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7 (まだ何もはじまってないけど。むしろ事態は悪化したけど)終わりよければすべてよし?
― 33 ―
***
「目の下、すごい隈だけどなにかあった?」
「ちょっと寝付けなくて……」
本屋に着くと、店長が私の顔を見て、まるでゾンビを見たかのように血相を変えた。
「大丈夫? どこか悪い?」
「だ、大丈夫です。お気になさらず」
「……浅見さんがそう言うならいいけど、少しでも具合が悪くなったらすぐに言ってよ」
そのありがたい言葉に頷く。けれど、どれだけしんどくなっても仕事をしていた方が気がまぎれる。湊人君のことも、藤野さんのことも、仕事をしている間だけは忘れられる。私は到着したばかりの荷物を解き、店先に並べていく。その中には料理の本も混じっていて、私は他の店員の目を盗み、ちらりと覗いてしまった。
(……今度は何作ろうかな?)
オムライスを玉子に包むこともできた。きっと、そろそろ料理もできるようになっているに違いない。次はどんな料理を作ろう? 湊人君は喜んでくれるかな? そう考えた瞬間、ハッとあることに気づいた。
(私、作る料理の基準が『湊人君が喜んでくれるかどうか』になってるんだ)
胸に芽生えそうになったその喜びを、私は引っこ抜いて投げ捨てる。もう育たないように、そう念じながら。
明日発売の書籍や雑誌が多すぎて、気づけば遅くまで残業してしまっていた。他に残ることができる人がいなかったため、閉店後の店で、私は店長と一緒にせっせと書籍を陳列していく。
「ごめんね浅見さん! 具合悪いのに!」
「大丈夫ですって。体を動かしてたら少し元気になりましたし」
「ホント? 無理しないでね、ほら、終わったならすぐに帰る。外暗いから気を付けて」
「はい、お疲れ様です」
確かにもう外は真っ暗になっていた。息を吐くとすぐに真っ白になって、そのまま夜空に上っていく。私はマフラーで口元を覆い、歩き出していた。今日はもう疲れちゃったし、ご飯はまたコンビニでいいかな。寒さがコートをすり抜けてきて、思わず身震いをしてしまう。今日は温かいものを食べたいな、おでんとか……そんな事を考えていた時、背後から足音が聞こえてきた。
「――ッ!」
体が震え始める。これは寒さなんかじゃない、恐怖から来るものだった。私は振り返ることも出来ず、早足で歩き始めていた。私に歩調を合わせるみたいに、背後の足音も早くなっていく。
(やだ、やだ、怖い)
時折足がもつれながらも、私は急ぐ。その途中でコンビニを見つけたので、私は藁にもすがる思いで駆け込んだ。振り返るとそこに人影はなかったけれど、突き刺さるような視線を感じていた。目の前に広がる暗闇の中に、絶対……藤野さんがいる。
(……どうしよう、どうしよう)
私はお店の中をぐるぐると歩き回った。けれどいい考えが浮かんでくるわけでもなく、時間が経つにつれてレジにいる店員が私の事を怪訝そうな眼差しで見ていることに気づいた。ここにもそう長くはいられない。
優奈を呼ぶのは、絶対に危ないからやめておいた方がいい。きっと藤野さんを見つけだして、話を始めるに違いないから。もしかしたら藤野さんが逆上して、優奈の事を傷つけるかもしれない。警察……一瞬だけそう考えたけれど、警察を呼ぶほどの事じゃないし、大げさなことはしたくない。私は書籍コーナーの前で立ちすくむ。どうしようとコートをぎゅっと掴んだとき、ポケットの中のスマートフォンに指先が触れた。そして、私は……湊人君の事を思い出していた。
私は縋り付くように、湊人君に電話をかけ始めていた。コール音が何回も続く、彼が応答することはないかもしれない。それでも、私は目をつぶってじっと待ち続けていた。
『……もしもし、穂花サン?』
ようやっと電話がつながったとき、私は安堵のため息を漏らしていた。スピーカーから彼が私の名をもう一度呼ぶ。それだけなのに、どうしてこんなにも安心できるのだろう。
『どうかした? 何かあった?』
「い、い、今、コンビニにいて」
どもる私の声を聞いて、彼は何が起きたのか、すぐに理解してくれたみたいだった。
『コンビニって、うちの近所の?』
「うん、あの……」
『わかった。そっち向かうから、待ってて。絶対に外には出ないでよ!』
