遠すぎた橋 【『軍神マルスの娘と呼ばれた女』 3】 -初めての負け戦 マーケットガーデン作戦ー

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18 11月14日 近衛第一軍団第一落下傘連隊に出撃命令下る

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 その日。

 アイホーの村の人々は東から流れて来る避難民たちのなかに一台の小さなオンボロな台車を引いたみすぼらしい身なりの男が泣きながら通りをやって来るのを見た。

 煤けた服はあちこち擦り切れて泥にまみれ、顔半分を汚れた包帯で覆い、目には割れた色付きの眼鏡をかけ、空を仰いで嘆いていた。

「ヨンファーっ、シャンナーっ!」

 彼の妻だろうか、娘だろうか。男は名を叫び続けながら、通りをトボトボと過ぎていった。

 三日前、帝国に接する北東の町アイエンの郊外に帝国軍が攻めてきたのを人々は風で流れてきた噂と最初の避難民がやって来たのとで知っていた。このところ東から西に向かう人並みが増えていた。

 可愛そうに・・・。

 男を見た誰もが同情を禁じえなかった。きっと彼も戦争が始まって家を焼かれ妻子が巻き添えになって絶望しているのだろう、と。だが、明日は我が身かも知れない。

 通り過ぎて行く男を見送りつつ、アイホーの人々も逃げ支度のための荷造りを急がねばならなかった。

 町はずれの端のたもとまで来ると、男は橋の下に台車を引きずり込んだ。それを見た誰もが、あの男は今夜橋の下で眠るのだろうと思った。

 明日は我が身だ。だがせめて、ああはなりなくないものだと皆俯いて橋を渡り西へ向かって足早に歩み去っていった。

 男は陽が落ちるまでそこにいた。だが、月明りが真上に来る前にゴソモソと動き出し、橋の下を丹念に見て回った。

 そして人通りもなくなった深夜、台車の幌をめくって汚いズダ袋の中にある最新式の無線機を起動させ、ボソボソと話しはじめた。

「マーキュリーより雛鷲(ひなわし)」

 相手は彼の通信を待っていたらしく、すぐに出た。

「こちら雛鷲」

「アイホーの橋は戦車の通行は無理だがトラックは可能。これよりナイグンに向かう。オーバー」

「了解、マーキュリー。アウト」

 リヨン中尉は無線機の電源を切ると眼鏡を取って汚れたグラスを拭った。

 美しかった顔はところどころ皺になっていた。帝都の外科医は優秀だった。彼の皮膚を所々縫い合わせ、即席の皺を作ってくれていた。ヘアサロンのアーティストは彼の金髪を黒く染め、額を広く剃り上げてチナの習俗に似せた初老の男を演出してくれていた。

 彼は包帯を取り去り眼鏡と共にその辺りの草むらに投げ捨てた。そして台車から農民の着る黒い筒袖の服と三角の藁帽子を取り出し、手鏡を取り出し月あかりを頼りに顔のメイクを変えた。


 


 


 


 

 ヤーノフはついにあの「テッポー」を手にしていた。

 無機質な部屋での小男との会合はすぐに終わった。ヤーノフが意地でも名前や部族名やここに来た目的を黙秘し続けていたからかもしれぬ。

「副連隊長殿がお前を案内してやれというので、案内する」

 そう言ってアレクサンデルがヤーノフをその建物から連れ出し、最初に連れてこられたのが、ここだった。テッポーを構えた兵はもういなかった。ヤーノフとアレクサンデル。肌の青い男二人だけでそのテッポーが数多く置かれた部屋に入った。

「手にしてみるがいい。弾は抜いてある。心行くまで手に取って調べるがいい」

 アレクサンデルは言った。

 それはずっしりと重かった。だが撫でまわしているうちに何故か愛着がわいてきた。

 すべすべした冷たい銃身に複雑な機構。そして手に馴染む銃把。適度に油の馴染んだ銃床。まるでヤーノフが来るのを、手に取られるのを待っていたような、ヤーノフの手に合わせて誂えられたようなフィット感。青い肌の野蛮人は、たちまちのうちにその「テッポー」の感触に魅了され、惚れ込んだ。

 是非ともコイツを手元に置いておきたい。強力な武器を手にした人が抱く憧憬を、彼もまた抱いた。その部屋にはそんな「テッポー」が数百丁は壁に立てかけられ、並べられていた。

