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2.どうしてあなたじゃないんだろう
2-②
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目が覚めると、部屋のなかは薄暗かった。寝起きで鈍った頭をフル回転させて、いまの状況を整理する。仕事を終えて、真登に会わずに帰ってきたのだ。ああ、そうだ、と夕方になって下がった気温に震える身体で思う。どうやら、辞書を読みながら寝てしまったようだった。じんわりと熱を持った紙のかたまりが、頭の下にあった。
意識がはっきりしたとたん、変わり果てた里恵ちゃんのようすが目に浮かんだ。たのしそうに働いているはずだったのに。なにが彼女を、あんなにまで変えてしまったのだろう。
開かれていたページを見て、寝る直前まで自分がなにを調べていたのかを思いだす。
だいがく【大学】 社会の第一線に立つべき人を養成する学校。高校の上。
社会の第一線ということばの意味は、調べてもよくわからなかった。きちんと理解することができたのは、「高校の上」というそのひとことだけだ。高校を卒業しなければその上にはいけないのが、この世の絶対的なルールなのだ。
ピンクの箱に収まったキティちゃんが、わたしに向かって笑いかけている。手を伸ばし、つるりとしたそのボディをなぞる。
里恵ちゃんは、高校を卒業して、専門的な勉強をするための学校にいった。高校の上には、いいことだけが待っているにちがいない。里恵ちゃんもわたしとおなじように、「そこ」から外れてしまったのだろうか。
あの場所から逃げだしたことに、深い理由なんてなかった。なんとなく進んだ箱のなかに、居場所が見つけられなかった。みんなおなじ形に成型しようとする、大人たちが嫌いだった。高校を去ったことが正しかったのかどうか、わたしはまだ、それに対する答えを持っていない。
「……おなかすいた」
こんな気分でも、おなかがすくのだから性質が悪い。重い身体を引っ張りあげ、一階のリビングへと向かう。今夜はなにを作ろう。冷蔵庫の中身から今日の夕食の献立を予測して、それを避けて食べなければいけない。きっといつものように、お米を炊いてふりかけをかけるだけだけれど。おとうさんとおかあさんが帰ってくるまでもうすこし時間があるけれど、早めに済ませなくては。
階段を半ばまで降りたところで、リビングに電気がついていて声が聞こえることに気づいた。階段を降りている途中で足が止まる。どうして。普段の帰宅時間より、一時間も早いのに。
「―なんで今日もきれいになってない?」
おとうさんの冷たい声。相手を非難し、責め、詰問するいつもの口調だ。
「わたしだって仕事だったからでしょう」
対するおかあさんのあしらうような声。諦めが滲んだ、いつもの口調だ。
「そんなに言うなら自分でしたらどうですか」
こうして言い争うときだけ、おかあさんは敬語を使う。まるでもう、おとうさんは他人だとでも言うように。
「これがお前の仕事だろう」
「わたしの仕事は外でしてくるものであって、家事ではありません」
階段の途中で立ち尽くし、リビングとは壁一枚隔てているのに、ここからでもふたりのようすがはっきり目に浮かぶ。帰宅して着替えすらしないまま、今日一日の疲弊を、消耗を、鬱屈を、重圧を、ことばという武器にして相手に投げつけているようすが。
「お前がそんなだから、まゆがあんなふうになったんだろう」
おとうさんが吐きだした台詞に、潜めていた息が止まった。家の空気が、ピンと張られた糸みたいに張りつめる。
「あんな」というのがなにを指すのか、心当たりがたくさんあってわからない。わからないけれど、わたしが普通とはちがう生きかたをしているのはたしかだ。おとうさんがそれを快く思っていないことは、わたしだって知っている。
「それがわたしのせいだって言いたいんですか」
おかあさんのせいではない。おとうさんのせいでもない。おとうさんだって、そんなこと気づいている。自分の思いどおりの人生を歩まない子どもにぶつけられない苛々を、おかあさんに吐きだしているだけだ。悪いのは、ちゃんと生きることができないわたしだ。
「どいて」
声が聞こえて振り向くと、階段の一番上におねえちゃんがいた。気がつかなかったけれど、すでに帰ってきて自分の部屋にいたのだ。
「ど、どこかいくの」
階段を降りて道を譲ると、おねえちゃんは玄関で靴を履いた。お気に入りのハイヒールを手にして、フラットシューズを身につけたということは、車で出かけるつもりなのだ。
「どこでもいいでしょ。こんな家にいられない」
そう強い語気で言い放って、おねえちゃんはとても静かに玄関のドアを開けて出ていった。それを、わたしはただ立ち尽くして見送った。
「あなたはなんでもわたしのせいにして、自分はふんぞり返ってればいいんですもんね」
「俺はちゃんとこの家に金を入れてるだろうが」
おとうさんたちの言い争いは、毎回平行線をたどる。これが致死量と思って相手に放った銃弾でも、痛みに慣れた心身が吹き飛ばされることなく傷ついていくだけだ。自分だって傷ついて血を流しているはずなのに、彼らは武器をおろそうとしない。
耳をふさいで、その場に座りこむしかなかった。逃げる場所なんて、わたしにはどこにもない。こわいことがあると抱きしめてくれた里恵ちゃんは、助けを求めていい状態かもわからない。真登だって忙しい。
声にならない。だれか、だれか。
そのとき、ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。縋りつくみたいな気持ちで、メッセージを確認する。
『これから迎えいっていい?』
どうして、こんなに勘がいいのだろう。いつもの唐突さと強引さで届いた真登からのメッセージは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように、暗闇のなかで輝いて見えた。
『お願い』
