蒼天の城

飛島 明

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第三章 次世代編

山中での抱擁(10)

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「う……」
 ぼんやりと意識が戻ってきた途端、体のそこここが激痛を訴えているのを自覚した。
(生きているのか……)
 菜をはぼんやりと想った。体が動くか確認しようにも、ぴくりともせぬ。


「起きたか」
 低い声。
「肩の外れていたのは入れておいた。
臓器と骨の損傷はない。運がよかったな」
 ぱちぱち、と焔のはぜる音。
「てんで、相手にならなかった。
あんな程度で、擬態ぎたいを気取るのは児戯じぎに等しい。
瘤瀬のやつらの前でオレと仕合えば、一発でばれる」

 冷静で、淡々と鍛錬の結果を告げる声。
 悔しい、とは思った。しかしそれは後悔ではない。己の未熟さに対してだ。

「…………」
 黙っているままの菜をに対して、草太はなにも思っておらぬようだ。火に掛けていた器から湯を、何かをすり潰していた器に注ぎ、注意深く再度混ぜ合わせる。
 しばし冷ましてから、それを口に含んで菜をに口移しで与えた。

 ごく。
 嚥下えんかの動きすら、菜をには辛い。
 彼女の嚥下する速度に合わせて草太は、ゆっくりゆっくりと、少しずつ薬湯を菜をに与えた。段々、意識が覚醒してくる。怪我から発していた熱が少しは沈静したようだった。

 彼女が薬湯を飲み下したのを待って、草太は言葉をつづけた。
「方向は悪くなかった。お前は最後まで『透湖』だった」
(つまりは、『化けきれた』ということ?)
 菜をは、ぼんやりと考えた。

「怪我も体の前面だ。
オレに背後を取らせなかった、ということだな。
殆ど防御に専念せざるを得なかった。
が、それでも菜をではなく、『透湖』ならばどういう風に相手を倒すか、というこをを念頭に戦ってみせた」
「…………」
「いずれ、この方面の鍛錬を重ねれば、おまえの相手は一人と戦っていると思い、死ぬときに始めて二人の人間と戦っていたと悟ることになることになるだろう」

 草太の言葉としては、最大級の褒め言葉であった。
 菜をの瞳から、涙が零れ落ちた。

 涙をぬぐってやると、草太は菜をの上に屈みこんで再び唇を重ねた。舌で丁寧に菜をの口内を探る。唾液がしみ、菜をが顔をしかめる。
「そこここは切れてるようだが、歯も折れてないし内側の骨もやられていないな」



 そして草太は菜をの顔を覗き込んだ。
 深い、黒い瞳。
「おまえが『菜を』であり続けるならば」
 男の息が火のように熱い。
「お前はオレと対等に闘えるようになる迄、ずっと強くなる為の鍛錬を死ぬまで続け」
「…………」
「オレは、お前を真剣に殺す鍛錬を重ねる」

 ”思いあっていても、馴れ合いはしない”と草太の瞳が語っていた。

 草太にとっても、これは鍛錬であった。
 菜をという忍ぶに対して、手心を加えないで真に鍛錬を課せるかどうかの。
 ――己の唯一の泣き所・弱点に対して、真の意味で強く対峙できるかどうかの。

「オレは、諏名には抵抗せず殺されるしかない」
「勝ちたくば……、わたしに……忍ぶをおりろ、……と……?」

 菜をがしわがれた声で息を搾り出した。
 ふ、と草太が笑った。泣いている様な、困ったような笑顔。
(ああ。兄者にこのような顔をさせてしまった)
 菜をは不意に切なくなって、なんとか腕を伸ばして草太の頬に手を添えた。
 男の拳が、その手を優しく包む。
 

「オレはいつだってお前に負けてるんだ。
出来れば、お前には安全なところにいて欲しい。
誰の眼にも触れないところに隠しておきたい。
だけど、おまえ。
オレが死ぬほど頼んでもうべなわないだろう?」
 どうしようもない位、優しい響き。

(兄者が死ぬ程に頼んでくれたら)
 惚れた男の願いだ、何だって叶えてやりたい。
 だが。
 痛むのを我慢して、菜をはゆっくりと首を振った。
(一族を矢面に立たせて、わたしだけが安穏と城に隠れていることは出来ない)
 草太がやっぱりな、と呟く。男のもう片方の手が、菜をの髪を優しく梳いてくれた。菜をは瞳を閉じた。

「て、ことは。残った道は日々、鍛錬てことさ」






 
 草太は無理矢理に菜をの顔を己にねじ向けた訳でもない。女のおとがいにそっと手を添える程度だった。
 そして菜をは、無意識に首を男のほうにむけてしまった。
 それは誰の目にも自然だった。日常的に行われているのが感じられるものだった。

