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心の清らかな人

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「……なぁ、お前ら。そのハサミさ、どうするつもりなの? まさか胡桃ちゃんの服とか髪とか肌とか、傷付けるつもりじゃねーよな?」

 宇相先輩は真顔になって、なぜか仲間同士であるはずの角弥さんと小刀下さんを見下ろしている。その瞳には殺意と憎悪のようなものが感じられて、問いかけられているわけではない私まで背筋が寒くなる。

 一方、角弥さんと小刀下さんは真っ青な顔をして狼狽えている。


 なんか様子がおかしい。もしかしてふたりと宇相先輩は面識がないのだろうか? だとするとこれはどういう状況なんだろう?


 私が困惑していると、宇相先輩はジワジワとふたりとの距離を詰めていく。それに対してふたりは体をビクッと震わせた拍子にハサミを地面に落とし、怯えながら後ずさりをして距離を一定に保つ。

 やがて私とふたりの間に彼は立つと、急に体育倉庫の壁を思いっきり蹴飛ばして彼女たちを威嚇する。

「その足りない脳みそでよく覚えておけ。今後一切、胡桃ちゃんに変なコトしたらタダじゃ済まねぇぞ? ……おっと、すでに胡桃ちゃんの心は傷付いてるか。じゃ、意識がなくなるまでお前らの顔面をぶん殴って、裏の用水路に叩き落とすか。あ゛ぁん?」

 宇相先輩は死神のようなオーラを纏わせ、拳をポキポキと鳴らしながらふたりへ一歩近付く。

 するとふたりはもはや完全に戦意を喪失して、その場から這々ほうほうていで逃げていったのだった。

 その後ろ姿を見て、宇相先輩はお腹を抱えて大笑いする。

「あーっはっは! 見たかよ、あいつらの逃げてく時の顔っ! 怯えちゃって泣きそうになって滑稽こっけいだぜっ!!」

「……あのっ、宇相先輩! その……あ、ありがとうございましたっ!」

 私は神妙な面持ちで深々と頭を下げた。すると彼はわざとらしい態度で肩をすくめる。

「っ? 何のことだ? むしろ俺が謝らないとな。友達との楽しい会話を邪魔しちゃったからさ。いやぁ、ランニングの最中に胡桃ちゃんたちがこんな人気ひとけのないところへ歩いていくのが見えたから、気になってあとを追ったんだ。どんなガールズトークをしてるのかなってな♪」

「とぼけなくて良いです。私、あのふたりに虐められそうになってて……」

 私は視線を落とし、重苦しい声で言葉を吐き出す。

 その時、宇相先輩は外見に似合わず女の子みたいな可愛らしい感じで頬を膨らませ、私の額を軽く人差し指で突いてくる。

「胡桃ちゃんは友達と会話をしてただけ。俺はそれを邪魔した。それが真実だ。――もしそれ以外のことだと認識しているのなら、起きたことはもう忘れろ。なっ?」

「宇相先輩……」

 私の知らない宇相先輩の姿がそこにあった。常におちゃらけていて不真面目で、ちょっと乱暴な感じの彼じゃない。穏やかで温かな優しさがあって、胸の奥がジュンとする。


 おかしいな……なんか頬や体が熱くなってくる……。


「そこに落ちてるハサミ、胡桃ちゃんが片付けておいてくれよな。俺みたいな不良が持ってたら、それこそ誰にも何も言い訳が出来なくなるからな。みんなには素行不良で通ってるから」

「……もしかしてあの朝に遅刻した理由、本当にクラスメイトの様子を見に行ってたんですか?」

「おっ!? どういう風の吹き回し? 俺の言葉を信じてくれんのっ?」

「はい……。今の宇相先輩と接していたら、信じたくなりました」

 それを聞くと宇相先輩はプッと小さく吹き出す。

「あははっ! まっ、真実なんてどうでもいいじゃん。どれだけ言い訳をしたところで、遅刻には変わりがないんだし」

「本当のことを教えてください! お願いしますっ!」

 私が懇願すると、宇相先輩は一瞬だけど困ったような顔をして『うーん』と唸った。それから少しの間が空いて、彼は静かに語り出す。

「実は鬼野ちゃんに頼まれて、登校を拒否ってるヤツの様子を定期的に見に行ってるんだ。だから遅刻も容認されてるのさ。もちろん、ほかの生徒指導の先生や教頭もそのことは了承済みだし」

「えっ? じゃ、なぜ鬼野先生はその話を私たちにしなかったんでしょうか」

「俺が口止めしてるんだよ。照れくさいから。それに様子を見に行ってるヤツのプライバシーにも関わることだからな」

「っ!? ごめんなさいっ! 私、何も事情を知らなくてっ!」

 私は慌てて深々と頭を下げた。全ては私の思い込みと早とちりだったから。

 あの時、2年生や3年生の先輩たちが何も言わずに見守っていたのは、何度も似たようなことがあって薄々その真実に気付いているからなのかもしれない。いや、きっとそうだ。

 謝っても宇相先輩には許してもらえないかもしれない。絶対に心の中で怒ってる。私は自分の愚かさに泣きたくなってくる。

「胡桃ちゃんの良いところは、そういう素直で真っ直ぐな性格だ。肝も据わってる。俺、そういうの嫌いじゃないぜ」

「っ!? もしかして、それで私を気に掛けていて助けてくれたんですか?」

 私が顔を上げて目を丸くしていると、宇相先輩はなぜか頭を抱える。

「おいおい、自惚れんなよ。あぁ、やっぱ胡桃ちゃんってたまに鼻につく時があるわ。玉にきずってヤツ。だからさっきみたいな連中に目を付けられるのかもな」

「う……」

「あのな、目の前に虐められてるヤツがいたら誰だろうが助けるでしょ、普通」

 宇相先輩は何の含みもなくその言葉をサラッと言った。

 その瞬間、私の心臓は大きく震える。何の躊躇ためらいもなく、何の裏もなくその言葉を口に出来る人はなかなかいないから。


(つづく……)
 
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