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春は醒めて
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「ねえ、男女の友情ってあると思う?」
「なんだよ突然」
風が軽く窓を打つ音と二人分の吐息だけがかすかに聞こえる中、突飛な質問で僕を驚かせた彼女は、左手で頬杖をつき右手でペン回しをしている。脈絡のない質問に半ば呆れながら、でも興味のそそる話で、片付けの手を止め彼女の方に向き直った。君も同じ科学部員なのに僕だけが科学室の後片付けをしている件については一旦保留にしておこう。
「今日登校中に小学生低学年の集団を見かけたの。男の子も女の子も一緒に仲良くおしゃべりしてて可愛いなーって思って。あの頃ってあんまり男女の垣根とかなかったでしょ?」
「どうだったかな。僕はあんまりだったけど、周りはよく喋ってたかもしれない」
「そうなの?私のところは高学年になってもみんな仲良かったなー。まあ中学に入ってからはみんな思春期だから、ちょっと距離あいちゃった」
もちろん私もね、と彼女は自虐的な笑みを見せたあと、すっと窓の外へ目を向ける。外に舞う花びらを背景にした彼女の横顔はほんのり冷たい匂いがして、季節外れに秋の空気を思わせるけど、それはそれで絵になっていると思った。
「今は君くらいだね、仲良いの」
彼女は軽く口角を上げて視線をこちらに向けてきた。否定するのもなんだか違う気がしたので無言で首肯した。
「で、矢内くんはどう思う?」
再度彼女は返答を促す。さっき頷いたんだけど。言い直さないといけないのだろうか。
「僕も女子で特に仲良いのは宮原さんくらいだよ」
「そうじゃなくて。男女の友情の話」
そっちの話か。なんだかすごく恥ずかしい。僕は手が止まっていた分を取り返すためそそくさと後片付けを再開する。なんとか真顔を保てていたので、彼女は不審がることなくペンで机をコツコツ叩きながらただ景色を眺めていた。
男女の友情、ね。
「さあ、無理なんじゃないかな」
その場しのぎのように、でもずっと考えてきた言葉を吐き出しながら、棚のビーカーをミリ単位で整列させる。
「完全に無理?」
ペンの打音が止み、代わりに質問が帰ってくる。声色に変化はないことに僕は少し安堵した。
「いや完全にってわけじゃないけど。人間の遺伝子的に異性へ性的欲求が働くのは当たり前のことで、意志と脳の反応は別物だから。性的マイノリティの人とかは例外だけれど」
「さすが科学部長。夢ないね」
他の人にずけずけ正論を言うと引かれることが多いけれど、僕も彼女も質問にははっきり答えるタイプなのでこれが機嫌を損ねた故の言葉じゃないと理解できる。そして僕もまた彼女の本心を聞くことができる。
「そういう宮原さんはどうなの」
「私も無理だと思う」
「……え?」
予想外の返答、しかも即答だった。驚きを隠せず振り返った僕を見て彼女は目を丸くしたあと、こらえきれないように吹き出した。理解できない目の前の状況があんまりにもおかしくて、僕も釣られて笑った。
「そんなこと聞いてくるくらいだから宮原さんは肯定派かと思ったけど」
「私も科学部員だよ?君と想うことは一緒だよ」
彼女はペンを置き大きく伸びをする。漏らした小さなため息一つが耳に響いた。
「恋はネオジウム磁石みたいなものだから。ごちゃまぜの思いも全部巻き込んでひっついて、N極とS極に整列して、それがまた一つの磁石になる。別に悪いことじゃないんだけどね」
彼女はグーとパーを作って、それをぎゅっと一つに合わせる。その手遊びのような振る舞いと俯いた顔が、拗ねた子供のように映った。
「知ってる?磁力をなくすには何百度にも加熱すればいいの。熱く、焼いて、燃やしてしまうの。そうしたら冷えてもずっと磁力は失ったまま」
一つだった両手はそれぞれパーに開かれて別々の場所に落ちる。まるで自分の意志と分離しているかのように、離れ落ちていく手を見つめる目に少し諦めの色が滲んでいた。
「夢がないね。君も僕も」
気の利く言葉も慰める言葉も持たない僕にできることは、なるべく冷静にいることくらいだった。
「いいや夢はあるよ。大金持ち」
「それはいいね。言い忘れてたけど僕の将来の夢は億万長者なんだ」
じゃあ将来どっちがお金持ってるか勝負だね、と彼女は笑いながら挑戦をふっかけてきて、僕がそれに同意したところで会話が途切れる。もうこの話は終わりかなと思いつつ、机の下に落とし物がないか2度目のチェックをする。消しゴムが落ちていたので彼女のものか聞いてみるけれど違うようだ。消しゴムについてるホコリを丁寧に払って、忘れた人が気づけるように机の上に置いておく。
「よし、こんなものでいいか」
片付けが終わったので外を眺めている彼女に声をかけようとすると、それより早く彼女は口を開いた。
「でもね、私は信じたいの」
「何が?」
彼女は横顔を見せたままこちらへは向かず少し沈黙を作り、それからぽつりぽつりと言葉を紡いだ。目を細めて外を眺める表情は物憂げで、しかし祈っているようにも見えた。
「友情の力。何にも負けない、絆の力」
その話、まだ考えて。
彼女の言葉の熱に浮かされて、心がざわつく。興奮か、恐怖か、歓喜か、落胆か。形容しがたい感情が心臓から全身へ駆け巡る。
とてもくだらない話だと思う。非科学的で非現実的。きっと周りに言えばすごく引かれてしまうだろう。
でも。それでも僕は。
「夢のある話だね」
「うん、夢があるでしょ」
ああ、それは甘い夢だ。お伽噺にすら笑われてしまうような、夢想に満ちた期待だ。いつか燃えて、溶けて、消えてなくなることを知っている。或いは、もうジリジリと音を立てて。
きっと青春というものは酷く苦いのだろう。この季節を思い返してどうしようもなく苦しくなるのは、分かっているから。
せめて春が熟れるまでは。花が散り終わる刹那だけは。
この甘ったるい夢物語に溺れていても、許してほしい。
二人は校舎を出る。桜の花びらと共に春を香る風は、この季節にしては涼やかで火照った肌に心地良い。見上げた空は茜色と雲の影に染まっていたけれど、まだ微かに青色を残していた。
それから僕と彼女は同じ大学に進学し、2年生の春に付き合った。告白は彼女からだったけど、結局同じことだと思う。
あれから夢は見ていない。
「なんだよ突然」
風が軽く窓を打つ音と二人分の吐息だけがかすかに聞こえる中、突飛な質問で僕を驚かせた彼女は、左手で頬杖をつき右手でペン回しをしている。脈絡のない質問に半ば呆れながら、でも興味のそそる話で、片付けの手を止め彼女の方に向き直った。君も同じ科学部員なのに僕だけが科学室の後片付けをしている件については一旦保留にしておこう。
「今日登校中に小学生低学年の集団を見かけたの。男の子も女の子も一緒に仲良くおしゃべりしてて可愛いなーって思って。あの頃ってあんまり男女の垣根とかなかったでしょ?」
「どうだったかな。僕はあんまりだったけど、周りはよく喋ってたかもしれない」
「そうなの?私のところは高学年になってもみんな仲良かったなー。まあ中学に入ってからはみんな思春期だから、ちょっと距離あいちゃった」
もちろん私もね、と彼女は自虐的な笑みを見せたあと、すっと窓の外へ目を向ける。外に舞う花びらを背景にした彼女の横顔はほんのり冷たい匂いがして、季節外れに秋の空気を思わせるけど、それはそれで絵になっていると思った。
「今は君くらいだね、仲良いの」
彼女は軽く口角を上げて視線をこちらに向けてきた。否定するのもなんだか違う気がしたので無言で首肯した。
「で、矢内くんはどう思う?」
再度彼女は返答を促す。さっき頷いたんだけど。言い直さないといけないのだろうか。
「僕も女子で特に仲良いのは宮原さんくらいだよ」
「そうじゃなくて。男女の友情の話」
そっちの話か。なんだかすごく恥ずかしい。僕は手が止まっていた分を取り返すためそそくさと後片付けを再開する。なんとか真顔を保てていたので、彼女は不審がることなくペンで机をコツコツ叩きながらただ景色を眺めていた。
男女の友情、ね。
「さあ、無理なんじゃないかな」
その場しのぎのように、でもずっと考えてきた言葉を吐き出しながら、棚のビーカーをミリ単位で整列させる。
「完全に無理?」
ペンの打音が止み、代わりに質問が帰ってくる。声色に変化はないことに僕は少し安堵した。
「いや完全にってわけじゃないけど。人間の遺伝子的に異性へ性的欲求が働くのは当たり前のことで、意志と脳の反応は別物だから。性的マイノリティの人とかは例外だけれど」
「さすが科学部長。夢ないね」
他の人にずけずけ正論を言うと引かれることが多いけれど、僕も彼女も質問にははっきり答えるタイプなのでこれが機嫌を損ねた故の言葉じゃないと理解できる。そして僕もまた彼女の本心を聞くことができる。
「そういう宮原さんはどうなの」
「私も無理だと思う」
「……え?」
予想外の返答、しかも即答だった。驚きを隠せず振り返った僕を見て彼女は目を丸くしたあと、こらえきれないように吹き出した。理解できない目の前の状況があんまりにもおかしくて、僕も釣られて笑った。
「そんなこと聞いてくるくらいだから宮原さんは肯定派かと思ったけど」
「私も科学部員だよ?君と想うことは一緒だよ」
彼女はペンを置き大きく伸びをする。漏らした小さなため息一つが耳に響いた。
「恋はネオジウム磁石みたいなものだから。ごちゃまぜの思いも全部巻き込んでひっついて、N極とS極に整列して、それがまた一つの磁石になる。別に悪いことじゃないんだけどね」
彼女はグーとパーを作って、それをぎゅっと一つに合わせる。その手遊びのような振る舞いと俯いた顔が、拗ねた子供のように映った。
「知ってる?磁力をなくすには何百度にも加熱すればいいの。熱く、焼いて、燃やしてしまうの。そうしたら冷えてもずっと磁力は失ったまま」
一つだった両手はそれぞれパーに開かれて別々の場所に落ちる。まるで自分の意志と分離しているかのように、離れ落ちていく手を見つめる目に少し諦めの色が滲んでいた。
「夢がないね。君も僕も」
気の利く言葉も慰める言葉も持たない僕にできることは、なるべく冷静にいることくらいだった。
「いいや夢はあるよ。大金持ち」
「それはいいね。言い忘れてたけど僕の将来の夢は億万長者なんだ」
じゃあ将来どっちがお金持ってるか勝負だね、と彼女は笑いながら挑戦をふっかけてきて、僕がそれに同意したところで会話が途切れる。もうこの話は終わりかなと思いつつ、机の下に落とし物がないか2度目のチェックをする。消しゴムが落ちていたので彼女のものか聞いてみるけれど違うようだ。消しゴムについてるホコリを丁寧に払って、忘れた人が気づけるように机の上に置いておく。
「よし、こんなものでいいか」
片付けが終わったので外を眺めている彼女に声をかけようとすると、それより早く彼女は口を開いた。
「でもね、私は信じたいの」
「何が?」
彼女は横顔を見せたままこちらへは向かず少し沈黙を作り、それからぽつりぽつりと言葉を紡いだ。目を細めて外を眺める表情は物憂げで、しかし祈っているようにも見えた。
「友情の力。何にも負けない、絆の力」
その話、まだ考えて。
彼女の言葉の熱に浮かされて、心がざわつく。興奮か、恐怖か、歓喜か、落胆か。形容しがたい感情が心臓から全身へ駆け巡る。
とてもくだらない話だと思う。非科学的で非現実的。きっと周りに言えばすごく引かれてしまうだろう。
でも。それでも僕は。
「夢のある話だね」
「うん、夢があるでしょ」
ああ、それは甘い夢だ。お伽噺にすら笑われてしまうような、夢想に満ちた期待だ。いつか燃えて、溶けて、消えてなくなることを知っている。或いは、もうジリジリと音を立てて。
きっと青春というものは酷く苦いのだろう。この季節を思い返してどうしようもなく苦しくなるのは、分かっているから。
せめて春が熟れるまでは。花が散り終わる刹那だけは。
この甘ったるい夢物語に溺れていても、許してほしい。
二人は校舎を出る。桜の花びらと共に春を香る風は、この季節にしては涼やかで火照った肌に心地良い。見上げた空は茜色と雲の影に染まっていたけれど、まだ微かに青色を残していた。
それから僕と彼女は同じ大学に進学し、2年生の春に付き合った。告白は彼女からだったけど、結局同じことだと思う。
あれから夢は見ていない。
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