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第二十六夜 あなたとわたしの真実
しおりを挟むクリニックの待合室で順番を待つ間、譲治は紗和との今までの時間を思った。
長い間、譲治は紗和の美しく清楚で大人しい控えめなところが気に入って好きになったと思い込んでいた。しかし、先生の診察を受け施術を始めてから、実は自分は心の中で彼女の中にある蠱惑的な、妖艶な女を求めていたのだと知り、認識できた。峰岸との関係も最初は疑いを持つことすら怖れていた。無意識に心の奥にしまい込んで蓋をしていたのを、妻の告白によって掘り起こし、実は鬱になるほどの昂奮を覚え嫉妬していた事実を把握できた。それを知ってから、むしろそれによって心から素直にありのままの紗和を愛し、それを示すことができるようになった。
紗和は見違えるほど健康になった。彼女は耐えていたのだ。本当の自分を抑えつけて来たのだ。あのスキー場での事故を経て結婚してからずっと、譲治の好意と寵愛を失うことを恐れ、本当のセクシーで妖艶な紗和を抑え込み、清楚で貞淑な大人しい妻を演じて来たのだ。だが同時にそれが彼女を病ませ、苛んできたのだ。紗和もまた、先生の施術によって本来の自分を取り戻し、かつ、譲治との愛を深めることができる喜びを享受できるようになっていた。
「どうぞ、お入り下さい」
いつものようにドアの前に立ち、穏やかな微笑みを湛える先生からはあの匂いがしない。先生とのプレイ、施術を終えて帰宅した紗和から立ち上る、あの化学的ではない、なにか妖艶な香り。それは先生とのプレイで纏わせたものだと思うのだが、先生からは全くそれを感じなかった。
しかも、愛する妻を時に残酷なほど責め、その剛直で何度も犯し絶頂させた本人であるにも拘わらず、こうしてその前に立っても峰岸に抱いたほどの嫉妬や昂奮を感じない。先生は、強烈な嫉妬の磁力を放っているはずの譲治の前に、全くの不導体としてそこにいた。医者として、そして事実譲治たち夫婦の健康と愛の絆の回復に努めてくれていることに対する信頼と感謝があるからだとは思うが、紗和の口から聞いた衝撃的なプレイの内容から来る一種の匂いが、先生からは全く感じられなかった。それはそれ、これはこれ。医師としてある今の彼と、あのキョーコや紗和を調教している時の彼とは全く別人格を完璧に演じ分けられるのだろう。嫉妬どころか、譲治はあらためて目の前の先生に畏敬の念すら抱くのだった。
先生は前回と同じように脈を測り、聴診器を使い、血圧を測定した後にリクライニングへ譲治を座らせ、横臥させた。
「それでは、始めますよ」
バッハだろうか。オーディオからはゆったりとした弦楽四重奏曲が流れ出し、先生は譲治の視界から消え、彼の頭に回り、両側から耳の上あたりを挟んで呟いた。不思議なことに先生の温かい掌で頭を優しく挟まれると、精神が沈静し母親の抱擁にも似た安心感に包まれてゆくのを覚える。
「さあ、浅香さん。あなたはこれからゆっくりと心を休め、リラックスしてゆきます。あなたの一番リラックスできる場所は、どこですか。あなたは今、どこにいますか・・・」
紗和が施術の一番最初に受けた診察で同じような施術を受けたのを覚えていた。彼女は深い海の底だと言っていた。愛する妻と同じ場所を選んだ。
「深い、海の底です」
「わかりました」
と、先生は言った。
「その深い海の底には銀色に煌めく魚たちや、大きなマンボウがゆったり、ゆーっくり、泳いでいます。その海の底で、あなたは奥様と結婚した時のことを安らかに、思い出しています・・・」
譲治は意識を深奥の底のまた底の辺りで深く、集中し始めた。
紗和との結婚生活は順風に恵まれて始まった。もちろん、セックスもあった。婚前交渉ももちろん、あった。それは結婚してからも変わらず、紗和はいつも淑やかに、乱れた。
あれはたしか、結婚してから二三か月が経ったころだったような気がする。
大学時代の友達と温泉に行って来ようと思うの。お泊りで・・・。
もちろん、いいよと言った。軽い気持ちだった。もちろん、同性の、だよね。そんな確認もしなかった。紗和を信用していたし、すでにその時点で峰岸はドイツに赴任して一年が経とうとしていた。たしか、秋の連休を避けてのスケジュールだったと思う。まだ残暑が長引いていて、暑かったころだ。宿泊すると聞いてすぐに峰岸の名前を胸に浮かべたことを覚えている。その時から自分は密かに二人の仲を、結婚前とはいえ不倫を疑っていたのだと、今にすれば思う。