私はその言葉に頷く。彼にはそれは見えていないはずなのに、湊人君は『すぐ行くからね』と力強く言ってくれた。それだけなのに、不安に押しつぶされそうだった私の心は救われたような気になってしまう。私はスマートフォンをぎゅっと握りしめながら、早く来てくれるように念じていた。
しばらくするとコンビニの前に一台のタクシーが止まった。次の瞬間ドアが開き、最早目印にもなっている金色の髪が見えた。湊人君だ。変装もしていない、見慣れた姿。
「……穂花サンッ!」
自動ドアがまだ開ききっていないのにその隙間を割り込む様に、私の名を呼びながら湊人君がコンビニに入ってきた。書籍コーナーの前で立ち尽くす私を見つけ「良かった」と息を漏らすように囁いた。
「もしかして、旦那?」
「……多分、そうだと思う」
「怖かったでしょ。俺が来たからもう大丈夫、一緒に帰ろう」
湊人君が私の手を握る。レジにいる店員も異変と彼の事に気づきかけている様子で、湊人君の足取りは早かった。私は彼に引っ張られるまま、コンビニをあとにする。駐車場に止まっていたままのタクシーに乗り込む。ドアが閉まるとすぐにタクシーは発進した。車内はすぐに静まり返る。
「……ごめん、なさい」
その静寂を私は破った。繋がったままだった手を離し、小さくそう呟く。
「なにそれ?」
「湊人君に、迷惑かけて……」
「俺は迷惑なんて思ってない」
「で、でも……これじゃ、私、湊人君の好意にあぐらかいているみたいで」
「いいんだよ、それで」
湊人君はもう一度私の手を取り、今度は指を絡ませるようにつないでくれた。
「いいんだよ。俺が穂花サンのことが好きだって言う気持ち、どんどん利用してよ」
湊人君はぎゅっとさらに手を握る力を込めた。繋がった互いの手が熱くなっていくのが分かった。
「俺だって、アンタに頼られるのは嬉しいし。……それ以上に、穂花サンが俺の知らないところで怖くて震えているって考えると気が狂いそう」
「……ごめん」
「だから、こういう時は『ありがとう』でしょ?」
屈託なく湊人君が笑う。
「……ありが、とう」
「どーいたしまして。ほら、降りよう」
タクシーはいつの間にかマンションの前に着いていた。湊人君が会計を済ませて、私も一緒に降りる。エレベーターに乗って、彼は私の部屋まで送ってくれた。
「また何かあったらすぐに頼って。言葉通り、俺飛んでくるから」
「ごめん……あ、いや、あの、ありがとう。今度ちゃんとお礼させて」
「いーよ、お礼なんて。あ、それなら一個お願いがある」
私が首を傾げると、彼は照れくさそうに頬を掻く。
「ちゅーしてもいい?」
「へっ!? え、あ……えっ!?」
「おでこ、おでこにするから。それならいいでしょ? ほら、目閉じて」
戸惑いながらも、彼の言葉に従ってしまう。私が目を閉じると、湊人君は私の前髪をあげていく。そして、そっとおでこに彼の唇がそっと触れた。私の顔はまるで火がついたみたいに熱くなっていく。目を開けて彼を見上げると、湊人君の頬も少しだけ赤くなっていた。
「それじゃ、おやすみ」
「う、うん、おやすみなさい」
私が部屋のドアを閉じるまで、彼はそこにいた。そっとドアを閉めると息を大きく吐く音が聞こえて、そのまま隣のドアが開く音がした。私はよろよろとした足取りでリビングに向かい、そこで崩れ落ちていた。心臓がバクバクと激しく脈打っている、肋骨が痛いくらいに。もう顔だけじゃなくて全身が熱い。
湊人君って、すごい。藤野さんと思しき人に付きまとわれた恐怖を、あれだけで一掃してくれる。
「顔、洗いたくない」
私はおでこを手のひらで覆いながら、暗闇の中でそう呟いた。初めて味わう感覚は全身を痺れさせ、結局、この晩もろくに眠ることはできなかった。
「目の下、すごい隈だけどなにかあった?」
「ちょっと寝付けなくて……」
本屋に着くと、店長が私の顔を見て、まるでゾンビを見たかのように血相を変えた。
「大丈夫? どこか悪い?」
「だ、大丈夫です。お気になさらず」
「……浅見さんがそう言うならいいけど、少しでも具合が悪くなったらすぐに言ってよ」
そのありがたい言葉に頷く。けれど、どれだけしんどくなっても仕事をしていた方が気がまぎれる。湊人君のことも、藤野さんのことも、仕事をしている間だけは忘れられる。私は到着したばかりの荷物を解き、店先に並べていく。その中には料理の本も混じっていて、私は他の店員の目を盗み、ちらりと覗いてしまった。
(……今度は何作ろうかな?)
