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第5章
国境
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ローザニア帝国に入ってから、クレイターヴとの国境沿いを舐めるかのように、南下してきた二人だが、サラン候領へ入るためには、どうしても再度クレイターヴへの国境を越えなくてはならない。
伝令兵に身をやつしている二人ではあるが、身分を証明するものを持っているわけではない。ローザニア帝国に帰国する伝令兵に対しては甘かった検問も、出国するときにも同じかどうかはわからない。
しかも王弟リュシオンを取り逃がしてなるものかと、ローザニア帝国側もやっきになっているに違いない。
ここまで一目を避け、野宿を続けてきたが、国境の街、テルフェンに入ったところで情報収集のため宿をとることにした。
「パンに白ハム、それと何か温かいものがあれば頼む」
宿屋の一階にある食堂で、リュシオンが慣れた様子で注文する。傭兵暮らしだったという祖父のやり方を覚えているのだろう。王宮暮らしでは、食堂で注文するようなことなどまったくないはずだ。
王宮暮らしとは言えないが、アンリも宿屋の食堂でこうして注文するのは初めての経験だった。
アンリは生まれてから一度も故郷であるセルシーヴから出たことがない。それどころか、セルシーヴにある『静寂の森』から一歩も出たことがなかったのである。セルシーヴの小アンリとして生まれたものは、そう定められていた。森を出るときは、アンリの名を継いだときか、別の男児が生まれ、小アンリの名を返上したときだけであった。
クレイターヴ外れのセルシーヴの、さらにその領内でも奥まった『静寂の森』しか知らないアンリにとって、これほど多くの人が街に住んでいること自体が珍しくてならなかった。
「おや、兵隊さんじゃないか、どうしたんだい?」
普通、兵隊たちには駐屯地で食事が出る。こうして街の宿屋で食事を摂ることはほとんどない。
「俺たちは伝令兵なんだよ。ローザブルグからクレイターヴへ向かうところさ」
「こんなところでゆっくりしていて、叱られないのかい?」
「ここがローザニアの最後の夜になるからさ。一晩くらい寝台で寝ても叱られやしないさ」
「そういうもんかね。パンと白ハムね」
「それと温かいものだ。この先ずっと、干し肉と固焼きパンが続くからな」
実のところ、セルシーヴを出てからずっと干し肉と固焼きパンしか口にしていなかったため、リュシオンもアンリも温かい食事が恋しくなってきていたところだった。
「それじゃあ、ウサギ肉のフリカッセはどうだい? きっと、この世で二番目に美味しいと思うよ」
「じゃあ、この世で一番ってことだな。あいにく俺は母親の顔も覚えてないんでね。お袋の味には縁がないんだ」
軽口の合間に料理が運ばれ、いい匂いが漂ってきた。
「おや、こちらのかわいい坊やも、兵隊さんかい?」
「坊や…? わたしのことですか?」
アンリはリュシオンに小アンリと呼ばれるよりもよほど衝撃を受けたのか、手にしていた匙を捕り落としそうになった。
「ああ、こいつか。見習いで俺についてるのさ。伝令兵は道を覚えるのも大切な仕事だからな。早いに越したことはない」
リュシオンは適当に話を合わすと、宿の女将からあれこれ言葉巧みに街の様子を聴きだしていた。
こんなとき、アンリは自分の無力さを痛いほど感じる。無理を押し通してついてきてしまったが、足手まとになっているのではないかと不安になるのだ。
フリカッセは女将が自慢するだけあって、柔らかく煮込まれたウサギ肉がほろほろと口のなかで溶けて、体を芯から温めてくれた。美味しい食べ物は、少し気弱になっていた心もしっかりと温めてくれた。
