沸騰しないやかんの夜

saki

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沸騰しないやかんの夜

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台所の換気扇が、低い唸り声を上げている。その音の隙間を縫うようにして、古いガス湯沸かし器が「ボンッ」という小さな産声を上げ、青い火を灯した。
 蛇口から流れ落ちるお湯が、ステンレスのシンクを叩き、白い湯気を立ち昇らせる。窓ガラスはすでに乳白色の結露で覆われ、外の世界を曖昧に塗りつぶしていた。
 この部屋の温度は、いつも中途半端だ。暖房をつけても、どこからか忍び込む冬の湿った冷気が、足元を執拗に攻めてくる。
 私は、使い古されたマグカップを手に取り、蛇口から注がれる熱をじっと見つめていた。

「ただいま。今日も寒いね」
 背後でドアが開く音がし、夫の雅也が帰ってきた。
「おかえりなさい。すぐにお茶を淹れるわね」
(その冷え切ったコートのまま、二度とこの敷居を跨がなければいいのに)

 雅也は私の横を通り過ぎ、リビングのソファに深く腰を下ろした。彼が吐き出した息が、部屋の湿った空気に溶けていく。彼は几帳面な男だった。脱いだ靴を揃え、鞄を定位置に置き、決まった時間に帰宅する。その「正しさ」が、この十年間、私をゆっくりと窒息させてきた。

「ああ、悪い。明日の朝、早いんだ。シャツ、アイロン掛けておいてくれるかな」
 雅也はテレビのリモコンを手に取りながら、画面も見ずに言った。
「ええ、もちろん。忘れないうちにやっておくわ」
(あなたの真っ白なシャツを、この熱湯に浸して、ぐちゃぐちゃに踏みつけられたらどんなに愉快かしら)

 私は、しゅんしゅんと音を立て始めたやかんを火にかけた。この「しゅんしゅん」という音は、まるで悲鳴の予行演習のようだといつも思う。沸点に達する直前の、最も苦しげな、けれど逃げ場のない振動。

「……智子? 聞いてるか?」
「ええ、聞いてるわ。明日の朝食は、昨日買ったクロワッサンでいいかしら」
「ああ、それでいい。あ、そうだ。母さんが週末、こっちに来たいって言ってたよ」
「お義母様が? 楽しみだわ。お掃除を念入りにしておかなくちゃ」
(あの老婆が来るなら、私はこの家を燃やして逃げ出す準備を始めるわ。あのねっとりとした視線で、私の家事の不備を探すあの女が)

 指先が、無意識に左手の手首に残る小さな火傷の痕をなぞった。三年前、雅也に「料理の塩気が足りない」と静かに指摘された日、動揺して溢したスープの痕だ。痛みはもうないが、皮膚の引きつれだけが、あの時の私の「正解を出せなかった罪」を記録している。

 やかんが、ピーという高い音を上げた。沸騰の合図だ。
 私は火を止め、雅也の好む、少し高価な緑茶の茶葉を急須に入れた。お湯を注ぐと、乾いた葉がもぞもぞと動き出し、鮮やかな緑へと蘇っていく。その香りが、狭いキッチンに満ちた。

「はい、お茶」
 ローテーブルに湯呑みを置く。雅也は目を上げず、スマートフォンの画面を指でなぞりながら、片手でそれを受け取った。
「ありがとう。……熱いな、少し待たないと」
「そうね。冷めるまで、少し時間がかかるかもしれないわ」

 私は、自分の分のマグカップには、ただの白湯を注いでいた。
 ソファの端に座り、雅也から少し離れた場所で、お湯の温もりを両手で包み込む。
 雅也は、私の白湯には興味を示さない。私が何を飲み、何を考え、どんな夢を見ているのか、彼は一度も尋ねたことがない。彼にとって私は、快適な生活を提供し続ける「背景」の一部なのだ。

(ねえ、雅也さん。あなたは知らないでしょう。私が毎晩、あなたが寝静まった後に、この台所で一人、沸騰するまでお湯を沸かし続けていることを。ただ、お湯が沸く音を聞きながら、自分が消えてなくなる想像をしていることを)

 窓の外で、風が鳴った。結露した雫が重みに耐えかねて、ガラスを滑り落ちていく。その一本の筋が、まるで部屋が泣いているように見えた。

「智子、来月の連休だけどさ。ゴルフの予定が入った。悪いけど、予定空けておいてくれ。接待なんだ」
「わかりました。お仕事なら仕方ないわね。お弁当、気合いを入れて作るわ」
(その日は、私の誕生日よ。あなたは一度だって、私の生まれた日を祝おうとしたことはないけれど)

