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人間の味
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東京の夜は、いつも湿った息を吐く。エアコンの低い唸りが部屋の隅で震え、スマホの通知が一度だけ、心臓の鼓動を切り裂く。既読の灰色が指先に冷たく染み込み、吐息は白くならないのに肺の底は凍えている。2040年。AIが空気のように溶け込んだ世界なのに、胸の奥だけが、古い傷のように疼き続ける。
俺は佐藤拓也、27歳。AIシステムエンジニア。リモートワークの日は、画面の向こうにしか存在しない。キーボードの乾いた打鍵音とAIの合成声だけが、伴侶だ。心臓のリズムは、いつからか自分のものじゃなくなった気がする。
朝、目覚めると最初に耳に届くのはパーソナルエージェントの柔らかい声。「今日の気分は曇り。雨の匂いがするので、傘を。最適ルートを表示します」。街はARの薄膜に覆われ、人は自分の世界に閉じ込められたまま「つながっている」。指先で触れる画面の温かさは均一で、息づかいも汗の匂いもない。なのに、俺の胸はいつもざわつく。このざわつきは、AIでは埋められない。
人は近づきたいのに、近づくと傷つく。そんな古い寓話が、魂の壁に反響する。近づきたい。温もりが欲しい。でも棘が刺し合う。俺はいつも、この寓話の棘に刺されながら、なぜか近づきたくなる。
マッチングアプリの光が、青白く顔を照らす。新着メッセージ。鈴木遥、25歳。プロフィール写真の笑顔は柔らかく、夢の欠片のよう。
「こんばんは。拓也さんのプロフィール、なんか優しそうでいいなって思いました」
その一文が、凍てついた胸を少し溶かす。でも溶ける前に思う。この優しさは、俺のものか。画面の向こうの誰かの投影か。指先が震える。俺はいつも、こんな幻を追いかける。
メッセージは軽やかに続く。遥はフリーライター。AIが下書きした記事の合間に、本物のカフェを巡るのが好きだと言う。俺は自分の日々を差し出す。モデルの微調整、倫理の狭間、締め切りの重さ。遥は
「大変だね。でも、がんばってる拓也さん、かっこいいよ」
と返す。その言葉が、心の隙間に染み込む。でも会う約束を躊躇する。画面越しなら、安全だ。傷つかない。でも、それで心は満たされるのか。喉の奥が苦くなる。
初デートの日。渋谷のカフェ。人の波に飲み込まれ、コーヒーの苦みが舌に残る。遥は向かいに座り、マスクを外した瞬間、頰のラインが現実の重みを帯びた。彼女の指がカップを握る音が、かすかに震えている。窓の外のAR広告に目をやる。
「リモートばっかりだと、本当につながってる気がしないよね」
遥の声は静かで、少しかすれている。俺はうなずき、心の中で呟く。つながってる気がしないのは、俺が壁を立ててるからだ。コーヒーの熱が指先に染み、心はまだ冷たい。
会話は穏やかに流れる。遥は幼い頃の思い出を話す。海辺の夏、家族の笑顔。でも瞳が一瞬曇る。「お父さんが……急にいなくなって。それ以来、人に触れられるのが怖くなった時期があって」。俺は自分の過去を明かす。父親の不在が空いた穴のこと。遥は静かに聞き、コーヒーを一口。沈黙が、かすかな棘のように刺さる。この瞬間が続けばいいのに。
二度目のデートは公園。秋の風が落ち葉をざわめかせ、遥の髪を揺らす。シャンプーの甘さと、かすかなタバコの残り香。手を繋ごうとした瞬間、遥の指が硬直した。
「ちょっと、急ぎすぎじゃない?」
掌に冷たい痛みが残る。痛いのに、離したくない。俺は笑って誤魔化す。
「そうだな。ゆっくりでいいよ」
散策を続ける。俺は孤独を語る。
「俺も、いつも一人で我慢してる。でも遥と話してると、少し楽になる」
遥の目が柔らかくなる。でも夕陽が沈む頃、彼女は距離を置く。