寝台に入って、体を横にしようとしたときだった。
「靴はまだ脱ぐなよ」
リュシオンが声を抑えてささやくように言った。リュシオン自身も旅装を解かず、素早くマントを身に着けた。その様子を見てアンリも畳んだばかりのマントを身に着けなおした。
一階の食堂からはまだ賑やかな声が聞こえている。こういった宿ではどこでもそうだが、夜が更けてくると食堂は酒場になるのだ。
その喧噪のなかで、かすかな足音に気がついた。誰かが階段を上っている。わざと足音を殺しているのが不自然だ。
「剣が長靴に触れる音がしている。軍人だ」
そう言うと素早く窓の外に目をやり、どのくらいの兵に囲まれているかを確認した。
「来い!」
リュシオンはアンリに小さく合図すると、窓から身を躍らせた。窓から屋根づいたに下に降りると、厩のほうへ回る。音をたてないように馬を引き出すと、上から寝室の戸を勢いよく蹴破る音がした。
「逃げたぞ!」
兵たちの声がしたときには、二人はすでに馬上の人だった。細い路地を抜けながら一目散に国境を目指す。検問所はこの町の西端、さほど遠いわけではない。
軍の使う警笛が鋭い音を立てて響く、次々に明りが灯され、夜の街が明るくなっていく。国境の街だけあって、こういったことに対処するのは慣れているのか、すべての動きが素早い。
「くそっ、あの女将に売られたな」
「どうして?」
「支払いが金貨じゃな」
「足りなかったのですか」
「おまえ、意外と抜けてるな。おまえが払ったのはクレイターヴ金貨だ」
「あ」
「あ、じゃねぇよ。まあ、俺が持っているのもクレイターヴ金貨だ。食い逃げでその場で役人に突き出されるよりは良かったさ。こうして逃げ出す時間は稼げたからな」
宿屋の女将は、アンリの支払った金貨は受け取ったうえで、ローザニア軍にクレイターヴの金貨を持っている不審者がいるとでも言ったのだろう。やさしい顔をして、なかなかしたたかな生き方をしているものだ。戦続きのローザニア国境の街で暮らすということはそういうことなのかもしれなかった。
そんな中でも馬を失わずに済んだことは幸運だったのかもしれない。大通りを避けながら馬を走らせる。後ろから蹄の音が聴こえるがまだ距離はありそうだった。
「見えた!」
先を走っていたリュシオンが声をあげた。
その後に続いて路地の角で馬を止めると、その先に国境の検問が見えた。さすがにこの時間では門は閉ざされている。見張り台には明りが灯り、数人の警備兵が護りを固めていた。
強行突破しようものならさらに騒ぎが大きくなり、追手を増やすことになる。宿屋から自分たちを追ってきた兵たちの蹄の音が近くなるのがわかってきた。
そのとき、ふと、アンリの視界が白っぽく滲んだ。
「こっちだ、早くしろ!」
その声は背後からした。場所はさっきと同じ、国境の検問が見える路地の角だ。後ろから追っての蹄の音がするのも変わらない。
しかし自分のすぐ前にいたリュシオンの姿がない。
「だから、早くしろって」
細見の若者が後ろから馬を寄せ、アンリの馬の手綱を引き寄せた。ぶるっと鼻息をさせた馬に合図をして黙らせると、蹄の音を立てないようにさらに細い路地の奥に入っていった。
「まともに国境に向かう奴があるか!」
「まともに国境を越えられないのは、誰のせいだと思ってるのさ?」
その返事は自分がしたものではなかった。
また、誰か別のアンリの中にいるのだ。そう思えば、さっきまで走っていたのは石畳だったが、ここの土の道だ。
「取りあえず、ついて来い」
そう言うとアンリの馬の轡をつかんだまま路地を抜ける。その行き止まりには小汚い宿屋があった。そこで馬を下りると、まるで宿の客のように隣にある厩に馬を引いていく。
