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7.このままじゃだめ
7-②
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数日まえから雪おろしの雷が鳴って、天気予報は毎日「明日は雪になるでしょう」と言い、その翌日、予報は必ずはずれて雨になった。おとうさんとおかあさんが仕事に出かけたあとのリビングで見たワイドショーの気象予報士は、「ここまでくるともう雪が降ることを当てられたら幸運ですね」と苦笑いしていた。
雷が止まなかった。天が割れるんじゃないかと思うほど激しい光と音で暴れる雷は、雨で濡れたバスの車窓もきらきらと輝かせていた。いつものトートバッグがすこし重くて、ブルゾンで覆われた肩に食いこむ。
「よっ」
先に駅前のテラスに陣取っていたえるのに、すこし茶化して手をあげる。昨日も会ったはずの彼女と顔を合わせるのが、なんだか気恥ずかしかった。
待ち構えていたえるのが、わたしの顔をじっと見て眉をあげた。神妙な顔をしたまま、わたしから目を離さない。顔になにかついているだろうか。
「なに?」
「……今日は勉強は休憩にしましょ」
えるのはため息をつくなり、勉強道具をしまってそうつぶやいた。こっちよ、とわたしの手を引いて大通りを歩き、横断歩道を渡る。歩道橋の隙間から見えた空は泣くのをやめ、グレーの色を一層濃くしていた。空が低く、ごうごうと上のほうで風が鳴っていた。雪が降りそうだ、と直感で思う。
「ちょっと」
わたしが声をあげると、えるのは駅ビルに入る直前に手を放してくれた。ときどきうしろを振り返りながら、その低い身長でどこまではやく歩くのだろうと不思議なくらいの速度でひと混みを縫い、チェーンのコーヒーショップに足を踏みいれた。えるのとはじめて会った、あのお店だ。
呪文みたいな名前の飲みものを、さらに呪文みたいにカスタマイズして、器用に注文をしたえるののとなりで、わたしはあたたかなチャイを飲んでいた。
「えるのはこの店が似合うね」
「あらありがとう。ほめことばとして受け取っておくわ」
えるのの住んでいる家は、このコーヒーショップがある駅ビルの近くで、えるのの高校もここから歩いていける距離にある。このあたりはえるのにとって庭みたいなものなのだ。
「どうして『今日は休憩』なの」
問いかけると、クリームをちいさな口ですこしずつ舐めながらしあわせそうな顔をしていたえるのはスプーンを持つ手をおろし、呆れたように肩をあげた。
「あなた、ひどい顔してるわよ」
「……わかる?」
えるのに言われなくても自覚はあった。近ごろ、もやもやしたものが心のなかで暴れまわっている。身体の奥で沸きあがる「なにか」の正体がわからなくて、そのなにかが善か悪かも判断がつけられないまま、昨夜は眠ることもできなかった。その場にじっとしていられないような、いままさに春がはじまろうというときに走りだしたくなるような、どきどきした感情が溢れて止まらない。
「わかるわ」
こくんとひとつうなずいて、えるのはストローをすすった。
「……あそびにいきたいんだけど、だれかにいっちゃダメって言われているような、そんな気持ちなの。ほかのことばで表現するのは難しいんだけど」
わたしがつっかえながら話しているあいだ、えるのはちいさく相槌を打ってくれていた。
えるのはほんとうにすごい。こんなに真摯に話を聴いてくれたら、話したくなってしまう。
「それで、あなたはなにで『あそびたい』の?」
でも、えるのは答えをくれない。いつもわたしを試して、わたしが自力で答えを出すのを待っている。あの、すべて見透かされそうな瞳で、こちらをじっと見るのだ。
ほんとうは、えるのに言われなくても気づいている。わたしがなにに興味を持ち、なにに怖気づいているのか。それが善か悪かも、きちんと理解している。きっと、一般的にはよいことにちがいない。だけど、ただこわい。
えるののスクールバッグを見て、さらにわたしのトートバッグを見つめる。えるのは、わたしから視線を動かさない。
だれかが外に続くドアを開けて、風が流れこんできた。湿っぽく、すこし鉄のにおいの混じった風だった。窓の外を見あげると、雪が降りだしていた。初雪だ。「雪が降ることを当てられたら幸運ですね」と言った、気象予報士の声が頭のなかで何度も響く。
幸運がやってくるなら、運に任せてみるのもいいかもしれない。今朝、辞書で占ったときに出たことばは【漸進】だった。曰く、「〔無理をせず〕順を追って進むこと」。ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、わたしはわたしのやりたいことをやる。
