こもごも

ユウキ カノ

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7.このままじゃだめ

7-③

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「……あのね、わたし、勉強したいの」
 たったそれだけ、ひとこと言っただけなのに、世界がぱっと開けたみたいだった。体温があがり、鼓動がはやくなる。世界はなんにも変わっていないのに、強力なライトが頭のうえについたみたいだ。
「そう」
 ちいさくつぶやき、えるのがわたしの抱えたトートバッグを見おろした。やさしい、あったかいまなざしだった。財布と、スマートフォンと、おとうさんからもらった辞書だけが入っていたそこに、いま、もう一冊の辞書と、ノート、ペンケースも加わった。
 えるのは自分のために勉強している。真登は将来のために、加奈子はおかあさんのために、それぞれ勉強すると言った。
 ならばわたしは? えるのは「知らないものを知ろうとするのが勉強」だと言った。「ひとによって答えがちがうことを知っていくのが勉強」だとも言った。わたしは、なにも知らない。自分の感情に名前をつけることも、知らない感情を伝えることもできない。正しくないわたしがどうして正しくないのか、自分自身に説明することすらできない。わたしが何者になればいいのか、考えるための選択肢を持たない。これではだめだ。このままでは。
「考えたの、わたしにできる勉強がなにか」
 知りたい、と思った。だから、自分にできることを、必死に考えた。
 自室の本棚でほこりをかぶっていた、小学生向けの辞書を見つけた。なつかしい表紙だった。ただ背景の一部だった過去の遺物が、自分の知識のもとになるのだと思ったらわくわくした。
 雪深堂のとなりの文具店で、新しいノートとシャープペンシルの芯を買った。レジへ品物を持っていくとき、どきどきして指が震えた。
 机のなかで眠っていたペンケースに、おなじように眠っていたシャーペンと消しゴムを詰めてトートバッグに入れた。
 辞書をふたつ比べて、おなじことばがどんなふうに解釈されているのか調べた。ノートにちがいをまとめて、ページが増えていく。
 たったそれだけだったけれど、新しいことをはじめたみたいな気がしてうれしかった。わたしにもできることがあると思えたのは、ほんとうに久しぶりだった。
「……ごめん、言わなくて」
 えるのの横で勉強をするくせに、わたしはどうしても自分の変化を彼女に告げられなかった。そんなものは勉強じゃないと言われるのがこわかったし、ことばにしてしまうことで事実になるのがこわかった。胸のうちに秘めているうちは、「それ」はわたしにとっての秘密のままだからだ。「ほんとう」にしてしまったら、戻れなくなる。でも、この先を知りたいと思う気持ちが、わたしの足にちからを込めた。
「いいのよ。まゆ自身がわかってればそれで。あなたがやりたいと思うことを、だれも止めたりしないわ。それに」
 ずず、とストローを吸い、えるのがカップをテーブルに置いた。
「あなたがいま伝えてくれたことが、なによりもうれしいわ」
 えるのは、つよい語気とは裏腹に、だれかを否定したりはしない。わたしのことだって、最初から受け入れてくれた。人生において無関係の突然出てきた登場人物に、えるのはやさしくしてくれた。えるのに話したことで、わたしの決意は、ほんものになったのだ。
「わたしはこの日を待ってたのよ」
 勝気に笑って、えるのがあごを引いた。スクールバッグから黄色のパンフレットを取りだし、ちいさなテーブルに置く。表紙に書かれた緑色の文字を、素直に声に出して読んだ。
「高等学校卒業程度認定試験……?」
 音読したわたしにえるのがひとつうなずく。漢字の羅列を、一度に読めたことに自分でおどろいた。読めても、意味はわからなかったのだけど。
「そうよ。いわゆる高卒認定というもの。知ってる?」
 はじめて聞くことばだった。予想もつかないから、ふるふると首を振る。
「高校を卒業したのとおなじだけの学力を持っているという証明になる試験よ。合格者は、高卒と同等レベルの学力を有すると認定されるの」
 そこまでえるのが説明して、コウソツニンテイということばが、目のまえにある長い試験の略であるということに思いあたる。
「それを、どうするの」
 なぜえるのがその試験についてわたしに話すのか、理解できなかった。空になったカップを眺め、えるのがにやりと笑う。
「あなたが受けるのよ」
 えるのの手にしたカップには、いま彼女がしたのとおなじような、不敵な笑みのイラストが描かれていた。イラストのわきには、「ファイト!」とまるい文字が添えられている。
「え?」
 わたしが? 口が、思わず開いた。えるのはやはり高飛車な、でもひとを不快にさせない笑顔でこちらを挑戦的に見ている。
「……でも、それをわたしが受けてどうするの?」
「いい質問だわ」
 唇を舐めて、えるのがパフレットを身を乗りだす。
「大学や専門学校に進みたいひと、高卒であることが必要な資格をとりたいひとなんかのための試験だけど、あたしはそこだけがポイントじゃないと思うわ」
 とんとん、とえるのが指先で表紙を叩く。そこに書かれた、『この一歩から、新しい自分』という文字が、目に焼きついた。
「まえに進むには、まずはじめの一歩を踏みださなきゃ。その一歩が、あなたにとってはこれになったらいいなと、あたしは思ってる。どうせ勉強するなら、もっと上を目指したいじゃない? もちろん、あなた次第だけど」
 走りだしそう、なんてものじゃなかった。さっき雪が降りはじめたばかりなのに、もう春を感じた足が走りだしたくてうずうずしていた。期待に胸が膨らむ。こんな気持ちになったのは、いったいいつ以来だろう。
 それに、とわたしのなかのわたしが言う。
 わたしががんばって、勉強をして、高卒認定が取れたら、里恵ちゃんと並び立つ人間になれるかもしれない。里恵ちゃんのまえで、誇れる自分になれるかもしれない。
 おとうさんとおかあさんが笑いかけてくれるような、正しい人間になれるかもしれない。高校は辞めたけど、今度はこれをがんばったよと、話せるわたしになれるかもしれない。
 ずっと諦めていたものが、手に届く場所までいける未来を想像する。ぜんぜん寒くないのに、奥歯も、指先も、つま先も震える。興奮しているのだ。
「やる気になったかしら」
「……なった」
 頬が上気しているのがわかる。えるのが、真っ赤な唇の端をあげてきれいに笑った。
「善は急げだわ。問題集を買いにいきましょう」
 えるのが立ちあがり、ダストボックスにカップを捨てる。振り返った彼女は、わたしの気持ちを映してか、まぶしく輝いていた。
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