遠すぎた橋 【『軍神マルスの娘と呼ばれた女』 3】 -初めての負け戦 マーケットガーデン作戦ー

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25 野蛮人、初めての帝都

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 見渡す限りの荒野。機関車が一路南に向かってひた走っていた。

 機関車はたった一両の客車を曳いていた。その乗客はたった二人。

 背の高い痩せぎすのほうの一人は帝国陸軍の正式軍装。その胸には軍属であることを示す羊の形をした銀色の小さな徽章を着けて落ち着いて座っていた。もう一人の大柄なほうは長い褐色の髪を束ね伸び放題の髭、いかつい顔、そして暖かそうな毛皮の上に黒い革帯を締め、まるで子供のように目を見開き、車窓にへばりついて窓外を流れる景色に見入っていた。

 そんな二人に共通しているのは肌の色が青いことだった。

「こんな何もない景色がそんなに面白いのか」

 アレックスは向かいの座席の北の野蛮人に問いかけた。

 列車は駅に差し掛かったが止まらずに通り過ぎた。二人の列車を先に通すために一編成の列車が待合をしていた。二人の列車は急行で、しかも臨時だった。しかも一等車で、窓には高価なガラスがはめ込まれてあった。

「不思議だと思わんのか。景色が見えるのに、風が入って来ないのだぞ!」

 ヤーノフは素で感動しているようだった。お前にはこの素晴らしさがわからんのか、とでも言いたげに、アレックスを睨んでさえいた。

「ガラスを通して景色が見えるのは当たり前だ。子供でも知っている」

 そんな風に諭されても、もうヤーノフは腹を立てたりはしなかった。腹を立てている暇などはなかった。見るもの聞くもの触るもの。全て初めてのものばかりで、それらを心行くまで感じ理解し堪能し記憶するのに忙しかったのだ。

 アレックスも第十三軍団の駐屯地のある地方の外に出るのは初めてだった。だが帝国の奴隷になってから様々な知識を吸収し、帝国の規模やその地理や歴史ぐらいは学んでいた。列車に乗るのも初めてだったが、知識としては知っていたから驚かなかった。

 帝国の国土はどちらかと言えば南北に長い。国土の中心にある帝都までは鈍行列車なら丸一日かかるところを急行なら八時間程度で済む。だがそれだけ運賃の値が高いことも知っている。こんな軍属風情と田舎者まるだしの北の野蛮人とが二人きりでこのような待遇を受けてよいのかと困惑のほうが先に立っていた。


 

 ポンテ中佐は終始穏やかな表情を崩さず、しかも敬意さえ払ってヤーノフに対していた。

「貴民族とわが帝国との間には長年の宿痾のような関係があります。さりながら、一部族の長である貴殿が丸腰で、しかもたった一人でわが帝国に話をしに来られた。小官はその勇気とご意思に高く敬意を表するものです」

 中佐の帝国語のいくつかには北の野蛮人の言葉にない語彙がいくつかあり訳すのに苦労した。だが、対面しているヤーノフにはその真意と誠実が伝わったらしい。彼は胸襟を開き、積極的に自分の情報を披瀝し、国境を越えてきた目的を率直に語った。そして、懸念していることまでも。

「我々は帝国と手を結びたいと思っている。我が部族だけではない。隣のクラスノ族の族長も同じ希望を持っている。我々はもう帝国に歯向かう気はない。帝国と不戦の約定を取り交わすことができれば、帝国が懸念する我々の民族の襲撃を未然に阻止するために協力する用意もある。だが、帝国がそれに魅力を感じるのかどうか。それが気にかかっている」

