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愛する夫が記憶喪失になりました。(私が作り替えました)
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「浩介さん、今日は三月十四日。私たちの、十回目の結婚記念日よ」
私がそう告げると、ベッドの上の浩介さんは、生まれたての小鳥のような、心許ない瞳で私を見上げた。
「……三月、十四日。そうか。ごめんね、栞。また、忘れちゃってたみたいだ」
「いいのよ。私が覚えているから、大丈夫」
(そうよ。あなたが私を捨てようとしたあの夜のことも、私があなたの背中を押した瞬間のことも。全部私が覚えているから、あなたは何も知らなくていいの)
私は、彼のために用意した特製のハーブティーを差し出す。そこには、記憶の定着を妨げ、暗示にかかりやすくする「魔法のシロップ」がたっぷり入っている。
浩介さんはそれを一口飲み、安堵したように微笑んだ。その微笑みは、私を裏切る前の、あの純粋な彼そのものだった。
浩介さんの記憶は、まるで濡れた砂の城だ。放っておけばすぐに崩れ、消えてしまう。だから、私が毎日、形を整えてあげなければならない。
私は、一冊の重厚な日記帳を開く。
「見て、浩介さん。去年の今日のあなたの日記よ。『栞を幸せにすることが僕の使命だ。彼女以上に美しい女性はこの世にいない』……。こう書いてあるわ」
「僕が……そんなに素敵なことを?」
「ええ。あなたは世界一の愛妻家だったのよ」
(実際は、『お前の重さに耐えられない、消えてくれ』って書いてあったけれど。あのページはもう、暖炉の中で綺麗な灰になったわ)
私は彼に、私たちがどれほど愛し合っていたか、いかに彼が私を必要としていたかを、一晩中語って聞かせる。古いアルバムには、フォトショップで加工した「存在しない二人の旅行写真」が並んでいる。
浩介さんは、私の語る物語を、乾いたスポンジのように吸収していく。
「僕は、君をそんなに愛していたんだね……。ありがとう、栞。君のような妻がいてくれて、僕は幸せ者だ」
彼は私の手を握り、涙を浮かべる。その涙は本物だ。私が作り上げた、偽りの自分を信じ込んでいる男の、純粋な涙。
しかし、時折、不具合が起きる。
「……う、うわあああ!」
夜中、浩介さんが悲鳴を上げて飛び起きた。全身に嫌な汗をかき、ガタガタと震えている。
「どうしたの、浩介さん!」
「暗闇の中で……君が……君が笑いながら、僕の首を絞めている夢を見たんだ……。冷たくて、怖い目で……」
彼の脳が、消しきれなかった断片的な真実を、悪夢として排出しようとしている。私は、彼の背中を優しく、強く抱きしめる。
「それは、事故のショックが見せる幻覚よ。お医者様も言っていたでしょう?脳が混乱しているの。かわいそうな浩介さん……。あなたは、私に守られていないと壊れてしまうのね」
(しぶといわね。あなたの脳は、まだ私を拒絶しようとするの?だったら、もっと深いところまで、私の色で塗り潰してあげなきゃ)
私は、用意していた注射器をそっと取り出す。
「少し、落ち着くお薬を打ちましょうね。明日になれば、また全部忘れて、幸せな朝を迎えられるわ」
翌朝。
浩介さんは、昨日と同じ、心許ない瞳で私を見た。
「おはよう、栞。……今日は、何日だっけ?」
「おはよう、浩介さん。今日は三月十五日。私たちの、十回目の結婚記念日の翌日よ。あなたは昨日、私に最高の愛の言葉をくれたのよ」
「そうか……。僕は、本当に幸せ者だね」
私は、彼の額に口付けをする。
彼はもう、自分という人間の正体を知らない。私の語る「浩介」というキャラクターを、一生懸命に演じ続けている。
彼は、私の作品だ。
肉体は彼だが、中身は私が一文字ずつ綴った、最高傑作の恋愛小説。
裏切りも、冷めた視線も、離婚届も、この家には存在しない。
窓の外では、春の嵐が吹き荒れている。
けれど、この部屋だけは、甘いアロマの香りと、穏やかな嘘に満たされていた。
「さあ、浩介さん。今日の『あなたの思い出』を、一緒に作りましょう?」
