84 / 100
第二章 仲間探求編
83、彼にとって簡単なそれについて
しおりを挟む
思いがけない答えに、アデルは呆けた様な声しか出せなかった。その発言は、彼自身を構成する全ての要素を根底から覆してしまう程の威力があったから。
アデルが初めてギルドニスと相対した折。彼は確かに自分自身を〝悪魔に対する永遠の忠義と信仰を誓う者〟と称していた。
これでは法螺も矛盾もいいところなので、間の抜けた声が出ても仕方の無い話であった。
「あぁ、勘違いなさらないでください。もちろんアデル様と初めてお会いした頃は、悪魔様に絶対の忠誠を誓っておりましたので」
「そ、そうか…………それにしても、紛らわしい言い方をするでない。驚いたであろうが」
「アデル様を驚かせることが出来るなんて……恐縮です」
「……」
苦言を呈しているというのに何故か嬉しそうなギルドニスを前に、アデルは思わず眉間に皺を寄せて苦い相好を向けてしまう。
「……そういえばお前、何故悪魔を信仰していたのだ?」
そもそもギルドニスが始受会に入会した経緯を知らないので、ふとアデルはそんな疑問を覚えた。それは元を辿れば、ギルドニスがあそこまで悪魔を崇拝していた理由に繋がる。
「…………随分と昔の話――私の幼少期の頃の出来事を話すことになりますが、よろしいですか?」
その問いにアデルが首肯して返すと、ギルドニスは兵士たちを拘束する手を止めることなく、自身の生い立ちを語り始めるのだった。
********
華位道国とイリデニックス国のハーフという、中々珍しい産まれ方をしたギルドニスは、その幼少期をイリデニックス国で過ごしていた。
父親がイリデニックス国出身だったので、母親の方が国を出る形になったのだ。だが最早ギルドニスにとって、どこで育つかという問題は、彼の人生に何ら影響を及ぼすものでは無かった。。
この世界のどこにいても、ギルドニスの辿る暗い暗い運命から逃れることは、決して出来なかっただろうから。
暗く、酷く荒れた部屋は煙草と酒の匂いが充満しており、とてもでは無いが子供を育てるのに良い環境とは言えなかった。だがギルドニスは幼少の頃、そんな環境しか知らなかった。
平たく言ってしまえば、ギルドニスは両親から虐待を受けていたのだ。ギルドニスの記憶で、両親が暴力を振るわなかった時期は無いので、恐らく赤子の頃から頻繁に虐待していたのだろう。
少しでも泣けば殴られ、反抗的な態度を取れば殺されかける。逃げようとすれば鍵のかかった小さな部屋に閉じ込められた。そんな日々を過ごしていくにつれ、幼い彼は現状打開を試みる気力すら無くなり、とうとう親の言う通りにしか動けなくなっていた。
「あぁ!?まだこれしか出来てないってどういうことだよっ!」
「……ごめんなさっ」
父親から大声で怒鳴り散らされ、ほんの少し肩を震わせたギルドニスはかき消えそうな声で陳謝した。だがその言葉を遮るように平手打ちされてしまい、彼は床に叩きつけられてしまう。
ドスッ。ドスッ。ドスッ。父親は何度もギルドニスの腹に蹴りを入れた。倒れた彼に追い打ちをかけるように。どれだけ苦しくても、耐えられない程痛くても、ギルドニスが泣き声を上げることは無かった。
泣いて助けを求めても、手を差し伸べてくれる聖人君子など現れないことをギルドニスは知っていた。そんな無駄なことをしても、目の前の両親の機嫌を損ねるだけだということを、嫌という程理解させられてきたから。
齢七にして、世界に絶望しきっていたギルドニスは、普通の七歳児の生活がどんなものなのかも全く知らないまま、現実から目を逸らすように知ろうともしていなかった。
ギルドニスは生まれつき操志者としての才能があり、機器作りも大人顔負けにこなしていた。その才能を目敏く見つけた両親は、彼の才能を金儲けの為に使うことを思いついた。
両親が目をつけたのは、イリデニックス国の軍などで普及している拳銃である。彼らはギルドニスに銃を作らせ、それを裏で売る商売をしているのだ。
とは言っても、身分も何のつても持っていない彼らが真っ当な客相手に商売が出来るはずも無く、銃を売るのは非合法な仕事をしている相手ばかりであった。
だが、銃を作っているだけのギルドニスに取引相手のことを知る術など無いので、彼は自身が人殺しの片棒を担がされていることも知らない。いや、予想はついていたのだろうが、彼に見知らぬ他人の命を心配できるほどの余裕などありはしなかったのだ。