 と。

 その奥には専用の架台らしい何段も積み重なった棚の一段に、なにやら小さな羽根を付けた弾が無数に並べられているのを見た。

「『グラナトヴェルファー(擲弾筒)』用の弾体だ。専用の射出機で撃ちだし、弾自身からガスを噴き出して空を飛んで炸裂する。これは携帯用だから小さいが、大きなものは深さ1メートルぐらいの穴を掘る威力がある」

「めーとる?」

「長さの単位のことだ。単位というのは重要なものだぞ」

 その小さいがずっしりと重い弾を手に取ったヤーノフに、アレクサンデルは両手を1メートルぐらい広げて示した。

「弾体の先に触るな。爆発するぞ」

 ヤーノフは手にした冷たい弾体を恐る恐るそっと架台に戻した。

「お前が満足するまで全てを見せろと言われている。次は何を見たいか」

 と、アレクサンデルは言った。

 武器庫を出るとヤーノフは言った。

「あの丸い輪の付いた動く箱を見たい」

 アレクサンデルは彼をガレージに連れて行った。ヤーノフの脇をすり抜けていったあの大きな箱が二つ置いてあった。青い肌の帝国の奴隷はその箱の横の「ふた」のような扉を開けて、ヤーノフを乗り込ませてくれた。椅子に座ると、目の前に大きな輪があった。

「『トラック』だ」

 アレクサンデルは箱の外から教えてくれた。

「石炭を燃やして湯を沸かし、その蒸気で動く。帝国では珍しくもない。国中に何千台とある。これで軍は兵や弾薬を運び、市民たちは採れた作物や魚や肉を運んだり、引っ越しの時に家財道具を運んだりする。だがこれはもう時代遅れだ。帝国はガソリンで動くトラックも持っている。この蒸気トラックよりも数倍力が出るし、重い荷物も運べる」

 ヤーノフはその丸い輪を掴んで悟った。

 自分は、なんとバカなのだろう、と。

 とてつもない自分のバカさ加減に、いささか幻滅しかけていた。

 お前は何のためにここに来たのだ、と。

 何のために家族を、部族の衆を捨てる覚悟までして河を渡って来たのだ、と。

 下らないプライドのために、その崇高な意義を台無しにするつもりか、と。

 丸いハンドルを握ったまま、ヤーノフは言った。

「この部族の兵たちを見たいのだが」

 アレクサンデルは快く彼の願いを聞き入れ、多くの兵舎の一つに彼を案内してくれた。

 ちょうど、昼時だった。

 兵舎の広間のような、大きな部屋に大勢の男女の兵たちが集っていた。皆一列に並び、湯気の上がる壁に向かって待っていた。その列の後ろにならばされた。兵たちは皆、青い肌のヤーノフを物珍し気にジロジロ見ていた。二三の兵がアレクサンデルに何か言うと、背の高い奴隷はそれに応え何かを言った。質問した兵たちは納得した顔でウンウン頷き、トレーに盛ってもらった食物を手にし、各々テーブルに着いて彼ら彼女らの食物をかきこんでいった。

「順番が来たら積んであるトレーを持って配膳を受ける。ビュルストは好きなだけ取っていい。好きな飲み物、茶でもミルクでもレモネードでも、なんでも選んで空いた席に座って食う。それだけだ」

 と、アレクサンデルは教えてくれた。

 言われた通りにトレーを捧げ持ち、壁の向こう側から大きな匙で盛られた食物を受け取った。配膳係の軍属はチラとヤーノフを一瞥しただけで大きなスプーンでオートミールをトレーの窪みに流し込んでくれた。空いているテーブルを見つけてアレクサンデルと共に、食った。

 めっちゃ・・・、美味い・・・。

 小麦を煮込んだおかゆはたまに食うがこれは妻たちの味付けとは違うようだ。腸詰も単に肉を挽いてあるだけではなく、何か辛みとしょっぱみをつけて食欲が進むように工夫してある。そして肉。これは何の肉なのだろう。ただ焼いてあるだけではない。このようにふんだんに肉汁が垂れる肉は初めて見る。それにこの野菜の豊富なこと。今はもう冬に向かっているというのに、こんなに新鮮な野菜を、いったいどのようにして育てるのだろう。

