かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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2.秘密に触れる

2-③

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 家に帰ってもシュウのことが頭から離れなかった。帰宅すると先に食事がはじまっていた。食欲なんてないと思っていた。でも食卓に並んだ料理を見て、自分が空腹だったことを思いだした。ずっと縮こまっていた胃が、食べものを求めて空間を作ったような気がした。こういうとき、若さというのは感傷的ではないと思う。
「明くんどうしたの、元気ないのね」
「なんでもない」
 どうしたの、と訊かれても答えられるわけがなかった。もしあれが俺の想像しているものなのだとしたら、シュウにとって絶対に知られたくない秘密に違いないからだ。
「明くん、最近ずっと変なんだもの。あんまり走りすぎないで、友達と遊んだりしなさいね」
 友達というそのことばに、母からは見えないように唇を歪めた。あんなところを見られたら、シュウは俺を避けるだろうか。もう二度と、友達のようにはふるまわないかもしれない。そしてそんなシュウを、俺は追いかけられない。きっとまたあのときみたいに逃げるだけだ。
 いつものように練習着を洗おうとセカンドバッグを開いたとき、普段ならそこにあるはずの救急セットがないことが、今日のできごとの異質さを物語っていた。シュウはきちんと処置をしただろうか。病院にいかなくてもだいじょうぶなのだろうか。
 自分の部屋のベッドに寝転がって、天井に向かって左手を伸ばす。シュウの左腕には、いったいどんな傷があったんだろう。
 痛いんだろうか。痛いに決まってるな。そんなことを考えながら自分の腕に触ってみる。筋肉の弾力が指を押し返した。青く見える血管をなぞってみると、また吐き気がした。
 俺の部屋にはエアコンがない。風呂あがりの蒸し暑さが、そのまま肌のうえに汗となって浮かんでいた。
 明日、シュウとどんな風に話をすればいいのか、考えても考えてもわからなかった。肌に触れる綿の布団がざらざらしているように感じる。布団の質感なんて、いつもは気にならないのに。
 目を閉じるとあいつの白い肌と真っ赤な血の色が浮かんできて、俺は眠れないまま朝を迎えた。
 学校へいくのは気が重かった。暗い空から雨が降っているからなおさらだ。バスに乗りこんで、吊革を握った自分の腕を眺めると、シュウの顔が浮かんだ。車体の揺れに耐える足も重い。俺がこんなふうになっているんだから、シュウはどんな気分でいるだろう。
 もしかしたら学校にはこないかもしれない。
 そんな俺の予想は、あっさりと裏切られた。雨粒がついたガラスが光る窓辺の席に、シュウはいつもどおりの様子で座っていた。クラスメイトが発する喧騒のなかで、武本となにやらたのしそうに話している。武本は俺の席に座って、シュウは後ろを向いていた。俺が教室に入っていくと、真っ先にシュウが気づく。その表情には、なんの変化も見られなかった。
「シュウ」
 呼びかけると、シュウはきょとんとした顔で首を傾げた。となりで武本も、あいさつもなしにいきなりシュウだけに声をかけた俺を不思議そうに見ている。シュウをじっと見つめてみても、その焦げ茶の瞳に揺れはなかった。こいつは、ほんとうに昨日トイレで見たシュウとおなじ人物なんだろうか。昨日のできごとは、俺の夢だったのかもしれない。あまりにも普段と変わらない様子に、俺のほうがたじろいでしまう。
 ふと気になって、机のうえに置かれたシュウの左腕に視線を寄せる。俺の視線が動いたことを認めた瞬間、シュウはほんのわずか怯えた表情をした。一瞬張りつめた空気はすぐもとに戻ったけれど、さっきまで適当に投げ出されていた腕に力が入ったのがわかった。
 俺の視線を振りきるように、シュウがリュックに手を突っこむ。
「明、これ」
 そう言ってシュウが差し出したのは、俺が渡した救急セットだった。黒い巾着のそれを見て、昨日見たシュウの姿は幻なんかではなかったことを知る。
 気にしていないのかと思った。でも、そんなことあるわけがないのだ。シュウは俺に見られたことを気にしている。そして俺が知ったシュウの行為は、予想したとおり、こいつが自分でやったものに間違いない。
 そこまで思考がめぐって、俺はなにも言えなくなってしまった。シュウはすっかり平静を取り戻してまっすぐにこちらを見ている。動かなくなった俺を訝しんでいる武本からは見えていないだろうが、俺に向かってくるシュウの視線は鋭かった。
「それ明の救急セットじゃん。なんでシュウが持ってんの」
「ちょっとね」
 拒絶されている、と肌で感じた。俺からなにか告げられることを、シュウはよしとしていない。
「はいはいホームルームはじめるよ」
 教室に入ってきた担任の声で、ざわついた教室の音が一気に耳に戻ってくる。
「まあ、じゃな」
 俺とシュウの顔を恐るおそる見比べながら武本が自分の席に帰っていく。その途中で背中を押されて、自分の席によろけながら座った。シュウが身体を前に向けるのと同時に俺のことを横目で射るように見る。それは、釘を刺す視線だった。
 担任が毎朝繰り返される点呼をしている。机のうえに置かれたままの救急セットに気づいて、中身を確認する。俺が適当に結んだままの紐を見ると、消毒液を使うどころか巾着を開けてすらいないようだった。シュウは、あくまで俺に関わってほしくないのだ。乱暴に巾着の紐を引いて、セカンドバッグのなかに押しこんだ。
「剣持」
「はい」
 自分の番が終われば、あとはぼうっとしていても許された。目の前に座るシュウの、蛍光灯を浴びて光を反射する白い背中を見つめる。拒絶された。その薄い背中の奥にあるシュウの気持ちに、俺は触れさせてもらえなかった。
 予想していたはずなのに、ショックを受け入れられずにいた。もしかしたら、あのときの罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。彼女とシュウを重ねていた自分が哀れに思えた。シュウに避けられたという事実が、蒸し暑い空気と一緒に肺を埋めていく。
 担任の目を見て話を聞くシュウは、今なにを考えているんだろうか。真後ろからすこしだけ見えるシュウの頬の曲線を、目を細めて見てみる。俺は、シュウになんと言うつもりだったんだろう。
 彼女になにも言うことができなかった自分を思いだす。ずっと待っていてくれたはずなのに、言えなかったことばがある。でもそのことばがいったいなんだったのか、いまになっても見つけられていなかった。
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