厩の中は妙に細長く曲がりくねった通路がある。あまり掃除も行き届いていないのか、獣臭い臭いが澱んでいて思わず鼻を押さえたくなりそうだった。
迷路のような厩の中を歩いていくと、若者がただの壁に見えた場所を静かに押した。低く木がきしむ音とともに、外へ出る扉が開いた。大きくはないが、なんとか馬ごと潜り抜けられそうだった。
若者とアンリはその扉を抜けると元通りに扉を閉めた。扉の外は国境の森が広がっている。
「ここは?」
「あの厩は国境の壁沿いにある。しかもその一部が繰りぬいてあるってわけさ」
若者は、騎乗するとアンリにも馬に乗るように促した。
「早く行こう! 連中だって馬鹿じゃないからな。こっちが国境を抜けたって勘付くさ」
「でも、どうやってあんな抜け道を」
「あの宿屋のくそじじいに賭けで勝ったのさ。巻き上げた金を全部返す条件であの抜け道を教えてもらった。高い買い物だったが、まあ、悪くはないさ」
『だ、そうだよ。今もあるといいけど』
『え、あ、はい』
この時代のアンリからいきなり話かけられて、うろたえながら返事をすると、小さく笑いながら答えが返ってきた。
『ぼくは、アンリ・セロン。きっとまた会うよ。話はそのときにね。今は急いでいるんだろう?』
『ええ』
『じゃあ、もう、行かなきゃね』
アンリ・セロンの言葉が耳から消えるのと同時に目の前の景色が元に戻った。検問が見える路地の角だ。
「リュシオン卿、抜け道があります」
「何だって?」
今度はアンリがリュシオンに馬を寄せ、手綱を引きよせた。さっきアンリ・セロンの目を通してみた道筋を思い出しながら、馬がようやっと通れるくらいの細い路地を抜けていく。
この先の路地の突当りのはずだった。
「ない…」
そこにはあの小汚い宿屋も、その隣の厩もなかった。ただの行き止まりで、石組みの壁があるばかりだった。
アンリ・セロンは今もあればいいと言ってくれたが、彼がどのくらい昔のアンリかもわからない。時代の流れとともに抜け道が塞がれたのかもしれない。
「抜け道とやらはなかったのか」
「すみません」
アンリはうつむいてそう答えるしかなかった。そう言えばアンリ・セロンの頃は国境も木の壁を張り巡らせたものだった。いまでは石組みの壁になっている。
アンリは、行き止まりになった石組みに手をかけると、そのすぐ左下の石に何かの模様が刻んであるのが見えた。
それは、五つの柏葉。セルシーヴの紋章だった。手早く刻んだのか、見慣れていないものには落書きのようにしか見えない。もしかするとわざと子供のいたずらのように見せかけているのかもしれなかった。
紋章の刻まれた石に触れると微かにその場所だけが動いた。ぐっと力を込めるとまるで四角く切り取られて石の扉が開いた。その扉は石とは思えない軽さだった。その場所だけが同じ石ではなく軽石に染料を塗ってごまかしてあるのだ。
アンリとリュシオンは馬を引いてその扉を抜けると、慎重に石の扉を元にもどした。ぴったりと扉を閉じると、裏側からみてもただの石組みにしか見えない。
自分と同じようにアンリ・セロンから抜け道を教わった別のアンリが、国境が石組みになったときに抜け道を作り変えたのだろう。
できれば、最初からそちらのアンリに出会いたかった。そうすればこんな命が縮むような思いをしなくて済んだかもしれないのに。そう思いかけたところで、そもそもアンリ・セロンがいなければこの抜け道がないのだから、ふたりのアンリに感謝しようと思い直した。
「テルフェンに来たことがあるのか」
「いえ」
「ならどうして、こんな抜け道を知っている?」
「あの、それは、わたしがセルシーヴの『アンリ』だからです」
リュシオンは不服そうに鼻を鳴らした。
「小アンリのくせに、兄と同じことを言うんだな」
「今はわたしがアンリ・ド・セルシーヴですから」
軽口を叩いている暇はなかった。背後になった国境の見張り台には煌々と明かりが灯っている。大勢の兵が集まっているのがわかった。
目の前の森を抜けるとクレイターヴに入る。
二人が駆けだすと、背後でローザニア兵が吹く警笛の音が響きわたった。
伝令兵に身をやつしている二人ではあるが、身分を証明するものを持っているわけではない。ローザニア帝国に帰国する伝令兵に対しては甘かった検問も、出国するときにも同じかどうかはわからない。
しかも王弟リュシオンを取り逃がしてなるものかと、ローザニア帝国側もやっきになっているに違いない。
ここまで一目を避け、野宿を続けてきたが、国境の街、テルフェンに入ったところで情報収集のため宿をとることにした。
「パンに白ハム、それと何か温かいものがあれば頼む」
宿屋の一階にある食堂で、リュシオンが慣れた様子で注文する。傭兵暮らしだったという祖父のやり方を覚えているのだろう。王宮暮らしでは、食堂で注文するようなことなどまったくないはずだ。
王宮暮らしとは言えないが、アンリも宿屋の食堂でこうして注文するのは初めての経験だった。
アンリは生まれてから一度も故郷であるセルシーヴから出たことがない。それどころか、セルシーヴにある『静寂の森』から一歩も出たことがなかったのである。セルシーヴの小アンリとして生まれたものは、そう定められていた。森を出るときは、アンリの名を継いだときか、別の男児が生まれ、小アンリの名を返上したときだけであった。
クレイターヴ外れのセルシーヴの、さらにその領内でも奥まった『静寂の森』しか知らないアンリにとって、これほど多くの人が街に住んでいること自体が珍しくてならなかった。
「おや、兵隊さんじゃないか、どうしたんだい?」
普通、兵隊たちには駐屯地で食事が出る。こうして街の宿屋で食事を摂ることはほとんどない。
「俺たちは伝令兵なんだよ。ローザブルグからクレイターヴへ向かうところさ」
「こんなところでゆっくりしていて、叱られないのかい?」
「ここがローザニアの最後の夜になるからさ。一晩くらい寝台で寝ても叱られやしないさ」
「そういうもんかね。パンと白ハムね」
「それと温かいものだ。この先ずっと、干し肉と固焼きパンが続くからな」
実のところ、セルシーヴを出てからずっと干し肉と固焼きパンしか口にしていなかったため、リュシオンもアンリも温かい食事が恋しくなってきていたところだった。
「それじゃあ、ウサギ肉のフリカッセはどうだい? きっと、この世で二番目に美味しいと思うよ」
「じゃあ、この世で一番ってことだな。あいにく俺は母親の顔も覚えてないんでね。お袋の味には縁がないんだ」
軽口の合間に料理が運ばれ、いい匂いが漂ってきた。
「おや、こちらのかわいい坊やも、兵隊さんかい?」
「坊や…? わたしのことですか?」
アンリはリュシオンに小アンリと呼ばれるよりもよほど衝撃を受けたのか、手にしていた匙を捕り落としそうになった。
「ああ、こいつか。見習いで俺についてるのさ。伝令兵は道を覚えるのも大切な仕事だからな。早いに越したことはない」
リュシオンは適当に話を合わすと、宿の女将からあれこれ言葉巧みに街の様子を聴きだしていた。
こんなとき、アンリは自分の無力さを痛いほど感じる。無理を押し通してついてきてしまったが、足手まとになっているのではないかと不安になるのだ。
フリカッセは女将が自慢するだけあって、柔らかく煮込まれたウサギ肉がほろほろと口のなかで溶けて、体を芯から温めてくれた。美味しい食べ物は、少し気弱になっていた心もしっかりと温めてくれた。
寝台に入って、体を横にしようとしたときだった。
「靴はまだ脱ぐなよ」
リュシオンが声を抑えてささやくように言った。リュシオン自身も旅装を解かず、素早くマントを身に着けた。その様子を見てアンリも畳んだばかりのマントを身に着けなおした。
一階の食堂からはまだ賑やかな声が聞こえている。こういった宿ではどこでもそうだが、夜が更けてくると食堂は酒場になるのだ。
その喧噪のなかで、かすかな足音に気がついた。誰かが階段を上っている。わざと足音を殺しているのが不自然だ。
「剣が長靴に触れる音がしている。軍人だ」
そう言うと素早く窓の外に目をやり、どのくらいの兵に囲まれているかを確認した。
「来い!」
リュシオンはアンリに小さく合図すると、窓から身を躍らせた。窓から屋根づいたに下に降りると、厩のほうへ回る。音をたてないように馬を引き出すと、上から寝室の戸を勢いよく蹴破る音がした。
「逃げたぞ!」
兵たちの声がしたときには、二人はすでに馬上の人だった。細い路地を抜けながら一目散に国境を目指す。検問所はこの町の西端、さほど遠いわけではない。
軍の使う警笛が鋭い音を立てて響く、次々に明りが灯され、夜の街が明るくなっていく。国境の街だけあって、こういったことに対処するのは慣れているのか、すべての動きが素早い。
「くそっ、あの女将に売られたな」
「どうして?」
「支払いが金貨じゃな」
「足りなかったのですか」
「おまえ、意外と抜けてるな。おまえが払ったのはクレイターヴ金貨だ」
「あ」
「あ、じゃねぇよ。まあ、俺が持っているのもクレイターヴ金貨だ。食い逃げでその場で役人に突き出されるよりは良かったさ。こうして逃げ出す時間は稼げたからな」
宿屋の女将は、アンリの支払った金貨は受け取ったうえで、ローザニア軍にクレイターヴの金貨を持っている不審者がいるとでも言ったのだろう。やさしい顔をして、なかなかしたたかな生き方をしているものだ。戦続きのローザニア国境の街で暮らすということはそういうことなのかもしれなかった。
そんな中でも馬を失わずに済んだことは幸運だったのかもしれない。大通りを避けながら馬を走らせる。後ろから蹄の音が聴こえるがまだ距離はありそうだった。
「見えた!」
先を走っていたリュシオンが声をあげた。
その後に続いて路地の角で馬を止めると、その先に国境の検問が見えた。さすがにこの時間では門は閉ざされている。見張り台には明りが灯り、数人の警備兵が護りを固めていた。
強行突破しようものならさらに騒ぎが大きくなり、追手を増やすことになる。宿屋から自分たちを追ってきた兵たちの蹄の音が近くなるのがわかってきた。
そのとき、ふと、アンリの視界が白っぽく滲んだ。
「こっちだ、早くしろ!」
その声は背後からした。場所はさっきと同じ、国境の検問が見える路地の角だ。後ろから追っての蹄の音がするのも変わらない。
しかし自分のすぐ前にいたリュシオンの姿がない。
「だから、早くしろって」
細見の若者が後ろから馬を寄せ、アンリの馬の手綱を引き寄せた。ぶるっと鼻息をさせた馬に合図をして黙らせると、蹄の音を立てないようにさらに細い路地の奥に入っていった。
「まともに国境に向かう奴があるか!」
「まともに国境を越えられないのは、誰のせいだと思ってるのさ?」
その返事は自分がしたものではなかった。
また、誰か別のアンリの中にいるのだ。そう思えば、さっきまで走っていたのは石畳だったが、ここの土の道だ。
「取りあえず、ついて来い」
そう言うとアンリの馬の轡をつかんだまま路地を抜ける。その行き止まりには小汚い宿屋があった。そこで馬を下りると、まるで宿の客のように隣にある厩に馬を引いていく。
厩の中は妙に細長く曲がりくねった通路がある。あまり掃除も行き届いていないのか、獣臭い臭いが澱んでいて思わず鼻を押さえたくなりそうだった。
迷路のような厩の中を歩いていくと、若者がただの壁に見えた場所を静かに押した。低く木がきしむ音とともに、外へ出る扉が開いた。大きくはないが、なんとか馬ごと潜り抜けられそうだった。
若者とアンリはその扉を抜けると元通りに扉を閉めた。扉の外は国境の森が広がっている。
「ここは?」
「あの厩は国境の壁沿いにある。しかもその一部が繰りぬいてあるってわけさ」
若者は、騎乗するとアンリにも馬に乗るように促した。
「早く行こう! 連中だって馬鹿じゃないからな。こっちが国境を抜けたって勘付くさ」
「でも、どうやってあんな抜け道を」
「あの宿屋のくそじじいに賭けで勝ったのさ。巻き上げた金を全部返す条件であの抜け道を教えてもらった。高い買い物だったが、まあ、悪くはないさ」
『だ、そうだよ。今もあるといいけど』
『え、あ、はい』
この時代のアンリからいきなり話かけられて、うろたえながら返事をすると、小さく笑いながら答えが返ってきた。
『ぼくは、アンリ・セロン。きっとまた会うよ。話はそのときにね。今は急いでいるんだろう?』
『ええ』
『じゃあ、もう、行かなきゃね』
アンリ・セロンの言葉が耳から消えるのと同時に目の前の景色が元に戻った。検問が見える路地の角だ。
「リュシオン卿、抜け道があります」
「何だって?」
今度はアンリがリュシオンに馬を寄せ、手綱を引きよせた。さっきアンリ・セロンの目を通してみた道筋を思い出しながら、馬がようやっと通れるくらいの細い路地を抜けていく。
この先の路地の突当りのはずだった。
「ない…」
そこにはあの小汚い宿屋も、その隣の厩もなかった。ただの行き止まりで、石組みの壁があるばかりだった。
アンリ・セロンは今もあればいいと言ってくれたが、彼がどのくらい昔のアンリかもわからない。時代の流れとともに抜け道が塞がれたのかもしれない。
「抜け道とやらはなかったのか」
「すみません」
アンリはうつむいてそう答えるしかなかった。そう言えばアンリ・セロンの頃は国境も木の壁を張り巡らせたものだった。いまでは石組みの壁になっている。
アンリは、行き止まりになった石組みに手をかけると、そのすぐ左下の石に何かの模様が刻んであるのが見えた。
それは、五つの柏葉。セルシーヴの紋章だった。手早く刻んだのか、見慣れていないものには落書きのようにしか見えない。もしかするとわざと子供のいたずらのように見せかけているのかもしれなかった。
紋章の刻まれた石に触れると微かにその場所だけが動いた。ぐっと力を込めるとまるで四角く切り取られて石の扉が開いた。その扉は石とは思えない軽さだった。その場所だけが同じ石ではなく軽石に染料を塗ってごまかしてあるのだ。
アンリとリュシオンは馬を引いてその扉を抜けると、慎重に石の扉を元にもどした。ぴったりと扉を閉じると、裏側からみてもただの石組みにしか見えない。
自分と同じようにアンリ・セロンから抜け道を教わった別のアンリが、国境が石組みになったときに抜け道を作り変えたのだろう。
できれば、最初からそちらのアンリに出会いたかった。そうすればこんな命が縮むような思いをしなくて済んだかもしれないのに。そう思いかけたところで、そもそもアンリ・セロンがいなければこの抜け道がないのだから、ふたりのアンリに感謝しようと思い直した。
「テルフェンに来たことがあるのか」
「いえ」
「ならどうして、こんな抜け道を知っている?」
「あの、それは、わたしがセルシーヴの『アンリ』だからです」
リュシオンは不服そうに鼻を鳴らした。
「小アンリのくせに、兄と同じことを言うんだな」
「今はわたしがアンリ・ド・セルシーヴですから」
軽口を叩いている暇はなかった。背後になった国境の見張り台には煌々と明かりが灯っている。大勢の兵が集まっているのがわかった。
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