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第一話 氷の王子
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「大丈夫……今日はちゃんとお声がけするって……朝、アモンと約束したんだから」
私――ノエル・カスティーユは小さな声で言い聞かせる。
そうしないと、胸の奥がすぐ震えてしまう。
なぜだか今日は、いつもより息が浅い。
“何かが変わってしまう気がする”――そんな予感が、かすかに喉を締めつけていた。
――アモン。
没落する前から、ずっと家族だった犬。
私にいつだって寄り添ってくれる、たった一匹の友達。
王立学院の大広間は、今夜だけは舞踏会場に姿を変えていた。
高い天井から幾つものシャンデリアが光をこぼし、磨き込まれた床が星空のようにきらめく。
その艶やかな世界の片隅で、真っ白なドレスの私はそっと息を吸い込む。
没落伯爵家の娘の私――ノエル・カスティーユには、少しどころか、眩しすぎる光の中で。
壁には王家の紋章と歴代の肖像画が並び、窓の外では夜の庭園の灯がちらちらと揺れている。
奥のバルコニーには楽団が並び、弦と管が三拍子の旋律を紡いでいた。
軽やかなワルツに合わせて、色とりどりのドレスと礼装が床の上を流れていく。
笑い声とグラスの触れ合う音が混じり合い、きらびやかな夜のざわめきが広がっていく。
私は髪飾りもドレスも、白でまとめた控えめな装いだけれど、
母が少しずつ貯めて買ってくれた大切なもの。
けれど、輪の中央でくるくる回る令嬢たちの鮮やかなドレスに囲まれると、
白は“地味”ではなく“貧相”に見えてしまう気がして――
ぎゅっと握った指先に力が入るたび、手袋の中で脈が跳ねる。
そんな小さな鼓動まで、誰かに見透かされてしまいそうで……余計に落ち着かない。
そのとき、会場の入り口がふっと静まった。
楽団の音が止んだわけではないのに、
周囲の視線が一斉に同じ方向へ向かい、ざわめきが一段低くなるのがわかる。
氷の王子、カスパル・ブランシュヴァル王子殿下――。
雪のような白銀の髪に、透き通る氷のような銀の瞳。
白と紺を基調にした礼装は一切の無駄がなく端正で、
ただそこに立っているだけで空気がぴんと張り詰める。
一方私は没落令嬢で、この国ではごく普通の金の髪に碧の瞳。
そんな私にとって、彼はまるで別世界の住人のようだった。
(わ……ほんとうに……きれいな人……)
思わず見とれてしまい、慌てて目をそらそうとした、その瞬間。
氷のような瞳が、ほんの一拍だけ、こちらに触れた。
すぐ逸らされると思った――。
けれど、彼は一瞬だけ、言葉にならない何かを探すようにまばたきを忘れていた。
(え……)
一瞬、息が止まる。
見られた、というより――なぞられた。
触れていないはずの視線が、鎖骨のあたりをかすかに撫でていくような錯覚に、思わず呼吸が揺れた。
胸の奥に、知らない熱がぽうっと灯った。
けれどそれが何なのか、私には分からなかった。
――でも。
すぐ背後で、現実に引き戻すようにひそひそ声が走る。
「見た? 今の……あの没落令嬢、殿下と目を合わせたわよ」
「……媚び売ってるのよ、きっと」
「伯爵家? 没落したらただの平民ですわよ?」
「ほんと、恥知らずですわ」
(ち、違います……そんなつもりじゃ……)
そう言い返したい……けれど、私なんかが声を上げられるはずがなかった。
俯いた視線の先に、見えたのは――
ジルベール・ラングロワ男爵令息。私の婚約者だった。
さっきまで胸の奥をざわつかせていた熱が、すっと静かに冷めていく。
人垣の中心。
柔らかな栗色の髪を後ろで軽くまとめ、流行の仕立ての礼装を軽やかに着こなしている。
明るい琥珀色の瞳はいつも笑っていて、その笑顔に、周囲の令嬢たちが次々と頬を染めていた。
(今日こそ……わたしと踊ってくださるはず……)
そう信じたかった。
けれど、ここ最近の彼の視線……。
信じ切るには、少しだけ私は透明すぎる気がした。
その隣には、子爵令嬢カトリーヌ・モンテスパン。
真紅のドレスに金の刺繍、燃えるような赤毛を高く結い上げ、
切れ長の碧い瞳が扇子の向こうからこちらを値踏みする。
紅を差した唇が笑うたび、扇子の羽根がぱちん、と鋭く鳴った。
その音が、胸の奥のどこかをつい縮こまらせた。
「しっかりと、ジルベール様にお礼をするのよ?」
そう言って髪飾りを私の頭に差しながら微笑んでくれた母。
家族の想いがこもったこのドレス。
部屋で毎日、一人でワルツの練習もした。
今日こそはジルベール様にお礼をするのだ。
胸の奥にそっと息を送り込み、ワルツの三拍子に合わせるみたいに数を数える。
(アン、ドゥ……トロワ……行く。行くの……!)