オムライスを玉子に包むこともできた。きっと、そろそろ料理もできるようになっているに違いない。次はどんな料理を作ろう? 湊人君は喜んでくれるかな? そう考えた瞬間、ハッとあることに気づいた。
(私、作る料理の基準が『湊人君が喜んでくれるかどうか』になってるんだ)
胸に芽生えそうになったその喜びを、私は引っこ抜いて投げ捨てる。もう育たないように、そう念じながら。
明日発売の書籍や雑誌が多すぎて、気づけば遅くまで残業してしまっていた。他に残ることができる人がいなかったため、閉店後の店で、私は店長と一緒にせっせと書籍を陳列していく。
「ごめんね浅見さん! 具合悪いのに!」
「大丈夫ですって。体を動かしてたら少し元気になりましたし」
「ホント? 無理しないでね、ほら、終わったならすぐに帰る。外暗いから気を付けて」
「はい、お疲れ様です」
確かにもう外は真っ暗になっていた。息を吐くとすぐに真っ白になって、そのまま夜空に上っていく。私はマフラーで口元を覆い、歩き出していた。今日はもう疲れちゃったし、ご飯はまたコンビニでいいかな。寒さがコートをすり抜けてきて、思わず身震いをしてしまう。今日は温かいものを食べたいな、おでんとか……そんな事を考えていた時、背後から足音が聞こえてきた。
「――ッ!」
体が震え始める。これは寒さなんかじゃない、恐怖から来るものだった。私は振り返ることも出来ず、早足で歩き始めていた。私に歩調を合わせるみたいに、背後の足音も早くなっていく。
(やだ、やだ、怖い)
時折足がもつれながらも、私は急ぐ。その途中でコンビニを見つけたので、私は藁にもすがる思いで駆け込んだ。振り返るとそこに人影はなかったけれど、突き刺さるような視線を感じていた。目の前に広がる暗闇の中に、絶対……藤野さんがいる。
(……どうしよう、どうしよう)
私はお店の中をぐるぐると歩き回った。けれどいい考えが浮かんでくるわけでもなく、時間が経つにつれてレジにいる店員が私の事を怪訝そうな眼差しで見ていることに気づいた。ここにもそう長くはいられない。
優奈を呼ぶのは、絶対に危ないからやめておいた方がいい。きっと藤野さんを見つけだして、話を始めるに違いないから。もしかしたら藤野さんが逆上して、優奈の事を傷つけるかもしれない。警察……一瞬だけそう考えたけれど、警察を呼ぶほどの事じゃないし、大げさなことはしたくない。私は書籍コーナーの前で立ちすくむ。どうしようとコートをぎゅっと掴んだとき、ポケットの中のスマートフォンに指先が触れた。そして、私は……湊人君の事を思い出していた。
私は縋り付くように、湊人君に電話をかけ始めていた。コール音が何回も続く、彼が応答することはないかもしれない。それでも、私は目をつぶってじっと待ち続けていた。
『……もしもし、穂花サン?』
ようやっと電話がつながったとき、私は安堵のため息を漏らしていた。スピーカーから彼が私の名をもう一度呼ぶ。それだけなのに、どうしてこんなにも安心できるのだろう。
『どうかした? 何かあった?』
「い、い、今、コンビニにいて」
どもる私の声を聞いて、彼は何が起きたのか、すぐに理解してくれたみたいだった。
『コンビニって、うちの近所の?』
「うん、あの……」
『わかった。そっち向かうから、待ってて。絶対に外には出ないでよ!』
私はその言葉に頷く。彼にはそれは見えていないはずなのに、湊人君は『すぐ行くからね』と力強く言ってくれた。それだけなのに、不安に押しつぶされそうだった私の心は救われたような気になってしまう。私はスマートフォンをぎゅっと握りしめながら、早く来てくれるように念じていた。