私は、真っ白な新しい日記のページを開いた。
そこには、彼が今日一日、私をどれほど愛すべきかが、あらかじめ私の筆跡で記されている。
私がそう告げると、ベッドの上の浩介さんは、生まれたての小鳥のような、心許ない瞳で私を見上げた。
「……三月、十四日。そうか。ごめんね、栞。また、忘れちゃってたみたいだ」
「いいのよ。私が覚えているから、大丈夫」
(そうよ。あなたが私を捨てようとしたあの夜のことも、私があなたの背中を押した瞬間のことも。全部私が覚えているから、あなたは何も知らなくていいの)
私は、彼のために用意した特製のハーブティーを差し出す。そこには、記憶の定着を妨げ、暗示にかかりやすくする「魔法のシロップ」がたっぷり入っている。
浩介さんはそれを一口飲み、安堵したように微笑んだ。その微笑みは、私を裏切る前の、あの純粋な彼そのものだった。
浩介さんの記憶は、まるで濡れた砂の城だ。放っておけばすぐに崩れ、消えてしまう。だから、私が毎日、形を整えてあげなければならない。
私は、一冊の重厚な日記帳を開く。
「見て、浩介さん。去年の今日のあなたの日記よ。『栞を幸せにすることが僕の使命だ。彼女以上に美しい女性はこの世にいない』……。こう書いてあるわ」
「僕が……そんなに素敵なことを?」
「ええ。あなたは世界一の愛妻家だったのよ」
(実際は、『お前の重さに耐えられない、消えてくれ』って書いてあったけれど。あのページはもう、暖炉の中で綺麗な灰になったわ)
私は彼に、私たちがどれほど愛し合っていたか、いかに彼が私を必要としていたかを、一晩中語って聞かせる。古いアルバムには、フォトショップで加工した「存在しない二人の旅行写真」が並んでいる。
浩介さんは、私の語る物語を、乾いたスポンジのように吸収していく。
「僕は、君をそんなに愛していたんだね……。ありがとう、栞。君のような妻がいてくれて、僕は幸せ者だ」
彼は私の手を握り、涙を浮かべる。その涙は本物だ。私が作り上げた、偽りの自分を信じ込んでいる男の、純粋な涙。
しかし、時折、不具合が起きる。
「……う、うわあああ!」
夜中、浩介さんが悲鳴を上げて飛び起きた。全身に嫌な汗をかき、ガタガタと震えている。
「どうしたの、浩介さん!」
「暗闇の中で……君が……君が笑いながら、僕の首を絞めている夢を見たんだ……。冷たくて、怖い目で……」
彼の脳が、消しきれなかった断片的な真実を、悪夢として排出しようとしている。私は、彼の背中を優しく、強く抱きしめる。
「それは、事故のショックが見せる幻覚よ。お医者様も言っていたでしょう?脳が混乱しているの。かわいそうな浩介さん……。あなたは、私に守られていないと壊れてしまうのね」
(しぶといわね。あなたの脳は、まだ私を拒絶しようとするの?だったら、もっと深いところまで、私の色で塗り潰してあげなきゃ)
私は、用意していた注射器をそっと取り出す。
「少し、落ち着くお薬を打ちましょうね。明日になれば、また全部忘れて、幸せな朝を迎えられるわ」
翌朝。
浩介さんは、昨日と同じ、心許ない瞳で私を見た。
「おはよう、栞。……今日は、何日だっけ?」
「おはよう、浩介さん。今日は三月十五日。私たちの、十回目の結婚記念日の翌日よ。あなたは昨日、私に最高の愛の言葉をくれたのよ」
「そうか……。僕は、本当に幸せ者だね」
私は、彼の額に口付けをする。
彼はもう、自分という人間の正体を知らない。私の語る「浩介」というキャラクターを、一生懸命に演じ続けている。
彼は、私の作品だ。
肉体は彼だが、中身は私が一文字ずつ綴った、最高傑作の恋愛小説。
裏切りも、冷めた視線も、離婚届も、この家には存在しない。
窓の外では、春の嵐が吹き荒れている。
けれど、この部屋だけは、甘いアロマの香りと、穏やかな嘘に満たされていた。
「さあ、浩介さん。今日の『あなたの思い出』を、一緒に作りましょう?」
私は、真っ白な新しい日記のページを開いた。
そこには、彼が今日一日、私をどれほど愛すべきかが、あらかじめ私の筆跡で記されている。
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