“私だけに”優しい上司と焼肉に行くまで

植木苗

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「西山さん、おはよう」

今日、私は初めて課長からの朝の挨拶を無視してしまった。

30代の涙は、スムージーなんて健康的なものではなかった。

二郎系ラーメンの「アブラ」トッピングくらいコッテリしていた。数日間は引きずるだろう……

少しの騒音を我慢して、リモートワークにすれば良かった。課長の顔を見るたびに、虚しさが込み上げてくる。

抜け殻のまま、パソコンに手を添えていたら、あっという間に夕方になった。

今日はほとんど上の空だ。

ああ、ごめんなさい、我が社の社長。今日一人の社員が給料泥棒をしました……そうです、私です。

いつも通り、おバカな考えを引き摺りながら、さすがに帰ろう、そう思って椅子から立ち上がった。

周りには誰もいない。あ、今日ほとんどの人がリモートだったんだなと、今更気づいた。

──カチャン、カチャン。

オフィスの片隅にある自動販売機の音が聞こえた。そちらに目を向ける。

課長がミルクティを何本か買っている。一体何のために?

立っている私に気づいたようだ。

「お! 帰るの?」

「あ、いや、はい」

課長は三本のミルクティを手に持って、こちらへやってくる。そして、私のデスクの上に、ドンと置いた。

「とりあえず、座って。これ、飲んで」

「え、さすがに三本は多いです。なんでこんなに……」

課長は、一本のミルクティをドンと置き直す。

「これは……西山さんが今飲む分」

そして、もう一本。

「これは……西山さんが明日の朝、飲む分」

私は少し子どもっぽく頷いた。課長は、最後の一本を自分の前に置く。

「それで……これは、今ここで俺が飲む分。何かあったんだろ? 話してくれないか?」

課長が困った顔で、首を傾げる。少し上目遣いになって、私を見つめた。こんなもん、反則だよ、もう。自然とため息が出た。

顔を背ける。

「何? もしかして、俺、何かやった? 怒ってるとか?」

少し考えて、意を決して女性のことを聞くことにした。もう、誤魔化しようがないんだし。

「昨日、あの……その……青いワンピースの女性、あれ……誰ですか?」

よくわからない日本語になった。それでも、今、私ができる精一杯の質問だ。

「え? あぁ……高田の奥さんだけど。広報課の」

「……え?」

私は固まった。高田課長の奥さん……って意味だよね?

「高田と俺は同期で、奥さんの米倉も俺の同期。同期だから、仲が良いだけで……」

なるほど、なるほど。ちょっとこれ……私、はやとちりした?