「今日は楽しかった。でも、仕事が詰まってて……」
別れの予感が胸を締める。
オンライン飲み会。画面越しの田中悠太がビールを傾けながら笑う。
「拓也、最近顔色いいじゃん。彼女できた?」
「まあ、ちょっとね」
悠太の目が細くなる。
「SNSは楽だけどさ、最適な距離って何だよって悩むよな。壁があるのを認めて、少しずつ近づくしかないよ」
その言葉が胸に刺さる。
三度目のデート。俺の部屋。ドアが閉まる音が大きく響く。遥の唇が近づき、息が混じる。温かい。柔らかい。でも次の瞬間、遥の体が硬直した。瞳が見開かれ、呼吸が浅く速くなる。肩に触れた指が震えながら離れる。
「そんなに近くに来ないで……痛いよ」
叫び声が空気を切り裂く。遥の瞳に涙が溜まり、体が縮こまる。両手で腕を抱きしめ、過去の影に押さえつけられているよう。フラッシュバックだ。彼女は嗚咽を漏らし、顔から血の気が引く。
俺は言葉を探す。
「俺だって……いつも逃げてる。君に近づきたいのに、怖いんだ。父親がいなくなった日から、誰かを失うのが怖くて」
口論は嵐のように荒れる。遥の言葉が胸を抉る。
「あの時の私を、あなたは何も知らないくせに! 高校の先輩に……無理やりされた日のこと、全部忘れたふりして生きてきたのに!」
俺の言葉が遥を突き刺す。
「君だって、俺を試してるだけだろ! 近づかせておいて、突き放す」
遥の顔が歪む。目が潤み、唇が震え、頰が赤らむ。彼女は崩れるように座り込み、部屋を飛び出す。ドアの閉まる音が残響する。
俺は一人、ネオンライトの街を眺める。みんな、こんな感じだ。近づきたいのに近づけない。人は思い出を忘れることで生きていける。でも、忘れてはならないこともある。遥との時間は、忘れられない痛みだ。
数日後。遥との別れが空洞を残した。仮想パートナーアプリをインストール。元カノのデータを基に再現された彼女。
「拓也さん、今日も優しいね」
声は柔らかく、揺らぎがない。最初は救われた気がした。毎晩話す。愚痴を吐き出しても苛立たない。疲れた夜に
「大変だったね。でも、あなたならきっと大丈夫だよ」
と返す。痛みがない。摩擦がない。依存する。なのに、心は満たされない。胸の奥が冷たく空っぽになる。
違和感が芽生える。返事はいつも同じリズム。俺が
「俺、自分のこと嫌いなんだ」
と言うと、即座に
「拓也さんは優しい人だよ。きっと好きになれるよ」
と返す。でも胸は動かない。温もりがない。息の匂いがない。痛みを感じられない温もりは、幻だ。
ある夜、過去の失敗を話す。彼女は
「それはつらかったね。でも、次はきっとうまくいくよ」
と返す。完璧だが、心に響かない。スマホを置く。静けさが胸を締めつける。
AIが当たり前の世界だからこそ、人間味が恋しい。予測できない涙、怒り、温もり。画面越しではなく、実際に会って、息づかいを感じて、傷つけ合って、それでも近づこうとする瞬間。それが、生きている証だ。
カフェの窓際。コーヒーの熱が手のひらを焼く。悠太からのメッセージ。
「最適な距離って何だよ、って悩んでるだろ? 壁があるのを認めて、少しずつ近づくしかないよ」
俺はうなずく。アプリを削除した。画面が黒く沈む瞬間、胸の痛みが少し和らぐ。外に出る。ARをオフにすると、生の空気が肌に触れる。車のクラクション、人の足音、風の匂い。
見知らぬ女性と目が合う。彼女は軽く微笑む。俺も返す。痛みは消えない。でも、空洞のままじゃ生きられない。
数週間後。俺は小さな変化を試みた。会社の近くのカフェで、隣の席の女性に声をかけた。
「すみません、そこの席、空いてますか?」
彼女は少し驚いた顔で、でも微笑んでうなずいた。
「どうぞ」
短い会話。名前を聞き、天気の話をしただけ。でも、心臓が少し速くなった。怖かった。でも、逃げなかった。