 雅也は、ぬるくなったお茶を一気に飲み干すと、「風呂に入ってくる」と席を立った。
 彼が浴室へ向かうと、再び湯沸かし器が「ボンッ」と音を立てる。
 脱衣所で服を脱ぐ音。シャワーが壁を叩く音。
 そのすべてが、私の皮膚を薄く削り取っていくような感覚がした。

 私は、キッチンに戻った。
 シンクには、彼が飲み干した湯呑みが置かれている。私はそれを手に取り、洗剤をつけたスポンジで丁寧に洗った。キュッ、キュッ、という音が響く。
 その時、ふと思った。
 なぜ、私は洗っているのだろう。
 なぜ、私は明日のシャツを心配しているのだろう。
 なぜ、私はこの、沸騰しそうで決して沸騰しない、生ぬるいお湯のような生活を維持しようとしているのだろう。

 雅也が浴室から出てくる音がした。
「ああ、さっぱりした。智子、ドライヤーどこだっけ?」
「いつもの棚の二段目よ。見当たらないかしら?」
(目の前にあるでしょう。あなたは私なしでは、自分の持ち物さえ把握できない無能な王様なのね)

 私は、ガスコンロの前に立った。
 そして、もう一度、火をつけた。
 空になったやかんを火にかける。カチカチという点火の音がして、青い炎が踊りだす。
 やかんの中に、水は一滴も入っていない。

「おい、智子。何か焦げ臭くないか?」
 髪を拭きながらリビングに戻ってきた雅也が、鼻をヒクつかせた。
「ああ、ごめんなさい。空焚きしちゃったみたい」
(本当は、このまま何もかもを焼き尽くしてしまいたい。でも、そんな派手なことは私には似合わないわ)

 私は落ち着いて火を消した。
 熱せられたやかんから、金属の焼ける特有の、鋭い匂いが立ち上る。
 それは、私の心が折れる音に似ていた。
 けれど、不思議と悲しくはなかった。
 むしろ、空焚きされて歪みかけたやかんを見て、私は初めて「自由」を感じたのだ。

「気をつけろよ。危ないじゃないか」
「そうね。本当に危なかったわ。……ねえ、雅也さん」
「なんだよ」
「明日、アイロンは掛けないわ。お義母様にも、来ないでいいとお伝えして。ゴルフも、勝手に行ってらっしゃい」

 雅也の動きが止まった。濡れた髪から雫が滴り、彼の高級なスウェットを濡らしている。
「……何を言ってるんだ? 具合でも悪いのか?」
「いいえ、とても気分がいいの。ただ、お湯が沸きすぎちゃっただけ」

 私は、キッチンにある小さな勝手口を開けた。
 冷たい夜気が、一気に部屋の中へ流れ込む。
 湿った、重たい、冬の匂い。
 湯沸かし器の種火が、風に煽られて小さく揺れた。

「私、少し外の空気を吸ってくるわ。もう、戻らないかもしれないけれど」
「おい、冗談はやめろ。こんな夜中にどこへ行くんだ」
(どこへでも。あなたの知らない、湯気の立たない冷たい場所へ。そこならきっと、自分の足で立てる気がするの)

 私はコートも羽織らず、サンダルのまま外に出た。
 背後で雅也が何かを叫んでいるが、遠い波音のようにしか聞こえない。
 足元のコンクリートは氷のように冷たかったが、その痛みこそが「現実」だった。

 少し歩いてから振り返ると、我が家の窓は結露で真っ白に曇り、中の様子は全く見えなかった。
 あの部屋の中では、今も湯沸かし器が低い唸りを上げ、誰のものでもない熱を作り続けているのだろう。
 私は、自分の手のひらを見つめた。
 火傷の痕が、夜の闇の中で少しだけ白く光って見えた。

 もう、お湯を沸かす必要はない。
 沸騰しなかった私の人生は、ここで一度、冷え切って終わる。
 その代わり、明日からは私の体温だけで、この冬を越えていこう。

 遠くで、除夜の鐘にはまだ早い、静かな風の音が聞こえた。
 私は深く、冷たい空気を吸い込んだ。
 肺の奥がツンと痛み、それがこの上なく心地よかった。
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