「今日中にあと三十丁作らねぇとマジで殺すからな」
「……はい」
(殺してくれる程の良心なんて……無いくせに)
最早ギルドニスにとって死は恐怖ではなくなっていた。寧ろ彼にとって死とは慈悲そのもので、悪魔のような両親がそんな慈悲心を持っているとも思っていない。
収入源であるギルドニスを殺すことほど愚かな選択は無いので、両親が自身を殺してくれるだなんて、彼は微塵も期待していないのだ。
「ほんっと鈍くさいんだから。さっさとしてよね」
「……」
暴力を振るうのは主に父親だが、だからと言って母親の方が真面というわけでは無い。父親の暴力を見て見ぬ振りな上、そもそも彼女は手を上げる労力を被りたくないだけなのだから。
そんな母親を冷めた目で捉えたギルドニスは父親に命じられるがまま、拳銃作りに着手するのだった。
********
朝起きて、ひたすら拳銃を作り、両親からの虐待に耐え、僅かに与えられる食事で何とか生き延びる。
そんな生活を続けていた頃、ギルドニスにとって運命の転機と言って差し支えない出来事が起きた。
その日は両親が自宅におらず、ギルドニスは一人で彼らの帰りを待ちつつ、いつも通り拳銃を作り続けていた。両親は、彼の作った拳銃を売る為に外出していたのだ。
日が暮れ始め、そろそろ両親が帰ってきてもいい頃合い。人々の騒がしい声に気づいたギルドニスは、窓から外の様子を確かめることにした。
建てつけが悪い上、ゴミや衣服で散らかっているせいで、窓を開けるのは中々骨が折れたが、ギルドニスは何とかその窓を開くことに成功した。
窓が開いたことで、雑音のように聞こえていた喧騒がダイレクトに彼の耳に届く。そして自身の眼下に広がる阿鼻叫喚に、ギルドニスは茫然自失としてしまった。
「みんな早く逃げろ!!」
「悪魔がいるって本当なのっ……!?」
「ちょっと退いてよ!」
「いやああああああああ!!」
「お母さーんっ……」
数え切れない程の人の群れが同じ方向へと逃げ惑い、困惑と恐怖で叫び声を上げていた。人の波を作り出している彼らが一体何から逃げているのか分からないギルドニスではなく、彼はすぐにこの騒ぎの元凶に気づいた。
喧騒の中から微かに聞こえてきた〝悪魔〟という単語だけで、この状況を理解するには十分すぎたから。
恐らく付近に悪魔が現れた。ないし、そういった噂が流れて大混乱に陥ったのだろう。ギルドニスは虚ろな目で彼らを見下ろしながら、朧げにそう推測した。
恐怖に顔を歪ませる彼らにも、悪魔自体にも全く興味が無かった彼は、煩わしい音を遮断するために窓を閉めようとするが、伸ばした手がピタッと止まった。
「……」
ギルドニスの瞳に映ったのは、有象無象と同じようなへっぴり腰で逃げ惑う両親の姿だった。そしてそれは、ギルドニスの知らない両親の姿でもあった。
ギルドニスは生まれてからずっと、絶対的な暴力で自身を支配する恐ろしい両親しか知らなかった。蔑むような目で自身を見下ろし、抵抗する権利すら与えてもらえないまま理不尽な苦痛を与え、生きている限り逃げることなど出来ない。それがギルドニスにとっての恐怖の象徴――両親だった。
にも拘らず、彼の瞳が捉えている両親は悪魔という存在に恐れ戦き、竦み上がり、恐怖で顔を歪ませていた。その姿はあまりにも弱々しく、彼は自分自身の目を疑ってしまう。何故ならギルドニスは、恐れなど知らない、絶対的な強者としての両親しか知らなかったから。
それが見間違いでも何でもない、れっきとした真実であることを悟ると、彼の中に一つの疑問が湧いた。
あの両親が恐れているのは、一体何なのかと。これは、両親に限った話ではない。
悪魔がこの世界において忌避される存在であることは知っているので、彼らが狼狽しているのは理解できるのだが、何をそんなにも恐れているのかがギルドニスには全く分からなかったのだ。
こんなにも多くの人々が身分も性別も年齢も関係なく、最上級の恐怖を抱く。そんな彼らの恐怖を一身に受けるものとは一体何なのか。その存在に対する興味を、ギルドニスは抑えることが出来なかった。
そしてふと――。
一つの可能性に辿り着く。
(もしかしてみんな……死ぬのが怖いのか?)
