29 / 81
第四章 「異界の森の住人」
第二十七話「過去の誓い、今世で果たすために」
しおりを挟む
──空気が、震えた。
夜が深まる前のはずなのに、周囲はまるで闇の底にいるかのように息苦しい。
まるで何かが、そこに"存在している"とでもいうような、不快な圧力が漂っている。
「……よく顔を見せる気になりましたわね。まだ日は暮れていませんのよ? 貴方は夜に近づくほど強くなる、そのはずですわ」
声を張るが、喉が引きつる。
ここにいるだけで、背筋が凍るような悪寒が走る。
足元が地に着いている感覚すら、どこか曖昧に思えてしまうほどに。
「フッフフフフ……」
不気味な笑いが、喉の奥から漏れ出した。
それは、ただの"声"ではない。
──意識を腐らせるような、耳に残る"呪詛"だった。
黒い外套を羽織った男が、リリアナの目の前に立っていた。
フードの奥から覗く口元は歪んだ笑みを浮かべているが、その眼光だけは鋭い。
まるで、目の前の獲物をどう料理してやるか思案しているかのように。
(昼間だというのに、この威圧感……)
肌にまとわりつくような、不快な圧迫感。
かつて二度戦った時とは違う。
あの時よりも、確実に"濃くなっている"。
そして何より──
昼間に現れたこと自体が、得体の知れない不安を煽る。
(いや、違う。これは……わざと、ですわね)
今まで"夜"にしか現れなかった男が、昼間に現れる。
普通なら、それは"不利な状況"を自ら作る愚行。
だが──彼は、それを理解した上でここにいる。
「ここまで顔を合わせておきながら、私、まだ貴方のことを何も知りませんわ。いい加減その顔と名前を教えてくださいませ!」
リリアナは剣を握り締め、相手の動きを見逃さぬよう視線を固定する。
「リリアナさん。これは僕からのアドバイスです」
静かな声が、隣から届いた。
声の主はアスフィ。
彼は先ほどから一歩も動かず、ただ静かに相手を見つめている。
「敵が本来不利な状況にも関わらず姿を現すということは、つまり──確実に獲物を狩る準備が整っているということです」
「え、ええ。もちろん分かっていますわよ!?」
リリアナは胸の奥で息を整え、緊張を押し殺した。
だが──この言葉が、後に現実となる。
「……誰だ、お前。見たことねぇな」
男がアスフィに目を向ける。
その視線にはわずかな興味が滲んでいたが、すぐに獲物を見定める捕食者の目に戻った。
「そりゃ当たり前ですよ。今知り合ったんですから」
アスフィは柔らかな笑みを浮かべて返す。
だが、その言葉に込められた"何か"に、男が舌打ちする。
「ああ、そうかい。つまり、死にたいってことだな~? そうだよなぁっ!!」
叫ぶや否や、男が地を蹴った。
その動きは、地面を割るほどに力強く、両手に握られた刃物が陽光を弾くように閃いた。
まるで光が刃の鋭さを誇示するように。
(こいつ……やはり、速い……!)
これまでの戦いで、この男が接近戦を得意とすることは理解していた。
だが、昼間でもこれほどの速度を維持できるとは──。
肉迫する殺気に、リリアナは瞬時に剣を構えた。
「アスフィさんには傷一つ付けさせませんわ!」
間に割り込み、相手の進路を遮るように一歩踏み出す。
全身の神経が研ぎ澄まされる。
目の前の刃先、男の呼吸、踏み込みの深さ、腕の動き──全てを視界に収めた。
(この男……何を考えていますの?)
戦いの中で、何かが"引っかかる"。
いつものように、ただ純粋な殺意をぶつけているだけではない。
彼の動きには、確実に"狙い"がある。
(夜でもないのに正面から来る。手に持つ武器は同じ。これは……)
「なら私も! 全力で行かせてもらいますわ!」
声に力を込め、戦闘スキルを発動する。
「《剣聖》!」
全身に力が湧き上がる。
視界が一瞬で鮮明になる。
空気の流れ、相手の筋肉の動き、地を蹴る感触──全てが手に取るように理解できる。
剣を握る右手に熱が宿るのを感じながら、リリアナは踏み込んだ。
「へっ! 待ってたぜ、この瞬間をっ!!」
「なっ──!?」
男の口元が、確信に満ちた笑みに変わった。
それと同時に──
「影牙の双刃の本質は『奪う』モノだ。お前のその妙な力は俺のものだっ! 今こそ真の力を見せる時だ"影牙"っ!! 『日陰者に幸あれ──』」
(何ですの!?)