私は勇気をふりしぼり、一歩を踏み出した――その瞬間。
背後から、ほんのわずかに視線の温度が変わった気がした。
誰が、とは分からない。
けれど――その視線だけは、冷たくなかった。
まるで、雪の向こうにともる灯りのように――。
私――ノエル・カスティーユは小さな声で言い聞かせる。
そうしないと、胸の奥がすぐ震えてしまう。
なぜだか今日は、いつもより息が浅い。
“何かが変わってしまう気がする”――そんな予感が、かすかに喉を締めつけていた。
――アモン。
没落する前から、ずっと家族だった犬。
私にいつだって寄り添ってくれる、たった一匹の友達。
王立学院の大広間は、今夜だけは舞踏会場に姿を変えていた。
高い天井から幾つものシャンデリアが光をこぼし、磨き込まれた床が星空のようにきらめく。
その艶やかな世界の片隅で、真っ白なドレスの私はそっと息を吸い込む。
没落伯爵家の娘の私――ノエル・カスティーユには、少しどころか、眩しすぎる光の中で。
壁には王家の紋章と歴代の肖像画が並び、窓の外では夜の庭園の灯がちらちらと揺れている。
奥のバルコニーには楽団が並び、弦と管が三拍子の旋律を紡いでいた。
軽やかなワルツに合わせて、色とりどりのドレスと礼装が床の上を流れていく。
笑い声とグラスの触れ合う音が混じり合い、きらびやかな夜のざわめきが広がっていく。
私は髪飾りもドレスも、白でまとめた控えめな装いだけれど、
母が少しずつ貯めて買ってくれた大切なもの。
けれど、輪の中央でくるくる回る令嬢たちの鮮やかなドレスに囲まれると、
白は“地味”ではなく“貧相”に見えてしまう気がして――
ぎゅっと握った指先に力が入るたび、手袋の中で脈が跳ねる。
そんな小さな鼓動まで、誰かに見透かされてしまいそうで……余計に落ち着かない。
そのとき、会場の入り口がふっと静まった。
楽団の音が止んだわけではないのに、
周囲の視線が一斉に同じ方向へ向かい、ざわめきが一段低くなるのがわかる。
氷の王子、カスパル・ブランシュヴァル王子殿下――。
雪のような白銀の髪に、透き通る氷のような銀の瞳。
白と紺を基調にした礼装は一切の無駄がなく端正で、
ただそこに立っているだけで空気がぴんと張り詰める。
一方私は没落令嬢で、この国ではごく普通の金の髪に碧の瞳。
そんな私にとって、彼はまるで別世界の住人のようだった。
(わ……ほんとうに……きれいな人……)
思わず見とれてしまい、慌てて目をそらそうとした、その瞬間。
氷のような瞳が、ほんの一拍だけ、こちらに触れた。
すぐ逸らされると思った――。
けれど、彼は一瞬だけ、言葉にならない何かを探すようにまばたきを忘れていた。
(え……)
一瞬、息が止まる。
見られた、というより――なぞられた。
触れていないはずの視線が、鎖骨のあたりをかすかに撫でていくような錯覚に、思わず呼吸が揺れた。
胸の奥に、知らない熱がぽうっと灯った。
けれどそれが何なのか、私には分からなかった。
――でも。
すぐ背後で、現実に引き戻すようにひそひそ声が走る。
「見た? 今の……あの没落令嬢、殿下と目を合わせたわよ」
「……媚び売ってるのよ、きっと」
「伯爵家? 没落したらただの平民ですわよ?」
「ほんと、恥知らずですわ」
(ち、違います……そんなつもりじゃ……)
そう言い返したい……けれど、私なんかが声を上げられるはずがなかった。
俯いた視線の先に、見えたのは――
ジルベール・ラングロワ男爵令息。私の婚約者だった。
さっきまで胸の奥をざわつかせていた熱が、すっと静かに冷めていく。
人垣の中心。
柔らかな栗色の髪を後ろで軽くまとめ、流行の仕立ての礼装を軽やかに着こなしている。
明るい琥珀色の瞳はいつも笑っていて、その笑顔に、周囲の令嬢たちが次々と頬を染めていた。
(今日こそ……わたしと踊ってくださるはず……)
そう信じたかった。
けれど、ここ最近の彼の視線……。
信じ切るには、少しだけ私は透明すぎる気がした。
その隣には、子爵令嬢カトリーヌ・モンテスパン。
真紅のドレスに金の刺繍、燃えるような赤毛を高く結い上げ、
切れ長の碧い瞳が扇子の向こうからこちらを値踏みする。
紅を差した唇が笑うたび、扇子の羽根がぱちん、と鋭く鳴った。
その音が、胸の奥のどこかをつい縮こまらせた。
「しっかりと、ジルベール様にお礼をするのよ?」
そう言って髪飾りを私の頭に差しながら微笑んでくれた母。
家族の想いがこもったこのドレス。
部屋で毎日、一人でワルツの練習もした。
今日こそはジルベール様にお礼をするのだ。
胸の奥にそっと息を送り込み、ワルツの三拍子に合わせるみたいに数を数える。
(アン、ドゥ……トロワ……行く。行くの……!)
私は勇気をふりしぼり、一歩を踏み出した――その瞬間。
背後から、ほんのわずかに視線の温度が変わった気がした。
誰が、とは分からない。
けれど――その視線だけは、冷たくなかった。
まるで、雪の向こうにともる灯りのように――。
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