それはギルドニスにとって理解しがたい感情で、まさに盲点であった。ギルドニスは死を恐れたことが無く、寧ろ死ぬことが出来ればどれだけ幸福だろうと幾度も想像してきたから。他人にとって死というものが恐れる現象であること。何より、ギルドニスにとって些細でしかない事象を、両親が恐れているという事実が彼には衝撃的だったのだ。
人々が悪魔を忌み嫌うのは五千年前の出来事が原因だが、彼らが悪魔を前にして死を連想するのは、悪魔が絶対的な力を持っているからだ。彼らはその圧倒的な力を前に為す術を持ち合わせていないから、迫りくる死を恐れる。
それを理解した瞬間、ギルドニスは思った。両親を悪魔だと思っていた自分は、何て無知で愚かだったのだろうと。本物の悪魔を前にしてしまえば、彼ら如き矮小な存在など、有象無象の一部分でしか無いというのに、自分は何を恐れていたのだろうと。
自分があんなにも恐れ、従ってきた両親を、いとも簡単に十把一絡げにしてしまった悪魔は、何て偉大な力を持つ存在なのだと。ギルドニスは素直に尊敬の念を抱いた。
「そっか……」
ボソッと呟いた刹那、ギルドニスの虚ろだった瞳に光が灯る。何かを決意したような、キリッとした面持ちになったギルドニスの行動は早かった。
窓を素早く閉めると、ギルドニスは作っておいた拳銃を手に取り、そのまま玄関へと向かう。物言わぬ扉に向けて拳銃を向けると、ギルドニスはそのまま静止した。
慌てて帰宅してくるであろう両親を、その銃口で待ち構えるように。
その時のギルドニスの心は、酷く穏やかだった。
扉が開かれれば、弾丸を二発撃ちこむ。彼にとってはそれだけのことだったから。たったそれだけのことで、その先に彼の知らない世界が待っているのだから、寧ろ好奇心が湧きあがる程であった。
しばらくすると扉の向こうから酷く慌てた様な足音が聞こえ、ギルドニスは引き金に指をかける。そして、勢いよく扉が開かれると同時に彼は――。
バンバンっ!
