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二章 競馬場の女王様

女王様、前を向け!

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 この日の最終レースには『馬男爵』と悪名高いアデュウ男爵が観戦にやってきた。関係者席よりも一段上のテラスに陣取っている。ここだけみるとちょっとしたお屋敷だ。
 一方、女王が座っているのは、吹きさらしに多少の日よけが設置されただけの、一般用の客席だ。お忍びだから当然だが。

「おーおー、さすが男爵様やなあ」

 テラスをあおぐヒノカは、わざとらしく絶景を見るのように手をかざす。
 
「いつも『式典』に自ら馬に乗って出席するのですよ。騎士団の馬を気に入ってしまい、連れてかえると言っては毎年みんなの手を焼かせます」
「ほうほう」
「今年も最小限の顔出しで、お昼前には帰ってしまいました。ご丁寧に『主賓』へ直接言ってきたのですよ。『競馬場へ行くので、これにて失礼』と。『主賓』は深夜まで公務を続けたというのに」
「……お嬢、けっこう根に持っとるな」
「とんでもございません、おほほほ」

 そうこうしているうちにファンファーレが鳴りひびいた。出走の時間だ。演奏を食いつくさんとばかりの歓声があがる。大声を出すのは少しはしたない気がしたので、拍手でめいいっぱいの気持ちを送る。

「トキー、頼むでー! ばしっといったれやー!」
「まあっ。ヒノカも熱心に応援してくれるのですね」
「ウチらの大金がかかっとるからな!」

 号砲が鳴る。一斉に競走馬たちが駆けだす。栗色の馬体が鮮やかに抜け出して先頭を取った。

「さっそく1番が飛び出したぞ!」

 トキはぐんぐんと伸びるように走り、差を大きく離していく。残り半分を過ぎたあたりで10馬身を超える差が付き、もはやトキとそれ以外といった様相だ。

 はっきり言ってしまえば、次元が違う。

「すげえ……どこまで飛ばすんだ」
「ウオオオオォォォォ! 行けーーーー!!」
「もう勝つ気しかしねえー!」

 これだけ離れてしまえば、他の競走馬は勝負をしかけようがない。

「おおぉ……すがすがしいほどの走りやな。これ、後ろの馬は追いつけるものなんか?」
「いいえ、とても届きません。他もよい馬ばかりですが、絶対的な能力に差がありすぎ……っ!?」

 おそらく、女王が最初に気づいた一人だろう。異変が起きたのは最終コーナーの手前。そこからトキが減速しはじめていた。
 周囲は『息を入れている』と思ったのか、終盤にむけて声援を送りつづけていたが、後続の馬との差が縮まっていくにつれ悲鳴に塗り変わっていく。

 ついに6番が追い抜いた。

 誰かがつぶやく。



「故障……?」



 トキは競走を中止した。降りた騎手が心配そうに声をかけているようだが、じっと立ったまま動こうとしない。
 6番が一着になった瞬間を見た者がどれだけいただろうか。女王もちらりと見ただけ。ただただ、トキの容態が気がかりだった。

 トキは大勢に引っぱられていやいやながら場内を去っていく。皆、静まりかえっていた。
 予想もしない結末に、天も憂いをもったのだろうか。さっきよりも雲が増え、太陽は目を伏せるように隠れていた。

 ふと、勝った6番が関係者席へと向かう姿が目に留まった。数人が立ちあがり喜びに満ちあふれた表情で抱き合っている。嗚咽をもらす者もいた。
 アデュウ男爵のテラスからも、拍手喝采と笑い声が送られていた。

 気づいたときには手を強くにぎりしめていた。指先と手のひらが、互いに痛みを与えるように。
 ヒノカがそっと肩を抱いた。



 女王は帰路につく人々を遠くから眺めていた。皆どこか虚ろな足取りで、喪失感の大きさを思わせる。

「お嬢」
「……はい?」

 隣に立つヒノカが穏やかに声をかけた。

「何を悩んどるんや?」
「それは……そう、外してしまったのがとても残念で。おほほほ」
「ハッ、賭けでスって落ち込むようなタマじゃないやろアンタは。ホンマに嘘をつくのが下手やな」
「ヒノカ……」
「こういうときは頼ってええ。一人で抱え込んでないで、言ってみい。旅の連れなら、ここで言うのが大事なんやぞ」

「……私は、トキばかりを見ていました。他の競走馬、それに関わった方々のことを心の中でないがしろにしていたのです」

 ヒノカはだまってうなずいてくれる。

「勝者を祝福し、全員の健闘を称えなければならないのに、終わってからもトキの心配ばかり……自分の器の小ささ、視野の狭さを思い知りました」

 このまま胸の中に沈む想いを吐き出すべきだろうか。
 彼女は受けとめてくれるだろう。頼れと言ってきたのだ。『このくらい隠してしまったほうが楽だ』と心のどこかで誘惑される。それでも――

「こんな私でも……母上のような立派な人になれるでしょうか?」

 肩をポンとたたかれた。

「なれる。絶対になれる。反省してんのやろ? なら、さっきより大きい人間になったってことやで」

 ヒノカは両手を腰に当て、うつむくこちらをのぞき込む。

「体を張って人を助けられるヤツが……あのときウチを助けたアンタが、ちっぽけなまま終わる人間のはずない。違うか?」

 そのとおりだ。ヒノカだけではない、信頼して城を任せたジョゼフたち、式典で祝ってくれる人々。彼らのことを思うと誇りと使命感が湧いてくる。背中を押してくれる。
 ひとしきり自分を叱った後は、進もう。

「あんまり動かんようなら、尻をけっ飛ばしてでも前に行かせるから覚悟しとけな」
「お、お尻をけられるのはちょっと……」
 想像して思わず両手をお尻にあてる。

「じゃあまずは顔を上げよか」
「……はい。ヒノカは厳しいですね、ふふふ」
「それも見込んで、わざわざ旅に誘ったんやろ?」
「ええ……ええ、そうでした。至らないところを支えてくれると思ったから、私はあなたに……」

 胸に空いていた穴が優しく満たされているのを感じる。やはり同行してもらったのは正解だった。

「……まったくこの人ったらしが。あーあ、ガラにもないことよう言ったなー。なんか熱くなってもうたわ」

 袖から扇を取りだし、パタパタと仰ぎはじめた。

「で、気持ちは切り替わったか?」
「はい。おかげさまで」
「だいぶ調子が戻ってきたな。じゃあ、どうするか考えてもらおか」
「……考える、ですか?」
「今晩、泊まるとこや」

『今日は任せてほしい』と言ったのは自分だ。もちろん宿の手配を含めての宣言だった。さっそく訪れた、小さな使命に取りかからねば。

 今、思いついたものだが――寝床の当てがある。
 雲のすきまからのびるかすかな光が、その場所を示すようにきらめいていた。
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