているのを知ったとき、恐怖を感じた。
が、今考えると、少し度が過ぎるだけで、自分を応援しているのには変わりないのではないかと思うようになった。
テオが今でも月の勇者だった自分に戻りたいと思っているのは確かだ。
あの頃の自分は、なにもかも持っていたような気がする。
世間で英雄あつかいされて、あの鈴の音のおかげで無敵であるかのようにも思えた。
そんな自分に戻りたいと思わないはずがない。
それだったらレイが月の勇者の復活を望んでいることはいいことではないか。
でも、自分が月の勇者の頃に戻ることは不可能だとテオはわかっている。
あの鈴の音が聞こえないからだ。
今後も聞こえることはないと、なぜか確信している。
レイが異常なまでに月の勇者の復活を期待しているのが、なぜかつらい。
「テオ、テオ!」
自分を呼ぶ声でテオは我に返った。
使用人たちの仕事道具や生活用品の買い出しを頼まれ、案の定、誰も手伝ってくれなさそうだったので一人で市場にきていた。
だから、自分を呼ぶ人などいないはずだ。
誰だろうと少し面倒に思いながら、声のした方を振り返る。
「もう、なんで気づかないかなぁ。何度も呼んだんだけど。」
そこにはジェイデンがあきれたような顔をしていた。
「うわ、ジェイデンだ。」
「うわってなんだよ。でも、名前、よく覚えてたね。ぼうっとしてるから忘れたのかと思った。」
いつものように少しふてくされたような態度でジェイデンは言う。
「ごめんって。」
テオは謝っておくが、内心ジェイデンが自分を呼び止めたことに驚いていた。
「で、今日はなにしてるの?」
「買い出し。」
「へぇ、一人で?」
既に両腕に荷物を抱えているテオを見て、ジェイデンは聞く。
「そうだけど。」
「仕方ないなぁ、手伝ってやるよ。」
そういうとジェイデンはテオの両手から荷物を奪う。
「え、金払わないよ?」
「俺のこと、なんだと思ってるの。暇だから手伝ってやるって言ってるの。で、次は?」
この前後をつけられていたことを思い出して、テオは後ろを振り返るが、それらしき人はいない。
あのときのレイはおかしかったが、最近はまったくそんな感じはなく通常だ。
それにつけられたところで別に危害を加えられるわけでもない。
「手縫いようの糸。」
そう言うと、テオは方向転換をしてどんどん歩く。
「了解。」
ジェデンはテオのあとをついていった。
買い出しが終わるころには、ジェイデンとテオの両腕をふさぐほどの荷物になっていた。
テオは最後の店を出ると、さっさと屋敷に帰ろうと市場を出る。
荷物をかかえて人込みをかき分けて進んできたので、市場を出るころにはどっと疲れていた。
「疲れた・・・。」
人込みからぬけだし、しばらくしてジェイデンはそう呟き、荷物を地面においてしゃがみ込む。
荷物が置かれる音でテオは後ろを振り向く。
テオはふうっと息をはくと、ジェイデンの方へ移動する。
「ありがと。ここからは自分でできるし、大丈夫だから。」
テオはそういうと、器用に両腕の荷物を片腕に持ち替え、ジェイデンが持っていた荷物をもとうと手をのばす。
すると、ジェイデンはテオが伸ばした腕の袖をつかむ。
「ねえ、ご褒美くれない?」
いつもふてくされた顔をしているくせに、ここぞとばかりに金色の瞳をきゅるきゅるさせてテオを見上げている。
「えぇー。いらないって言ってたじゃん。」
テオは思い切り眉根をよせた。
「それは、金の話。」
ジェイデンはあっけからんとしている。
テオは早く帰らないと嫌な顔されるかもと考えたが、自分に大量の仕事を押し付けてきたのだからちょっとさぼっても文句は言われないだろうとすぐに思い直した。
「わかった。」
「おお!やったね。」
そういうと自分の持っていた荷物を軽々と持って、テオの前を歩きだした。
テオはうまい具合にたかられたな、と思ったが口には出さず、ジェイデンの後を急いでおいかけ横に並ぶ。
「それで、何がいいわけ?安いものじゃないと奢れないよ。」
「んー?行ってからのお楽しみってことで。」
テオはジェイデンの少しうれしそうな顔をみると、それに水をさしたくなくて大人しくついていくことにした。
が、どんどん入り組んだ路地に入り、廃墟のような建物の中に入っていくのは少しためらった。
「え、ここ大丈夫なの?」
テオは疑うようにジェイデンを見る。
「平気。あ、暗いとことかだめだった?」