 ヤーノフのあまりな率直さに、ポンテは心を揺さぶられた。そして、言った。

「先ほど貴殿は小官を『族長』と言われたが、小官は帝国の一軍人に過ぎない。貴殿の懸念に対して回答できる権限は小官にはない。

 いかがであろうか。

 先刻まで同席していた係官の話では貴殿に帝国内の自由な訪問と見学を許可される可能性があるとのことだった。約定を取り交わすにしろ、よりお互いの理解を深めてからでも遅くはなかろうと考える。貴殿が希望するなら、一度わが帝都を訪問されるがよかろうと存ずるが。その間に、貴殿の提案と懸念に対する回答が帝国の責任者に検討されるものと思われる」

 確かにその通りだと思った。こちらが突然一方的にやってきて決められる筋でもないだろう。それに、ヤーノフはこのポンテという男の提案に飛びつきたかった。

 帝国の全てを、この目で見たかったのだ。見せてくれるというなら、その提案に乗らない法はなかった。


 

 途中、機関車の乗員の交代と石炭と水の補給のために一度停車しただけで、列車はその日の夕刻前に帝都の北駅に到着した。

「すごい・・・」

 駅の巨大さもさることながら、シビル族よりもはるかに大勢の人間がいることにも驚きを隠せなかった。

 それだけではない。中にはヤーノフたちをジロジロ見やる者もいるが、ほとんどの者が彼らを無視し、足早に去ってゆき、やってきては列車に乗り込むのだった。

 一族の者か、他部族の者、そして帝国の兵たち。身内と余所者。身内には笑顔で対するが、余所者には警戒し剣を構える。見知らぬ者たちに囲まれた時は、死を意識する。比較的な友邦であるクラスノ族を訪ねた時でさえそうだった。そうした世界しか知らなかったヤーノフには、この雑踏の人々の他者への無関心のありようだけでカルチャーショックが大きかった。ここでは見知らぬ者達に囲まれたとしても、丸腰でも、まったく命の危険がない。

 それに加えてさらに彼の度肝を抜いたのは、駅周辺の無数の高い建物群だった。

 終点が近づくにつれて次第に増えて来る家々や建物の数々にも目を見張ったが、ここはどうだろう。まるで、石の森だ。

 自然の岩山の渓谷なら厭きるほど目にしている。が、この帝都の石の森には至る所に灯りが灯っている。それは人間が棲み活動する石の群れだ。しかも、人が石を運び積み上げて作ったものであることは明白だった。「文明」という言葉はヤーノフの世界にはない。だが、これは彼が初めて出会った紛れもない「文明」だった。

 アレックスに声をかけられるまで、ヤーノフはプラットフォームに立ち竦み続けた。

「ビックリしたか」

「当たり前だ。驚かんでどうする。お前はもう何度もここにきているのだろうが・・・」

「いや、オレも帝都は初めてだ」

「では、何故驚かん」

「人から聞いたり、本で読んで、学んだからな」

「感動の無い奴め」

 ヤーノフは子供のように吐き捨てた。だが、彼の言葉の中に聞き慣れない単語を咎めた。

「・・・アレックス。今、なんと言った。『本を読む』? 『本』とはなんだ。『読む』とは?」

「・・・今に教えてやる」

 めんどくさそうに、アレックスは答えた。

 人の群れのほとんどは彼らに無関心だったが、中には例外もいた。

「ねえねえ、なに、あれ」

「なんかの仮装じゃね?」

「今夜スブッラでパーティーでもあるのかな」

「わからん。しっかし、めっちゃレトロだな。今どき毛皮かよ・・・」

 若者たちの一団が今しがたついた列車から降りるなりヤーノフを見て笑った。

「おい、アレックス。あの者達は何と言っているのだ」

 アレックスは訳すのに躊躇した。

「・・・お前を褒めている。凛々しい、姿だなと」

 苦し紛れにそういうのがやっとだった。それほどにこの帝国の巨大な首都の中でヤーノフの風体は、浮いていた。

 と、人ごみの中から一人の青年が歩み寄って来た。

「すみません。もしかしてあなたは北の国から来たのではありませんか?」

 白い肌に金髪の、目の色の茶色い誠実そうな青年だった。突然に思いがけなく自分たちの言葉で話しかけられたヤーノフは驚きもしたが温かい親愛の情も沸いた。

「おお! いかにも」

 と、ヤーノフは答えた。

「これはすごい。私の父はあなたと同じ北の出身でした。肌も青かった。父は『勇者の証だ』と。ああ! これは神々のお導きかもしれない。こんなところで北の国の方に出会えるなんて!・・・」

