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第1航路:魔術整備師シルフィ
第0便:月夜の遡潮流(そちょうりゅう)
しおりを挟む闇夜の中、月明かりだけを頼りに全速力で川を下っていく。
今のところは無事に操船できているけど、だからといって安心は出来ない。思っていたよりも明るいとはいえ、昼間と比べれば圧倒的に見通しが悪いのは事実だから。
この状況だといつ流木などの障害物と衝突するか分からないし、乱流に突っ込んで舵が利かなくなって、座礁する危険性もある。一秒たりとも気を抜くわけにはいかない。
なにより、船の動力がいつまで正常に機能してくれるか……。
そして周囲は不気味なくらいに静まり返っていて、それも私の不安を掻き立てる。
もちろん、船体が水を切る音やエンジンの駆動音、前方から吹いてくる風の音なんかは響いているけど、ここで言う『静けさ』というのはそういう意味じゃない。『遡潮流』の気配が一切感じられないということだ。もうすぐ遭遇するのは確実だというのに。
普段と変わらぬ水面の息吹。これがいつ荒々しく豹変して私に牙をむくのか、それはどれほどの強さなのか、何もかもが分からない。だから怖い。
操舵輪を握る私の両手には自然と汗が滲み、腕が小刻みに震える。緊張感が半端なくて、思わず唾を飲み込みつつ腕に力を入れる。
「……っ? 泥のニオイ……?」
その時、私は風の中に微かだけど泥の臭いを感じた。それは船が進むごとに強くなって、低く重苦しい波音も聞こえ始める。
――とうとうこの時が来てしまった。
川下へ向かって流れる水を飲み込みつつ、逆流してくる真っ黒な波。川全体が盛り上がり、先端の激しい濁流とともにこちらへ近付いてきているのが見える。
堤防の上から何度も遡潮流を見たことがあるけど、それとは比べものにならないほどの迫力がある。大した高さなんてないと思っていたのに、こうして間近で目の当たりにすると印象は全く違う。
まるで城塞都市を囲っている壁のような存在感。それは水面にいるからそう見えるのか、それとも心の動揺がそう感じさせているのか。
ううん、その両方なんだろうな……。
あの中で舵が利かなくなり、船が横転したらと思うと恐怖で全身に鳥肌が立つ。しかもそれは現実的かつ容易に起こりうるのだから始末が悪い。
「……てはは……これは二度と見たくない景色かも……」
私は無意識のうちに薄笑いを浮かべていた。恐怖が限界を超えると、精神への負担を軽減するために笑みが浮かぶというのは本当らしい。
でもすぐに気を取り直し、奥歯を噛みしめながら前方を睨み付ける。そして動力ハンドルを握り、意を決して船の出力を最大に上げる。
直後、エンジンは水龍のような咆哮を上げて突き進む。
握っている操舵輪から激しい振動が伝わってくる。慣性によって後方へ引っ張られるような感覚や全身に当たる風が何倍にも増し、船は全速力で遡潮流へ向かっていく。
(つづく……)
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