「『強奪』っ!!」
一瞬のうちに、体が重くなる。
視界の鮮明さが失われ、空気の流れが再び不明瞭になる。
指先から感覚が鈍くなり、思考が遅れを取る。
まるで、意識の一部を掴まれたかのような感覚だった。
「……お、おおおおっ! すげぇなこりゃ! お前の動きが良く見えるぜ!」
「……そんな……まさか私の《剣聖》が奪われた?」
(アレがなければ──!)
《剣聖》を失った今、戦いの優位は一気に失われた。
これまで培ってきた経験と鍛錬だけでは、この男を相手にするには厳しすぎる。
そして、男の"真の狙い"が明らかになる。
「無駄だ、令嬢さんよ? 今までお前が使っていたものは、もう俺様のものだ。動きが遅すぎるぜ?」
男がにやりと笑い、刃を構えた瞬間──
リリアナの背筋に、"死"の感覚が駆け抜けた。
(まずい……このままじゃ……!!)
──その時、リリアナの視界が赤に染まった。
「っ!?」
遅れて響いたのは、肉を断つ鈍い音。
骨を砕く感触。
肌を裂く鋭い痛み。
(何が……起きたの……?)
視線を落とすと、そこには──
血まみれの左腕が転がっていた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
喉が裂けるような悲鳴が、森の中に響く。
それが自分の声だと気づくまで、しばらく時間がかかった。
痛みが遅れてやってくる。
尋常ではない熱と、冷たさが同時に走る。
目の前の光景が歪む。
呼吸ができない。
意識が、遠のく。
(左手が……ない……? うそ、そんな……)
腕の断面から、血が滝のように流れ落ちる。
鉄の匂いが鼻を突き刺し、視界が紅に染まる。
体が、震える。
(わたし……左腕……失った?)
「ギャハハハハハハハッ!! どうだぁ!? これが俺様の"強奪"の力だぁ!! これで終わりだなぁ!? んん!? どんな気分だよぉ、お姫様ぁ!!」
男が笑い、血濡れの刃を突きつける。
自分の血が飛び散ったその刀身が、あまりにも禍々しく見えた。
(わたし……このまま、殺される……?)
立ち上がる力が出ない。
意識が飛びそうになる。
痛みと恐怖が脳を支配し、思考を奪っていく。
(いや……そんなの……いや……!!)
「『ハイヒール』」
不意に、誰かの声が聞こえた。
同時に、体を覆う淡い光が視界を満たす。
(ああ……これは……)
痛みが引いていく。
焼けつくような苦痛が、まるで夢のように消えていく。
血の匂いも薄れ、体が再び自分のものに戻っていく感覚だった。
「な、な、なんだと!? バカな! そんなことが──」
「さぁ、まだ終わっていませんよ。"リリアナ"」
誰かの声が、意識の奥に届く。
(……ああ、そうか。わたし、取り乱しちゃったんだ。恥ずかしいところ見せちゃったな)
そう、これはまだ"終わり"じゃない。
命を失う覚悟でここまで来たのに、左腕を失ったくらいで何を動揺しているのか。
もう、大丈夫。
「……私の……剣を……返して……」
「はぁ? まだやる気かぁ? いいぜぇ! 何度でも、切り刻んでやるよおおお!!」
男が再び地を蹴った。
狩りの時間は、まだ終わらない。
(終わるわけ、ないでしょう……!)