と、両親それぞれの胸に弾丸を撃ち込んだ。
両親は呆気なくその場に倒れ込み、ギルドニスに鋭い睨みを向けることも、罵声を浴びせることも、踏み潰した虫のように動き回ることも無かった。
あまりにも呆気ない最期を前に、今までの自身の愚かさを彼は嘆いた。
「なんだ……こんなことでよかったのか」
こんなことで全てが解決するのであれば、もっと早く実行すれば良かったと。ギルドニスは長い時間を無駄にした気分になった。だがいくら嘆いたところで、過去を変えることは出来ない。今は両親の呪縛から解き放たれたことを素直に喜ぼうと、ギルドニスは思考を塗り替えた。
それから。
両親を殺し、自由を手に入れたギルドニスは、きっかけである悪魔に対する好奇心を抑えることが出来ず、少しずつ悪魔について調べるようになった。
その過程で悪魔教団〝始受会〟の存在を知ったギルドニスは、第一支部主教への道を駆け上がるのだった。
********
ギルドニスの口から、悪魔を崇拝するようになったきっかけを聞いたアデルは酷く冷静で、彼は思わず首を傾げた。
「あまり驚かれませんね」
「なに……よくある話である」
「そう……ですね」
アデルの言ったことはどう足掻いても変わらない、残酷な現実だった。アデル自身も同じような……いや、それ以上の運命を背負ってきたので、ギルドニスを特別視することなど出来なかったのだ。アデルやギルドニスだけではなく、不遇な運命を背負いながら辛い幼少期を過ごしてきた者は多くいるから。
ギルドニスと違い、アデルは不特定多数の人々から迫害されてきた上、普通の人間であれば死んでもおかしくない様な暴行を幾度となく受けてきた。比べることでは無いが、とても〝同じような〟と一纏めにすることは憚れる。
「悪魔を信仰していた理由は分かったが…………結局……お主は今、一体何を糧にして生きているのだ?」
アデルが初めてギルドニスと相対した折。彼は確かに自分自身を〝悪魔に対する永遠の忠義と信仰を誓う者〟と称していた。
これでは法螺も矛盾もいいところなので、間の抜けた声が出ても仕方の無い話であった。
「あぁ、勘違いなさらないでください。もちろんアデル様と初めてお会いした頃は、悪魔様に絶対の忠誠を誓っておりましたので」
「そ、そうか…………それにしても、紛らわしい言い方をするでない。驚いたであろうが」
「アデル様を驚かせることが出来るなんて……恐縮です」
「……」
苦言を呈しているというのに何故か嬉しそうなギルドニスを前に、アデルは思わず眉間に皺を寄せて苦い相好を向けてしまう。
「……そういえばお前、何故悪魔を信仰していたのだ?」
そもそもギルドニスが始受会に入会した経緯を知らないので、ふとアデルはそんな疑問を覚えた。それは元を辿れば、ギルドニスがあそこまで悪魔を崇拝していた理由に繋がる。
「…………随分と昔の話――私の幼少期の頃の出来事を話すことになりますが、よろしいですか?」
その問いにアデルが首肯して返すと、ギルドニスは兵士たちを拘束する手を止めることなく、自身の生い立ちを語り始めるのだった。
********
華位道国とイリデニックス国のハーフという、中々珍しい産まれ方をしたギルドニスは、その幼少期をイリデニックス国で過ごしていた。
父親がイリデニックス国出身だったので、母親の方が国を出る形になったのだ。だが最早ギルドニスにとって、どこで育つかという問題は、彼の人生に何ら影響を及ぼすものでは無かった。。
この世界のどこにいても、ギルドニスの辿る暗い暗い運命から逃れることは、決して出来なかっただろうから。
暗く、酷く荒れた部屋は煙草と酒の匂いが充満しており、とてもでは無いが子供を育てるのに良い環境とは言えなかった。だがギルドニスは幼少の頃、そんな環境しか知らなかった。
平たく言ってしまえば、ギルドニスは両親から虐待を受けていたのだ。ギルドニスの記憶で、両親が暴力を振るわなかった時期は無いので、恐らく赤子の頃から頻繁に虐待していたのだろう。
