まんぷくっ! -となりのアイドル(と)ごはん-

indi子/金色魚々子

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6 オムライスと(憧れの)ハートマーク

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「ちょっと! 本人が来ないってどういうことですか!」

 ファミレスの一角、優奈の声が響いた。正面に座る男性――藤野さんの代理人弁護士は、額の汗をハンカチでぬぐう。きっちりとネクタイを締めた細身の男性。胸元の弁護士バッジは自信なさげに頭を垂れている。

「先ほど急に連絡がありまして……体調が悪くなり来ることができなくなったと」
「こちらの依頼人さえ来たら、今日こそ離婚届を書くっていう話でしたよね? だから危険を冒してまで連れてきたんですよ!?」
「き、危険って……」
「ここにある協議書ではそちらの依頼人は暴力・暴言を認めています。私の依頼人、浅見さんは彼による暴力の被害者です」

 どんどん前のめりになって問い詰めていく優奈のスーツの袖を引っ張るけれど、頭が熱くなっている彼女には全くの無意味だった。私は手を離し、せっかく持ってきた印鑑をぎゅっと握る。今日こそあの人から解放されると思ったのに。頭の中がどんよりと暗くなっていくのが分かった。

 みんなで鍋を囲んだ数日後、優奈から連絡が来た。藤野さんがようやっと離婚に応じると返事が来た事。条件の一つとして私と最後に会って、一緒に離婚届を書きたいと言った事。優奈も優奈のお父さんも「危険だからやめた方がいい」と言ってくれた。けれど、私はそれで彼と別れることができるなら、怖いけれど、最後に彼の言うとおりにした方がいいと思った。だから、やって来たのに……。

「はぁ……今後の事は調停や裁判も視野に、依頼人と相談します」

 一通り怒り倒した優奈は肩を下げて大きくため息をつく。

「はい、この度は申し訳ございません。藤野さんにもそのように伝えておきますので」
「『くれぐれも』どうぞよろしくお願いしますとお伝えくださいね」

 優奈は笑みを作るけれど、額には青筋が立っていた。藤野さんの弁護士はそそくさと席を立ち、あっという間にいなくなってしまった。優奈は正面に座り直し「あ゛―」と声を漏らしていた。

「あ゛―もう! 今日こそ片がつくと思ったのに! くそめ!」
「ご、ごめんなさい……」
「どうして穂花が謝るのよ。悪いのは全部あの男でアンタに非はないってずっと言ってるでしょ?」

 優奈もどっと疲れたらしく、甘いジュースを注文してさらに大きくため息をつく。

「でも、どうして今日来なかったんだろう? 本当にどこか悪いのかな?」
「あー……。そんなわけないでしょ? まったく、お人好しなんだから。たぶん、嫌がらせよ。まだ穂花の事を支配しているつもりでいるの」

 私の小さな勇気も儚い希望も、いとも簡単に打ち砕く。そうだ、彼はそう言う人だ。優奈の言葉に私は頷いた。

「ほら、考えていたって仕方ないし、今日の事はもう忘れよう? 気持ち切り替えてさ、フェス楽しもうよ。まずはお昼ごはん食べて……グッズ買うって言ってたよね?」

 気落ちしている私に向かって優奈はそうほほ笑んだ。私はバッグの中に入っているチケットを思い出す。

 本当ならここで離婚届を書いてもらってすぐに役所に提出して、その足で『アイドルジャパンフェス』にいく予定だった。
 優奈から今日の連絡が来た時、少しだけ驚いた。まさか彼と会う日がフェスの日に重なるなんて、どんな偶然だろうと思った。けれど、これで気分良くフェスを楽しめるんだと思ったら二倍楽しみになった。それなのに……私の気はなかなか晴れないまま、会場のドームに向かう。

「人、多いねぇ」
「いろんなアイドルが参加するからね」

 総勢15組、Oceansみたいな男性アイドルだけじゃなく女の子のアイドルも参加する。それもあって、物販の列は男女が入り乱れている。

「アイドルのライブなんて、穂花について行った時以来」
「私もすごい久しぶりだよ」

 しばらくエンタメ関連から離れているうちに、知らないアイドルがどっと増えた。今日は新規開拓もできそう。少しでもどんよりとした気分が晴れたらいいな。私はOceansのタオルとTシャツ、ペンライトを買い、優奈はペンライトだけを買った。私がTシャツを着ているのを見て、優奈は「やる気満々だね」と笑う。さっきまでの怒ったような強張った表情はどこにもなくて、私は胸を撫で下ろしていた。

 Oceansの出番は数えて5番目。直前の女の子グループの出演が終わった後、歓声が少し止む。周りにいた若い女の子もOceansのファンらしく、コソコソと話している声に期待感が混じっているのが分かった。私も同じだから、それは手に取る様に分かる。ドキドキと胸を高鳴らせながら待っていると、照明が落とされ、一気に暗くなる。キャーという黄色い声、それが止まぬうちに、ステージが強烈なライトに照らされた。

『Oceansでーす! 今日はよろしくお願いしまーす!』

 KOTA君の挨拶と共に、デビュー曲のイントロが流れ出す。三人はサッとポジションについて、顔を見合わせて頷いた。これからOceansのステージが始まる。歓声は高まり、みんなペンライトを突き上げた。隣を見ると、優奈も見よう見まねで振っている。私もペンライトを高く掲げるけれど、その腕は、彼らのパフォーマンスが進むにつれて低くなっていき、しまいには胸の前でぎゅっと抱きかかえていた。

(……遠いなぁ)

 目の前で歌い、踊るっているのは、いつも私の家でご飯を食べて「美味しい」と言ってくれて、一緒にパンダの赤ちゃんを見に行こうって約束してくれた湊人君じゃない。OceansのMINATOだ。肩が触れ合うくらい近くにいた彼が、今、とても遠い場所にいる。私はその距離に愕然としていた。近くにいるOceansファンの女の子が「MINATO―!」と大きな声でその名前を呼ぶ、湊人君はそれに気づかず、目の前を通り過ぎていく。

(そうだよね、湊人君はアイドル、私はただの彼のファン。初めから同じ立ち位置にはいないよね)

 これが本来の私たちの距離だったはずだ。それなのに、彼の優しさに触れている内に勘違いしそうになっていた。湊人君と対等の関係になれるんじゃないかって、心のどこかで淡く抱き始めていた期待感。私はそれをかき消すように、再びペンライトを振った。一瞬だけ、MINATO君と目が合ったような気がした。

 終演後、会場となっているドームを出た私たち。優奈の顔は会場の熱気のせいでほんのり赤くなっていた。

「こんなの久しぶりだったから楽しかった! チケット手に入って本当に良かったね! YOSUKEっていう子に感謝しないと!」
「う、うん」
「どうしたの?」
「私も久しぶりだったから、ちょっと疲れちゃった」

 急いで取り繕った嘘に優奈は気づかなかった。ふーんと相槌を打ち、さっそく今日出演していたアイドルたちのSNSをフォローし始めている。いつの間にか随分気に行ってしまったらしい。私たちはそのまま近くにあった居酒屋で夕食も一緒に取って、途中まで一緒に帰った。優奈は事務所に寄ると言って別れ、私は街灯だけの薄暗い道を一人で歩く。

「――ッ!」

 後ろから足音が聞こえてくるのには少し前から気づいていた。早歩きをすると、それも早くなる。少しスピードを緩めると、その足音も遅くなる。私についてきている。そう思った瞬間、私は走り出していた。幸いなことにマンションまでもうすぐで、私は急いで鍵をバッグから取り出す。エントランスに入った瞬間、もう大丈夫だと安心して足の力が抜けた。自動ドアが閉まる瞬間、私は振り返った。……振り返るんじゃなかったと、心底後悔した。

「ぁ……」

 喉の奥が震えて、うまく声が出てこない。でも、もし声が出せたとしても……私は何も言う事ができないに違いない。きっと、その名前を呼ぶことすらできない。

 私の視線の先に、藤野さんの姿があった。真っ黒のパーカを着てそのフードをかぶり、曇ったまなざしで私の事を見ている。背筋が凍り付く、私は慌ててオートロックを開けて、エレベーターに駆け込む。閉ボタンを連打しているうちに、それは上昇していく。一人きりのエレベーターの中で、私は恐怖で激しく脈打つ胸を押さえていた。呼吸がどんどん浅くなっていく、足が震えて上手く歩くこともできない。よろよろと壁伝いに進み、震える手で家の鍵を開けて、そのまま倒れ込む様に自宅に入った。鍵だけはすぐかけて、チェーンもかけた。ようやっと、私は大きく息を吐くことができた。

「ど、う、して」

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