 こんな美味いメシを、さして喜びもせずに普通に食う男女の兵たち。こんなメシを毎日のように食える敵に、勝てるわけがない、と思った。

 半ばまで食べると、ヤーノフは匙を置いた。

「どうした。口に合わんのか」

「違う。このような美味い食事は、初めて食った」

「そうか」

 と、アレクサンデルは言った。

「オレはシビル族の族長、ヤーノフだ。ここへは、帝国と手を握れないかと思い、やってきたのだ」

 と、ヤーノフは言った。

「帝国では食後にコーヒーか紅茶を飲む。場所を変えよう」

 アレクサンデルはナプキンで丁寧に口を拭った。

 自分と同じ、肌の青い民族の男なのに、目の前の痩せぎすの男がもう立派に帝国人になっているのを認めないわけにはいかなかった。


 

 遥か西では寒風の中敵と戦っている兵たちがいる。だが、ここ北の最果ての第十三軍団の最前線は小春日和の長閑さのなかにあった。

 二人は暖かな陽の降り注ぐ陣営地の広大な広場を前に弾薬箱に腰を掛け、木のカップのコーヒーを啜った。ヤーノフは初めて呑むその苦くて黒い液体に思わず顔を顰めた。

「茶なら飲めるか」

 アレクサンデルは自分の茶と交換してくれた。うむ。これなら、飲める。痩せぎすの男は自分が降参した苦い液体を美味そうに含んだ。

「どうやら、毒ではなさそうだな」

 アレクサンデルは今日初めて顔を綻ばせた。

「はは。オレも初めてこれを飲んだときは、そう思った」

 と、彼は言った。

「アレクサンデル。おぬしは、奴隷か?」

「今年の春まではそうだった。だが、今は違う。この第十三軍団の軍属として働く帝国市民になった。給料を貰い、国に税を払っている。国民の、義務だからな」

「なぜ奴隷ではなくなったのだ」

 アレクサンデルは、自分の青い腕を撫で兵舎の屋根の向こうに頂を見せている北の山に目を細めた。

「オレが帝国に捕らえられてからもう、十年になる」

 と、彼は言った。

「一族の者と一緒に国境を越えて南に押し入った。二年も作物の不作が続き、家畜たちも原因不明の疫病でバタバタ死んだ。他の部族も同じだったらしく、山に行っても獲物が獲れなかった。一族が食うためには、帝国に押し入ってその富を奪うしかなかったのだ」

 お前たちも同じだろう。わかるよな?

 そんなアレクサンデルの思いの籠った眼。自身一族の族長であり一族の者達を食わせるために苦労を重ねているヤーノフには痛いほど彼の気持ちがわかった。

「だが、オレたちは簡単に撃退された。部族の少なくない者が死に、残りのほとんどは北に逃げ帰り、オレを含めて何人かが囚われた。他の者達は帝国のあちこちに奴隷として売られて行ったが、オレだけがここに残った。後にオレの主人になったある士官がオレを買ってくれたからだ」

「その主人の士官とは今、どうしている? 彼がおぬしを解放してくれたのか」

「彼女だ」

 アレクサンデルは訂正した。

「いい主人だった。奴隷のオレを対等の人間として扱ってくれた。普通四五年ほどで奴隷は解放され、市民になれる。だがオレは断った。ずっと主人の元に居たい、仕えたいと思ったからだ。彼女は、それほどの人だった。彼女の勧めで名を変えた。今はアレックスという」

 そう言ってアレクサンデル、アレックスはヤーノフに優しい瞳を向けた。

「オレの主人だった彼女、レオン少尉はもう、この世にはいない。彼女は雷に打たれ、神になったのだ」

 アレックスは言った。

 それが帝国で機密とされており、漏らしたものは死刑になる。

 それを承知のうえで、アレックスは今日初めて会った同じ青い肌の民族の男に真実を語った。


 


 


 


 

 ヤヨイは小さな笛を吹いた。

 ぴっぴぷー、ぴっぴぷー。

 広大な草原に散らばった千名余りの兵たちの群れの中から「マルス小隊」の兵たちが駆け足で集まって来た。

 他の小隊長もそれぞれ異なる笛の音や「フェット(デブ)! フェット! フェット!」とか、「ein Schmied! ein Schmied! 」という小隊名を連呼したりして工夫していた。同じ「学者」大隊の小隊長の一人は、実家が鍛冶屋(Schmied)を営んでいたので「鍛冶屋」小隊という名前を兵たちから贈られたのだった。

「どう? 聞こえやすい?」

 集まって来た小隊の面々にヤヨイは尋ねた。尋ねながら、頭数と顔を確認した。29名全員が揃っていた。

「バッチシっす!」

「よく聞こえました!」

 皆息を切らしながら、兵たちは口々に答えた。

 落下傘で降下し、バラバラになった兵たちを小隊毎に集合させ、すぐに移動させねばならない。そのための訓練だった。

 周りを見ると他の小隊もだいたい集合を終えていた。二三の「迷子」の兵が自分の小隊を探してウロウロしているのが見受けられたが、初めてにしては上出来だと思った。ヤヨイの中に自信が積み重なって来た。

「『学者』大隊、もう一度だ!」

 カーツ大尉の声が草原に響いた。

 実際には同時に降下するのは彼の大隊12個小隊約400名弱になる。これよりはラクなんじゃないかと思うが、念には念を、だった。戦場では何があるか、何が起こるかわからない。

「マルス」小隊はもう一度ヤヨイを中心に半径10メートルほどの輪になり、皆反時計回りにグルグルと回った。

「止まれっ!」

 ヤヨイの号令で兵たちが脚を止めた。他の小隊の輪も同じように止まり、大隊長の号令を待った。

「散開っ!」

 カーツ大尉の号令一下、兵たちはそれぞれ輪の外に向かって百歩駆けた。一度は集まった各小隊がてんでバラバラに入り乱れ、ヤヨイの傍にも隣の小隊の兵たちがやってきた。最初の降下訓練で同じ小屋に寝起きしていた兵の顔もあった。兵たちは皆ヤヨイを見てニコニコ笑っていた。皆、ちょっと接近しすぎじゃないかと思った。

「集合っ!」

 そしてヤヨイは笛を吹いた。

 カーツ大尉からこの笛を渡された時、どんな音色にしようか、どんな吹き方にしようか迷った。それで、大学時代にスブッラの街角でギターを抱えた楽師が弾いていた曲を思い出した。

「これ、何て曲ですか?」

 とても気分がウキウキするいい曲だと思い、楽師の前に置いてあるカンの中にコインを投げ入れながら訊いた。

「モーツァルトの『フィガロの結婚』ですよ、フロイライン」

 その若いギターの楽師に教えてもらったことがあった。それで、モチーフの最初の一小節を「マルス」小隊の集合の音にしたのだ。

 ぴっぴぷー、ぴっぴぷー。

 だが、ヤヨイも曲を奏でていた楽師も、それが18世紀のドイツで作曲された歌劇の、中ほどに挿入されたアリアであることまでは知らなかった。かつてオペラという音楽のジャンルがあったことさえ、帝国のごくわずかの愛好者を除けばほとんどの者が知らなかった。このドイツの作曲家は自分の曲が千年後に軍隊の集合呼子に使われていると知ったなら、どんな顔をするだろうか。

「結婚、かあ・・・」

 訓練中にもかかわらず、ふと、ヤヨイは思った。そう言えば下宿先の奥様が、なにやら大事な話を持ってきていたような・・・。

 ま、いっか。今は任務が全てだ。

 再びマルス小隊の面々がバタバタと集まって来た。

 と、遠くから馬の蹄がギャロップでやって来るのが聞こえた。

「連隊っ! 直ちに駐屯地に帰還せよ!」

 連隊付きの下士官が小隊の間を駆け巡りながらメガホンで怒鳴っていた。


 

 近衛第一軍団第一落下傘連隊に、ついに出撃命令が、出た。

「明日十一月十四日深夜出発でトラックにて出撃地点に移動する。明日午前は各自武器軍装パラシュートの手入れと休息、午後は機材資材の積み込み終了後1700には就寝のこと。起床は翌0000」