◆◆◆
──頭の奥に、古い記憶が蘇る。
息が詰まるような、冷たい空間。
目の前に座るのは、机越しにこちらを見下ろす上司。
「ねぇ、叶さん? あなた、こんなこともできない訳?」
何気ない問いかけのようでいて、その声には棘があった。
否定を許さない、相手を責め立てるためだけの言葉。
「すみません……」
喉が詰まり、声が震える。
何度目の謝罪だろうか。
数え切れないほどの「すみません」が、胸の奥に重く積もっていく。
「すみませんって、何回目よそれ。……そういえば、あなた、うちの会社がブラック企業だって愚痴ってたらしいじゃない?」
「──っ!? い、いえ、そんなことは──」
「社員の子から聞いたのよ。……叶さんさぁ、もう辞めてくれない? うちも大きい会社じゃないからさ、無能な社員は要らないのよ。最初は人手が足りないから、根暗そうだけど仕事してくれるならって思って採用したけどね。もうここも随分と人手も揃ったし、あなたもう"邪魔"なのよ。こっちから一方的に首にするのもヤな感じだし、叶さんの方から辞めてくれない?」
(……邪魔、か)
喉の奥がひどく熱くなり、言葉が出ない。
自分なりに努力してきたつもりだった。
それでも、評価するのはいつも"他人"であって、"自分"ではない。
(頑張れば報われる、なんて嘘。努力が認められるなんて幻想。ただ、価値があると思われるかどうかは、他人が決めること──)
そう、何もかもが"決められて"いる。
だから、自分がどれだけ必死に生きても、それが無意味なら、存在する価値すら否定される。
「……すみません、今まで以上に頑張ります」
苦し紛れに出た言葉だった。
だが、それすら──
「え。ここまで言われても辞めないの? 本当に? ……はぁ、ならその言葉、しっかり有言実行しなさいよ。もし次ミスしたらどうなるか知らないからね」
上司は、呆れたように言い捨てた。
もはや会話ですらない。
ただ、自分という存在を押し潰すための"処理"に過ぎなかった。
(……よし、頑張ろう)
それでも。
それでも、自分の力で掴み取る。
──それこそが、私の"人生"だ。
◆◆◆
「はああああああああああああああああっ!!」
叫びと共に、リリアナは地を蹴った。
その瞬間、焔銀の剣が真紅の光を纏う。
まるで血の滴るような深い赤が刃全体に走り、空気を震わせた。
「なっ!? はや──」
男の驚愕が、一瞬遅れた。
赤く染まった刃が、風を裂き、空間すら切り裂いてゆく。
その動きは、《剣聖》を失ったはずのリリアナが、本来持ち得ない速さだった。
「これが……私の力ですわああああああああああああああああああああっ!!」
紅の剣閃が唸りを上げ、男の腹を一突きに貫いた。
「んぎゃああああああああああああああっ!!!」
男の体が弓なりに反り、口から血の泡を吹く。
外套が裂け、腹部から迸る血が地面を濡らす。
刃を引き抜いた瞬間、肉を断つ感触と共に、鮮血が弧を描いた。
「ギ……ギャハ……ギャ……」
笑い声はもはや声にならず、喉の奥で潰えた呻きとなる。
それでも、男は倒れない。
「お、お……れ、は、ま、だ──」
「黙りなさい!!」
叫びと共に、リリアナは剣を振り上げた。
そして──
「これで……終わりですわあああああああああああああああっ!!」
最後の一撃が男の首筋を正確に捉え、重い音を立てて肉と骨を断ち切った。
「──っ……!!」
刃が血を弾き、男の体がその場に崩れ落ちる。
あれほどの威圧感を放っていた存在は、もう二度と動くことはなかった。
「……ハァ……ハァ……やりました……わ……ミレー……ヌ……」
血の匂いが鼻を突き、喉に鉄の味が広がる。
だが、それでも戦いは終わった。
(勝った……これで、前に進める……!)
そう思った瞬間──力が抜け、地面に膝をついた。
(体が……動かない……っ)
膝をついたその場所に、赤い血の水たまりが広がっていた。
それが自分の血か、男の血かはもう分からない。
視界が揺れ、意識が薄れていく。
(でも……これで、もう邪魔する者はいませんわ……)
かすかに微笑み、リリアナはその場に倒れ込んだ。
「リリアナさんっ!!」
意識の途切れる寸前、誰かの声が耳に届いた。
それがアスフィの声だと気付く前に、視界は静かな闇に覆われていった。
夜が深まる前のはずなのに、周囲はまるで闇の底にいるかのように息苦しい。
まるで何かが、そこに"存在している"とでもいうような、不快な圧力が漂っている。
「……よく顔を見せる気になりましたわね。まだ日は暮れていませんのよ? 貴方は夜に近づくほど強くなる、そのはずですわ」
声を張るが、喉が引きつる。