少しでも泣けば殴られ、反抗的な態度を取れば殺されかける。逃げようとすれば鍵のかかった小さな部屋に閉じ込められた。そんな日々を過ごしていくにつれ、幼い彼は現状打開を試みる気力すら無くなり、とうとう親の言う通りにしか動けなくなっていた。
「あぁ!?まだこれしか出来てないってどういうことだよっ!」
「……ごめんなさっ」
父親から大声で怒鳴り散らされ、ほんの少し肩を震わせたギルドニスはかき消えそうな声で陳謝した。だがその言葉を遮るように平手打ちされてしまい、彼は床に叩きつけられてしまう。
ドスッ。ドスッ。ドスッ。父親は何度もギルドニスの腹に蹴りを入れた。倒れた彼に追い打ちをかけるように。どれだけ苦しくても、耐えられない程痛くても、ギルドニスが泣き声を上げることは無かった。
泣いて助けを求めても、手を差し伸べてくれる聖人君子など現れないことをギルドニスは知っていた。そんな無駄なことをしても、目の前の両親の機嫌を損ねるだけだということを、嫌という程理解させられてきたから。
齢七にして、世界に絶望しきっていたギルドニスは、普通の七歳児の生活がどんなものなのかも全く知らないまま、現実から目を逸らすように知ろうともしていなかった。
ギルドニスは生まれつき操志者としての才能があり、機器作りも大人顔負けにこなしていた。その才能を目敏く見つけた両親は、彼の才能を金儲けの為に使うことを思いついた。
両親が目をつけたのは、イリデニックス国の軍などで普及している拳銃である。彼らはギルドニスに銃を作らせ、それを裏で売る商売をしているのだ。
とは言っても、身分も何のつても持っていない彼らが真っ当な客相手に商売が出来るはずも無く、銃を売るのは非合法な仕事をしている相手ばかりであった。
だが、銃を作っているだけのギルドニスに取引相手のことを知る術など無いので、彼は自身が人殺しの片棒を担がされていることも知らない。いや、予想はついていたのだろうが、彼に見知らぬ他人の命を心配できるほどの余裕などありはしなかったのだ。
「今日中にあと三十丁作らねぇとマジで殺すからな」
「……はい」
(殺してくれる程の良心なんて……無いくせに)
最早ギルドニスにとって死は恐怖ではなくなっていた。寧ろ彼にとって死とは慈悲そのもので、悪魔のような両親がそんな慈悲心を持っているとも思っていない。
収入源であるギルドニスを殺すことほど愚かな選択は無いので、両親が自身を殺してくれるだなんて、彼は微塵も期待していないのだ。
「ほんっと鈍くさいんだから。さっさとしてよね」
「……」
暴力を振るうのは主に父親だが、だからと言って母親の方が真面というわけでは無い。父親の暴力を見て見ぬ振りな上、そもそも彼女は手を上げる労力を被りたくないだけなのだから。
そんな母親を冷めた目で捉えたギルドニスは父親に命じられるがまま、拳銃作りに着手するのだった。
********
朝起きて、ひたすら拳銃を作り、両親からの虐待に耐え、僅かに与えられる食事で何とか生き延びる。
そんな生活を続けていた頃、ギルドニスにとって運命の転機と言って差し支えない出来事が起きた。
その日は両親が自宅におらず、ギルドニスは一人で彼らの帰りを待ちつつ、いつも通り拳銃を作り続けていた。両親は、彼の作った拳銃を売る為に外出していたのだ。
日が暮れ始め、そろそろ両親が帰ってきてもいい頃合い。人々の騒がしい声に気づいたギルドニスは、窓から外の様子を確かめることにした。
建てつけが悪い上、ゴミや衣服で散らかっているせいで、窓を開けるのは中々骨が折れたが、ギルドニスは何とかその窓を開くことに成功した。
窓が開いたことで、雑音のように聞こえていた喧騒がダイレクトに彼の耳に届く。そして自身の眼下に広がる阿鼻叫喚に、ギルドニスは茫然自失としてしまった。
「みんな早く逃げろ!!」
「悪魔がいるって本当なのっ……!?」
「ちょっと退いてよ!」
「いやああああああああ!!」
「お母さーんっ……」
数え切れない程の人の群れが同じ方向へと逃げ惑い、困惑と恐怖で叫び声を上げていた。人の波を作り出している彼らが一体何から逃げているのか分からないギルドニスではなく、彼はすぐにこの騒ぎの元凶に気づいた。
喧騒の中から微かに聞こえてきた〝悪魔〟という単語だけで、この状況を理解するには十分すぎたから。
恐らく付近に悪魔が現れた。ないし、そういった噂が流れて大混乱に陥ったのだろう。ギルドニスは虚ろな目で彼らを見下ろしながら、朧げにそう推測した。
恐怖に顔を歪ませる彼らにも、悪魔自体にも全く興味が無かった彼は、煩わしい音を遮断するために窓を閉めようとするが、伸ばした手がピタッと止まった。
「……」
ギルドニスの瞳に映ったのは、有象無象と同じようなへっぴり腰で逃げ惑う両親の姿だった。そしてそれは、ギルドニスの知らない両親の姿でもあった。
ギルドニスは生まれてからずっと、絶対的な暴力で自身を支配する恐ろしい両親しか知らなかった。蔑むような目で自身を見下ろし、抵抗する権利すら与えてもらえないまま理不尽な苦痛を与え、生きている限り逃げることなど出来ない。それがギルドニスにとっての恐怖の象徴――両親だった。
にも拘らず、彼の瞳が捉えている両親は悪魔という存在に恐れ戦き、竦み上がり、恐怖で顔を歪ませていた。その姿はあまりにも弱々しく、彼は自分自身の目を疑ってしまう。何故ならギルドニスは、恐れなど知らない、絶対的な強者としての両親しか知らなかったから。
それが見間違いでも何でもない、れっきとした真実であることを悟ると、彼の中に一つの疑問が湧いた。
あの両親が恐れているのは、一体何なのかと。これは、両親に限った話ではない。
悪魔がこの世界において忌避される存在であることは知っているので、彼らが狼狽しているのは理解できるのだが、何をそんなにも恐れているのかがギルドニスには全く分からなかったのだ。
こんなにも多くの人々が身分も性別も年齢も関係なく、最上級の恐怖を抱く。そんな彼らの恐怖を一身に受けるものとは一体何なのか。その存在に対する興味を、ギルドニスは抑えることが出来なかった。
そしてふと――。
一つの可能性に辿り着く。
(もしかしてみんな……死ぬのが怖いのか?)
それはギルドニスにとって理解しがたい感情で、まさに盲点であった。ギルドニスは死を恐れたことが無く、寧ろ死ぬことが出来ればどれだけ幸福だろうと幾度も想像してきたから。他人にとって死というものが恐れる現象であること。何より、ギルドニスにとって些細でしかない事象を、両親が恐れているという事実が彼には衝撃的だったのだ。
人々が悪魔を忌み嫌うのは五千年前の出来事が原因だが、彼らが悪魔を前にして死を連想するのは、悪魔が絶対的な力を持っているからだ。彼らはその圧倒的な力を前に為す術を持ち合わせていないから、迫りくる死を恐れる。
それを理解した瞬間、ギルドニスは思った。両親を悪魔だと思っていた自分は、何て無知で愚かだったのだろうと。本物の悪魔を前にしてしまえば、彼ら如き矮小な存在など、有象無象の一部分でしか無いというのに、自分は何を恐れていたのだろうと。
自分があんなにも恐れ、従ってきた両親を、いとも簡単に十把一絡げにしてしまった悪魔は、何て偉大な力を持つ存在なのだと。ギルドニスは素直に尊敬の念を抱いた。
「そっか……」
ボソッと呟いた刹那、ギルドニスの虚ろだった瞳に光が灯る。何かを決意したような、キリッとした面持ちになったギルドニスの行動は早かった。
窓を素早く閉めると、ギルドニスは作っておいた拳銃を手に取り、そのまま玄関へと向かう。物言わぬ扉に向けて拳銃を向けると、ギルドニスはそのまま静止した。
慌てて帰宅してくるであろう両親を、その銃口で待ち構えるように。
その時のギルドニスの心は、酷く穏やかだった。
扉が開かれれば、弾丸を二発撃ちこむ。彼にとってはそれだけのことだったから。たったそれだけのことで、その先に彼の知らない世界が待っているのだから、寧ろ好奇心が湧きあがる程であった。
しばらくすると扉の向こうから酷く慌てた様な足音が聞こえ、ギルドニスは引き金に指をかける。そして、勢いよく扉が開かれると同時に彼は――。
バンバンっ!