 司令部に集合した指揮官たちを前にグールド大佐は命令した。その後士官たちは各小隊に帰って部下に命令を伝達した。

「ゲェーッ、五時ィ? 早すぎーっ!」

「それが軍隊じゃないの! 寝るのも命令、起きるのも命令。あんた一等兵でしょうが。もっとシャキッとしなさい、シャキッと!」

 ヤンチャなフォルカーの呟きを耳聡く聞いたリーズルが一喝した。

「そういうわけだから、ゆっくりできるのは今日と明日の手入れが終わった時が最後になる。各自家族がいれば手紙を書くなりしておいてね」

「あの、小隊長どの。質問があるのですが」

 賢いフリッツが手を挙げた。

「なあに、フリッツ」

「あの、オレらは空挺部隊ですから飛行機で前線に向かうんですよね。ということは、明日の夜は飛行場に向かうんですよね? 」

「そうね」

 とヤヨイは言った。

「詳しいことはまだ秘密なの。行けばわかると思うわ」

 兵たちの不安げな眼差しを受けたが、命令だからまだ詳細は口には出せなかった。

「他に質問は? 無ければ以上です。解散! おやすみなさい」

 宿舎の部下たちに命令を伝え終わると、ヤヨイは再び司令部に向かった。大隊長のカーツと作戦の最終確認をするためだった。

 会議室にはもう他の隊長たちが集まっていた。

「遅れました」

 ヤヨイは同じ大隊の士官学校第151期首席卒業ヨハンセン中尉の隣に席を見つけ、掛けた。

「よし、皆揃ったな」

 テーブルの端にいた「学者」は、背後の黒板に描かれた地形図の脇に立った。

「では、降下後の作戦行動についての最終確認をする。

 これがナイグンの街、そしてこれが我々の占拠目標である橋だ。降下地点はここ。橋までは約5キロある。降下地点の途中にはここ、小高い丘がある。まず一隊がこの丘を確保し、残りはこの丘を両側から回り込んで橋を目指す。丘を攻略するのは『マルス』小隊、ヴァインライヒ少尉の部隊だ。この部隊に大隊司令部の私も同行する」

 ヤヨイはコク、と頷いた。

『フェット(デブ)』『鍛冶屋』『道化師』『詐欺師』『覗き魔(wohnt ein spanner)』・・・」

 そこで大尉は思わず、ぐふっと笑いを堪えた。

「・・・慣れて下さい、大尉。ボクだって好きでこんな名前つけてるわけじゃないんですから」

 こんな不名誉な名前を小隊名に奉られた、ラインハルト・ウェーゲナー中尉は真面目な士官だった。だが、降下訓練中にうっかり女性兵が着替え中の小屋のドアを開けてしまい、それを覚えていた兵たちが面白がってつけた名前だった。彼はそれが不服でグールド大佐まで直訴したらしい。

 グールド大佐は笑いを堪えつつ、ウェーゲナーを宥めた。

「そうか・・・。だが、中尉。気の毒だがこれも作戦の内だ。むしろこれを受容できればキミの度量の広さを兵たちに印象付けられる。キミの部下たちの総意だというなら、耐えるしかないな。

 かの神君(デイブス)カエサルも、凱旋式で部下たちから『ハゲの女たらし』という非常に不名誉なニックネームを連呼され、それをガマンしたそうだ。神々が凱旋将軍に嫉妬しないように、と。これに耐えられればキミは神君カエサルをも凌ぐ。神々が優秀なキミを嫉妬するのを回避することができるぞ」

 ウェーゲナーはウンザリした顔を引き締め、カーツ大尉を睨んだ。

「えー・・・、ゴホン、ゴホンッ、あ、スマン、ウェーゲナー中尉」

 咳払いしつつ、カーツ大尉はなんとか笑いを抑え込み、ウム、と気を取り直して説明を続けた。

「えー、以上5個小隊はこの丘の北側からこの、川幅の広い、瀬の部分を渡河し対岸に渡る。航空偵察では正確な水深はわからなかったが、降下直前までには情報が入ることになっている。恐らくはひざ下ぐらいだ。徒歩で渡河する。そしてここ、」

 と橋の対岸、街側のたもとを指し、

「橋の向こう側の民家数軒を実力で占拠。ここを拠点とする」

 と、結んだ。

 実力で、というのは、もし家の者などが敵対して来たら威嚇してか殺害してでも排除するということだ。これは、戦争なのだった。

「他の6隊は丘の南側から橋の東側のたもとに向かう。同じくたもとの道の両側にある数軒を占拠。そこを拠点とする。それらの確保が終了したら、『マルス』は丘から橋を渡って対岸に移動。そこを大隊の司令部にする。

 あとはただひたすら橋を確保し、『庭師』たちの到着を待つわけだ」

「機甲部隊の到着までどのくらいを予想しておられますか?」

 ヤヨイの隣のヨハンセン中尉が質問した。彼はヤヨイの反対側、橋の東側を守る「優等生」小隊の隊長だった。彼の質問はこの大隊の作戦の核の部分で非常に重要な意味を持っていた。

