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一九四二年九月一八日 スターリングラード市『ユーリヤ=ベロドブコフ准尉の最後』
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荒れ地の中、一人立つ少女。すっぽりとその姿を覆う、土色の制服。それには白い乾いた泥がいくつも筋のようにまとわりついていた。
少女は手に木の棒をぶら下げていた。
いや、それは銃である。いまだその銃口はあたたかであった。
季節はもう冬の始まりということもあり、白い煙がゆっくりと立ち上る。
体に絡みつく、白い煙。
黒い髪がその煙をまるで吸い込むように、流れていった。
その少女の青い目は荒れ野の先をじっと見つめる。先ほどまで敵のいた、その地平の先を見つめつつ――
「ユーリヤ、また考え事?」
同室のガリーナがそう問いかける。
部屋には小さな薪ストーブが一つ。それでも士官待遇ということでまだましな方である。
粗末なテーブルの上にはカップが二つ。中にはストーブの上で沸かしたお湯が入っている。僅かな茶葉を友として。
ガリーナの問いかけに無言で応えるユーリヤ。首をただ軽くうなずかせて。
黒い髪がゆっくりと揺れる。長い髪は本来、党の命令で許されないのだが、彼女は特例として許可されていた。
『その髪が狙撃の際のカモフラージュとして効果があることを政治将校より報告があった。祖国と同志書記長スターリン氏のために、より一層の奉仕を』
正直、髪の長さはユーリヤにとって大して問題ではなかった。問題だったのは――その色である。
「ユーリヤは日本の血が混じっているからね」
ガリーナがカップに沸いたお湯を追加しながらそうつぶやく。
「わが偉大なる祖国――CCCP(社会主義共和国連邦)と戦って大事な艦隊を全滅させた東洋の軍国主義者(ファシスト)。さらに、今ではドイツの豚どもと組んで我々に圧迫を与える。そんな国家出身の」
「黙って、ガリーナ。あんまりうるさいとあなたを撃ち殺すわよ」
「はいはい」と両手を上げ、背を向けるガリーナ。ユーリヤが十代半ばなのに対し、ガリーナはユーリヤより十歳ほど年上である。
階級は同じ准尉。女性ではあるがソ連の貴重な『兵士』であった。
「いまや祖国は危機的状況に追い込まれている」
ズラッと横列に並んだ兵士の前で演説を行う政治将校。内務人民委員部員の姿も見える。
「党共産党指導部と偉大なる同志書記長スターリン氏はこの戦争を『大祖国戦争』と定義した。故に人民諸君の犠牲は祖国の救済に――」
「全く、困ったものね」
閲兵後、ガリーナがユーリヤにこっそり話しかける。
「そんな事言われなくても――戦わないと殺される、殺されたらすべてが終わる。それだけなのにね」
「終わらないわ。戦いは続く」
ユーリヤは手元の小銃を手入れしながらそう応える。
彼女が志願兵として従軍してからずっと愛用している旧式のモシン=ナガン狙撃銃。何度か彼女の戦績に報いて、党本部から少なくない金銭が授与されていたが、それをほとんどすべてこの銃の改造に費やしていた。
『東洋人は真面目だな』
『ヤポンスキーのくせに生意気だ』
そんな言葉にも動ずることもなく、ユーリヤは狙撃手としての任務をただただこなしていた。
年の頃は自己申請では19歳となっているが怪しいものである。背は低く、体格もあまり良くない。
ガリーナの恵まれた体格を比べるとまるで熊と栗鼠ほどの違いがあった。しかし、彼女の経歴は全く逆のものであった。
『独ソ戦始まりの不利な状況において、敵ファシストの士官指揮官を30名狙撃。敵作戦行動に大きな遅滞を生じせさしめる』
『モスクワ防衛戦において、補給部隊の下士官を20名狙撃。レーニン第3級人民兵士勲章を授与するものなり』