ここにいるだけで、背筋が凍るような悪寒が走る。
足元が地に着いている感覚すら、どこか曖昧に思えてしまうほどに。
「フッフフフフ……」
不気味な笑いが、喉の奥から漏れ出した。
それは、ただの"声"ではない。
──意識を腐らせるような、耳に残る"呪詛"だった。
黒い外套を羽織った男が、リリアナの目の前に立っていた。
フードの奥から覗く口元は歪んだ笑みを浮かべているが、その眼光だけは鋭い。
まるで、目の前の獲物をどう料理してやるか思案しているかのように。
(昼間だというのに、この威圧感……)
肌にまとわりつくような、不快な圧迫感。
かつて二度戦った時とは違う。
あの時よりも、確実に"濃くなっている"。
そして何より──
昼間に現れたこと自体が、得体の知れない不安を煽る。
(いや、違う。これは……わざと、ですわね)
今まで"夜"にしか現れなかった男が、昼間に現れる。
普通なら、それは"不利な状況"を自ら作る愚行。
だが──彼は、それを理解した上でここにいる。
「ここまで顔を合わせておきながら、私、まだ貴方のことを何も知りませんわ。いい加減その顔と名前を教えてくださいませ!」
リリアナは剣を握り締め、相手の動きを見逃さぬよう視線を固定する。
「リリアナさん。これは僕からのアドバイスです」
静かな声が、隣から届いた。
声の主はアスフィ。
彼は先ほどから一歩も動かず、ただ静かに相手を見つめている。
「敵が本来不利な状況にも関わらず姿を現すということは、つまり──確実に獲物を狩る準備が整っているということです」
「え、ええ。もちろん分かっていますわよ!?」
リリアナは胸の奥で息を整え、緊張を押し殺した。
だが──この言葉が、後に現実となる。
「……誰だ、お前。見たことねぇな」
男がアスフィに目を向ける。
その視線にはわずかな興味が滲んでいたが、すぐに獲物を見定める捕食者の目に戻った。
「そりゃ当たり前ですよ。今知り合ったんですから」
アスフィは柔らかな笑みを浮かべて返す。
だが、その言葉に込められた"何か"に、男が舌打ちする。
「ああ、そうかい。つまり、死にたいってことだな~? そうだよなぁっ!!」
叫ぶや否や、男が地を蹴った。
その動きは、地面を割るほどに力強く、両手に握られた刃物が陽光を弾くように閃いた。
まるで光が刃の鋭さを誇示するように。
(こいつ……やはり、速い……!)
これまでの戦いで、この男が接近戦を得意とすることは理解していた。
だが、昼間でもこれほどの速度を維持できるとは──。
肉迫する殺気に、リリアナは瞬時に剣を構えた。
「アスフィさんには傷一つ付けさせませんわ!」
間に割り込み、相手の進路を遮るように一歩踏み出す。
全身の神経が研ぎ澄まされる。
目の前の刃先、男の呼吸、踏み込みの深さ、腕の動き──全てを視界に収めた。
(この男……何を考えていますの?)
戦いの中で、何かが"引っかかる"。
いつものように、ただ純粋な殺意をぶつけているだけではない。
彼の動きには、確実に"狙い"がある。
(夜でもないのに正面から来る。手に持つ武器は同じ。これは……)
「なら私も! 全力で行かせてもらいますわ!」
声に力を込め、戦闘スキルを発動する。
「《剣聖》!」
全身に力が湧き上がる。
視界が一瞬で鮮明になる。
空気の流れ、相手の筋肉の動き、地を蹴る感触──全てが手に取るように理解できる。
剣を握る右手に熱が宿るのを感じながら、リリアナは踏み込んだ。
「へっ! 待ってたぜ、この瞬間をっ!!」
「なっ──!?」
男の口元が、確信に満ちた笑みに変わった。
それと同時に──
「影牙の双刃の本質は『奪う』モノだ。お前のその妙な力は俺のものだっ! 今こそ真の力を見せる時だ"影牙"っ!! 『日陰者に幸あれ──』」
(何ですの!?)
「『強奪』っ!!」
一瞬のうちに、体が重くなる。
視界の鮮明さが失われ、空気の流れが再び不明瞭になる。
指先から感覚が鈍くなり、思考が遅れを取る。
まるで、意識の一部を掴まれたかのような感覚だった。
「……お、おおおおっ! すげぇなこりゃ! お前の動きが良く見えるぜ!」
「……そんな……まさか私の《剣聖》が奪われた?」
(アレがなければ──!)
《剣聖》を失った今、戦いの優位は一気に失われた。
これまで培ってきた経験と鍛錬だけでは、この男を相手にするには厳しすぎる。
そして、男の"真の狙い"が明らかになる。
「無駄だ、令嬢さんよ? 今までお前が使っていたものは、もう俺様のものだ。動きが遅すぎるぜ?」
男がにやりと笑い、刃を構えた瞬間──
リリアナの背筋に、"死"の感覚が駆け抜けた。
(まずい……このままじゃ……!!)
