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6 オムライスと(憧れの)ハートマーク
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***
「今日からこの地区を担当することになった、マネージャーの藤野元樹です。何か困ったことや相談ごとがあったら気軽に言ってください。俺、そのためにいるんで」
開店前のキッチンで、彼はハキハキとそう言った。まばらな拍手が彼を包み込み、彼は小さくお辞儀をした。快活な話し方、伸びた背筋が自信に満ちていて、明るくていい人そうだなって思った。私が彼に抱いた第一印象はとてもいいものだった。
高校の頃からバイトしていた全国チェーンのファミレス。高校を卒業してからもフリーターとして働いていた。キッチンの仕事はやりがいもあったし、つらいことはあったけれど、それなりに楽しい日々を送っていた。フリーターとなって五年経った春、店長の推薦によって私は契約社員としての採用になった。初めて貰ったお給料で、私は欲しかったオレンジ色のホーロー鍋を買い、お母さんにはストールをプレゼントした。お母さんはとても喜んで、毎日のようにそれを身に着けてくれた。これからは家に入れるお金も増える、体の弱いお母さんが無理して働かなくても、もう大丈夫。きっといいことづくめになるって、そう思っていた。
それと同時にこのお店にやってきたのが藤野さんだった。私よりも8歳年上で、誰とでもフレンドリーに接する。他のバイトやパートさんからの評判も、日が経つにつれどんどん上がっていく。
「あー、君、浅見さんだっけ?」
ある日、キッチンで一人クローズ業務をしていると藤野さんが私に声をかけてきた。あまり二人きりで話すことはこの時はなかったから、少しだけ緊張してしまった。
「浅見さんって、バイト?」
「いいえ、一応この春から契約社員になりました」
「あー! 例の! 真面目に働くいい子だって店長も言ってたわ。どう、慣れた?」
立場は変わったけれど、仕事内容にあまり差はない。時間給になったか固定給になったか、保険が国保から社保になったかどうかの違いくらい。私はその言葉にあいまいに頷く。
「浅見さんって、この前の飲み会来なかったよね? ほら、俺の歓迎会」
「すみません。その日はちょっと母の体調が悪くて」
「お母さん、どっか悪いの?」
どんどん踏み込んだ質問が多くなっていく。私は聞かれるがままに、母の体調があまりすぐれないこと、自分が家計を支えているという話をしていた。
「そうなんだ、大変だね」
その月並みの労わりも聞きなれたものだった。
「それじゃ、今日の飲み会も来ない?」
「え? あるんですか?」
「いや、さっき急遽決まったんだよね。バイトの子が飲みたいって言うから。良かったら浅見さんもどう?」
少しだけ悩んだ。ちょっとでもマネージャーに顔を売っておいた方が、正社員への道が繋がるかもしれない。早く生活を豊かにして母を安心させたいという気持ちがあった私は「行きます」と返事をしていた。
「よっしゃ! じゃ、閉店したらみんなで行こうな」
藤野さんは私の肩を強く叩いた。私は早く仕事を終わらせて、お母さんに事情を伝え「帰るのが遅くなる」とメールを送った。お母さんからは「楽しんできてね」と、ハートの絵文字付きで返事が来た。
みんなからは「浅見さんが来るなんて珍しいね」と言われ、少しの間話をしたけれど、お酒が進むにつれて私は酔っ払うみんなの輪から少しずつ離れていった。話をするのは好きだけど、酔っ払うみんなと調子を合わせることができない。私がレモンチューハイをちびちびと飲んでいる間に、寝ている人やら大きな声で騒ぐ人が増えていった。
「久しぶりに飲むとすぐ酔うな」
そう言って私の隣に座ったのが藤野さんだった。藤野さんとの距離は紙切れ1枚ほど。この頃の私にとってはとても近すぎて、居心地の悪さを感じた。藤野さんのグラスを持っていない手が私の真後ろで床についている。まるで柵に囲われているような感覚だった。
「浅見さん、どう? 楽しんでる?」
お酒に酔った藤野さんのおでこが赤くなっている。
「はい、まあ……」
