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10 バツイチ女の新しい【恋人】(と書いて、推しのアイドルと読む)
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まだカーテンを取り付けていない窓を開けると、外からは暖かな風が流れてくる。その中には桜の花の香りが混じっていて、もう季節が春であることを告げている。私はその甘い風を胸いっぱい吸い込んだ。
「ちょっと、ぼさっとしてないで荷物開けなよ。早くしないと今日寝られないよ」
「ごめんごめん」
腕をまくった優奈が、片っ端から引っ越し用の段ボールのテープを剥がしていた。私もそれにならって荷物を片づけ始める。
季節を冬から春に飛び越えて、私はようやっと引っ越しをすることができた。優奈のお父さんのツテで見つけてもらった、セキュリティばっちりの2LDKのマンション。私はこの部屋に、湊人君と一緒に暮らす――いわゆる同棲っていうやつ。こうなったのは湊人君の一言がきっかけだった。
「隣同士で住んでて行き来するのってさぁ、なんか面倒じゃない? もう一緒に暮らそうよ」
思いがけないその言葉に私が真っ赤になって、湊人君にからかわれたのは言うまでもない。
「ま、順調そうでなによりって感じだね」
優奈のその言い方は、祝福してくれると言うよりはなんだかノロケを聞いてあきれているかのような感じだった。
「うん、おかげさまで」
「それで、湊人君は帰ってくるの何時になりそうなの?」
「夕方までには帰るって言ってたけど……遅くなるなら連絡あると思うよ」
ありがたいことに、湊人君はまだOceansの一員としてアイドルを続けられている。あの生配信の翌日、芸能ニュースは湊人君一色になっていた。『禁断!? アイドルが貫いた一途の愛』だの『アイドルに恋愛の自由は認められるのか? ファンの声を直接聞く!』だのワイドショーでは特集が組まれ、芸能系ジャーナリストやコメンテーター、取材を受ける街角の人々のコメントが出るたびに私は冷汗をかいた。しかし、私の予想に反して、それらのほとんどは湊人君の事を好意的にみるものがほとんどだった。
――アイドルだって、自由に恋愛をする権利だってあるはずだ。
もちろん、批判的な意見はまだまだある。Oceansの公式SNSアカウントにもよく湊人君の事を否定するようなコメントが届く。けれど、それはOceansのメンバーはみんなで「慣れるしかないよね」と笑っていた。それに、ひどい中傷コメントがつくようになったら、優奈のお父さんに『依頼』するらしい。優奈のお父さんはOceansに届くひどいコメントにとても憤慨していて、今、誹謗中傷の情報開示や慰謝料の請求について勉強しているらしい。その頼もしい様子を、優奈が笑いながらそう教えてくれた。
「何かあればいつでも事務所に来ていいから。私はいないかもしれないけどね」
そう話す優奈は、最近大忙しだった。それもあの生配信が大きく影響している。湊人君の生配信に出演してから、何かとテレビでコメントを求められることが増えていった。民事に関する法律の事を幅広く答えることができる優奈は、今では『美人弁護士』なんて呼ばれて、情報番組のコメンテーターとしてテレビ出演することも増えてきた。もしかしたら、私よりも劇的に人生が変わったのは優奈かもしれない。鈴木弁護士事務所にも依頼が増え、この春から新しい弁護士さんと事務員さんを雇ったとのこと。私も一度だけ会ったけれど、二人ともとても真面目そうで好印象だった。
「わっ! この炊飯器テレビで見たことある! 結構高いやつなんじゃないの?」
「ふふっ。買っちゃった!」
「へぇ~。……もしかして、慰謝料使って?」
その言葉に私は頷く。
あの翌日、優奈に「離婚した」という話をしたら、それはもう雷を何発も落とす勢いで怒られた。当たり前だ、担当弁護士である優奈の許可も取らずに勝手な事をしたのだから。彼女は大きくため息をつき、忙しくなっているのにも関わらず、優先的に藤野さん側と慰謝料の話を進めてくれた。あちらの弁護士もこの事実にとても驚いていたみたいだったけれど、離婚届を提出したらまるで魔法が溶けたように、藤野さんも私に対する興味がなくなってしまったらしく請求するとすんなりと希望額が支払われた。
「それでほとんどなくなっちゃったけどね」
「だってそもそもが少なかったもん。もっと取れたのに……」
優奈に依頼料と成功報酬を支払い、その後、引っ越しに合わせて少し前から気になっていた国産メーカーの高級炊飯器を衝動買いしてしまった。少し悩んだけれど、湊人君も「パーッと使っちゃいなよ!」と背中を押してくれた。これでお米を炊くと粒が立っていてつやつやで、とてもおいしい。湊人君もすっかりお気に入りになっているから、とてもいい買い物をしたと思っている。
衣類をウォークインクローゼットに、食器を買ったばかりの食器棚に……そんな片づけを黙々としている内に、すっかり夕方になっていた。一息ついたタイミングで、玄関のドアが開く音が聞こえてくる。
「ただいまー」
「忙しい所すみません、お邪魔します」
「わ、広い! きれい! いーなー」
湊人君と一緒に、航太君と洋輔君もやってきた。洋輔君は色んな部屋を覗き込み、航太君はずっと恐縮していた。
「これ、引っ越し祝いです」
航太君が持っていた袋を渡してくれる。
「あ、お蕎麦だ。天ぷらも! ありがとう、今ゆでる用意するね」
「これ、有名な老舗蕎麦屋の?! ガイドブックで星獲得したっていう……」
私よりも優奈が食いついている。私は鍋を取り出してお湯を沸かし始めた。みんなに意見を聞くと、ざるそばが良いというのが圧倒的に多数だったけれど……せいろが人数分ない。しかたないから、お皿は何かで代用しよう。こうやってみんなで集まることも増えるかもしれないから、そういうのも多めに買っておこうかな。新しい生活の事を考えると、何だか楽しい気持ちになっていく。こんなの、生まれて初めてだった。
振り返ると、湊人君たちは少しだけお疲れムードだった。Oceansにも変化があり、今、夏に発売予定のニューアルバムの準備で大忙しいだ。歌のレッスンから始まり、レコーディング、ダンスの練習……そして秋には、アルバムをひっさげた全国アリーナツアーが待っている。湊人君は「早めに一緒に暮らせて良かったよ」と話をしていた。これからさらに忙しくなって、二人で過ごす時間がますます減っていく。けれど、私は彼がアイドルでいることを応援すると決めたのだからちゃんと我慢できる。それに、またコンサートに行けるのはちょっと楽しみでもある。
「ちょっと、ぼさっとしてないで荷物開けなよ。早くしないと今日寝られないよ」
「ごめんごめん」
腕をまくった優奈が、片っ端から引っ越し用の段ボールのテープを剥がしていた。私もそれにならって荷物を片づけ始める。
季節を冬から春に飛び越えて、私はようやっと引っ越しをすることができた。優奈のお父さんのツテで見つけてもらった、セキュリティばっちりの2LDKのマンション。私はこの部屋に、湊人君と一緒に暮らす――いわゆる同棲っていうやつ。こうなったのは湊人君の一言がきっかけだった。
「隣同士で住んでて行き来するのってさぁ、なんか面倒じゃない? もう一緒に暮らそうよ」
思いがけないその言葉に私が真っ赤になって、湊人君にからかわれたのは言うまでもない。
「ま、順調そうでなによりって感じだね」
優奈のその言い方は、祝福してくれると言うよりはなんだかノロケを聞いてあきれているかのような感じだった。
「うん、おかげさまで」
「それで、湊人君は帰ってくるの何時になりそうなの?」
「夕方までには帰るって言ってたけど……遅くなるなら連絡あると思うよ」
ありがたいことに、湊人君はまだOceansの一員としてアイドルを続けられている。あの生配信の翌日、芸能ニュースは湊人君一色になっていた。『禁断!? アイドルが貫いた一途の愛』だの『アイドルに恋愛の自由は認められるのか? ファンの声を直接聞く!』だのワイドショーでは特集が組まれ、芸能系ジャーナリストやコメンテーター、取材を受ける街角の人々のコメントが出るたびに私は冷汗をかいた。しかし、私の予想に反して、それらのほとんどは湊人君の事を好意的にみるものがほとんどだった。
――アイドルだって、自由に恋愛をする権利だってあるはずだ。
