お菓子の船と迷子の鳩

緋宮閑流

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第3章

#01

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山の裂け目に取り残されたその場所は、或る意味楽園だった。



経緯はよくわからない。
気付いたらここで怪我の手当てを受けていた。その怪我すら、いつ、どこで負ったのか判然としない。頭の中身にはひどく濃い霧がかかり、必要であろう情報を殆ど引き出せずにいた。

──自らが何と呼ばれていたのかも判らぬほどに。

背を岩に預けたまま、細長い草で巻かれた手足を見遣る。
朧げな記憶の中、傷に巻くものは草ではなく布の包帯だったと思うのだがここでは違うようだった。

さくさくと芝を踏みしめる音が近付く。
植物の蔓で結んだ枝や葉を抱えてこの地の主が帰ってきたのだ。

それは少年だった。
白い肌にあどけなさを残した薄紅の頬、少々細きに過ぎるが伸びやかな肢体を包むのはいっそ豪奢と言って良いほどに豊かな紅い髪、それだけ。
底の見えない湖面にも似た緑柱石の瞳がこちらをまっすぐ見据えている。

「……おかえり」

かけた声に返答は無い。
何か怒らせるようなことをしでかしたわけでもなく、ここで目覚めてから数昼夜ずっと言葉の反応は無いままだ。
礼にも、挨拶にも。
不機嫌でないのは行動からも判る。近付いてきた彼は今も草の包帯を解き、傷の具合を熱心に診てくれている。
「……どうかな」
問えば視線は返ってきた。こちらをじっと見つめ、結局は無言のまま視線を落として手にした瓶から傷口へと水を注いだ。

瓶は自分が少年にやったものだ。傷口を洗う水をせっせと手で運んできていたものだから、何か無いかと傍らに安置されていた鞄を探ったら出てきた。
瓶の中身は薄い青に染められた飴玉だったのだが、試しに彼に差し出してみたところ大層気に入ったらしく大きな目を瞬きながらふたつみっつと貪りあっという間に空き瓶のできあがり。大きな瓶ではないが、掌で作った椀よりはマシだろう。

飴の代わりの水さえ失った瓶の表面には今、薄らと男の姿が映っている。紫の眼に金の巻き毛を頭の後ろで括った中年男。
確かに自分の顔であるはずなのに、どこか遠い場所で作られた人形のようで。

癒えきらぬ傷口に冷たい水はひどく沁みた。

湿布なのか傷薬なのか、揉み潰された木の葉に傷口が覆われてゆくのを呻きながら見遣る。
ちなみにこんなよくわからない葉っぱでも効果は意外に有るようで、傷も化膿する様子は無く新たな皮膚ができ始めているのが見て取れた。
「有難うな」
小さな恩人の頭を撫でてやる。
以前にも誰かの頭をこんな風に撫でていた気がするのだが、背格好も関係性もぼんやりとしか思い出せなかった。

──すまない。

誰に対しての謝罪なのかわからぬまま、口の中だけで呟く。
恐らくは待たれている。それだけは判る。
いつかは帰らねばなるまい。

けれど。

たった今、大人しく撫でられている小さな頭。
いつから、どうしてここに居るのかも、年端のいかない子供がなぜこんなところに一人なのかも判らない。
事情どころか名前すら知らない。
けれど、放っておいてはいけないと思った。
もっと言うなら手放してはいけないと感じた。
理由は判らない。
閉鎖空間に訳も解らずふたりきり、そんな状況が錯覚を生んでいるのかも知れない。

頭から離そうとした手が、小さな冷たい手に包まれた。そのまま少年の薄い胸に引き寄せられ、抱えられる。
安堵したような表情に胸を突かれた。

暫くはこのままで、いい。

どのみちどこへ帰るべきかも、誰が待っているのかも判らない。動けるわけでもなければ出入り口を知っているわけでもない。

目を、閉じる。

だったら少なくとも自分の傷が癒えるまでは名も判らぬ男ふたり、共にいても良いだろう。
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