「え? なんて? ったく、うるせーなー、みんな。浅見さん、何飲んでるの?」
「レモンチューハイです」
私は少しだけ大きな声を出した。
「へぇー。俺、もうウーロン茶。浅見さんはお酒強い?」
普通くらいです、という声は誰かの大きな笑い声にかき消される。それに釣られるように藤野さんも何故か笑っていた。
「仕事、どう? 順調?」
「はい。みなさん良くしてくれますし、高校の時からバイトしてましたから」
「そうなの? へー、今何歳?」
「23歳です」
「若いのにしっかりしてるね。あ、飲み物もう無くなるんじゃない? 何か頼む?」
藤野さんがドリンクメニューをくれたので、私はその言葉に甘えるようにカシスオレンジを頼んだ。来る前にお手洗いに行くと言って席を立つ。冷たい水で少し熱くなった手を冷やした。藤野さん、いい人だな。話しやすい。前のエリアマネージャーはいつもムスッとしていたから、ずっと藤野さんみたいな人が担当してくれたらいいのに。手を拭いてテーブルに戻ると、カシスオレンジがテーブルの上に乗っていた。藤野さんも同じものを飲んでいる。
「久しぶりに飲んだわ、カシオレ。あ、浅見さんのも来てるよ」
「ありがとうございます」
「よっしゃ、乾杯しよ~。はい、カンパーイ!」
グラス同士がぶつかる軽やかな音。喉を通り過ぎていく甘い液体。騒がしい居酒屋。それらすべてが、気づいた時にはなくなってしまっていた。
「……あれ?」
目が覚めた時、私は知らない家のリビングのソファに横になっていた。カーテンの隙間から眩い朝日が差し込んでいる。痛む頭を抑えながら起き上がると体にかかっていた毛布がずるりと落ちる。私のカバンに入っていたスマートフォンは、お母さんからのメールが来ていることを知らせていた。それを取ろうとソファから降りようとしたとき、なにか柔らかいものを踏んでしまった。
「……っぐ」
「ふ、藤野さん?!」
「あ、浅見さん? 起きたの? 良かったー、飲み会の時に急に寝ちゃうんだもん、何かあったかと思ったよ」
「ごめんなさい! あの、ここって」
「あー、俺んち。浅見さんち知らないから、連れてきちゃった」
男の人の部屋なんて初めて入った。それに気づいた瞬間、体がサッと冷たくなっていくような感覚があった。藤野さんも私の異変に気付いたのか、大きく首を横に振る。
「大丈夫、大丈夫。何もしてないから」
確かに、私の服に乱れはないような気がする。……けれど、腰のあたりが鈍く痛んだ。
「本当だから、本当だからね」
焦って額から汗を流す藤野さんを見ていると、追及するのも悪い気がしてきた。私は頷いて、よろめきながら立ち上がった。頭がガンガンと痛む、二日酔いかもしれない。今日のシフトは午後からで良かった。
「あの、お世話になりました」
「いやいや。こちらこそ飲ませちゃったから、家の人心配してるだろうから早く帰りな」
「ありがとうございます」
靴を履いて藤野さんに背を向ける。その瞬間、体が熱いものに包み込まれた。藤野さんの力強い腕が私のお腹を回る。その顔の見えない抱擁は、しばらくの間続いた。藤野さんは耳元で囁くようにこう言った。
「またおいで、俺、穂花ちゃんと仲良くなりたい」
男の人に熱っぽく名前を呼ばれるのは初めてだった。私の体は少し火照っていく。私はぎこちなく「また来ます」と呟いて、藤野さんの自宅をあとにした。
大急ぎで家に帰る。お母さんはリビングで横になっていた。その体にひざ掛けをかけようとしたとき、寝返りの弾みでお母さんは目を覚ます。そして、待ちくたびれたとでも言うように私を見つめた。
「楽しかった? 飲み会」
「う、うん」
「それにしても、穂花が朝帰りするなんて初めてね。どこにいたの?」
私はとっさに、母が知っているバイトの女の子の名前を出した。その子の家に泊ったと言うと、お母さんは「そう」と安心したようにまた目を閉じた。お母さんにそんな嘘をつく日が来るとは思わなかった。私は小さく笑い、頭痛薬を飲んでからシャワーを浴びた。体にまとわりつく二日用意のだるさは、次の日になってからようやっとなくなった。
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