もちろん、批判的な意見はまだまだある。Oceansの公式SNSアカウントにもよく湊人君の事を否定するようなコメントが届く。けれど、それはOceansのメンバーはみんなで「慣れるしかないよね」と笑っていた。それに、ひどい中傷コメントがつくようになったら、優奈のお父さんに『依頼』するらしい。優奈のお父さんはOceansに届くひどいコメントにとても憤慨していて、今、誹謗中傷の情報開示や慰謝料の請求について勉強しているらしい。その頼もしい様子を、優奈が笑いながらそう教えてくれた。
「何かあればいつでも事務所に来ていいから。私はいないかもしれないけどね」
そう話す優奈は、最近大忙しだった。それもあの生配信が大きく影響している。湊人君の生配信に出演してから、何かとテレビでコメントを求められることが増えていった。民事に関する法律の事を幅広く答えることができる優奈は、今では『美人弁護士』なんて呼ばれて、情報番組のコメンテーターとしてテレビ出演することも増えてきた。もしかしたら、私よりも劇的に人生が変わったのは優奈かもしれない。鈴木弁護士事務所にも依頼が増え、この春から新しい弁護士さんと事務員さんを雇ったとのこと。私も一度だけ会ったけれど、二人ともとても真面目そうで好印象だった。
「わっ! この炊飯器テレビで見たことある! 結構高いやつなんじゃないの?」
「ふふっ。買っちゃった!」
「へぇ~。……もしかして、慰謝料使って?」
その言葉に私は頷く。
あの翌日、優奈に「離婚した」という話をしたら、それはもう雷を何発も落とす勢いで怒られた。当たり前だ、担当弁護士である優奈の許可も取らずに勝手な事をしたのだから。彼女は大きくため息をつき、忙しくなっているのにも関わらず、優先的に藤野さん側と慰謝料の話を進めてくれた。あちらの弁護士もこの事実にとても驚いていたみたいだったけれど、離婚届を提出したらまるで魔法が溶けたように、藤野さんも私に対する興味がなくなってしまったらしく請求するとすんなりと希望額が支払われた。
「それでほとんどなくなっちゃったけどね」
「だってそもそもが少なかったもん。もっと取れたのに……」
優奈に依頼料と成功報酬を支払い、その後、引っ越しに合わせて少し前から気になっていた国産メーカーの高級炊飯器を衝動買いしてしまった。少し悩んだけれど、湊人君も「パーッと使っちゃいなよ!」と背中を押してくれた。これでお米を炊くと粒が立っていてつやつやで、とてもおいしい。湊人君もすっかりお気に入りになっているから、とてもいい買い物をしたと思っている。
衣類をウォークインクローゼットに、食器を買ったばかりの食器棚に……そんな片づけを黙々としている内に、すっかり夕方になっていた。一息ついたタイミングで、玄関のドアが開く音が聞こえてくる。
「ただいまー」
「忙しい所すみません、お邪魔します」
「わ、広い! きれい! いーなー」
湊人君と一緒に、航太君と洋輔君もやってきた。洋輔君は色んな部屋を覗き込み、航太君はずっと恐縮していた。
「これ、引っ越し祝いです」
航太君が持っていた袋を渡してくれる。
「あ、お蕎麦だ。天ぷらも! ありがとう、今ゆでる用意するね」
「これ、有名な老舗蕎麦屋の?! ガイドブックで星獲得したっていう……」
私よりも優奈が食いついている。私は鍋を取り出してお湯を沸かし始めた。みんなに意見を聞くと、ざるそばが良いというのが圧倒的に多数だったけれど……せいろが人数分ない。しかたないから、お皿は何かで代用しよう。こうやってみんなで集まることも増えるかもしれないから、そういうのも多めに買っておこうかな。新しい生活の事を考えると、何だか楽しい気持ちになっていく。こんなの、生まれて初めてだった。
振り返ると、湊人君たちは少しだけお疲れムードだった。Oceansにも変化があり、今、夏に発売予定のニューアルバムの準備で大忙しいだ。歌のレッスンから始まり、レコーディング、ダンスの練習……そして秋には、アルバムをひっさげた全国アリーナツアーが待っている。湊人君は「早めに一緒に暮らせて良かったよ」と話をしていた。これからさらに忙しくなって、二人で過ごす時間がますます減っていく。けれど、私は彼がアイドルでいることを応援すると決めたのだからちゃんと我慢できる。それに、またコンサートに行けるのはちょっと楽しみでもある。
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