「モスクワの女神」誰が呼んだか、ユーリヤ=ベロドブコフ准尉にはそのような二つ名がつけられていた。
東洋系の黒い髪の祖父を持つ女神――それは敵にとっては死神であったに違いないが。
「来週からは、部隊移動だってね。今までの前線とは違って後方勤務らしいよ。狙撃大隊で前線勤務じゃなければ天国だよね。内緒だけど......あの糞中隊長は『スターリングラード』って言ってた。都会だよね!一緒にデパート行っておしゃれなものでも買おうよ。ユーリヤ!そんときはおごってちょうだいね」
首をゆっくりと振るユーリヤ。
彼女らが『スターリングラード』に着任したのは一九四二年六月二八日のことであった。
瓦礫の中。ボルトアクションを何度も引き上げようとするがうまく行かない。
血の滲んだ右手で、何度もがちがちと愛用のモシン=ナガンを操作する。
ユーリヤの傍らには、半分瓦礫に覆われたガリーナの死体。何度も繰り返されたドイツ軍の攻撃により、いつの間にか彼女は息を引き取っていた。
特段の感想はない。ただ順番が前後しただけである。ましてや、ガリーナは十歳年上。そしてまた、戦死により階級も一挙に二階級先んじられたのだから。
ふと、自分の人生を省みるユーリヤ。
両親の思い出はほとんどない。早くに戦死した日本系の父親。印象の薄い母親。
親戚の叔父が軍隊への士官を勧めてくれた。
軍隊に入ってわかった、意外な自分の才能。
『狙撃の才』
人生で初めて、自分とは何かということを考えることができた気がした。
初めての友人。うるさくもあるがガリーナはいい友であった。
その友は今、骸(むくろ)となって彼女の側に転がっている。
小銃を構え、近づくドイツ兵に狙撃する。手応えは十分であるが、もうこの銃は使い物にならなことも体で感じていた。
ユーリヤはよろよろと立ち上がる。足の震えに、ここ最近全く食事を取っていないことに気づく。
目の間に黒い壁が立ちはだかる。
即座に構える銃。
そして、それに対して兵士が銃を向け――発砲する。彼女のすべてに――
少女は手に木の棒をぶら下げていた。
いや、それは銃である。いまだその銃口はあたたかであった。
季節はもう冬の始まりということもあり、白い煙がゆっくりと立ち上る。
体に絡みつく、白い煙。
黒い髪がその煙をまるで吸い込むように、流れていった。
その少女の青い目は荒れ野の先をじっと見つめる。先ほどまで敵のいた、その地平の先を見つめつつ――
「ユーリヤ、また考え事?」
同室のガリーナがそう問いかける。
部屋には小さな薪ストーブが一つ。それでも士官待遇ということでまだましな方である。
粗末なテーブルの上にはカップが二つ。中にはストーブの上で沸かしたお湯が入っている。僅かな茶葉を友として。
ガリーナの問いかけに無言で応えるユーリヤ。首をただ軽くうなずかせて。
黒い髪がゆっくりと揺れる。長い髪は本来、党の命令で許されないのだが、彼女は特例として許可されていた。
『その髪が狙撃の際のカモフラージュとして効果があることを政治将校より報告があった。祖国と同志書記長スターリン氏のために、より一層の奉仕を』
正直、髪の長さはユーリヤにとって大して問題ではなかった。問題だったのは――その色である。
「ユーリヤは日本の血が混じっているからね」
ガリーナがカップに沸いたお湯を追加しながらそうつぶやく。
「わが偉大なる祖国――CCCP(社会主義共和国連邦)と戦って大事な艦隊を全滅させた東洋の軍国主義者(ファシスト)。さらに、今ではドイツの豚どもと組んで我々に圧迫を与える。そんな国家出身の」
「黙って、ガリーナ。あんまりうるさいとあなたを撃ち殺すわよ」
「はいはい」と両手を上げ、背を向けるガリーナ。ユーリヤが十代半ばなのに対し、ガリーナはユーリヤより十歳ほど年上である。
階級は同じ准尉。女性ではあるがソ連の貴重な『兵士』であった。
「いまや祖国は危機的状況に追い込まれている」
ズラッと横列に並んだ兵士の前で演説を行う政治将校。内務人民委員部員の姿も見える。
「党共産党指導部と偉大なる同志書記長スターリン氏はこの戦争を『大祖国戦争』と定義した。故に人民諸君の犠牲は祖国の救済に――」
「全く、困ったものね」
閲兵後、ガリーナがユーリヤにこっそり話しかける。
「そんな事言われなくても――戦わないと殺される、殺されたらすべてが終わる。それだけなのにね」
「終わらないわ。戦いは続く」
ユーリヤは手元の小銃を手入れしながらそう応える。
彼女が志願兵として従軍してからずっと愛用している旧式のモシン=ナガン狙撃銃。何度か彼女の戦績に報いて、党本部から少なくない金銭が授与されていたが、それをほとんどすべてこの銃の改造に費やしていた。
『東洋人は真面目だな』
『ヤポンスキーのくせに生意気だ』
そんな言葉にも動ずることもなく、ユーリヤは狙撃手としての任務をただただこなしていた。
年の頃は自己申請では19歳となっているが怪しいものである。背は低く、体格もあまり良くない。
ガリーナの恵まれた体格を比べるとまるで熊と栗鼠ほどの違いがあった。しかし、彼女の経歴は全く逆のものであった。
『独ソ戦始まりの不利な状況において、敵ファシストの士官指揮官を30名狙撃。敵作戦行動に大きな遅滞を生じせさしめる』
『モスクワ防衛戦において、補給部隊の下士官を20名狙撃。レーニン第3級人民兵士勲章を授与するものなり』
「モスクワの女神」誰が呼んだか、ユーリヤ=ベロドブコフ准尉にはそのような二つ名がつけられていた。
東洋系の黒い髪の祖父を持つ女神――それは敵にとっては死神であったに違いないが。
「来週からは、部隊移動だってね。今までの前線とは違って後方勤務らしいよ。狙撃大隊で前線勤務じゃなければ天国だよね。内緒だけど......あの糞中隊長は『スターリングラード』って言ってた。都会だよね!一緒にデパート行っておしゃれなものでも買おうよ。ユーリヤ!そんときはおごってちょうだいね」
首をゆっくりと振るユーリヤ。
彼女らが『スターリングラード』に着任したのは一九四二年六月二八日のことであった。
瓦礫の中。ボルトアクションを何度も引き上げようとするがうまく行かない。
血の滲んだ右手で、何度もがちがちと愛用のモシン=ナガンを操作する。
ユーリヤの傍らには、半分瓦礫に覆われたガリーナの死体。何度も繰り返されたドイツ軍の攻撃により、いつの間にか彼女は息を引き取っていた。
特段の感想はない。ただ順番が前後しただけである。ましてや、ガリーナは十歳年上。そしてまた、戦死により階級も一挙に二階級先んじられたのだから。
ふと、自分の人生を省みるユーリヤ。
両親の思い出はほとんどない。早くに戦死した日本系の父親。印象の薄い母親。
親戚の叔父が軍隊への士官を勧めてくれた。
軍隊に入ってわかった、意外な自分の才能。
『狙撃の才』
人生で初めて、自分とは何かということを考えることができた気がした。
初めての友人。うるさくもあるがガリーナはいい友であった。
その友は今、骸(むくろ)となって彼女の側に転がっている。
小銃を構え、近づくドイツ兵に狙撃する。手応えは十分であるが、もうこの銃は使い物にならなことも体で感じていた。
ユーリヤはよろよろと立ち上がる。足の震えに、ここ最近全く食事を取っていないことに気づく。
目の間に黒い壁が立ちはだかる。
即座に構える銃。
そして、それに対して兵士が銃を向け――発砲する。彼女のすべてに――
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