「なんであんなドレッシーな格好で、登場したんですか?」

「米倉は退職したから、プライベートで来てただけで」

「どうして、課長に会いに来たんですか?」

「高田が今、大阪出張で、自宅に置いてきた資料を忘れたから、俺に渡しに来たんだよ」

あぁ~痛い、なんか痛い。頭が痛い。いや、ちょっとの、はやとちりじゃ済まないぞ。

勝手に一人、妄想を膨らませて、落ち込んでいただけじゃんか……

自分の顔が、赤くなっているのがわかる。身体が熱い。

「もしかして、勘違いしたとか? 俺の彼女だと思った、ってこと?」

恥ずかしさのあまり、声が出せない。ホッとしている気持ちもあるのだが、やっぱり課長を直視できない。

「それって、嫉妬したってこと?」

畳み掛けるように煽る課長が嫌になった。もう恥ずかしいんだから、そう突っ込んでこないでよ。

「な? そうなの?」

顔をグッと近づける余裕の課長に、私は少しイラッとした。鋭い目つきで、言ってやった。

「そ、そうですけど! 嫉妬しました! もしかして、彼女かなって思って、モヤモヤしてました!」

気がつくと、私まで顔を近づけてしまっていた。心臓が飛び出そうになるくらい、顔が近い。でも、なんか負けてしまう気がして、私は視線を逸らさない。

先に耐えられなくなったのは、課長のほうだった。自分から勝負を仕掛けてきた癖に、クイッと目線を逸らした。

顔がほんのり赤くなっているのがわかる。なんか、勝った感がある。

「あぁ、そっか……嫉妬したんだ、ヘぇ~」

「だから何だって言うんですか……意地悪」

心の声が小さく出る。

「俺には彼女いないよ。知っておきたいと思うから、言っておくけど」

「へぇ~。それはそれは。教えてくれて、ありがとうございます!」

何なの、このやり取り。プルタブを捻って、ミルクティをがぶ飲みする。

「で、西山さんは? 彼氏、いない、よね?」

私は呆れた顔で言う。

「彼氏いるのに、他の男の人に嫉妬すると思いますか?」

「いや、別に、一応聞いただけ。それなら、良かった」

良かったのところで、課長はクスリと笑みを浮かべた。自分の心臓がキュンキュン言い過ぎて、うるさい。

「じゃあ、焼肉の約束も、復活するだろ?」

「……それって、復活させたいってことですか?」

私は意地悪く聞いた。やり返したい、そんな気持ちで。

「うん。行きたいよ、西山さんとデート」

急に直球で来るの、やめてよ~。不意打ちすぎる。私だって課長と行きたいよ、デート。

でも、今日は何だか強がってしまう、だって恥ずかしかったんだから。

「じゃあ……行ってあげましょう」

精一杯の涼しげな表情を作り、そう言うと、課長がはははっと声を出して笑った。幸せの鐘のような笑い声。

私もふふふと、幸せいっぱいに笑った。

◇◇◇

「一緒に帰ろう」

課長からそう言われ、私は会社の前で待っていた。課長は戸締りするから、少し時間がかかるらしい。

ニヤケが止まらない。もう今日焼肉へ行っちゃっても、いいんじゃない? そして、そのまま。ふふふふ。通行人と目があう。

変な人、そう思われても、今日は全然関係ない。最高の気分なのだ。

ちょっと踊り出しそうな身体を我慢して、早く戻ってこないかな~と課長を待つ。

トントン。

誰かが肩を叩いた。課長遅いですよ~、と振り返ったら、そこには、栗田が立っていた。口の端から血が出ている。

誰かに叩かれた?

「え? 何? どうしたの?」

「元カノに、平手打ちされた」

「え? ちゃんと別れてなかったの?」

「いや。別れたんだけど、結婚してくれなかったからって。それで……」

「あぁ……それは、それは」

栗田の元カノは、31歳。結婚適齢期の交際は、非常に重要だ。何が原因かわからないが、その平手打ちは多少、気持ちがわかる。

「俺さ、叩かれてわかったよ。もっと真剣に、伝えなきゃいけなかったんだって」

「え?」

「西山、俺はお前が好きだ! 結婚を前提に付き合ってくれ!」

なぜその平手打ちで、そういう気持ちになる訳よ。もう無茶苦茶すぎる。

私はイラつきを抑え、栗田の目を正面から見た。きちんと、真剣に断ろう。

すると、栗田は私の肩を両手で掴み、顔を近づけてくる。思わず、目を閉じた。

栗田の唇と、私の唇が重なる。

驚いて、身体が硬直する。動けない。数秒経って、私は栗田を押し退けた。やめてよ! そう声を出したかったが、咄嗟のことで何も言えない。

栗田の後ろに、課長が突っ立っている姿が見えた。

課長の顔が凍っている。見てはいけないものを見た、そんな感じで。

私はよくわからなくなった。

どうしていいのか、わからずに、とりあえず二人を残し、駅へ向かってただただ走った。自分でも、よくわからない。

感情がぐちゃぐちゃになった。突然キスするとか、あり得ないよ。しかも、それを課長に見られるなんて……

駅についてから、冷静になり、課長にちゃんと説明すべきだったと後悔した。

栗田にちゃんと付き合えないと返事すべきだったと後悔した。後悔ばっかり。

もう32歳なのに。何でこうも、上手くいかないんだよ。もう……最悪だ……
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