「そういうのは全然大丈夫なんだどさ。」
夜にひと様の家に忍び込むのは躊躇しないくせに、真昼間から知らない家に入るのはなぜか躊躇した。
「無理そうだったら言って。」
「うん。」
テオはジェイデンの後ろをついていく。
日差しが差さず、暗いらせん状の階段をのぼると、いきなり目の前が明るくなって思わず目を細める。
残りの階段を数段上ると、そこは建物の最上階で、ところどころの屋根が壊れているせいで太陽の光が差し込んでいた。
それがなんとも言えない良い具合だった。
「ほら、おいで。」
ジェイデンは適当に荷物をすでにおいてきたようで、手招きをした。
テオも近くに荷物を置くと、ジェイデンの方へ向かう。
そこにはかつては窓だったのだろうか、テオほどの背丈の大きな穴があいていた。
そこからはさっき歩いてきた道からずっと遠くにある海まで見えた。
「すごい気持ちよくない?ここ。」
ジェイデンは遠くの海を見つめて言う。
心地よい風がさらさらとテオの頬をなでる。
「うん。」
テオも遠くの海を見た。
「すごい全部が小さく見える。」
テオは、さっきまでいた市場や市街地、点のように見えるそこにいる人を見て言った。
「うん。」
ジェイデンは穏やかな声で相槌を打つ。
「最近、悩んでたことがあったんだけど、それが全部どうでもいい気分になってくる。」
自然と思っていることがするっと口に出た。
「そっか。」
そのあと、しばらくジェイデンは考えてから、言葉を発した。
「あのさ・・・悩みって俺の爺さん関係だったりする?ほら・・・この前工房でさ。その時、ちゃんと聞いてあげられなかったけど。もし良かったらさ・・・聞くよ?」
テオは少し驚いてジェイデンの顔を見る。
斜め上にあるジェイデンの顔や口調から、言葉を選んで慎重に話しているのがわかる。
工房でテオが取り乱していたのを今も気を使っているのが、いつものふてぶてしい態度からは想像できなかった。
「ほら、悩みとかって意外と知らない人の方が話しやすいとか言うしさ。」
なぜかあわててジェイデンは付け足す。
少しテオは考えてから口をゆっくり開く。
「昔に戻りたいって思うことある?」
「思わないかなぁ。テオは昔に戻りたいって思う?」
「昔の自分に戻りたいって思うことはある。」
「その理由って聞いてもいい?」
「昔の自分の方がかっこよかったからかな。ちゃんと自分があって、それでいて人に必要とされてたと思う。」
「テオは今もかっこいいと思うけどな。悩むこともあるし泣くこともあるけど、こうやってちゃんと生きてる。」
「なにそれ、かっこ悪くない?」
「それがテオにとってかっこ悪いことなら、俺はテオがかっこわるくてもいいと思う。」
「なんで?私はかっこよくないといけないの。誰がどう見てもかっこいい人じゃないといけないの。」
私は月の勇者なんだから、という言葉は口に出さず飲み込む。
テオはなぜか口調が強くなる。
そして、絞りだすような声で言う。
「かっこよくない私なんて、この世に存在してはいけないんだよ。」
それを見てジェイデンはいつものあきれたような顔をする。
「なんでそういうこと言うかな。」
「やっぱりジェイデンにはわからないよ。」
ジェイデンは、いつか戻れるよという無責任で甘い言葉を決してかけなかった。
それに無意識のうちにいらいらしていたのか、テオは突き放すようなことを言っていた。
それに気が付いて、やってしまったとテオはすぐに気が付く。
すぐにテオは謝ろうとしたが、それより先にジェイデンが口を開く。
「わからないね。いきなり泣き出すと思ったら強がるし、悩み事話してたら感情的になるし。だけどそういうところも全部、俺は好きだよ。」
テオはあっけにとられて、何も考えられなくなった。
ジェイデンはそんなテオを見て、「なんでわからないかな。」と言いながら片手でテオの頭をわしゃわしゃとなでる。
そして手をとめて、少しかがんでテオと目をあわせる。
「今のテオが好きだから、そのままでいてください。」
そのとき、テオの中でなにかが変わった気がした。
自分をつないでいたものにひびが入ったような感じだ。
かっこよくない自分を好きだと言ってくれる人がいる。
かっこよくない自分でも月の勇者じゃない自分でもいいと言ってくれる人がいる。
突然目の奥がじわりと熱くなって、それが堪え切れずにこぼれ出す。