紗和は予定通りに出発した。その前の晩に求めたけれど、少し気分が優れないからと断られたのも覚えている。せっかくの楽しい旅行に障るといけないと、譲治も納得して妻を寝かせたのも、覚えている。
出発した日の晩、紗和から電話があった。宿の電話で発信者番号もディスプレイされていた。無事宿に付いた。お料理が美味しい。お湯も最高だ。そんな話をする紗和の口調は、でも少し陰っていたような気がした。前の晩の体調のことを心配していたから尋ねたが、
大丈夫。気持ちのいいお湯に浸かってすっかり元気だ。そう答えた。それで譲治も少しは安心し、楽しんできて、と電話を切った。
翌日の夕方、玄関のドアを開けた紗和は少し疲れた表情を浮かべて微笑んだ。
ああ、楽しかった。久しぶりに会って喋り込んで夜更かししちゃって・・・。少し寝不足気味なの、と。バッグと紙袋に詰まったお土産と着替えを解きながら話した。その時の紗和の感じに少し、違和感を覚えた。彼女はあまり譲治と顔を見合わせようとしなかったが、何かの拍子に目と目が合った。瞳の奥に、なんだかわからないぼんやりとした灯りが見えた。
それからさらに二三か月して、紗和の妊娠がわかった。紗和は大事を取ってその頃まだ勤めていた役所を辞めてしまった。ちゃんと育児休暇は取れる仕事場だからなにも辞めなくてもいいのでは、とは思ったが、紗和の意思は固くて、それで譲治も納得した。妊娠の経過は順調だった。平均より少し小さめだが、胎児も元気だと聞いていた。
だが、七か月目の半ばぐらいから容体が変わった。切迫早産の危険があり急遽入院することになった。
毎日、紗和の病室を見舞ったのを想い出す。妻は譲治が病室に現れると必ず彼の体調を気遣った。大変だから、毎日来なくてもいい。そうも言った。その言葉にいつもこう答えた。ぼくが来たいんだよ。きみと過ごせないのが辛いけど、きみだって頑張っているんだから。だからせめて、見舞いぐらい来させてくれ、と。同室の妊婦さんに、いいわねえ優しいご主人でと冷かされながら。
紗和の忍耐と譲治の願いにもかかわらず、状況は一向に好転しなかった。最悪の場合、母体と胎児どちらかの命を犠牲にしなければならなくなるかも、そこまで言われた。
わたしはどうなってもいい。その時は絶対赤ちゃんを優先して! 赤ちゃんを助けて! 必死に訴える紗和を、大丈夫だよ名医さんと聞いているし、と宥めるのに苦労した。彼女が動揺すると胎児にもよくないから、落ち着かせるために生まれて来る娘の名前を二人で考えたりもした。「花」がいい。紗和は強く言った。「浅香 花」か。うんいい名前だ。そんな風に笑い合い、ともすると落ち込みそうにある妻を励ました。
そうしてなんとか、その日はやって来た。しかし、状況は楽観できるどころか、ある覚悟を強いられるものだった。
医師は言った。赤ちゃんは千グラム以下の超未熟児で生まれてくる。しかも心臓に異常がある。出産後すぐにNICUで治療することになるが、最悪の場合も覚悟しておいてほしい、と。病室ではなく、紗和のいない診察室で、そう宣告された。
医師の言葉通りに、生まれた娘は母親に抱かれることもなく新生児集中治療室の哺育器の透明なアクリルケースの中に入れられた。完全無菌の、特別な場所へ。そして、その箱の中から出ることなく、ついに最後の時を迎えた。
お父さん、お母さん。どうぞ、花ちゃんを抱っこしてあげて下さい。
医師のその言葉で全てを悟った。最初にして最後、花はその短すぎる生涯にたった一度だけ、父と母からのこころからの抱擁を受けて、逝った。抱擁するにはあまりにも小さくて、壊れそうで、軽すぎる命だった。この世に産み落とされてまだ、四日目だった。
その日の朝のうちに役所に出生届を出していた。紗和のたっての願いだった。もちろん、譲治は快く引き受けて役所に行った。花を見送り、霊安室で夜を過ごし、家に帰り、何もせずただずっと固く抱きしめあった。譲治の肩や頬を濡らし続け夫の胸に嗚咽を吐き続ける妻をずっと撫で続けた。そして次の日の夕方に亡骸を引き取り二人で死亡届を出しに行った。そして埋葬許可をもらった。涙で赤く腫れあがった紗和の瞳の中に、あの淡い灯があった。
それ以来ずっと、譲治は紗和を悦ばせることができなくなっていた。
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