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おけいこは続く

80 母の真実

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 母はヒーターのダイヤルを回した。

「さすがに赤道直下から来ると、寒いわね」

 と母は言った。

「ごまかさないで!」

 いい加減、わたしは焦れた。

「答えて。一体どこに向かってるの? 何をしに行くの?」

「落ち着きなさい。事故るよ。そろそろ道路凍ってくるし」

「答えて!」

 母はセーターの下に手を潜り込ませると、タバコのパッケージを取り出し、ウィンドーを少し開けて火を着けた。紫煙の大半は窓外に流れ出たが、タバコのフレーバーが車内に充満した。タバコを吸う人を久々に見た。というよりも、母がタバコを吸うなんて、知らなかった。

「ああ・・・。キクわね。高校生の時以来だわ。さっきスーパーにあったの。今だに売ってるのね。値段、上がったのねえ。びっくりしちゃった」

「・・・不良じゃん」

 マジ、ケムかった。わたしも窓を開けた。

「そうよ」

 美味しそうに煙を吐きながら、母は言った。

「不良も不良。亡くなったあんたのおじいさまを散々困らせてた。何度も家出して見ず知らずの男たちとその日の塒のために寝たりもした。3回も高校退学になったしね。

 だいたいね、わたし小学6年生で初体験したのよ。あんたより2年も早かったんだから。・・・うふふ。ビックリした?」

「・・・3回退学になったのは聞いてたけどね」

「もう、わたしの役目は終わったからね。子育ても、仕事も。何もかも。今から行くところはね、わたしの第三の人生を生きる場所になるかもしれないところなの」

「第三? ・・・何、それ」

 いつもならまず結論を言い、そのあとで理由を言う。

 こんな回りくどい話し方をする母は、初めてだ。


 


 


 

 動揺はしているだろう。だが、サキは落ち着いてステアリングを握り前を見ている。

 スミレはもう一服を喫ってしまうとコーヒーの缶の中に吸殻を落とした。車に純正で灰皿が付かなくなって久しい。

「まず言っておくわね。これはタチバナの会長としての業務命令。あんたは今月の十五日から総合本社に出社してわたしの秘書を務めなさい。もうあなたの上司のホンダさんにもアンザイ副社長にも伝えてある」

「ええっ! そんな急に・・・」

「いい加減、カオルから離れなさい!」

 母の、いつもの母娘喧嘩の口調ではない、ビジネスライクな厳しい雰囲気に怯んだ。

「知ってるのよ。あんたがコソコソカオルについて行こうとしてるのなんて。

 あの子はね、あんたが思ってるより遥かに大人よ。少なくともあの子を産んだ時のあんたよりもね。誰に言われたわけでもない。あの子が自分からGBに行くと言い出したのは、あんたやわたしを見て育ったからよ。あんたやわたしに憧れてるのよ、カオルは。

 どうしてそれがわからないの?

 子供に憧れられるなんて、親として誇りに思わなければ。子供に自分の生き方を見せるのが親としての最後の務めよ」

 サキは黙ってハンドルを握っていた。納得していないのはタイドでわかる。それでも、言わねばならない。

「あの子は大丈夫よ。いざとなったらわたしの知り合いも近くにいるし、タチバナの出先もある。どうとでも、なんとでもなるわ。

 それでね、その生き方のことだけど。あんたのことよ。生き物の勉強したいんでしょ」

「生物物理学。小学生じゃないのよ」

「生き物の研究には違いないじゃないの。相変わらず理屈っぽいのね」

 スミレはもう一本に火を着けた。

「あの大学で勉強できることは、タチバナでもできる。より実践的に、より豊富な資金でよりスケールの大きな勉強がね。研究者ならみんな羨ましがる環境が、タチバナにはある。そんなことはあんただってわかってるでしょ。

 わたしの下で二三年。わたしの仕事のやり方と仕事の内容、グループ全体の事を学びなさい。その後はあんたに航空宇宙部門の子会社を任せようと思う。今タチバナが手掛けている宇宙植民島の実現にあんたの知見を活かしなさい。人類が宇宙に出て行くために、人間が地球上と同じ環境で生活できるようにするために、その力を使いなさい。大学の中での勉強よりも、はるかにエキサイティングな経験ができるわ。そしてそれがカオルにとって最も大きな刺激になる。でもね、」

 スミレはタバコを消してサキを、娘を見つめた。

「最終的にそれを決めるのは、今から話すわたしの話を聞いてからでもいい。その上で、それでもどうしてもタチバナを退職したいなら、そうしてもいい。その後であんたがどんな決断をしようと、わたしはそれを尊重する」

 スミレは、言った。

「今から話すのはわたしが17歳からあなたが生まれるまでの8年間の話。

 それがわたしの第二の人生だったの。

 あんたの生みの母のレナともそこで出会った。あんたの本当のお父さんのことも、その中のこと。それを全部聞いてから、自分で将来を決めなさい。

 ねえ。次のインターよ。ボーっとしないでね。降りたら運転代わるわ。そろそろ道路、凍って来たから。わたしはともかく、あんたはまだ死ねないでしょ」


 


 


 

 それからその山荘の麓に着くまでの2時間近く。

 もう雪景色に覆われた山々の間の谷を、力強く登ってゆく赤い熊。そのステアリングを華麗にさばきながら、タチバナの母は、スミレは、彼女の17歳から25歳までの間の長い物語を語り続けた。


 

 わたしが思ってもみなかった母の姿。それまで抱いていた母やギフの母への疑問はそれで全て謎が解けた。

 ギフの母が「拷問車」と呼ぶ、あの赤い殺人的な車のこともわかった。タチバナの母の青春の記念碑。あの車には母の青春の溢れる思いが込められているのだ。そして、未だに母の胸の中に棲み続ける、愛しい男の影があの車にはあるのだ。母があの車にだけは神経質なほど気を遣う理由も、すべてわかった。

 そして、わたしの出生の経緯も秘密も。全部そこに、スミレの話のなかにあった。生まれて初めて、自分の父親という男の像がおぼろげながら目の前に現れてきた。


 

 赤い熊は止まった。

 目の前の深い谷。そこに掛かった橋を渡った向こう側に聳える、雪に覆われた白い小高い山。

「あの山のてっぺんにわたしの別荘があるの。行く先はそこよ」

 と、母は言った。

「どうする? 来る? それとも、帰る? ここまでならタクシーも来てくれる。今から呼べば三十分くらいで来るわ。わたしについて来るなら、ここでレナに電話しなさい。ここから先は電波も届かない。外の誰とも繋がらない。夜中に車で帰るのは自殺行為だよ。真っ暗な山道で滑ったら、谷に落ちるかも。

 あんたが決めなさい。お母さんはあんたの決めたことに従う。

 でも、わたしは行くからね」

 母はギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引き、タバコに火をつけた。

「わたしは、全てを捨てるつもりで来たの。

 あんたのおじいさんから受け継いだタチバナの筆頭株主の座も、関連会社の株も、そうでないのも全部、わたしの財産全て、あんたに委ねる。

 この橋を渡れば、わたしはあんたのお母さんでもタチバナの会長でもない。ただの一人の女に戻れる。わたしは、一人のただの女になるためにここへ来たんだから」


 
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