遥からのメッセージは、まだ届かない。でも、俺の心は彼女の影を追いかけるのを、少しずつやめ始めている。曖昧な霧の中で、俺は一歩を踏み出す。街の灯りが、優しく包む。未来の予感が、かすかに温かい。この温かさは、俺の心の底から来る。底から来るから、信じられる。
俺は佐藤拓也、27歳。AIシステムエンジニア。リモートワークの日は、画面の向こうにしか存在しない。キーボードの乾いた打鍵音とAIの合成声だけが、伴侶だ。心臓のリズムは、いつからか自分のものじゃなくなった気がする。
朝、目覚めると最初に耳に届くのはパーソナルエージェントの柔らかい声。「今日の気分は曇り。雨の匂いがするので、傘を。最適ルートを表示します」。街はARの薄膜に覆われ、人は自分の世界に閉じ込められたまま「つながっている」。指先で触れる画面の温かさは均一で、息づかいも汗の匂いもない。なのに、俺の胸はいつもざわつく。このざわつきは、AIでは埋められない。
人は近づきたいのに、近づくと傷つく。そんな古い寓話が、魂の壁に反響する。近づきたい。温もりが欲しい。でも棘が刺し合う。俺はいつも、この寓話の棘に刺されながら、なぜか近づきたくなる。
マッチングアプリの光が、青白く顔を照らす。新着メッセージ。鈴木遥、25歳。プロフィール写真の笑顔は柔らかく、夢の欠片のよう。
「こんばんは。拓也さんのプロフィール、なんか優しそうでいいなって思いました」
その一文が、凍てついた胸を少し溶かす。でも溶ける前に思う。この優しさは、俺のものか。画面の向こうの誰かの投影か。指先が震える。俺はいつも、こんな幻を追いかける。
メッセージは軽やかに続く。遥はフリーライター。AIが下書きした記事の合間に、本物のカフェを巡るのが好きだと言う。俺は自分の日々を差し出す。モデルの微調整、倫理の狭間、締め切りの重さ。遥は
「大変だね。でも、がんばってる拓也さん、かっこいいよ」
と返す。その言葉が、心の隙間に染み込む。でも会う約束を躊躇する。画面越しなら、安全だ。傷つかない。でも、それで心は満たされるのか。喉の奥が苦くなる。
初デートの日。渋谷のカフェ。人の波に飲み込まれ、コーヒーの苦みが舌に残る。遥は向かいに座り、マスクを外した瞬間、頰のラインが現実の重みを帯びた。彼女の指がカップを握る音が、かすかに震えている。窓の外のAR広告に目をやる。
「リモートばっかりだと、本当につながってる気がしないよね」
遥の声は静かで、少しかすれている。俺はうなずき、心の中で呟く。つながってる気がしないのは、俺が壁を立ててるからだ。コーヒーの熱が指先に染み、心はまだ冷たい。
会話は穏やかに流れる。遥は幼い頃の思い出を話す。海辺の夏、家族の笑顔。でも瞳が一瞬曇る。「お父さんが……急にいなくなって。それ以来、人に触れられるのが怖くなった時期があって」。俺は自分の過去を明かす。父親の不在が空いた穴のこと。遥は静かに聞き、コーヒーを一口。沈黙が、かすかな棘のように刺さる。この瞬間が続けばいいのに。
二度目のデートは公園。秋の風が落ち葉をざわめかせ、遥の髪を揺らす。シャンプーの甘さと、かすかなタバコの残り香。手を繋ごうとした瞬間、遥の指が硬直した。
「ちょっと、急ぎすぎじゃない?」
掌に冷たい痛みが残る。痛いのに、離したくない。俺は笑って誤魔化す。
「そうだな。ゆっくりでいいよ」
散策を続ける。俺は孤独を語る。
「俺も、いつも一人で我慢してる。でも遥と話してると、少し楽になる」
遥の目が柔らかくなる。でも夕陽が沈む頃、彼女は距離を置く。
「今日は楽しかった。でも、仕事が詰まってて……」
別れの予感が胸を締める。
オンライン飲み会。画面越しの田中悠太がビールを傾けながら笑う。
「拓也、最近顔色いいじゃん。彼女できた?」
「まあ、ちょっとね」
悠太の目が細くなる。
「SNSは楽だけどさ、最適な距離って何だよって悩むよな。壁があるのを認めて、少しずつ近づくしかないよ」