早く、とつけたしたい気持ちをぐっとこらえて、それだけを返信した。すぐにスニーカーをはき、静かに外へ出る。真登の車のエンジンが聞こえるまで、わたしはひざを抱えてじっとちいさくなっていた。ドアの向こうから両親の声が漏れているような気がして、耳をふさぐ。蒸し暑いのに、なぜか震えが止まらなかった。
意識がはっきりしたとたん、変わり果てた里恵ちゃんのようすが目に浮かんだ。たのしそうに働いているはずだったのに。なにが彼女を、あんなにまで変えてしまったのだろう。
開かれていたページを見て、寝る直前まで自分がなにを調べていたのかを思いだす。
だいがく【大学】 社会の第一線に立つべき人を養成する学校。高校の上。
社会の第一線ということばの意味は、調べてもよくわからなかった。きちんと理解することができたのは、「高校の上」というそのひとことだけだ。高校を卒業しなければその上にはいけないのが、この世の絶対的なルールなのだ。
ピンクの箱に収まったキティちゃんが、わたしに向かって笑いかけている。手を伸ばし、つるりとしたそのボディをなぞる。
里恵ちゃんは、高校を卒業して、専門的な勉強をするための学校にいった。高校の上には、いいことだけが待っているにちがいない。里恵ちゃんもわたしとおなじように、「そこ」から外れてしまったのだろうか。
あの場所から逃げだしたことに、深い理由なんてなかった。なんとなく進んだ箱のなかに、居場所が見つけられなかった。みんなおなじ形に成型しようとする、大人たちが嫌いだった。高校を去ったことが正しかったのかどうか、わたしはまだ、それに対する答えを持っていない。
「……おなかすいた」
こんな気分でも、おなかがすくのだから性質が悪い。重い身体を引っ張りあげ、一階のリビングへと向かう。今夜はなにを作ろう。冷蔵庫の中身から今日の夕食の献立を予測して、それを避けて食べなければいけない。きっといつものように、お米を炊いてふりかけをかけるだけだけれど。おとうさんとおかあさんが帰ってくるまでもうすこし時間があるけれど、早めに済ませなくては。
階段を半ばまで降りたところで、リビングに電気がついていて声が聞こえることに気づいた。階段を降りている途中で足が止まる。どうして。普段の帰宅時間より、一時間も早いのに。
「―なんで今日もきれいになってない?」
おとうさんの冷たい声。相手を非難し、責め、詰問するいつもの口調だ。
「わたしだって仕事だったからでしょう」
対するおかあさんのあしらうような声。諦めが滲んだ、いつもの口調だ。
「そんなに言うなら自分でしたらどうですか」
こうして言い争うときだけ、おかあさんは敬語を使う。まるでもう、おとうさんは他人だとでも言うように。
「これがお前の仕事だろう」
「わたしの仕事は外でしてくるものであって、家事ではありません」
階段の途中で立ち尽くし、リビングとは壁一枚隔てているのに、ここからでもふたりのようすがはっきり目に浮かぶ。帰宅して着替えすらしないまま、今日一日の疲弊を、消耗を、鬱屈を、重圧を、ことばという武器にして相手に投げつけているようすが。
「お前がそんなだから、まゆがあんなふうになったんだろう」
おとうさんが吐きだした台詞に、潜めていた息が止まった。家の空気が、ピンと張られた糸みたいに張りつめる。
「あんな」というのがなにを指すのか、心当たりがたくさんあってわからない。わからないけれど、わたしが普通とはちがう生きかたをしているのはたしかだ。おとうさんがそれを快く思っていないことは、わたしだって知っている。
「それがわたしのせいだって言いたいんですか」
おかあさんのせいではない。おとうさんのせいでもない。おとうさんだって、そんなこと気づいている。自分の思いどおりの人生を歩まない子どもにぶつけられない苛々を、おかあさんに吐きだしているだけだ。悪いのは、ちゃんと生きることができないわたしだ。
「どいて」
声が聞こえて振り向くと、階段の一番上におねえちゃんがいた。気がつかなかったけれど、すでに帰ってきて自分の部屋にいたのだ。
「ど、どこかいくの」
階段を降りて道を譲ると、おねえちゃんは玄関で靴を履いた。お気に入りのハイヒールを手にして、フラットシューズを身につけたということは、車で出かけるつもりなのだ。
「どこでもいいでしょ。こんな家にいられない」
そう強い語気で言い放って、おねえちゃんはとても静かに玄関のドアを開けて出ていった。それを、わたしはただ立ち尽くして見送った。
「あなたはなんでもわたしのせいにして、自分はふんぞり返ってればいいんですもんね」
「俺はちゃんとこの家に金を入れてるだろうが」
おとうさんたちの言い争いは、毎回平行線をたどる。これが致死量と思って相手に放った銃弾でも、痛みに慣れた心身が吹き飛ばされることなく傷ついていくだけだ。自分だって傷ついて血を流しているはずなのに、彼らは武器をおろそうとしない。
耳をふさいで、その場に座りこむしかなかった。逃げる場所なんて、わたしにはどこにもない。こわいことがあると抱きしめてくれた里恵ちゃんは、助けを求めていい状態かもわからない。真登だって忙しい。
声にならない。だれか、だれか。
そのとき、ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。縋りつくみたいな気持ちで、メッセージを確認する。
『これから迎えいっていい?』
どうして、こんなに勘がいいのだろう。いつもの唐突さと強引さで届いた真登からのメッセージは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように、暗闇のなかで輝いて見えた。
『お願い』
早く、とつけたしたい気持ちをぐっとこらえて、それだけを返信した。すぐにスニーカーをはき、静かに外へ出る。真登の車のエンジンが聞こえるまで、わたしはひざを抱えてじっとちいさくなっていた。ドアの向こうから両親の声が漏れているような気がして、耳をふさぐ。蒸し暑いのに、なぜか震えが止まらなかった。
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