──その時、リリアナの視界が赤に染まった。
「っ!?」
遅れて響いたのは、肉を断つ鈍い音。
骨を砕く感触。
肌を裂く鋭い痛み。
(何が……起きたの……?)
視線を落とすと、そこには──
血まみれの左腕が転がっていた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
喉が裂けるような悲鳴が、森の中に響く。
それが自分の声だと気づくまで、しばらく時間がかかった。
痛みが遅れてやってくる。
尋常ではない熱と、冷たさが同時に走る。
目の前の光景が歪む。
呼吸ができない。
意識が、遠のく。
(左手が……ない……? うそ、そんな……)
腕の断面から、血が滝のように流れ落ちる。
鉄の匂いが鼻を突き刺し、視界が紅に染まる。
体が、震える。
(わたし……左腕……失った?)
「ギャハハハハハハハッ!! どうだぁ!? これが俺様の"強奪"の力だぁ!! これで終わりだなぁ!? んん!? どんな気分だよぉ、お姫様ぁ!!」
男が笑い、血濡れの刃を突きつける。
自分の血が飛び散ったその刀身が、あまりにも禍々しく見えた。
(わたし……このまま、殺される……?)
立ち上がる力が出ない。
意識が飛びそうになる。
痛みと恐怖が脳を支配し、思考を奪っていく。
(いや……そんなの……いや……!!)
「『ハイヒール』」
不意に、誰かの声が聞こえた。
同時に、体を覆う淡い光が視界を満たす。
(ああ……これは……)
痛みが引いていく。
焼けつくような苦痛が、まるで夢のように消えていく。
血の匂いも薄れ、体が再び自分のものに戻っていく感覚だった。
「な、な、なんだと!? バカな! そんなことが──」
「さぁ、まだ終わっていませんよ。"リリアナ"」
誰かの声が、意識の奥に届く。
(……ああ、そうか。わたし、取り乱しちゃったんだ。恥ずかしいところ見せちゃったな)
そう、これはまだ"終わり"じゃない。
命を失う覚悟でここまで来たのに、左腕を失ったくらいで何を動揺しているのか。
もう、大丈夫。
「……私の……剣を……返して……」
「はぁ? まだやる気かぁ? いいぜぇ! 何度でも、切り刻んでやるよおおお!!」
男が再び地を蹴った。
狩りの時間は、まだ終わらない。
(終わるわけ、ないでしょう……!)
◆◆◆
──頭の奥に、古い記憶が蘇る。
息が詰まるような、冷たい空間。
目の前に座るのは、机越しにこちらを見下ろす上司。
「ねぇ、叶さん? あなた、こんなこともできない訳?」
何気ない問いかけのようでいて、その声には棘があった。
否定を許さない、相手を責め立てるためだけの言葉。
「すみません……」
喉が詰まり、声が震える。
何度目の謝罪だろうか。
数え切れないほどの「すみません」が、胸の奥に重く積もっていく。
「すみませんって、何回目よそれ。……そういえば、あなた、うちの会社がブラック企業だって愚痴ってたらしいじゃない?」
「──っ!? い、いえ、そんなことは──」
「社員の子から聞いたのよ。……叶さんさぁ、もう辞めてくれない? うちも大きい会社じゃないからさ、無能な社員は要らないのよ。最初は人手が足りないから、根暗そうだけど仕事してくれるならって思って採用したけどね。もうここも随分と人手も揃ったし、あなたもう"邪魔"なのよ。こっちから一方的に首にするのもヤな感じだし、叶さんの方から辞めてくれない?」
(……邪魔、か)
喉の奥がひどく熱くなり、言葉が出ない。
自分なりに努力してきたつもりだった。
それでも、評価するのはいつも"他人"であって、"自分"ではない。
(頑張れば報われる、なんて嘘。努力が認められるなんて幻想。ただ、価値があると思われるかどうかは、他人が決めること──)
そう、何もかもが"決められて"いる。
だから、自分がどれだけ必死に生きても、それが無意味なら、存在する価値すら否定される。
「……すみません、今まで以上に頑張ります」
苦し紛れに出た言葉だった。
だが、それすら──
「え。ここまで言われても辞めないの? 本当に? ……はぁ、ならその言葉、しっかり有言実行しなさいよ。もし次ミスしたらどうなるか知らないからね」
上司は、呆れたように言い捨てた。
もはや会話ですらない。
ただ、自分という存在を押し潰すための"処理"に過ぎなかった。
(……よし、頑張ろう)
それでも。
それでも、自分の力で掴み取る。
──それこそが、私の"人生"だ。
◆◆◆
「はああああああああああああああああっ!!」
叫びと共に、リリアナは地を蹴った。
その瞬間、焔銀の剣が真紅の光を纏う。
まるで血の滴るような深い赤が刃全体に走り、空気を震わせた。
「なっ!? はや──」
男の驚愕が、一瞬遅れた。
赤く染まった刃が、風を裂き、空間すら切り裂いてゆく。
その動きは、《剣聖》を失ったはずのリリアナが、本来持ち得ない速さだった。
「これが……私の力ですわああああああああああああああああああああっ!!」
紅の剣閃が唸りを上げ、男の腹を一突きに貫いた。
「んぎゃああああああああああああああっ!!!」
男の体が弓なりに反り、口から血の泡を吹く。
外套が裂け、腹部から迸る血が地面を濡らす。
刃を引き抜いた瞬間、肉を断つ感触と共に、鮮血が弧を描いた。
「ギ……ギャハ……ギャ……」
笑い声はもはや声にならず、喉の奥で潰えた呻きとなる。
それでも、男は倒れない。
「お、お……れ、は、ま、だ──」
「黙りなさい!!」
叫びと共に、リリアナは剣を振り上げた。
そして──
「これで……終わりですわあああああああああああああああっ!!」
最後の一撃が男の首筋を正確に捉え、重い音を立てて肉と骨を断ち切った。
「──っ……!!」
刃が血を弾き、男の体がその場に崩れ落ちる。
あれほどの威圧感を放っていた存在は、もう二度と動くことはなかった。
「……ハァ……ハァ……やりました……わ……ミレー……ヌ……」
血の匂いが鼻を突き、喉に鉄の味が広がる。
だが、それでも戦いは終わった。
(勝った……これで、前に進める……!)
そう思った瞬間──力が抜け、地面に膝をついた。
(体が……動かない……っ)
膝をついたその場所に、赤い血の水たまりが広がっていた。
それが自分の血か、男の血かはもう分からない。
視界が揺れ、意識が薄れていく。
(でも……これで、もう邪魔する者はいませんわ……)
かすかに微笑み、リリアナはその場に倒れ込んだ。
「リリアナさんっ!!」
意識の途切れる寸前、誰かの声が耳に届いた。
それがアスフィの声だと気付く前に、視界は静かな闇に覆われていった。
42
あなたにおすすめの小説
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
ギルドの片隅で飲んだくれてるおっさん冒険者
哀上
ファンタジー
チートを貰い転生した。
何も成し遂げることなく35年……
ついに前世の年齢を超えた。
※ 第5回次世代ファンタジーカップにて“超個性的キャラクター賞”を受賞。
※この小説は他サイトにも投稿しています。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
魔晶石ハンター ~ 転生チート少女の数奇な職業活動の軌跡
サクラ近衛将監
ファンタジー
女神様のミスで事故死したOLの大滝留美は、地球世界での転生が難しいために、神々の伝手により異世界アスレオールに転生し、シルヴィ・デルトンとして生を受けるが、前世の記憶は11歳の成人の儀まで封印され、その儀式の最中に前世の記憶ととともに職業を神から告げられた。
シルヴィの与えられた職業は魔晶石採掘師と魔晶石加工師の二つだったが、シルヴィはその職業を知らなかった。
シルヴィの将来や如何に?
毎週木曜日午後10時に投稿予定です。
ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?
音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。
役に立たないから出ていけ?
わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます!
さようなら!
5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
異世界スローライフ希望なのに、女神の過保護が止まらない
葉泪秋
ファンタジー
HOTランキング1位感謝です!(2/3)
「小説家になろう」日間ランキング最高11位!(ハイファンタジー)
ブラック企業で過労死した俺、佐久間遼。
神様に願ったのは、ただ「異世界で、畑でも耕しながらのんびり暮らしたい」ということだけ。
そうして手に入れた、辺境の村での穏やかな日々。現状に満足し、今度こそは平穏なスローライフを……と思っていたのだが、俺の妙なスキルと前世の社畜根性が、そうはさせない。
ふとした善意で枯れた井戸を直したことから、堅物の騎士団長やら、過保護な女神やらに目をつけられることになる。
早く穏やかに暮らしたい。
俺は今日も、規格外に育った野菜を手に、皆の姿を眺めている。
【毎日18:00更新】
※表紙画像はAIを使用しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる