先生に恋しちゃいけない

拓海のり

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 男日照りでと川久保は冗談めかして言った。実際、楓紗はずっと誰とも付き合っていなかった。
 久しぶりの情事で身体がだるい。川久保は真面目に行い済ました顔をしているけれど、下手ではなかった。真面目だと思っていたけれど、案外遊んでいるのかもしれない。楓紗の顔が自然と緩む。
 だが、思わぬことで身近になってしまった男について考えていると、窓の外を白い車が行過ぎた。楓紗の意識がいきなり冷たい水面に投げ出されたかのように一気に冷えた。

「小早川、お前行く?」
 窓の外を凝視していた楓紗は、夢から覚めたように声をかけたクラスメートを振り返った。
 試験が終わって、後は夏休みを迎えるだけの放課後の教室は開放感が一杯で、明るく弾んだ空気が満ちている。
「何処?」
「聞いてねえの?」
「僕、どっちにしても部活があるから…」
 楓紗の答えにクラスメートが肩をすくめる。
「チェー、お前が来たら女どもが増えんのによ」
(女には興味がないんだよ)
 楓紗がそれを自覚したのは何時頃か…。可愛い女の子より、綺麗な年上の従兄弟に焦がれたのは何時頃からか。
 夏休みに出かける相談をしている級友達に別れを告げ、楓紗は教室を出た。
 大丈夫。今はうまくいっている。時々来ているようだけど、何も言わない。
 楓紗が行き過ぎるのを見て、黙って帰ってゆく。
 あの白い車に、何度も乗った──。


  ◇◇

 ──ウインカーは左。
 楓紗の顔は知らずに緩んだ。まだ帰りたくなかった。家に帰るにはまっすぐの道。車はゆっくりと左に曲がった。

 窓の外は夜──。
 赤や青の光の群れが線を引いて流れてゆく。後ろへ、後ろへと──。

 港の見える広場に着いた。遠くに大きな船の影。
 街灯の下に、楓紗と同じくらいの少年達が数人屯してスケートボードで遊んでいる。並べられたピンを上手くよけて遊ぶ者。しゃがみ込んで駄弁っている者。その辺りだけライトを浴びたように明るい。

 秋吉はベンチに座って遠くの船を眺めていた。
「船が好きなの?」
 と聞くと、少し笑って楓紗を手招いた。隣に座ると肩を抱き寄せる。
「あの船に乗って、一緒に遠くへ行かないか?」
 と囁くように聞いた。
「遠くに行きたいの?」
 楓紗の問いに秋吉は答えなかった。ただ、肩を抱く手が少し強くなっただけだった。

 楓紗はうまくやっていると思い込んでた。実際秋吉は楓紗に夢中だった。楓紗は小悪魔の役を上手く演じて、幕を下ろす時が来た。秋吉を手ひどく振る時が……。

「そんな顔をして言うんじゃない。君は私が好きなんだ」
 秋吉はそう言った。ゲームは楓紗の負けだった。
 たった一つのルールを、守ることが出来なかった──。



 ──晃とのゲームは始まっていた。
 楓紗は部活の後で、他の部員に襲われそうになったところを秋吉に助けられてから、積極的に近付いた。数学の教科書を持って秋吉のアパートに押しかけた。

「僕、数学苦手だったんだ。顧問が数学教師で丁度良かった」
 そう言ってにっこり笑いかけた。
「あの時、先生が来なかったらと思うと」
 そう言って涙ぐんだ。
「あれから僕、先生の事…」
 そう言って俯いた。
 しかし、秋吉は堅かった。近付けば受け入れてくれるが、一向に楓紗に手を出してこない。


「晃兄ちゃん。落ちないよ、全然」
 晃に報告すると、
「お前の所為じゃない。結婚間近だからな」と教えてくれた。
「焦るな」と言われ首を傾ける。
 焦ってはいない、楽しんでいる。手強くて、なかなか落ちない方が面白いと思う。

 秋吉には婚約者がいた。親が決めた相手だという。アパートには彼女の写真が飾ってあり、それは秋吉を見張っているように思えた。式の日取りはすでに決まっているという。
「綺麗な人ですね。先生のいい人ですか」と楓紗はわざと聞いた。
「私のフィアンセだ」
 予想通り秋吉が答えると、しょぼんと肩を落とした。
「僕、帰ります。お邪魔してすみませんでした」
 楓紗はそのまま帰ろうとした。もう一度出直すつもりだったのだ。

 しかし、秋吉が「待ちなさい」と引き止める。
「君はどうして、ここに来ていたんだ?」
 楓紗は引き止める秋吉を見上げた。
「どうしてって、勉強を……」
 楓紗の返事を秋吉は遮る。
「小早川は、数学の成績はいいじゃないか」
 秋吉は楓紗の学年を教えていないから、知らないと思っていた。それならと楓紗は開き直った。
「先生の事、落とせるかどうか賭けをしたんです」
 その返事に秋吉は憮然とする。
「賭けは僕の負けだから、もういいです」
 楓紗は本当に降りるつもりで身を翻した。しかし、秋吉は楓紗を引き止めた。

「待ちなさい。どんな賭けをしたんだ。何を賭けたんだ」
 楓紗はそう聞く秋吉をじっと見上げた。
「僕を……」
 透き通った淡い茶色をした少年の瞳は、その時、夜の色と照明の淡い光が混ざり合って、不思議な色に輝いていた。
「僕、男に犯られた事あって……、そいつに何度も犯られるの嫌だったから、先生の事好きだって言ったんだ。そしたら落としてみろって、落ちたら引いてやるって言ったから……」
 人は信じたいものを信じるらしい。楓紗のたどたどしい説明を秋吉は信じた。
 目の前の細い少年を抱きしめて「君の勝ちだ」と言った。

(こいつって、こんなこと信じるなんて……)
 楓紗は自分を抱きしめる秋吉の腕の中で、ぼんやりとそう思った。温かい力強い腕が、丸ごとの自分を受け入れてくれるような気がした。晃との賭けのことを忘れそうになる。

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