 それだけ、この二人には通うものがあるというのに。




「……なんで……、なんでっ!草太はあんなっ……」
 帰蝶はわなわなと震えていた。先ほどの嬲り殺しに近い鍛錬。
「どうしてっ! 想い合ってるのに、あんな酷いことが出来るのっ……!」

「あいつが」
 疾風の低い声に帰蝶は思わず、びくっとなる。
「あいつが『透湖』であろうとする限り、あれは必要な鍛錬だ。
……オレにはあんな鍛錬をあいつに課せない」

 抗議しようとして、帰蝶は疾風の顔を見て、やめた。
 ぶるぶる、と疾風も震えていた。帰蝶のように恐れと怒りからではなく、飛び出して暴走しかねない激情を必死で閉じ込めているかのようだった。

「そして、あれは兄者への鍛錬でもある」
「?」
 帰蝶には、疾風の言葉が理解出来なかった。

「大事な人間に、手心を加えずに真剣になれるか、という」
 疾風の言葉に、信じられぬ想いで帰蝶は眼を見開いた。
「だって……、透湖と草太は恋人でしょう?
恋人だったら、ちょっとくらい加減してあげたって!」
 帰蝶は喚いた。

「だからオレには出来ん、といった!」
 疾風は厳しい瞳で帰蝶を見返した。
 帰蝶は、疾風からこのような厳しい瞳で見られたことがなかったから、体をびくり、とさせた。
 否。誰も、こんなにも厳しい瞳をこの男がすることがあるとは思ったこともなかったかもしれぬ。

「そんな甘い心根で、棟梁が勤まると思うな。
いざとなれば、帰蝶。
お前自身が、じい様や阿蛾に刃を向けることになるかもしれない。
愛している者を死地に赴かせて、見殺しにしなければならないこともありうるんだ!」

「まさか、そんな」
 帰蝶は呻いた。
「ないと思うか?」
 男の言葉に、帰蝶は震えが走った。

 なんの感情も込められておらぬ瞳。
 冷たく、静かな眼差し。
 それは、せんの草太とまるで同じ瞳であった。

「オレ達は非情な世界にいるんだ。
だから、あいつに対して。
兄者自身がどれだけ非情に徹することが出来るかを、鍛錬しなければならないんだ」

 あいつが兄者の一番大事な人だから。



「だったら……。
そんなに透湖が大事なら。
なんで諏名姫の想い人になんてなるのよッ」
 帰蝶が喘ぐように言った。

「諏名姫は兄者の全てだからだ」
 疾風はキッパリと言った。
 諏名姫は草太の主君であり、思い人であり、彼の希望であり。
 彼の故郷である諏和賀の地、そのもの。

「諏名姫に命ぜられれば、兄者はなんでもする。
自刃するのはおろか、他の国を滅ぼすことも。
おまえやじい様を殺すことさえ」

「そんな……。それじゃ草太は、諏名姫の単なる傀儡くぐつだわ……」
 人の操るがままの人形。
 諏名姫は、想い人にそのような極悪非道なことを強いるのか。
 そして、草太はそれを受け入れているのか。

 草太の狂信ともいえる忠義の貫き方に、帰蝶は茫然となった。

「だから兄者の全てだと言った。
……場合によっては。
『諏名姫が不幸になりたい』と願えばそれを叶える程に」

 カタカタと帰蝶は震えた。躰の芯から湧き上がる震えを止める事は叶わなかった。


「あいつが」
 疾風が草太と透湖が立ち去った方向を見て呟いた。
「あいつが忍ぶである限り。
兄者はあいつに忍ぶであることを求めるし、あいつを己の鍛錬にも使う」
「なら……、透湖が忍ぶを降りれば。
透湖は幸せになれるの?」
 帰蝶は呟くように言った。

 帰蝶は、透湖と草太の間に確固たるものがあるの感じていた。それなのに、あの二人は、馴れ合わないことをお互いに選んだ。
(忍ぶ同士の恋とはそんなに厳しいものなの?!)

 父の時苧と、母の阿蛾もそのような覚悟の下、結ばれたのか。


「あいつは」
 疾風はかすかに唇の端をあげ、微笑んだような顔をしてみせた。
「終生、忍ぶを降りないだろうさ。
忍ぶであることを、あいつが何よりも望んでいるんだから」

(兄者が、菜をにあそこまで非情になれるのであれば。オレだってこれ位、やってやるさ。次期棟梁の為に)
 疾風が帰蝶に唐突に訊ねた。
「二人の人間が崖からぶら下がっている。
お前ならどちらを助ける?」
「え」
 咄嗟に応えられない。

「じい様と阿蛾が崖にぶらさがっているんだ。
一度に一人しか助けられない。
一方を助ける間に、もう一方は落ちて死ぬ」
「選べないわ、そんなの!」
 帰蝶が悲鳴をあげた。

「選ぶんだ。でないと、お前が死ぬ」
 疾風の言葉に、帰蝶の喉がひゅっと鳴った。
「忍ぶなら、まず己の安全を確保する。
それから、より有利にことを運べる方を助けるんだ」
 疾風は冷徹に指南した。
「そんな!」
 帰蝶が悲鳴のような声をあげた。
「出来ぬなら、お前は機を逸して両方見殺しにしてしまうかもしれない」
 そして。
 ”最悪の結果を、他ならぬお前自身が招くんだ”、と。疾風が冷たく言った。

(兄者。菜をを、あそこまで完膚なきまでに叩きのめしたとき。兄者は、こんなにも痛い思いをしたのか?)
 帰蝶に、冷酷なことを言っているだけで心が痛むというのに。
 半身、と思っている相手にあれほどの打撃を与えることは、どれだけ兄者自身を打ちのめしたのだろう。



「草太兄者は」
 疾風は押し出すように言った。
「”瘤瀬の棟梁”はその判断が出来る。じい様もな」
「……」

 帰蝶は衝撃で口もきけぬようだった。

 初めて、忍ぶというもののの冷徹苛烈な存在に。
 誰よりもやさしい疾風が。
 誰よりも大好きな疾風が。
 こんな風に、非情な真実を帰蝶に見せたことに。


「出来るようになれ、帰蝶。
上に立つ者とは、大局の為に時に非情な判断を強いられる。
誰にそしりを受けようとも。
己が自身を赦せなくても。
任務を全うする、そのときの為に」

 そのとき、帰蝶が疾風の顔をみたら、ぎょっとしたかもしれぬ。

(『そのとき』がきたら、兄者か菜をか、どちらかをオレは選べるのか? オレが二人を選べぬのに、こんな小娘に選ぶことを強いている。……クソっ。所詮、オレは棟梁の器じゃない)

 疾風の、そんな昏い自嘲的な笑みを。



「その時の為に、いつでもじい様と阿蛾を選べる鍛錬をしておけ」
「……諏名姫は、どうなの?」
 帰蝶が小さく尋ねた。
 女とはいえ、一国を納める領主。手の者にこれだけ厳しい選択を迫るのであれば、その領主はもっと過酷な選択をしている筈だ。

「諏名姫は」
 一転して優しい声で疾風は呟いた。
 おずおず、と帰蝶は疾風を見上げた。そこにはもう、先ほどの凍てつく氷のような冷たい空気はない。
「迷わず両方を助けることを選ぶ。
たとえ、それが、己を傷つける結果になったとしても」

 疾風の浮かべた、大事なものを愛おしむ表情。その表情を視て、帰蝶は胸を突かれた。

「疾風は……諏名姫を好きなの?」
 帰蝶の囁くような声。
「ああ」
 疾風の静かな声に迷いはなかった。

「透湖のことは……?」
 透湖といる疾風はくつろいでいて、心底楽しそうであった。
「好きさ。透湖もいい女だろう?」
 疾風が悪戯っぽく、片方の目をくるめかせて言った。その光で、ようやく帰蝶はくつろいだ。胸の痛い棘がなくなった訳ではなかったけれど。

「それで二人とも草太に獲られちゃってるんだ……不毛な恋ね」
 帰蝶がふうっと溜息をついてみせた。

「そうだな」
 疾風の心に、帰蝶の言葉がすとん、と落ちた。
(そうだな。どっちに転んでも不毛な恋だな)

 しかし、帰蝶には、疾風はその不毛な恋に満足しているように見えた。
(不毛な恋をしている男に惚れてるあたしも、やっぱり不毛なのかしら?)



「帰蝶。一度、諏名姫に会っておけよ。
おまえも絶対惚れるから」
「なんでよ」
 帰蝶は不機嫌になった。

 透湖のことを疾風が誉めるのは仕方がない。
 が、諏名姫については……。
 惚れた男が、知らぬ女を褒めるのは業腹ごうはらである。

 しかし諏名姫は、一族全体の主である。
 すなわち、帰蝶にとっても主。
 次期棟梁である帰蝶が目通りしておらぬのが、そもそも異常事態なのだ。
 しかも、諏名姫の評判は、誰に聴いても素晴らしいものばかり。”色をつけて吹聴しているのだろ”と思ってみても、腹の虫は癒えない。それどころか、実際にかの姫にあったことのある男どもは、伏し拝まんばかりだ。

 帰蝶としては、どうしても敵愾心を燃やしてしまう。そんな女を、惚れている男が手放しで称賛している。不機嫌にもなろうというものだ。

 しかし、帰蝶の惚れている男は。
「会えば、わかる」
 疾風の言葉は、揺るがなかった。





 そうして、疾風と帰蝶、透湖の山中での鍛錬はひとまずわったのであった。






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