「お主は我々の言葉がわかるのか?」

「はい。少しですが亡くなった父から手ほどきを。父はクラスノ族という部落の出身だったと聞きました」

「なんと! それはオレの隣の一族だ!」

「本当ですか? ああ! 手を握らせてください。もしよければ、その辺りでお茶でも・・・」

 青年は握手さえ求めてきた。それを見てアレックスが帝国語で、言った。

「申し訳ないが、今軍務の途中なのです。ご遠慮いただきたい」

 青年の目には明らかに失望の色が浮かんだ。

「・・・そうでしたか。それは残念。でも、またどこかでお会いできると嬉しいです。それでは!」

 そう言って、青年は名残惜しそうに何度も二人を振り返りながら人ごみの中に消えていった。

「何故だ、アレックス。せっかく我が同胞の父を持つ子に会えたというのに!」

 ヤーノフは本気で抗議した。アレックスは冷ややかに答えた。

「あんな者はこの帝国には腐るほどいる。さして珍しくもないのだ。現に、お前の目の前に一人いるではないか」

「やはり・・・。アレックス! お前はなんという、感動の無いやつなのだ!」

 憤慨しているヤーノフを誘い、出口へ歩き出した。と、再び雑踏の中からアレックスと同じカーキ色のテュニカを着た人物が現れ、二人に近づいた。

「アレックスと、ヤーノフ族長、ね」

 その中年の女性兵は言った。

「迎えに来たわ。馬車を待たせてあるから来て」

 アレックスは彼女の胸の金のアザミを見て反射的に敬礼をした。

 平均寿命が40歳ほどしかない民族の人間であるヤーノフから見れば、女性兵は立派に「ババア」と呼べる歳に見えた。

「おい。このババア、お前の知り合いか?」

「いや。今日初めて会う。だがこの方の階級は准尉だ」

 ちなみに帝国に捕まって十年を過ぎ、今は市民権も持っているアレックスには歳相応のおばちゃんに見えた。そのババア、もしくはおばちゃんは、メンドクサそうに答礼すると、言った。

「さ。さっさとおいで、ボーヤたち」

 駅を出たヤーノフは目の前の六頭立ての豪華な馬車にまたまた目を見張った。

 黒く輝くボディーに金の唐草の紋様があしらわれ、ドアには帝国のシンボルである赤い国旗と同じ鷲が描かれていた。アレックスも知らなかったが、内閣府が外国の賓客を迎える時に使用する特別な馬車だった。もっとも、今までこの馬車が使用されたのはたった三回。しかも東隣のノール王国の大使と表敬訪問に帝国を訪れた大臣を迎えた時だけだった。チナの特使であったワンにも勧められたのだが、彼はチナの威厳のためだろうか、ホテルに用意させた馬車に拘ったので使っていなかった。

 その豪華な馬車を御するのはキンキラのヘルメットを着け、華麗な軍装に身を包んだ元老院の儀仗兵たちだった。

「さあさあ、ボーヤたち。ボーっとしてないで、乗った乗った!」

 おばちゃんに促され、儀仗兵が恭しく開けたドアに手を掛け、用意された足台を踏み、そのフカフカのカーペットを踏んでビロード張りの身体が沈み込むようなソファーに掛けたヤーノフはまたまた驚いた。そのシートのあまりの柔らかさに、である。