音もたてずに静かに大量の涙があふれ出す。
「はいはい、気が済むまで泣きな。」
そう言って、テオをジェイデンの胸に引き寄せて、泣き止むまで背中をさすった。
テオはしばらくすると、そっとジェイデンの胸をおしてジェイデンから離れた。
目が少し赤くなっているが、もう涙はつきたようだ。
そのあと、アルマンディンの屋敷までテオの荷物を半分ほど持って行った。
屋敷につくまでは、ジェイデンが多めに話した。
テオは泣きつかれたのか、いつもより力が抜けたような笑い方をする。
が、これで良かったんだとジェイデンは思う。
少しでもテオの辛さが減ったならそれでいい。
昔、テオは覚えていないだろうが、ジェイデンはテオの姿を見たことがある。
いつも人目を忍んで夜にやってくる祖父の客。
祖父はジェイデンをまだ一人前として扱っていなかったからか、もちろんその客の剣にも触れさせてもらえなかったし、その客にも会わせないようにしていた。
この時間は工房に近づくなと言われると、行きたくなってしまうもので、ジェイデンはこっそり工房を覗いていた。
工房には、出来上がった剣を手に取る客がいた。
その姿を見た瞬間、目を奪われた。
自分とそう年が変わらないようなのだが、凛として一本の軸が通っているような力強さが感じられた。
銀色の髪に深い赤い目をしていて、人とは思えない神秘的な雰囲気も感じられた。
祖父の作った美しい剣がこの世で一番似合うのではないかと思う姿だった。
ジェイデンはこれが「月の勇者」なのだとすぐにわかった。
が、祖父は「あの子は普通の人間の子だ」とジェイデンに聞かれるたびにそう答えた。
それから月の勇者が世間から姿を消し、祖父が亡くなって、長い年月が過ぎた。
侯爵の剣をつくるという大仕事が舞い込み、それを届けにいった先で、目の前にありえない人物が現れた。
髪の色は違うが、よく見ると眼鏡の奥の瞳の色があの勇者のものそっくりの使用人がいた。
見間違いかもしれないとその場は大人しく帰った。
しばらくして、その使用人は自分の工房の前に現れた。
正体をつきとめてやろうと、工房の中へ入れた。
が、その使用人は自分の目の前で泣き出した。
そこで、正体をつきとめてやろうという企みを捨てた。
昔、月の勇者であっただろう目の前にいる女は、ただの人間だった。
こうしてちゃんと感情がある人間で、自分の好奇心のために一人の人を傷つけるようなことはできないと思った。
かつて祖父が言っていたことの意味がそのときジェイデンは理解した。
一人の人間としてのテオは、弱いところもある普通の人だった。
でも、ときどき見せる強さもある。
強いだけでない、人間らしいテオはなぜかとても愛らしく思えた。
今はまだテオをそっと支えられたらいい。
いつか全てを白状できる日が来ればいいのにと思いながら、ジェイデンはテオと別れた。
テオが屋敷に帰り、ジェイデンと別れると、いつもはテオとかかわろうともしない使用人たちが数人テオのもとへすぐにやってきた。
「あのイケメンは誰?」
「付き合ってるの?」
「どういう関係?」
突然、質問攻めにあい、テオは一瞬びっくりしたが、すぐにため息が小さく漏れた。
「知り合いです。」
そういうと質問してきた使用人を押し切って仕事に戻る。
うしろでは、きゃあきゃあ言っている使用人の声が聞こえた。
そういえば、ジェイデンは顔もいいし、女に人気があるんだったとテオは思い出す。
きっぱりと先ほどは答えたが、どんな尾ひれがついて話が広がっていくのか分かったものではない。
付き合っているらしいなど話が飛躍してもおかしくない。
「今のテオが好きだ」
なぜか突然、ジェイデンの言った言葉が脳内で再生される。
自分を励ますための言葉で、それ以上の意味はない。
すぐに頭から追い出して、先ほどの心配事を考える。
噂などたたず、テオはやぼったい見た目であるから、さっさと恋仲である可能性は切り捨てて、ジェイデンを紹介しろと言ってくるかもしれない。
それは少し嫌な感じがするが、後者のほうが可能性は高いなと思った。
どっちにしろ面倒くさいという結論にたどり着くとため息をついた。
ジェイデンから強引に荷物を奪ってでも逃げ帰れば良かったと少し後悔した。
その後も何人かにジェイデンについて聞かれたが、それ以外はいつも通りだ。
いつも通り、仕事がおわったころには、もう日をまたぎそうになっていた。