しばらくするとコンビニの前に一台のタクシーが止まった。次の瞬間ドアが開き、最早目印にもなっている金色の髪が見えた。湊人君だ。変装もしていない、見慣れた姿。
「……穂花サンッ!」
自動ドアがまだ開ききっていないのにその隙間を割り込む様に、私の名を呼びながら湊人君がコンビニに入ってきた。書籍コーナーの前で立ち尽くす私を見つけ「良かった」と息を漏らすように囁いた。
「もしかして、旦那?」
「……多分、そうだと思う」
「怖かったでしょ。俺が来たからもう大丈夫、一緒に帰ろう」
湊人君が私の手を握る。レジにいる店員も異変と彼の事に気づきかけている様子で、湊人君の足取りは早かった。私は彼に引っ張られるまま、コンビニをあとにする。駐車場に止まっていたままのタクシーに乗り込む。ドアが閉まるとすぐにタクシーは発進した。車内はすぐに静まり返る。
「……ごめん、なさい」
その静寂を私は破った。繋がったままだった手を離し、小さくそう呟く。
「なにそれ?」
「湊人君に、迷惑かけて……」
「俺は迷惑なんて思ってない」
「で、でも……これじゃ、私、湊人君の好意にあぐらかいているみたいで」
「いいんだよ、それで」
湊人君はもう一度私の手を取り、今度は指を絡ませるようにつないでくれた。
「いいんだよ。俺が穂花サンのことが好きだって言う気持ち、どんどん利用してよ」
湊人君はぎゅっとさらに手を握る力を込めた。繋がった互いの手が熱くなっていくのが分かった。
「俺だって、アンタに頼られるのは嬉しいし。……それ以上に、穂花サンが俺の知らないところで怖くて震えているって考えると気が狂いそう」
「……ごめん」
「だから、こういう時は『ありがとう』でしょ?」
屈託なく湊人君が笑う。
「……ありが、とう」
「どーいたしまして。ほら、降りよう」
タクシーはいつの間にかマンションの前に着いていた。湊人君が会計を済ませて、私も一緒に降りる。エレベーターに乗って、彼は私の部屋まで送ってくれた。
「また何かあったらすぐに頼って。言葉通り、俺飛んでくるから」
「ごめん……あ、いや、あの、ありがとう。今度ちゃんとお礼させて」
「いーよ、お礼なんて。あ、それなら一個お願いがある」
私が首を傾げると、彼は照れくさそうに頬を掻く。
「ちゅーしてもいい?」
「へっ!? え、あ……えっ!?」
「おでこ、おでこにするから。それならいいでしょ? ほら、目閉じて」
戸惑いながらも、彼の言葉に従ってしまう。私が目を閉じると、湊人君は私の前髪をあげていく。そして、そっとおでこに彼の唇がそっと触れた。私の顔はまるで火がついたみたいに熱くなっていく。目を開けて彼を見上げると、湊人君の頬も少しだけ赤くなっていた。
「それじゃ、おやすみ」
「う、うん、おやすみなさい」
私が部屋のドアを閉じるまで、彼はそこにいた。そっとドアを閉めると息を大きく吐く音が聞こえて、そのまま隣のドアが開く音がした。私はよろよろとした足取りでリビングに向かい、そこで崩れ落ちていた。心臓がバクバクと激しく脈打っている、肋骨が痛いくらいに。もう顔だけじゃなくて全身が熱い。
湊人君って、すごい。藤野さんと思しき人に付きまとわれた恐怖を、あれだけで一掃してくれる。
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