と、両親それぞれの胸に弾丸を撃ち込んだ。
両親は呆気なくその場に倒れ込み、ギルドニスに鋭い睨みを向けることも、罵声を浴びせることも、踏み潰した虫のように動き回ることも無かった。
あまりにも呆気ない最期を前に、今までの自身の愚かさを彼は嘆いた。
「なんだ……こんなことでよかったのか」
こんなことで全てが解決するのであれば、もっと早く実行すれば良かったと。ギルドニスは長い時間を無駄にした気分になった。だがいくら嘆いたところで、過去を変えることは出来ない。今は両親の呪縛から解き放たれたことを素直に喜ぼうと、ギルドニスは思考を塗り替えた。
それから。
両親を殺し、自由を手に入れたギルドニスは、きっかけである悪魔に対する好奇心を抑えることが出来ず、少しずつ悪魔について調べるようになった。
その過程で悪魔教団〝始受会〟の存在を知ったギルドニスは、第一支部主教への道を駆け上がるのだった。
********
ギルドニスの口から、悪魔を崇拝するようになったきっかけを聞いたアデルは酷く冷静で、彼は思わず首を傾げた。
「あまり驚かれませんね」
「なに……よくある話である」
「そう……ですね」
アデルの言ったことはどう足掻いても変わらない、残酷な現実だった。アデル自身も同じような……いや、それ以上の運命を背負ってきたので、ギルドニスを特別視することなど出来なかったのだ。アデルやギルドニスだけではなく、不遇な運命を背負いながら辛い幼少期を過ごしてきた者は多くいるから。
ギルドニスと違い、アデルは不特定多数の人々から迫害されてきた上、普通の人間であれば死んでもおかしくない様な暴行を幾度となく受けてきた。比べることでは無いが、とても〝同じような〟と一纏めにすることは憚れる。
「悪魔を信仰していた理由は分かったが…………結局……お主は今、一体何を糧にして生きているのだ?」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します
namisan
ファンタジー
バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。
マイルズが10歳となった「洗礼式」の日。
その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。
「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。
しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。
「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」
公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。
前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。
これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
転生したら『塔』の主になった。ポイントでガチャ回してフロア増やしたら、いつの間にか世界最強のダンジョンになってた
季未
ファンタジー
【書き溜めがなくなるまで高頻度更新!♡٩( 'ω' )و】
気がつくとダンジョンコア(石)になっていた。
手持ちの資源はわずか。迫りくる野生の魔物やコアを狙う冒険者たち。 頼れるのは怪しげな「魔物ガチャ」だけ!?
傷ついた少女・リナを保護したことをきっかけにダンジョンは急速に進化を始める。
罠を張り巡らせた塔を建築し、資源を集め、強力な魔物をガチャで召喚!
人間と魔族、どこの勢力にも属さない独立した「最強のダンジョン」が今、産声を上げる!
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……
タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。
99歳で亡くなり異世界に転生した老人は7歳の子供に生まれ変わり、召喚魔法でドラゴンや前世の世界の物を召喚して世界を変える
ハーフのクロエ
ファンタジー
夫が病気で長期入院したので夫が途中まで書いていた小説を私なりに書き直して完結まで投稿しますので応援よろしくお願いいたします。
主人公は建築会社を55歳で取り締まり役常務をしていたが惜しげもなく早期退職し田舎で大好きな農業をしていた。99歳で亡くなった老人は前世の記憶を持ったまま7歳の少年マリュウスとして異世界の僻地の男爵家に生まれ変わる。10歳の鑑定の儀で、火、水、風、土、木の5大魔法ではなく、この世界で初めての召喚魔法を授かる。最初に召喚出来たのは弱いスライム、モグラ魔獣でマリウスはガッカリしたが優しい家族に見守られ次第に色んな魔獣や地球の、物などを召喚出来るようになり、僻地の男爵家を発展させ気が付けば大陸一豊かで最強の小さい王国を起こしていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる