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いつか、彼女に一葉の
しおりを挟む僕は、その少女の姿を三葉見たことがある。
或る晴れた夏の日のこと。
カメラを首に提げたまま、目の前の光景の、あまりの煌めきに足を止める。
太陽に向かってひらくヒマワリ。
一面の黄色のなかで、彼女は顔に影を落とす。
まとうワンピースも、肌も、長い髪も、すべてが白。
そのなかで、爛々と輝る瞳だけが紅い。
まるで、そう。喩えるならば、日に背く花。
◇◆◇
パシャリ。シャッターを切る音が、心なしか大きく響いた。
少女が振り向く。
「勝手に撮ってごめん。気分を悪くしたかな」
「ううん、大丈夫。それよりも、どうして?」
その瞳は、雄弁に言葉の続きを語っていた。
「……綺麗だと、思ったから」
「きれい、か。ふぅん」
僕の答えは、果たしてお気に召したのだろうか。
純白の少女かく思案せる様子で、ひととおり顎に手をあて空を眺めたのち。
「面白いね。もっと貴方の感覚を、教えてよ」
ひとまずは、お許しをいただけたらしい。
◇◆◇
白鷺莉桜。彼女はそう名乗った。
この街には旅行で来ていること。あと十数日もすれば帰ること。
そして、ひとつ奇妙なことを語っている。
「私、吸血鬼なの」
なんでもないように告げられた言葉。
冗談を口にしている様子ではない。それゆえに、どこか可笑しくて。
「吸血鬼なのに、日中に外出できてるじゃん」
「知らないの? 最近の吸血鬼って、日光では死なないの」
「それはまた、都合のいいことで」
ひとり分の隙間をあけて、ベンチの隣に座る彼女。
年齢は、僕と同じくらいに見えた。
それなのに、ふとしたときに覗かせる表情はどこか大人びていて。
凛とした気高さと、ガラスのように脆い可憐さが同居している、不思議な少女である。
「まだ夏休みって時期じゃないけど、学校とかはどうしてるの?」
「学校……? あぁ、人間の風習だっけ。聞いたことある」
「風習って。まあいいや」
どこまでも、設定に忠実なものだ。
「それじゃ、今度は私から質問。貴方の話を聞かせてよ」
「どうぞ。面白いことは言えないけれどね」
「カメラを持ってるけど、写真を撮るのが趣味なの?」
自分が興味を持たれていると思うと、どこかこそばゆい。
手のなかで愛用のカメラをもてあそび、未消化の言葉をゆっくり紡ぐ。
「そう……だね。好きだよ。いつかはプロにもなりたいなって」
「ふぅん?」
「でも、両親からは反対されててさ。そんな安定性のない進路はやめろって。教師もなにも言えないみたい」
「見せてよ。これまでに撮った写真」
隙間をずいっと埋めて、白鷺さんは身を乗り出してきた。
ふわりと香る、甘い香り。自分の頬が紅潮してゆくのを感じる。
「わかった。わかったから少し離れて。……ほら、こんな感じ」
気恥ずかしくて距離をとり。
保存した画像を表示して、カメラを彼女に手渡す。
「綺麗に撮れてるね。ヒマワリを映してる写真が多いけど、好きなの?」
「特別に好きってわけじゃないけど。写真のコンテストがあって、それの題材だから」
このコンテストで優秀な成績を収めて、両親に認めさせる。
そのためにヒマワリ畑に足を運んでいるけれど、ぜんぜん良い一枚が撮れなくて。
そんななか、捉えたベストショット。
「さっきの写真なら、きっといい結果になると思ってる。……でも、勝手に撮っちゃったからね。白鷺さんが嫌なら消すけど」
「消さなくていいよ。貴方には、貴方の夢を追いかけてほしいから」
見透かすような一言。それが、じわりと胸に染みいる。
はじめてもらった、誰かからの肯定。僕が本当に欲していたものは、これなのかもしれない。
昼下がりと青い空。一葉目の出会いであった。
◇◆◇
それから一週間後。
ヒマワリ畑を訪れた僕は、生憎の夕立に振られ。
走り回って軒先を探しているなかで、傘をさす少女を見つけた。
「参ったよ。これじゃ、今日は撮れそうにないや」
近くにあった廃屋の屋根のしたで、白鷺さんと雨宿り。
それなりに降っていたはずなのに、彼女は一滴とて濡れた気配がない。
沈黙が注いで、なんだかそわそわする。
「吸血鬼は流水も苦手なんだっけ。雨は大丈夫なの?」
「別に溶けたりはしないけど、濡れるのは嫌かな」
「まるで人間みたいなことを言うね」
ほんの軽口のつもりだった。
しかし、予想していない返答が訪れる。
「人間だったよ、昔は。もう覚えていないけれどね」
その語り口がやけに神妙で、口をはさむことを忘れた。
「私の最初の記憶は、どこか暗い暗い場所。そこで人間としての私は死んで、でも。“血”を与えられて吸血鬼として蘇ったの」
それより前のことは、なにも覚えていない。
確かに、彼女はそう呟いて。
「それって、寂しくないの?」
「寂しい? ……そっか。そうかもね」
ざんざん降りの音が響く。
止まぬ雨が、うるさく泣いた。
「私は、ずっと捜してる。記憶のありかを」
「白鷺さん……」
「こうして旅をして、人のことを知って。そうやって歩く毎日も、遠い過去に忘れてきた失くし物を見つけるためかもね」
少女はばっと傘をひらき、雨のなかに一歩踏みだしてから振り向いて。
「ひとつだけ忠告。しばらく、このヒマワリ畑には来ないほうがいいよ」
意味深な言葉ひとつ。
どこまでもミステリアスで、小さくて、儚い背中。
それを見送ることしかできずにいた僕は、なんと無力なものだろうか。
三日後。
結局のところ、愚かな僕は忠告を無視して。
それが三葉目になった。
◇◆◇
着の身着のまま、首許にカメラひとつ。
むしゃくしゃしていた僕は、アテもなく夜の道を走って。
辿りついたのは、真っ暗なヒマワリ畑。
「はぁ、ふぅ……」
荒い呼吸を整えて。
冷えた風を頬にうけ、胸の澱をひとりごつ。
「なんだよ。否定ばかりして」
コンテストのために歩き回っているのを、酔った父親に叱られ、折檻をうけた。
いわく、趣味などにうつつを抜かさず、勉学にだけ励んでいればいいと。あれが毒親と言わずして、なにになるのか。
思いだすだけで腹の虫が暴れだす。
がさり。ヒマワリの揺れる音がした。
風だと思っていたけれど、すぐに認識を改める。
光だ。あれは懐中電灯の光。まさか父親が僕を追いかけてきたのだろうか。
とっさにヒマワリのなかに姿を隠してから、落ちついて考えたところで、先ほどの可能性を否定する。僕の父親は酒を飲んだら意地でも外出しない。そういう男だ。
だとすると、このヒマワリ畑に知らない人間がいることになる。
しかも、その影はひとつだけではなかった。
「おいおい、なんだよこれ」
目を凝らす。
灯りはひとつだけでない。ふたつ、みっつと増えていき……。それなりの数に。
なにか行事でもあるみたいだ。
むろん、夜のヒマワリ畑で催しがあるわけもなく。ただひたすらに不気味な光景である。
逃げたほうがいい。本能はそう告げるも、好奇心で立ち止まる。
しかし、それが間違いだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
ヒマワリの茎の隙間から覗く、人の姿。
彼ら彼女らの視線のさきに視線をやったとき、僕は目を疑った。
人の背丈を優に超える、毒々しい紅色の花。
それが何本も屹立し、しかも、動いているのである。
そして、大きく開かれる花弁。次の瞬間、ばくりと人の頭を喰らった。
頭部を失った人体が、スローモーションで崩れ落ちる。
「ひっ!」
あまりの光景に、思わず声を洩らしてしまった。
白鷺さんの忠告が、いまさら脳を駆け回る。
しかし、時はすでに遅い。化け物花たちが、ぐるりと首をこちらに巡らせた。
逃げるにも、腰が抜けて動けない。
そうしているうちに、ヒマワリをかき分けて、一体の怪花が眼前に現れた。
いまから、僕は食べられるのだろう。
迫る、迫る。蔓が自分を捕らえんとして、伸ばされて。
あぁ。最後に脳裏をよぎったのは、真っ白な少女のこと。
こんな終わりなら、気の利いた別れ言葉でも告げればよかった。
そう一念。目を閉じて、その時を待つ。
……。
…………。
………………。
しかし、幕引きは訪れない。
恐る恐る目をひらく。すると、ふわり舞う白髪。
「あ……」
日に背く花は、夜に咲く。
ヒマワリ畑に舞う、紅色の花びら。
ナイフがきらり。彼女の手のなか、閃いて。
血染めの怪物に、散華のときがやってくる。
「グギャアアッッッ!!」
音は、一瞬遅れて追いついた。
異変を察しとり、ほかの怪花も殺到する。が。
白鷺さんは手にしたナイフで一閃、二閃。
撫で斬りに。袈裟に。横薙ぎに。たまには突いてみせたりして。
少女は笑う。肩を噛みつかれても、脚を蔓に絡め取られても、止まらない。
「はぁっ!」
懐から取りだした無数のナイフを投擲。串刺しにされた花は、あえなく散ってゆく。
一方的な戦いだった。もはや、戦いと呼べるかもわからない。
ただひとつ理解できるのは、彼女が理外の存在であること。
もしかすると、本当に吸血鬼なのかもしれない。
「…………………………」
震える手で、カメラを操作し。
彼女を映した写真を削除する。
白鷺さんは、日向に咲く花じゃない。
僕だけが、その存在を知っていればいいだろう。
◇◆◇
「あれは、“食人花”という妖魔の一種だね。人の生きる希望を吸いあげて、あのように引き寄せて喰らう……」
彼女の説明は、ぜんぜん頭に入らないまま。
いまだ冷めやらぬ熱だけが、煌々と灯る。
「あの。白鷺さんは、本当に吸血鬼なんですか?」
「……っと。最初から、そう言っているでしょ」
なに当然のことを、というように、子どものように頬を膨らます少女。
人間らしくもあり、怪物らしくもあり。でも、どこか完璧な画角で。
夜のヒマワリ。吹き抜ける風。そのすべてを捉えられる状況にありながらも……。やはり、僕はシャッターを切らなかった。
この答えだけがあれば、じゅうぶん。
◇◆◇
それから二週間が経ち。
ヒマワリ畑に、もう彼女の姿はない。
でも、僕は足繁く通う。完璧な一枚を求めて。
「……見つけた」
あのときと、同じ。
ただ一輪だけが欠けた景色のなかで、僕はシャッターを切る。
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