急いで寝る支度を一通りすませ、自室に戻る。
自室までたどりつくまでに自分以外の足音はせず、明かりもなかったので、屋敷中の使用人はもう寝静まったようだ。
ランプをつけるのが面倒なので暗闇の中、月の光だけをたよりに歩く。
ようやく自室までたどり着くと、使用人の間での嫌がらせ対策にいつも通りに自室の鍵を閉める。
緊張がきれて、ふうっとため息がもれる。
自室に来てもなおランプに明かりをつけるのが億劫に思えて、そのままベッドに身を投げた。
疲れで自然に瞼がおちてくる。
「今日もお疲れさまでした。」
突然、声がして、反射的に飛び起きるとその方を見た。
暗がりから現れたのは、いつもの笑顔のレイだった。
「え。」
小さく声が漏れた。
「驚きましたか?」
テオは黙ったままだ。
まだ何が起こったのか頭がおいついていない。
「今日は午前中、町に出たそうですね。あの鍛冶職人がテオさんをここまで送ったと聞きました。」
レイはテオの方にどんどん近づいてきて、テオのすぐ横のベッドのへりに腰掛ける。
テオはすぐに距離をとろうとするが、それより先にレイに腕をつかまれる。
ぎりぎりとレイの爪が手首に食い込み、それと同時に恐怖がどんどんとあふれてくる。
「おかしいと思いませんか?月の勇者にとって剣は大切なものなのは知ってます。でも、鍛冶職人とそれ以外で会う必要はないですよね?」
「手、放してください。」
テオは恐怖を自分の中におしこめて、レイに静かに言う。
「ふたりは恋仲ではないかと噂する使用人がいましたよ。全くふざけないでほしいです。月の勇者は孤独であるから強いんです。だから、大切な人などいらないんですよ。ましてや恋人なんて馬鹿馬鹿しい。」
「聞こえてます?」
テオは声は先ほどより大きくなった。
怖くなってそれが無意識のうちに声に出ていた。
「でもテオさんにその気はなくても、あいつはその気かもしれません。」
レイはテオの言葉を無視して話し続けるので、テオは心を落ち着かせて腕を器用にひねってレイの手から逃れる。
レイに掴まれていた部分にまだ掴まれていた感覚があり、それを拭うようにもう片方の手でさする。
「そんな邪魔が入ったら、今までの私とテオさんの努力が台無しじゃないですか。」
その時、首筋がちくりとした。
テオが横目でみると、注射針が首に刺さっているのが見えた。
「だから、その前に邪魔なものは消さないと。」
レイの目は確固とした意志をもち、テオが何をしても止めることができないのを物語っているようだった。
テオはすぐに針をぬき、首筋を抑える。
ちくりとしたところが、なんとなく痛い。
が、すぐに視界が歪む。
レイからとにかく離れなければ、と辛うじて脳がそう叫ぶ。
しかし、うまく手足が動かず、ベッドからおちて思い切り体を床に打ち付けた。
とにかく今はここから逃げないといけないということは意識が朦朧とする中でもわかっていて、よろよろと立ち上がり、そのままドアの方へ向かう。
指に力が入らずに鍵がなかなか開かない。
呼吸をするのも苦しくなって、テオはその場に崩れ落ちる。
それを見ると、レイはゆっくりとした動作でテオの方へ近づいてくる。
「やっと立ち上がれないくらいには効いてきたようですね。心配しないで。致死量ではないですから。ちょっと苦しいだけです。さすがに普通の状態だったら、私に勝ち目はないのは分かってますから。」
レイは穏やかな声でテオに話しかけ、近づいてくる。
レイはしゃがんで、テオの肩を押すとあっけなくテオは倒れた。
テオの肩をつかんで仰向きにさせると、茶色い髪が床の上に散らばり、前髪が横に流れ、テオのうつろな赤い瞳がはっきりレイには見える。
レイはテオの上にまたがると、テオの頬を撫でる。
「それにしても、美しい。自分のものだけにしたいなんて、なんておこがましい。」
レイは、先ほど自分自身が毒を注射したあたりにいたわるように口をつける。
「ごめんなさい。こうでもしないと、あなたは月の勇者に戻れないでしょう。」
その言葉を最後に耳に、テオは意識がなくなった。
テオは重い瞼をゆっくりと開ける。
最初に移ったのは、むきだしの地面だった。
少し体がしびれているが、息苦しさはない。
両手を動かそうとするが、後ろでしばられ、その上どこかに座った状態のまま固定されているようだ。
そのせいで立ち上がることもできなそうだ。
首を持ち上げてあたりを目だけを動かして確認する。
そしてどこにいるかすぐに気づき、血の気が引いていくのがわかる。
今いるのは、ジェイデンの工房だった。
窓から差し込む光は青白い月のもので、夜だということがわかる。
どれくらいたったのかは全くわからない。
が、ものすごく嫌な予感がした。
「月の勇者は孤独であるから強いんです。」
レイが言っていた言葉が蘇る。
テオは孤独でなくてはいけない。
だから、ジェイデンを排除するつもりだとテオはわかった。
あの失礼な女のところでもいい、どうかレイに見つからないところでいつものようにふらふらしていてほしいとテオは祈ることしかできなかった。
が、その願いはすぐに潰えた。
静かに奥のジェイデンの居住スペースにつながる扉が開いた。
そこにテオの一番見たくなかったものが目に映った。
レイが雇ったであろう、ごろつきたちにひきずられるぼろぼろになったジェイデンと、その後ろをゆっくりと歩くレイの姿だ。
テオは叫びたいのに、声はでなかった。
「おはようございます。テオさん。いえ、月の勇者様。今日、あなたを完全に月の勇者に戻して差し上げます。」
レイはテオが目覚めているのに気が付くと、ジェイデンやごろつきたちを押しのけレイのもとへやって来て言った。
レイは蒼い目を輝かせている。
ごろつきたちは、「月の勇者」という単語に反応したのかひそひそと話し始める。
「静かに。」
レイが冷たく言い放つとすぐにごろつきたちは黙った。
静かにするのを確認すると、レイは顔をすぐに笑顔に戻してテオに語りかける。
「今まで長かったですよね。今日はお祝いの日ですから、その前にゆっくりお話しでもしましょう。」
「意味がわからない。自分がなにしてるのかわかってますか?」
テオはできる限りの声を振り絞って言う。
「だから私が説明するって言ってるじゃないですか。少しくらい付き合ってくれてもいいでしょう。それとも、この鍛冶職人の手を使い物にならなくしてほしいですか?」
レイは冷たい目でジェイデンの方見て、首を動かして指し示す。
テオは言葉を飲み込んだ。
それを見てレイは満足そうにする。
「ありがとうございます。私は、あなたを見つけたとき、運命を感じました。覚えていますか?あなたはその昔、私を救ってくれたんです。妾の子だった私は、本妻から虐待を受け、異母兄弟からいじめられていました。父親も見て見ぬふりです。そんなとき、私の目の前にあなたは現れた。父親の不正を暴くためです。そこであなたは私に気が付いた。子供に虐待していると気づくと、その場で父親と本妻に鉄槌を下しました。その後、不正も暴かれ、父親は失脚し、貧乏貴族となり果てました。しかし、そんな中、なぜか私だけ養子に出されました。それもあなたの采配だったことは知ってます。中流の貴族でしたが、前の家族よりもずっと愛してくれました。私はその恩に報いようと努力し、こうして侯爵家に婿養子に入ることまでできました。」
テオは今、思い出した。レイに言われるまでは全く忘れていた出来事だ。
約10年も前のことだし、テオにとっては首をつっこんだ数知れない事件の中の一つに過ぎなかった。
それに、婿養子に入ったことで苗字も変わっている。
気づくわけもなかった。
「私は、無理だとわかっていましたが、ずっとあなたを探していました。そして遂に見つけ出したんです。片田舎で農民に紛れて生活するあなたを見たとき、運命を感じました。誰も見つけられなかったのに自分が見つけられたのは、私があなたを救い出すためだと。それから、あなたを連れて帰って、月の勇者に戻すためにいろいろな努力をしました。孤独になるために、1人の部屋に住まわせたり、周りの人が敬遠するような環境にしたり、体慣らしとしていろんな依頼もしました。」
そこでレイは一息ついてテオをうっとりとした目で見る。
テオは自分を見るレイの目が、おぞましく思えた。
「それでもなかなか戻れませんでした。でも、ついにわかったんです。月の勇者に戻る方法が。今までの過去と区切りをつけるため、この鍛冶職人を殺すんです。」
「なに、言ってるんですか?」
テオは声をのどの奥から絞り出した。
レイはしゃがんでテオを縛っている縄をときながら続ける。