「作戦計画では十日以内、だが・・・。オレはもうちょっとかかると思っている」

「それ次第では補給の問題も出てきますね」

「その通りだ、中尉。携行する弾薬食料はギリギリ十日分しかない。それ以上になれば、降下地点に投下してもらう手筈になっている。そこでだ、」

 カーツ大尉は再び降下地点を指した。

「橋の東側の部隊には補給があったら降下地点に一部を向かわせ補給品を回収する任務を兼ねてもらう。東側の部隊の総指揮官をヨハンセン中尉、キミに頼もうと思う」

「わかりました、大尉」

 そう言って「優等生」中尉は胸を張った。

「他に質問は? 意見でもいい。これがまとまった最後の打ち合わせになる。懸案があればこの際全て出して欲しい」

 そこでヤヨイは兼ねてから思っていたことを口にした。

「あの、大尉」

「ヴァインライヒ少尉、どうぞ」

「あの、小官は偵察部隊におりました。そこでは野蛮人たちに密接して作戦する関係で敬礼を省略していました。敵に誰が指揮官なのかを悟らせないためです。ましてや、今回のチナは銃を持っています。ミカサでは滑とう式の旧式銃でしたが、敵がライフルを持っていることも十分に考えられます。狙撃に対して配慮が必要と思うのですが」

「それは重要だ!」

 と、カーツ大尉は言った。

「キミはこの中で唯一の実戦経験者だ。その意見は貴重だ。ぜひ採用しよう。大佐に、他の部隊でも実施すべきと上申してみよう」

 隣のヨハンセンが尊敬の眼差しでヤヨイを見ていた。

 ヤヨイはコク、と会釈した。

「今はこのように東西に半々で配置する。だが戦況によっては部隊の移動もありうることを頭に入れておいてもらいたい」

 カーツ大尉は打ち合わせをそのように締めた。


 

 打ち合わせは深夜まで続き、終わった。

 会議で出されたレモネードの木のカップを手にヤヨイは個室に戻った。

 デスクにつき、ふう、と息を吐いた。

 いよいよ、か。

 自然に鼓動が高鳴った。

 木の窓を開けた。向こう側の兵舎の灯りはもう消えていた。屋根と木の板葺きの壁が月明りに浮かび上がっていて短い影がてきていた。そうだ。二日後には満月になる。帝国では太陰暦を使っているので毎月十五日が満月、一日が新月になる。第三軍の司令部は降下する空挺部隊のために、あらかじめこの満月を作戦開始の時に選んだのだった。

 兵たちに手紙を書けと言ったことを思い出した。

 引き出しから紙とペンとインク壺を取り出して、しばし、悩んだ。

 半年前、思いがけなくももう会えないと思い込んでいた母に会うことが出来た。それなのに、もう一度母に会いたい気持ちがなくなっていた。ましてや、母が嫁いだあのホモノヴァス(新興成金)の男になど・・・。

 それほどに母との気持ちがズレてしまっているのを感じていた。

「お母さん、元気ですか? わたしは元気です。・・・」

 せっかく再会できたのだからせめて手紙でもと思ったが、それ以上書けなくなり、クシャクシャに丸めてゴミ箱に捨てた。それで、下宿先の奥様に書くことにした。

「奥様、お元気ですか。わたしは元気で任務にあたっています。

 先日いただいたお話の件ですが、すぐのご返事が必要なのでしたら、申し訳ありませんがその方々にお断りの旨お伝えくださいませ。

 わたしはこれから出撃いたします。しばらく戻れません。お体ご自愛下さい。旦那様にもよろしくお伝えください」

 それだけを簡潔に書き、インクを乾かして封筒に入れた。

 封をしてしまった後に、もう一人の肉親のことを思った。

 二か月前。ミカサのルメイ大佐から死の間際に聞いた「ヴァインライヒ男爵」のことだった。

 その昔バカロレアに在籍していたという、その顔も知らないましてや共に過ごした記憶もないヤヨイの実の父親。どこかで暇を見て大学に行き事務局で調べてもらおうと思っているうちになんだかんだで行きそびれ、そのままになってしまっていた。

 ヤヨイはまんまるに近くなった月を見上げた。

 この広い帝国のどこかに、父がいるのだろうか。

 それならば、一度だけでもいいから、会ってみたい・・・。

 やわらかな月の光を目に焼き付け、ヤヨイはそっと木の窓を閉めた。
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