「なんなのだ、これは・・・」

 彼はすでに言葉を失っていた。

 アレックスもまた驚いたが、口にはしなかったし表情にも出さなかった。あまりな厚遇にさも当然という態度を示し続けたが、それも長くは続かなかった。

 北駅前の市街のたたずまいにさえ驚いたヤーノフは、馬車が動き始めるや、それを上回る景色の連続にもはや声さえも出なかった。

 すでに陽の落ちかけた帝都の中心までの沿道には軒並み家々や商店が立ち並び、それぞれが明るく眩いていた。そのような景色は夢にも見たことがなかった。

 車窓から首を出してその景色に魅入るヤーノフの目に、やがて帝都の最中心部、眩く光る低い丘たちの向こうにより燦然と光り輝く夢の国の城が見えてきた。

「あれが帝国の、城か・・・」

 光り輝く丘たちに囲まれた神殿。そして元老院議事堂。そして不夜城のような煌々と輝く繁華街の灯りがヤーノフの目を射た。

 感動に疲れ、自分たちと帝国とのあまりな乖離に疲れたヤーノフはどっかりと座敷に沈み込んだ。そんな彼を平然と眺めているおばちゃんと目が合った。彼女が何かを口にしてにちゃにちゃ噛んでいることに今更のように気づいた。

「あんたも、嚙んでみる?」

 おばちゃんは手にした小さな革のバッグからガムを取り出しヤーノフに勧めた。

 彼はその茶色い小さな塊をしげしげと眺めた。

「メープルシロップのガムよ。ウチの若いのにもらったの。今いないけどね。彼女は戦争に行っているから」

 アレックスの通訳を聞いたヤーノフは、またまた驚いた。

「いくさだと?! 帝国は今、いくさの最中なのか!」

 ヤーノフの言葉をおばちゃんに通訳すると、アレックスはさも当然というように彼に言った。

「西の国とな」

「このババ・・・、おばちゃんは、自分の娘を戦場に送って平気なのか!」

 ヤーノフには「ウチの若いの」を「自分の娘」と訳してしまっていた。面倒だったからである。

「この方だけではない。今戦場に行っている息子や娘や兄や姉や夫を持つ者はこの帝国中に大勢いる」

 アレックスは言った。

 彼のシビル族ならば、イザいくさともなれば一族総出だ。女子供も皆結束して男衆のいない部落を固める。

 それなのに帝国は機関車を運行させ、人々は働き、品物の売り買いが行われ、馬車を御し、通りをのんびりと歩き、繁華街に集い、飲み、かつ食い、かつ遊び、家々に明かりを灯して普通に暮らしている。一方で戦争しながら、一方でこのように普通に日常を送っている者がいるのだ。