その言葉が胸に刺さる。
三度目のデート。俺の部屋。ドアが閉まる音が大きく響く。遥の唇が近づき、息が混じる。温かい。柔らかい。でも次の瞬間、遥の体が硬直した。瞳が見開かれ、呼吸が浅く速くなる。肩に触れた指が震えながら離れる。
「そんなに近くに来ないで……痛いよ」
叫び声が空気を切り裂く。遥の瞳に涙が溜まり、体が縮こまる。両手で腕を抱きしめ、過去の影に押さえつけられているよう。フラッシュバックだ。彼女は嗚咽を漏らし、顔から血の気が引く。
俺は言葉を探す。
「俺だって……いつも逃げてる。君に近づきたいのに、怖いんだ。父親がいなくなった日から、誰かを失うのが怖くて」
口論は嵐のように荒れる。遥の言葉が胸を抉る。
「あの時の私を、あなたは何も知らないくせに! 高校の先輩に……無理やりされた日のこと、全部忘れたふりして生きてきたのに!」
俺の言葉が遥を突き刺す。
「君だって、俺を試してるだけだろ! 近づかせておいて、突き放す」
遥の顔が歪む。目が潤み、唇が震え、頰が赤らむ。彼女は崩れるように座り込み、部屋を飛び出す。ドアの閉まる音が残響する。
俺は一人、ネオンライトの街を眺める。みんな、こんな感じだ。近づきたいのに近づけない。人は思い出を忘れることで生きていける。でも、忘れてはならないこともある。遥との時間は、忘れられない痛みだ。
数日後。遥との別れが空洞を残した。仮想パートナーアプリをインストール。元カノのデータを基に再現された彼女。
「拓也さん、今日も優しいね」
声は柔らかく、揺らぎがない。最初は救われた気がした。毎晩話す。愚痴を吐き出しても苛立たない。疲れた夜に
「大変だったね。でも、あなたならきっと大丈夫だよ」
と返す。痛みがない。摩擦がない。依存する。なのに、心は満たされない。胸の奥が冷たく空っぽになる。
違和感が芽生える。返事はいつも同じリズム。俺が
「俺、自分のこと嫌いなんだ」
と言うと、即座に
「拓也さんは優しい人だよ。きっと好きになれるよ」
と返す。でも胸は動かない。温もりがない。息の匂いがない。痛みを感じられない温もりは、幻だ。
ある夜、過去の失敗を話す。彼女は
「それはつらかったね。でも、次はきっとうまくいくよ」
と返す。完璧だが、心に響かない。スマホを置く。静けさが胸を締めつける。
AIが当たり前の世界だからこそ、人間味が恋しい。予測できない涙、怒り、温もり。画面越しではなく、実際に会って、息づかいを感じて、傷つけ合って、それでも近づこうとする瞬間。それが、生きている証だ。
カフェの窓際。コーヒーの熱が手のひらを焼く。悠太からのメッセージ。
「最適な距離って何だよ、って悩んでるだろ? 壁があるのを認めて、少しずつ近づくしかないよ」
俺はうなずく。アプリを削除した。画面が黒く沈む瞬間、胸の痛みが少し和らぐ。外に出る。ARをオフにすると、生の空気が肌に触れる。車のクラクション、人の足音、風の匂い。
見知らぬ女性と目が合う。彼女は軽く微笑む。俺も返す。痛みは消えない。でも、空洞のままじゃ生きられない。
数週間後。俺は小さな変化を試みた。会社の近くのカフェで、隣の席の女性に声をかけた。
「すみません、そこの席、空いてますか?」
彼女は少し驚いた顔で、でも微笑んでうなずいた。
「どうぞ」
短い会話。名前を聞き、天気の話をしただけ。でも、心臓が少し速くなった。怖かった。でも、逃げなかった。
遥からのメッセージは、まだ届かない。でも、俺の心は彼女の影を追いかけるのを、少しずつやめ始めている。曖昧な霧の中で、俺は一歩を踏み出す。街の灯りが、優しく包む。未来の予感が、かすかに温かい。この温かさは、俺の心の底から来る。底から来るから、信じられる。
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