上 下
10 / 36

唯の過去

しおりを挟む
 唯の父親はアルコール依存症だった。母親と共に酒を止めさせようと説得しようと、聞く耳を持たず酒を飲んでは暴力の繰り返し。

 アルコールがきれれば、落ち着いては反省するけれど、また酒を飲んでは暴力ときりがなかった。

 殴る、蹴るで済んでいたけれど、唯の母が父に向けて敵意の視線を送ったとき、刃物を取りだした。

 母は唯を守り、背中にいくつもの傷を負っていた。それでも、唯を抱えては守ることを止めなかった。

 ふと、父が暴れた反動で戻し始めた。その隙を衝いて、母は唯だけでもと外へ逃がしてくれた。唯は誰かの助けをと、月夜の中裸足で外を駆け回った。近くに交番はなく、人もいない。

 当時五歳だった唯の行動範囲など狭く、せいぜい家から保育園へ行く程度の距離まで。遠くへは行けず、夜というのに誰かいるかもしれないと思った唯は、馴染みの公園に足が向いた。

 いざ公園に着いて見ると、暗闇の中、少し高い位置に赤い点が見える。近付いて行くとじょじょに人影が見え始め、スーツ姿の少し渋い男性がタバコを吸っていた。

 泣きじゃくる唯をみた男性は、優しく声を掛けてくれた。

「どうしたのかな? 僕……じゃないな、お嬢ちゃんか」

 男性は唯が近くに来る前に、タバコの火を消して携帯灰皿へと吸殻を入れた。

「ママが、ママが」

「ママ?」

 唯は説明などできず、ただただママと言うことしかできなかった。けれど、何かを必死で伝えようとする唯を見た男性は、優しく抱き着いて頭を撫でた。

「大丈夫、大丈夫だからな」

 落ち着いた声で、あやすように。何度も何度も男性は唯の頭を撫でた。

 ほんの数十秒のことだったかもしれないが、唯には数分に思えていた。

「ママが、ママが!」

 泣きじゃくりながら伝えようとする。

「ママが?」

 男性は相変わらず優しい声で唯に聞き返す。抱く力は弱めても、頭を撫でることは止めない。

「危ないの!」

 泣いていたことで上手く言えなかったけれど、その言葉はしっかりと相手の男性に伝わり、唯を抱き上げた。

「家はどっち?」

 唯に焦る心を伝えないようにか、男性は落ち着いて唯に問いかける。

「あっち」

 唯は公園の出入口の右側を指差す。気遣いながら走る男性からは、ほのかに甘い香りがしたような気がした。

 鼻に入ってくるわけではなく、舌で感じたものを鼻から抜くような感じで。

 タバコの臭いではなく、甘い匂い。

 匂いだけではなく、唯は味もしたような気がした。


「ここか」

 家の前へと着き、男性の言葉に唯は首を縦に振って答えた。

 二階建ての一軒家。コンクリート造りで、壁は白、屋根は茶色をしていて長方形で奥に長い。

 男性がドアを開けると、女の怒涛のような叫び声と、男の怒気に満ちた声が聞こえてくる。

 一本道になった廊下の先で、スモッグガラスに刃物を持った人物と、倒れている人影が映っている。唯にはそのシルエットで、刃物を持っているのが父親で、倒れているのが母親ということが分かった。

 ――痛い! 痛い! ……辛い!?

 突如、唯は今まで味わったことのない辛味に襲われた。

 炭酸飲料の刺激ではなく、香辛料といった類の辛味。七味より、一味よりも舌を刺激する初めての辛味に、更に唯は涙を流した。

 声にならない声をだして泣く唯を見た男性は、目の前の惨事によるものだと勘違いをしたみたいで、ガラスの向こうの部屋目掛けて駆けだした。

 それが結果的には功を奏して、包丁が唯の母親に刺さる寸前の所で止めることができた。

「なんだてめぇ――」

 唯の父親は男性へ声を荒げようとして、言い切る前に殴られる。

 そして包丁を手放して倒れた唯の父親の上に男性は馬乗りになり、背後から腕を絡めて拘束した。

「奥さん、動けるようでしたら警察を呼んで頂いても? それと、救急車も」

 あまりの速さに、一部始終を眺めていた唯は涙も辛味による痛みも忘れ去っていた。

 唯の母親が電話で警察に連絡をすると、十分ほどでサイレンが聞こえてくる。

 家の中に警察官と救急隊員がやってきて、男性と唯の父親はパトカーに。母親と唯は救急車へ乗った。

 結局この後、唯は男性に会うことはなくなった。母親は何度か事情聴取の際に会っていたらしいが、詳しい事情は聞かなかったらしい。

 スムーズに離婚が成立し、唯は母親と共に引っ越しをした。

 母親に聞いても、名前は聞いていないと言われ、唯は、助けてくれた男性の名前を知ることができなければ、「ありがとう」を言うこともできずに今に至る。
しおりを挟む

処理中です...