 オレたちは今まで、こんな巨大な国に戦いを挑んできたのか・・・。

 とても、敵わない・・・。

 ヤーノフは思った。

 彼の意気消沈を気の毒に思ったのか、准尉のおばちゃんは気さくに話しかけた。

「ちなみにあたしの名前はマーガレット・サッチャー。マギーって呼んでね」

 と彼女は言った。

 アレックスの通訳を聞いたヤーノフは思った。その可愛らしい音の名に全然似合わねえ、と。だがもちろん、黙っていた。

「それ、持ってないで口に入れたら? でも呑み込んじゃわないでよ。毒じゃないけど、せっかくの味が楽しめないわよ」

 ヤーノフはガムを噛んだ。そのあまりの甘さに、舌が蕩けた。

「なんだこれは! 甘いではないか!」

 アレックスはこの、「何にでも過剰に反応して感動しまくる大男」に、いささか疲れを感じ始めていた。

 馬車はスブッラの中心にあるクーロン飯店の前に着いた。

「今日はもう遅いからここに泊まって。明日、あんたが見たいとこどこにでも連れて行ってあげる。ただし西はダメだけどね。今戦争中だから」

 もう完全に度肝を抜かれまくっているヤーノフは、先頭に立ってその巨大な城のような建物に入ってゆくマギーに盲目的に従い、馬車を降りた。

 フロントにサッと手を挙げただけ。完全なフリーパスでどんどん奥へ入ってゆくおばちゃん。彼女はまるでこの眩い巨大な城の女あるじのように見えた。

 シビル族の広場の十倍はある広大なロビーの奥に赤い敷物を敷いたこれまた広い階段があり、それを上がった奥に獣の檻のような部屋がいくつか並んでいた。

 その檻の一つひとつにこの城の番兵のような者がいて、帝国語で微笑みかけて来る。

「いらっしゃいませ、お客様」

「五階をお願いね」

 おばちゃんは自らその檻に入った。ヤーノフは戸惑った。

「オレをこの檻に入れてどうするのだ!」

 アレックスはため息をついた。

「いちいち騒ぐな。オレも初めてだが、これはエレベーターというものだと思う」

 戸惑うヤーノフを促し、その小さな「檻」に彼を入れた。白い兵は「檻」の扉を閉ざし、壁にいくつかあるつまみを動かし、取っ手をグイと回した。すると、「檻」は動き出した。

「ウオーーーーーーーーーーーッ!」

 ヤーノフのケダモノのような咆哮が、クーロン飯店の広大なロビーに響き渡った。

 長い廊下を歩き、マギーおばちゃんはゲッソリとやつれ切った毛皮の大男を一つのドアの前に誘った。

「アレックス。彼にシャワーを浴びさせて着替えさせて。一時間後に迎えに来るから」

「はい。どこかに行くのですか?」

「え? だってあんたたちお腹空いてないの? 何も食べてないでしょ。ホテルのチナレストランもいいけど、せっかく帝国に来たんだから一番美味しいドイツ料理の店に連れていったげる」

「なんだ、このおばちゃんは何と言っている?」

 アレックスは通訳した。

「身体を洗って、着替えろ、と。それから晩飯だそうだ」

 そう言われると急にヤーノフの腹が盛大に鳴った。

 その部屋は、かのチナの特使も滞在した「インペリアル・スイート」だった。クーロン飯店が誇る最高級の部屋だ。

 ふかふかの絨毯。王侯貴族の玉座のような応接と古代ローマ式に寝そべって食事するための長椅子。何やら景色の描かれている壁。豪奢な暖炉。窓の外の光り輝く帝都の美しい夜景。そして、彼の里の家ほどもある大きな寝室と彼の二人の妻と六人の子供全員が眠れるほどの大きな光り輝く寝台・・・。

 ヤーノフにはもう言葉がなかった。これは、きっと、天国なのだ、と思った。

「これは何なのだ。この光る布は」

 光沢を放つ、滑らかな肌触りの布を手に取った。

「ああ。俺も初めて見るが、絹だと思う」

「キヌ?」

「蛾の幼虫が吐き出す糸を紡いで布にしたものだろう。極めて高価な布だと聞いている」

「蛾の幼虫?」

 そして彼を最も驚かせたのは、バスルームの中にあった茶色い、四角い、石だった。それはお湯の出る管よりも彼を戦慄させた。

「なんだこれは! 泡が立つぞ! なんと! オレの肌が溶けていくではないか!」

 ウオーーーーーーーーーーーッ!

 アレックスはバスルームから聞こえてくる野獣のような咆哮に思わず耳を抑えた。

 クーロン飯店の総支配人もまた、頭を抱えていた。

 ホテル中の客室から来た騒音への苦情の対応で頭が痛かった。その度に彼と彼のスタッフたちがきりきり舞い、大わらわせねばならなかった。常ならば即刻に追い出す類の客だ。だが、他ならぬ内閣府からの要請。帝国の賓客の宿泊ともなれば、ガマンせねばならないだろう。今帝国は戦時なのだ。これもまたひとえにお国のためだ、と。

 2000。

 時間通りに迎えに来たマギーは清潔なアイボリーのテュニカ姿をしたヤーノフを見て微笑した。

「似合うわよ。とっても」

 シビル族を含め、北の民族はみな川で身体を洗う。だからまったくの不潔ではない。だが、生まれて初めてお湯の出るシャワーを浴び、石鹸を使ったヤーノフは自分の身体からこそげ落ちた大量の垢を見て絶句していた。体重が幾分軽くなったような気さえしていた。それにこの帝国の人間の服はどうだろう。まるで軽すぎて着た気がしなかった。あたかも素裸で歩いているような、そんな気がして心もとなかった。

 だが、周りを見ると通りを歩く老若男女はみな同じような、カラフルな色合いのテュニカを纏い、ショールを羽織っただけの姿て平然としていた。もう冬に向かうとはいえ帝国の首都はシビルの地よりもはるかに暖かかった。

 大勢の客たちで賑わった店内の奥まったテーブル。

 目の前に並んだ様々な、見たこともない肉や魚や野菜や卵の料理の数々を前に、まず、乾杯した。大振りのジョッキを持ったマギーは言った。

「最初の一杯は何かに捧げて飲み干すのよ。じゃあ、帝国のために!」

「帝国のために!」

 アレックスもまたそれに唱和した。それがいささか気になった。この男はもうすでに立派な帝国人になっているのだ、と改めて思った。

「我がシビル族と、我が民族のために!」

 ヤーノフは胸を張り、その最初の一口を飲んだ。

 ・・・。

 なんだ、この飲み物は!

 ヤーノフは急に顰め面をした。

 そして、ゴクゴク喉を鳴らしながら、その大振りのジョッキをあっという間に飲み干した。爽やかな苦み。そして爽快な炭酸が喉を刺激して胃の腑に舞い降りて行く。

「う、美味いではないかっ!」

 褐色の豊かな髭に白い泡を付けて、ヤーノフは叫んだ。

 ドン、と置かれたジョッキのせいでテーブルの上の皿たちが浮いた。勢い周りの客たちの好奇な注目を浴びた。この山猿は何者か、と。

「じゃあ、そんな顔しないで、もっと楽しそうに飲みなさいな」

 と、マギーは言った。

「それと、頼むから、ウォー、はやめろよ」

 とアレックスも言った。

 その晩、ヤーノフはビールを小樽でひと樽、飲み干してしまった。


 


 


 


 

 十一月十七日、0130。

「覗き魔」のウェーゲナー中尉からの一報で「東」中隊の各小隊の隊長たち5名が大隊本部に集められた。

「まだ敵は集結を終えていない。これから偵察に出て敵の動向を調べる。それまではとりあえず警戒態勢を維持してくれ。ゲリラが本隊と呼応して活動を始める懸念もある」

「『優等生』から『学者』、了解しました。警戒態勢を厳にします」

「では以上だ。アウト」

 通信機を切ったカーツ大尉は「『学者』大隊本部」となった橋のたもとの大きな民家の居間で地図の載ったテーブルを囲む小隊長たちを見回して言った。

「状況は今話した通りだ。

 我々がここナイグンだけでなくアイホーやアルムにまで降下し橋を確保した事と、機甲部隊の進軍が始まったことで敵は我々の意図を知ったことだろう。

 これから敵情をより詳細に把握するため偵察行動を行う。すでにアイエンが陥ち、機甲部隊は今ゾマに迫っている。新たに出現した敵は中央からの援軍と思われる。その目的が機甲部隊進撃の阻止にあるのか、それとも、この橋を守る我らの排除にあるのか、もしくはその両方か。その辺りの見極めをつけたいのだ。ヴァインライヒ少尉、」

「はい!」

「すまんが数名を選抜して偵察隊を組織してくれ」

「わかりました」

「もちろん、オレも行く」

「え? 大隊長自ら、ですか?」

「無論だ」

 とカーツ大尉は言った。

「指揮官は自ら敵情をつぶさに知らねばならない」


 
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