「言ってしまったら、楽になるわよ」
えるのも背中を押してくれる。深呼吸をして、えるのの目をまっすぐ見返した。
雷が止まなかった。天が割れるんじゃないかと思うほど激しい光と音で暴れる雷は、雨で濡れたバスの車窓もきらきらと輝かせていた。いつものトートバッグがすこし重くて、ブルゾンで覆われた肩に食いこむ。
「よっ」
先に駅前のテラスに陣取っていたえるのに、すこし茶化して手をあげる。昨日も会ったはずの彼女と顔を合わせるのが、なんだか気恥ずかしかった。
待ち構えていたえるのが、わたしの顔をじっと見て眉をあげた。神妙な顔をしたまま、わたしから目を離さない。顔になにかついているだろうか。
「なに?」
「……今日は勉強は休憩にしましょ」
えるのはため息をつくなり、勉強道具をしまってそうつぶやいた。こっちよ、とわたしの手を引いて大通りを歩き、横断歩道を渡る。歩道橋の隙間から見えた空は泣くのをやめ、グレーの色を一層濃くしていた。空が低く、ごうごうと上のほうで風が鳴っていた。雪が降りそうだ、と直感で思う。
「ちょっと」
わたしが声をあげると、えるのは駅ビルに入る直前に手を放してくれた。ときどきうしろを振り返りながら、その低い身長でどこまではやく歩くのだろうと不思議なくらいの速度でひと混みを縫い、チェーンのコーヒーショップに足を踏みいれた。えるのとはじめて会った、あのお店だ。
呪文みたいな名前の飲みものを、さらに呪文みたいにカスタマイズして、器用に注文をしたえるののとなりで、わたしはあたたかなチャイを飲んでいた。
「えるのはこの店が似合うね」
「あらありがとう。ほめことばとして受け取っておくわ」
えるのの住んでいる家は、このコーヒーショップがある駅ビルの近くで、えるのの高校もここから歩いていける距離にある。このあたりはえるのにとって庭みたいなものなのだ。
「どうして『今日は休憩』なの」
問いかけると、クリームをちいさな口ですこしずつ舐めながらしあわせそうな顔をしていたえるのはスプーンを持つ手をおろし、呆れたように肩をあげた。
「あなた、ひどい顔してるわよ」
「……わかる?」
えるのに言われなくても自覚はあった。近ごろ、もやもやしたものが心のなかで暴れまわっている。身体の奥で沸きあがる「なにか」の正体がわからなくて、そのなにかが善か悪かも判断がつけられないまま、昨夜は眠ることもできなかった。その場にじっとしていられないような、いままさに春がはじまろうというときに走りだしたくなるような、どきどきした感情が溢れて止まらない。
「わかるわ」
こくんとひとつうなずいて、えるのはストローをすすった。
「……あそびにいきたいんだけど、だれかにいっちゃダメって言われているような、そんな気持ちなの。ほかのことばで表現するのは難しいんだけど」
わたしがつっかえながら話しているあいだ、えるのはちいさく相槌を打ってくれていた。
えるのはほんとうにすごい。こんなに真摯に話を聴いてくれたら、話したくなってしまう。
「それで、あなたはなにで『あそびたい』の?」
でも、えるのは答えをくれない。いつもわたしを試して、わたしが自力で答えを出すのを待っている。あの、すべて見透かされそうな瞳で、こちらをじっと見るのだ。
ほんとうは、えるのに言われなくても気づいている。わたしがなにに興味を持ち、なにに怖気づいているのか。それが善か悪かも、きちんと理解している。きっと、一般的にはよいことにちがいない。だけど、ただこわい。
えるののスクールバッグを見て、さらにわたしのトートバッグを見つめる。えるのは、わたしから視線を動かさない。
だれかが外に続くドアを開けて、風が流れこんできた。湿っぽく、すこし鉄のにおいの混じった風だった。窓の外を見あげると、雪が降りだしていた。初雪だ。「雪が降ることを当てられたら幸運ですね」と言った、気象予報士の声が頭のなかで何度も響く。
幸運がやってくるなら、運に任せてみるのもいいかもしれない。今朝、辞書で占ったときに出たことばは【漸進】だった。曰く、「〔無理をせず〕順を追って進むこと」。ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、わたしはわたしのやりたいことをやる。
「言ってしまったら、楽になるわよ」
えるのも背中を押してくれる。深呼吸をして、えるのの目をまっすぐ見返した。
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