「月の勇者はある鍛冶職人を心を許していたそうですね。知っていますよ。あなたの使っていた剣、この鍛冶職人の祖父がつくったものだったそうですね。それを知ってなにか昔につながるようなものをと思い、この鍛冶職人を雇いましたが、そこから思わぬ収穫がありました。月の勇者の弱さです。テオさんが月の勇者をやめてしまったのは、この鍛冶職人の祖父のせいではないですか?心によりどころができると、人間は弱くなります。月の勇者は人間離れした強さがないといけないんです。」
そういうとレイは立ち上がって、自分の腰にさしてあった剣を引き抜く。
そして持ち手をテオの方に向けた。
「だから、今、ここでその弱さのもとを消し去るんです。そうすればあなたは月の勇者に戻れます。」
テオはゆっくりと立ち上がり、差し出された剣を握る。
テオはジェイデンの祖父に会うまで孤独だった。
家族もはやくに亡くし、生きるために盗みをはたらいていた。
生きるためにいつも人を疑っていたから、信頼できる人なんていなかった。
いつからか鈴の音も聞こえて、大きな屋敷にも盗みに入れるようになった。
生きるために盗みをしていたら、いつからか「月の勇者」なんて大それた名前で自分が噂されているのを知った。
そうやって世間の人たちが自分をほめてくれると、そこが自分の居場所のように思えてきた。
が、ジェイデンの祖父はテオを月の勇者としっていながらも、一人の人としてやさしく接してくれた。
自分の居場所のように思えた。
なんだかすとんと自分にとりついていたものが落ちた気がした。
「レイ、なんだか、私、今、気づいた。」
「そうですか。それはよかったです。」
レイは心の底からうれしそうににっこりと笑う。
テオは剣を持ち、奥へと進む。
ごろつきの足元にぼろぼろのジェイデンがいた。
テオは剣を勢いよく振り上げると、ごろつきのリーダー格の首元で静止した。
「ジェイデンを放して、ここから消えて。さもないとこのまま首をおとす。」
「テオさんっ。何して・・・」
レイはテオが聞いたこともないような大きな声を出す。
テオはレイの方に少し顔を向ける。
それをみたごろつきのリーダー格は、好機とばかりにテオにおそいかかるが、レイは片手で腕をひねりあげ、柄の部分をつかって首のあたりを殴ると、すぐに床にのびた。
テオは残りのごろつきを見る。
その目つきは、ぞっとするほど鋭く、それを見た他のごろつきたちは、倒れている自分たちの仲間を残してすぐに工房から走って逃げて行った。
テオは、ごろつきたちにあきれながらふうっと息をつく。
そしてゆっくりと口を開く。
「レイ。私は月の勇者じゃない。ただのテオだ。」
「いいえ!あなたは月の勇者です!本当はあのころに戻りたいって思ってるのでしょう?」
レイはいつもの冷静さを失っているようだった。
「正直いうと、前までは思ってた。私はかっこよくないといけない。月の勇者でない自分に居場所はないって。でも、もうなれないってわかった。私には音が聞こえない。」
「音?なんのことですか?」
テオは誰にも音のことを話していない。
誰にも聞こえない鈴の音が聞こえるなんて、頭のおかしい奴だと思われるのがおちだからだ。
誰にも話さないつもりだったが、するりと言葉に出ていた。
「とにかく、もう戻れない。戻れなくていい。自分の居場所は月の勇者であることじゃない。」
そういうとテオは剣を手から離した。
かわいた音が工房に反響する。
レイはその場に静かに崩れ落ちた。
それを見るとテオは倒れているジェイデンの両手を縛っている縄を解きにかかる。
「こんなの、ださ。」
うつぶせに倒れているジェイデンの表情は見えないが、意識はあるようで、ジェイデンは小さな声で言った。
「ジェイデン、本当にごめんなさい。」
テオは自分の手元に集中しながら言う。
レイの行動はテオには理解不能だったとはいえ、自分のせいでジェイデンを痛い目に合わせてしまった。
テオから見える範囲でもあざだらけだ。
「あと、正体ばれちゃったね。私のこと通報してもいいよ。そしたら、ちょっとは金になるでしょ。」
テオはいつもの調子で言う。
さきほど、レイがごろつきたちやジェイデンの前で堂々とテオの正体をばらし、テオはそれを認めた。
さきほど逃げ帰っていったごろつきたちが、きっと賞金ほしさに通報するか、どこかに情報を売るだろう。
それだったらいっそジェイデンに通報されて、ジェイデンのもとに金が入ってほしい。
今思いつく、償いの方法はそれくらいだった。
縄をほどき終わると、ゆっくりとジェイデンを支えるように移動させ、あおむけの体制にする。
「苦しくない?とりあえず、冷やすものもってこないと・・・。」
テオがその場を離れようとすると、ジェイデンはテオの服の袖をつかむ。
「テオ、俺はテオが月の勇者だってこと知ってた。」
「え?」
テオは言葉がでず、固まってしまう。
「月の勇者ってなんとなくわかってた。けど、月の勇者じゃないテオのことが好きだ。」
テオの目から自然と涙が流れた。
「なんで泣くんだよ。」
いつものように面倒くさそうにジェイデンが言う。
なぜこんなにやさしいんだろう。
月の勇者じゃない自分を受け入れてくれることが、テオの心をじんわりと温めた。
「わからない。」
テオは涙を袖でぬぐうと、冷やすものを取りに行こうと立ち上がった。
台所の方に向かっているとき、テオはレイがいるはずの場所にいないのに気が付いた。
頭の中がぱっと切り替わり、すぐに行動に出ていた。
急いでひき返し、ジェイデンの方に向かう。
すると、ジェイデンのほうによろめきながら近づくレイを見つけた。
手には、先ほどテオが持っていた剣を持っている。
ジェイデンはそれから逃れようとしているのだが、手足がうまく動かせないようで、その場でじたばたしている。
「レイ!」
テオが叫ぶがそれにもレイは答えない。
テオは無我夢中で走り出す。
次の瞬間、テオの腹に熱が集まり、ものすごい痛みがテオを襲った。
「え?」
目の前にいるレイは、自然にそう声に出してぽかんとした顔でこっちを見ていた。
「テオ!」
ジェイデンの声でレイは我に返る。
自分の手にある剣がテオの腹部を貫通しているのを見ると、わけのわからない言葉を叫んで、すぐに剣を引き抜いた。
それが原因でテオから鮮やかな血が大量にあふれ出す。
テオはその場に崩れ落ち、刺されたところを抑えるが、血はどんどんあふれてくる。
「なんてことを。私は、テオさんを。」
そんなことをレイは繰り返し、なにもできずに立ち尽くしていた。
「あんたは、月の勇者に依存してたんだね。私みたいに。」
テオはぼそっとつぶやくが、それが届いたのかどうかわからない。
遠くでジェイデンの叫ぶ声が聞こえた。
が、なにを言っているのかは聞き取れない。
最後は月の勇者みたいだったなぁなんて、思ってしまった。
テオがゆっくりと目を開けると、薄暗い闇だった。
腹の痛みを感じて、まだここはあの世ではないのかと悟った。
少しやわらかいベッドの上らしく、近くの窓から差し込むかすかな月の光で、そこが見たことない建物だということは分かった。
だんだんといろいろなことが思い出されてきて、すぐに今の状況が知りたくなった。
ジェイデンはどうなったのか、レイはどうなったのか。
重い体を動かし、ベッドから出ようとするが、体はいうことをきいてくれず、すぐに大きな音をたてて盛大にベッドから転げ落ちた。
先ほどまで布団で隠されて気づかなかったが、自分の手足が驚くほどやせこけているのに気が付いた。
すると、階段をのぼる足音がきこえ、ドアの方を凝視する。
ドアが勢いよく開くと、松葉杖をついたジェイデンがいた。
「テオ。」
ジェイデンはそうつぶやくと、こちらに急いで来るとテオの近くに座り込み、テオを抱きしめた。
「もう死んじゃうかと思った。」
震える声でジェイデンは言う。
声を出そうとするが、思うように言葉にでず、黙った。
人の体温が暖かかった。
そのあと、いろいろとテオはジェイデンに教えてもらった。
今いるのは、ジェイデンの祖先がその昔住居にしていた場所で、工房からはだいぶはなれた場所にあるらしい。
あの事件から1か月ほどテオは目覚めなかったそうだ。
ジェイデンの方は、数か所の骨折で済んでいるため、自力で生活できているそうだ。
あの事件のことは、公にされておらず、強盗がジェイデンに負傷させたということになっていた。
そのためレイは普通に暮らしているらしいが、侯爵家の当主は最近病気でふせっているという噂が流れている。
テオはもともとその事件の現場にはいないことになっている。
「侯爵、テオのことだいぶショックを受けてるらしい。まあ、自業自得だけど。」
「そう。でも、あの子は私のせいで、ありもしないものに依存しないと生きていけない人になってしまった。」
テオは、遠い昔の少年時代のレイのことを思い出す。
一番愛されたかった家族に愛されなかった。
そこに現れた月の勇者は子供のレイにどう映ったのだろう。
テオは何も考えず、ただ自分の正義感に任せてあの子の家族を陥れた。
レイは月の勇者を救世主だと思わないとやっていけなかったのかもしれない。
「ジェイデン、本当にごめんなさい。巻き込んでしまって。それなのに、私のことも面倒みてくれて。」
「俺は自分から、巻き込まれにいったんだ。だから謝る必要なんてない。むしろお礼をいわなきゃいけないと思ってた。あのとき、守ってくれたから。ありがとう。」
ジェイデンはテオの手に自分の手を重ねる。
「ねえ、テオはこれからどうするの?」
「何も考えてない。」
「それならさ、ずっとここにいればいい。テオはもう十分頑張ったから、もう好きに生きたらいい。ここだったら、衛兵に見つかることもないし、都からも遠いからテオのことを知ってる人もいない。」
「ジェイデンはどうするの?」
「俺はテオさえ居てくれればそれでいい。」
それが楽なのかもしれない。
自分のことを必要としてくれる人がいる。
テオはそう思ったが、そっとジェイデンが重ねている手をどけて、自分の手をひっこめた。
「でも、他にジェイデンのことを好いている女の子はどうするの?」
「縁を切るよ。俺は、本当にテオがいてくれたらそれでいいから。」
まっすぐな目は、こちらがそんなことできやしないと疑っていることを申し訳なく思わされるようなものだった。
「考えとく。」
テオはジェイデンとは目を合わせずに答えた。
ジェイデンは、今この瞬間は純粋にテオといたいと思ってくれているのだろう。
おそらく恋愛感情というものでだ。
だが、そのジェイデンの好きはたくさんあるのだ。
それに、自分のことを必要とする人に迎合して、自分の見たいものだけ見てきて、そのしっぺ返しに今みたいなことが起こったのかもしれない。
それなのに、また同じことを繰り返そうとしていることにテオは気づいた。
数週間がたった。
いつものようにジェイデンが起きると、やけに家が静かだった。
テオは使用人の頃の習慣からか、早起きだった。
いつもなら忙しくしている時間なのに、全くその気配がない。
急いでテオの部屋にいくと、そこはもぬけの殻で、きれいに整頓してあった。
ゆっくりとベッドの方に近づくと、そこに書置きがあるのを見つけて、手に取る。
「今までありがとう。ごめんなさい。」
それだけ書いてあった。
テオは、だいぶ体調を回復させた。
ジェイデンも順調に回復していて、平和な時間が流れた。
このままずっと、こんな時間が続くと思っていたが、それはいきなり終わった。
心に大きな穴が開いたようだった。
なぜか涙がこぼれた。
が、テオらしい決断だと心のどこかで思った。
数年後。
銀髪の女が雑踏に紛れ、歩いていた。
都は昔とかわらずにぎわっている。
が、数年前と違うのは、礼拝堂が増えたことだ。
噂によると、アルマンディン侯爵の後押しがあって、司祭の力が強くなったそうだ。
都へ戻ってきた理由はこれだ。
異教徒を排斥するような風潮があるらしく、不穏な動きがあるらしい。
あの怪物を生み出した責任は、自分にあるとテオは思っている。
が、その前に寄っておかなければならない場所がある。
懐かしい道を記憶をたどりながら進むと、まだそこには工房があった。
「ごめんください。」
そういって扉をあけると、元気よくまだ10歳くらいの男の子が出迎えてくれた。
「ごめんなさい。師匠は今、作業中なんです。」
「そうですか。出直した方がいいですか?」
テオは少しかがんで男の子に聞く。
「いえ、もう少しでひと段落だと思うのでお時間あったら待っててください!」
そういうと男の子は奥にひっこんだ。
工房では静かにジェイデンが作業をしていて、こちらに気づく様子もない。
それをまじまじと見ていると、ひと段落したようでジェイデンはこちらを向いた。
すると一瞬びっくりした顔になるが、またいつもの顔に戻す。
「盗み見は趣味悪いって言ってたよね?」
「ごめんなさい。つい。」
テオはジェイデンの方を向き直る。
「今日は、剣を作ってほしくて依頼にきました。お願いできますか?」
「もちろんだよ。」
その時、なにか鈴のような音が聞こえた。
何かが動きだすときの音だった。
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