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01 出会い
しおりを挟むシャワーを浴びて身支度を整えると、加奈子は先に一人で部屋を出る。
「素晴らしかったですよ。本当は送って差し上げたいが・・・。続けるためには、慎重にならなくてはね。あなたも、続けたいでしょう・・・。じゃあ、また」
ベッドの上で彼が言う。額に掛かったグレーの髪をかき上げる指にはシルバーの指輪が光っている。
「・・・ありがとうございました」
手にしたバッグを両手で下げ、ぺこ、と頭を下げる。そして部屋を出る。
カーペットを敷き詰めたホテルの廊下を歩きだすと、なぜ礼を言わねばならないのかと思ってしまう。今日も彼は出会ったときのままの慇懃なスタイルと言葉遣いを崩さなかった。そのせいなのか、適当な返事がそれしか思いつかなかった。
夕刻の混雑し始めたロビーを足早に通り過ぎて出口に向かう。すぐ前にある地下鉄の階段をヒールを鳴らして駆け下り、改札付近の仕事帰りの人並みに紛れ込む。フォームに降りて、最初に来た郊外行きの電車に乗り込み、閉まったドアの暗い窓に映る自分の顔を見る。すると、とてつもない罪悪感に襲われる。
こんなかたちで彼、渋谷に会うのは、もう何度目になるだろうか。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
二週間前。
顧客を訪問した帰りに夕立に見舞われた。
勤めているコンピュータシステム販売の会社でソフトウエアのインストラクターをしている加奈子は、顧客先に赴きソフトの具合をチェックしたり操作方法をデモンストレーションするなどの業務が多い。インストラクターにはもちろん男性もいる。でも顧客が女性であれ男性であれ、女性のインストラクターのほうが喜ばれると上司から聞いたことがある。
天気予報では予想できなかった。いつもバッグに入れている折り畳み傘も運悪くマンションのベランダに干したままで来てしまっていた。最寄り駅までは遠く、おまけにしばしの雨宿りができそうなコーヒーショップもコンビニも、雨をしのぐちょっとした軒さえなかった。バッグを頭にかざしヒールを鳴らして、なんとか閉まったシャッターの上に古びて破れかけたビニールの日除けがかかる店先を見つけ、飛び込んだ。濡れた服をハンカチで払い、頭を傾げて髪のしずくを拭きながら、恨めし気にいつ止むともわからない大粒の雨を降らせ続ける暗い空を見上げていた。
五分。十分。二十分。
定時で上がらねば、保育園に預けている娘の里香の迎えも遅くなる。五分遅れても保育士からお小言をちょうだいする。聞き流せばいいのだが、それに耐えられるほどの厚かましさが加奈子には欠けていた。もう何度も「申し訳ございません。今後は・・・」と頭を下げるのを重ねている。あと一年半我慢すれば里香も小学生。学童保育の預かりは保育園より多少の無理を聞いてくれると近所の小学生の子を持つ親たちの話を聞いたことがある。
不安な面持ちでアスファルトを叩く雨を見つめていると、急に目の前の車道にシルバーの高級車が止まった。
黒い傘がパッと開き、初老の紳士が加奈子の軒にやってきた。
「ああ、これはいけない。怪しい者ではありません。よろしかったら、近くの駅までお送りしましょう」
あの誘いにさえ乗らなければ・・・。
加奈子はこんな罪悪感を毎日のように抱かずに済んだ。さっきまでの濃厚な性の悦びの堪能は消え、地下鉄の暗い窓は加奈子の深い後悔を映していた。
彼はこの蒸し暑いのにキチンとスーツを着こなし、白髪交じりの髪にはきれいに櫛が通っていた。
「・・・でもこんなに濡れてしまっています。シートを汚してしまいますので・・・」
「なに、構いませんよ。駅の先が私の事務所でして。ほんのついでです。この雨で往生している方を見過ごせませんでしたので・・・」
これ以上濡れるとどうしようもない。といっていつまで待てば雨が止むのかもわからない。不躾だが、ここは好意にすがった方がいいのではないか。身なりのいい、地位の高そうな紳士だ。滅多なことになることはないだろう・・・。
それが間違いだったのだ。と、今は思う。
「じゃあ、申し訳ないですが駅までで・・・」
「どうぞ」
男性は後部座席のドアを開け、座席に着くまで加奈子を傘で覆ってくれた。
彼はああ言ってくれたがそれでも申し訳なく、ハンカチをシートに敷き、その上に腰を下ろした。手を着いた、感触。ごわっとした中にも滑らかさがある黒い本革張りのシート。これはもしかすると手縫いだろうか。高価な設えであることが加奈子にもわかった。
「では、出しますね」
ホッとした。これで何とか保育園のお迎えに間に合う。と同時にあらためて濡れて肌に張り付く服を意識してしまう。
梅雨の終わりのこと。朝から蒸し暑かったから今日はアンダーも着けずに来てしまった。白系のノースリーブのサマードレスが透けて淡い青色の肌着がうっすら見えてしまっている。つくづく折り畳み傘を忘れてきたのを恨んだ。無意識に前の席のバックミラーの目を気にしてしまう。
「ちょっと、待っていてもらえますか」
車が走り出したのも束の間、彼は乗り込んだ場所からまだいくらも離れていない道の端に車を止めると、車内に加奈子を残したまま雨の通りへ出て行ってしまった。正面は間欠的にワイパーが水滴を浚うが、横の窓は水滴と水しぶきを上げる水煙とに阻まれてそこが何処かもわからなくなっている。
親切からなのだろうが、どこの誰かもわからない車の中で不快な気分でただ待ち続ける不自然に耐えられなくなった。不安な面持ちで濡れた服の不快さを我慢していると、もうこのまま車を降りて雨の中を走って行ってしまいたい気持ちにもなった。初めて来た不案内な土地だが、道は面倒ではない。この先をまっすぐ行けば駅なのだ。加奈子がそう思案し始めたころ、ようやく彼は戻って来た。
「お待たせしてしまってすみません。ちょうどその店が知り合いが経営しているブティックでして。その服ではお困りだろうと、差し出がましいのは承知の上ですが・・・」
なんと彼は加奈子の着替えを調達してきてくれたのだった。
もちろん驚いた。
「そんな。お名前も存じ上げない方にそこまでのことをしていただくわけには・・・」
言葉を失っている加奈子の隣にその店の袋を置くと彼は言った。
「もう買ってしまいましたし。近くに店があったのも何かの縁でしょう。それに、女性にとって服は大切なものでしょう。あまりにもお気の毒で、私の我儘にお付き合いいただくくらいのお気持ちで受け取っていただければ」
「とは言いましても・・・」
「もし差し支えなければすぐそこに私が定宿にしているホテルがあります。事情を話せば十分ぐらい部屋を貸してくれるでしょう。そこでお着替えになったらいかがですか」
強引と言えば強引。行き届いているといえば、さっき会ったばかりの他人にこれほどまでに行き届く男性も珍しい。というよりも不可解なほどの親切にいささか気味が悪いほどのものを感じた。
加奈子が返答に困って無言でいたのを了解と受け取られてしまったらしく、車はすぐに彼の言ったホテルに着いた。
このホテルも彼の知り合いが経営しているらしいこと、ベッドメイキングは終わっているので使われると困るが、バスルームは使用してもいいことなどを喋りながら加奈子の手を取らんばかりにして指定された部屋まで招き入れてしまっていた。
常識から考えればあまりにも異常な情況であることはわかっていた。だが目の前に次々と積み上げられる不快からの逃げ道に抗し切れなくなっていた。
下着までじっとりと湿った濡れ鼠の身に乾いた服はとてもありがたい。肌着が透けてみえる恥ずかしさに耐えて電車に乗るのがとても不安だったのだ。高額なら恐縮してしまうが、用意されたものも皆既製品で、今着ているもののようにいつも加奈子が選ぶよりもはるかに安価なものばかりなのにも気が緩んだ。
「ブティックを経営している女性は昔からの馴染みなんです」
しかも下着まである。もちろん驚いたがこれもとても助かった。安物であることはすぐわかるし、背景や由来を詳しく言わないところも加奈子の不安を宥めた。服から下着まで全て五千円程度で収まるだろう。加奈子が代金を支払おうとハンドバッグを探ろうとすると、
「私は渋谷と申します」
彼が差し出した名刺を見ている間に、靴を脱いでと言われそのとおりにしてしまっていた。彼は部屋に備え付けのティッシュペーパーをゴソゴソ引き抜き、濡れた靴に詰め込むや、
「では私はこれで。駅はホテルを出て左に歩いて四、五分でしょうか。着替えが終わりましたらフロントで傘を借りるといいでしょう」
「え? あの・・・」
そう言って加奈子が呼び止める間もなくあっさり出て行ってしまった。呆気にとられたが、手には名刺がある。後日改めてお礼に行けばいいだろう。五千円程度なら一万円も包めば失礼ではないだろう。どういう筋の人か知らないが、奇特な人もいるものだ。本当に助かった。
世の中もまだまだ捨てたものではないなと、彼が部屋を去っていった安心も手伝い、濡れた服を脱ぎ、下着を外して、家まで持って帰るためにサニタリーバッグを借りようとバスルームに入った。さすがに勧められたからとそこを使うほど厚かましくはない。ハンドタオルとビニールのサニタリーバッグだけ拝借してバスルームを出たら、彼がいた。
心臓が止まるかと思った。思わず悲鳴を挙げそうになり口を押えた。
彼は備え付けの一脚しかない椅子に座り、優雅に脚を組んでいた。
「何を・・・」
しているの・・・?
全裸なのに気づき、とっさに胸を押さえ、蹲った。
でも、濡れた服と下着は彼の腕の下のひじ掛けにある。彼がくれた乾いた服と下着はまだ彼の足元の袋の中にある。バッグは彼の座った椅子に置きっぱなしだった。
バスルームに隠れようとした時、
「待ちなさい!」
先刻とはうって変わった厳しい口調で彼は加奈子を制した。
「ノブから手を放しなさい」
加奈子は躊躇した。
「考えていますね。どうしたらこの状況から逃げ出せるか。これからどうなるのか。私が何を考えているのか、とかね。いろんなことがあなたの心の中で渦を巻いているでしょう」
加奈子は静かにノブにかけた手を下ろし、無防備な股間を守るために彼に背を向け膝を抱えた。もしかするとそんな姿はますます彼の興味を煽情的に惹いてしまうかもしれないという恐れも掠めた。だがそれ以外にいい方法が思いつかない。
「構いませんよ。大声を出しても。回れ右して廊下に出て助けを呼んでも。あなたは自由です。ただし、そのまま、裸のままでお行きなさい。どうぞ。ご遠慮なく。
そうそう。力づくで私から服を奪うという手もありますねえ・・・」
膝を抱えていても、全裸の尻は丸出しで彼の眼に曝されている。顔にかかる濡れた髪を払い、加奈子は辱めを与え続ける男を睨んだ。と、彼の指に光るものに気づく。
「あなただって、ご家庭があるんですよね。なのに、こんなこと・・・」
「ああ、これですか・・・」
彼は左手の指輪を翳した。
「家内はこういうことに理解のある女でしてね。露見したところで、どうせ『またなの、飽きないわねえ』くらいのもんですよ」
こういうこと・・・。
その言葉が加奈子の羞恥を煽った。
「・・・服を、服をください」
「ええ。あなたに差し上げたものですからね。どうぞお召しになってください。ただし、条件がありますけどね」
恐怖が加奈子を包んだ。膝が震えた。
「お金なら、払います」
「金など・・・。こんな安物、条件を呑んでいただくだけで結構です」
「・・・条件て、なんですか」
「私はあなたの姿が見たいだけなんです。あなたには指一本触れません。ご協力いただければ、服は差し上げます。ご希望なら駅でもあなたのお望みのところまででもお送りも致します」
このまま襲われるのかと思ったが、そうではないという。いったい、この男の目的はなんだろう。
恐怖と疑心暗鬼に包まれて、加奈子は貝のように濡れた身体を閉じ、震えていた。
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