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04 「マルスの娘」、アサシンになる

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「わたしがキミという人間を知ったのは、実は弟からだった。キミに『カラテ』を仕込んだリセの体育教師イマム。あれはわたしの弟だったのだよ」

 


 


 

 ヤヨイの心は、こどものころの遠い昔に飛んだ。


 

 小学校を卒業し、12歳で母の許を離れた日の朝。

 その朝も一番下の弟妹たち、カンナ、シモツ、シワスのおむつを替えてやった。そのまま家を出たくなくて、少しでも長く弟妹達と母の許にとどまり、その柔らかな肌に触れていたかった。

「さあ、もう行く時間よ」

 母は言った。

「お母さん・・・」

「元気でね。手紙書くからね。あんたも書いて。出来るなら時々は戻っていらっしゃい」

「そんなこと・・・」

 手紙のやりとりも、ましてや再会などは一切禁じられていた。

 それを知りながら、ヤヨイとの別れを惜しんでそう言ってくれる母を抱きしめ、幼いころから自分を庇護してくれたその温かな温もりを十分に心の中に浸み込ませると、振り切るようにして母の許を去った。


 

 入学したリセは全寮制だが毎月10の付く日や夏休みや冬休みは親許に帰れる。

 だが、「国母貴族」の子にはそれさえも叶わなかった。

 せめて同い年の学年であれば見知った顔もいたかも知れない。

 だが、不幸にもヤヨイは優秀だった。そして国家は優秀な子弟の飛び級に熱心だった。

 全寮制の上に周りは年上ばかり。孤独のさみしさを分かち合う友は作りにくかった。

 中にはヤヨイの名前や3月生まれであることに興味を示し、小学校時代のあだ名だった「マルス」や「マルスの娘」とか、3月15日生まれなのに因んで「カイゼリン(女帝)」と呼んで可愛がってくれる人もいた。3月15日が帝国が標榜する古代ローマの英雄、ユリウス・カエサルが暗殺された日であることは、小学校を出た者なら誰でも知っていたからだ。

 その一方、ブルネットで小さくて可愛らしい碧眼の持ち主でもあることから、特に男子の、好奇の目も惹いてしまった。ちょっかいをかけられたり、あからさまに付き纏ってくる男子が居たりして、怖かった。眠れぬ夜を震えながら過ごしたことも何度もあった。

 こういう場合、並の女の子なら毎日泣きはらしたり、付き纏いを苦にしてリセをドロップアウトしたりしたかもしれない。

 だが、ヤヨイは強かった。

 もっと強くなればいいんだ、と考えた。

 ある体育の教師が古くから伝わる武術の達人であることを聞いたヤヨイは、職員室にその教師を訪ねた。

「イマム先生、わたしにカラテを教えてください」

 今思えば、顔はたしかに目の前のウリルと似ていたかもしれない。イマム先生は色黒で中肉中背。テュニカの布を押し上げるほどの、見るからに筋骨隆々のがっしりした体躯を持っていた。

「ほお・・・。お前がか」

 先生は、ヤヨイの体を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。

「こんなに小さくては、ダメ、ですか?」

「そんなことはない」

 と、先生は言った。

「技を極めれば、必ず、勝てる。どんなに小さくても、相手がどんな大男でも、たとえ数人の相手に取り囲まれたとしても、だ。むしろ、まかり間違えば相手を殺してしまいかねないほどの、危険な、最強の武術だ。

 しかし、何故お前はカラテを身に付けたいのだ」

「男の子たちを、見返してやりたいからです!」

 ヤヨイは小さなムネを張った。

「なるほど・・・。気に入った! 」

 イマム先生は、言った。

「お前に技を伝授してやろう。だが、稽古はキビシイぞ。ついて来れるかな?」

「何が何でも、ついて行きます!」

 そうしてヤヨイは、はるか昔に海の底に沈んでしまった、ヤーパンとかいう島国に伝わっていた古武術を身に付けた。

 そして、リセを卒業するころにはもう、誰もヤヨイに付き纏ったり揶揄ったり、好奇の目を向ける者はいなくなっていた。彼女の技量の高さには師匠であるイマム先生も太鼓判を押すほどになっていた。

 男の子も女の子も、むしろ畏敬と尊敬を込めて、

「マルスの娘」

 と、ヤヨイを呼んだ。


 


 


 

「現在の皇帝陛下は、わたしの叔父なのだよ。わたしの父が陛下の兄にあたる。そして、わたしは叔父である陛下を陰で援ける仕事をしている」

 

 懐かしい昔の思い出に浸っていたヤヨイは、目の前の現実に引き戻された。

 イマム先生のお兄さん。イマム先生も、この目の前のウリルという人も、皇帝陛下の甥御さん・・・。

 あらためて、ビックリした。

 そんな雲の上のさらに上の、太陽か天の星にいるような、殿上人とこうして対面をしているのが信じられなかった。

 ウリル閣下はさらに身を乗り出して来、そして、声を落とした。とてつもない威圧感を覚えた。彼の黒い目が、さらに濃く、深くなった。

「ここからの話は絶対に他言無用だ。約束できるかね。出来なくてもしてもらわねば話せない。話してから約束を破られると、わたしもしたくないことをしなければならなくなる。

 どうかね? 

 もしどうしても約束が出来そうもないなら、わたしの話はここで終わりだ。

 キミは教室に戻り、皆と同じように訓練を受けたまえ。キミには何の咎もない。2か月、ここで訓練を受けて他の女性兵と同じく野戦部隊に入り、徴兵期間を務めあげ、少ない下賜金を貰って大学に戻り、研究費稼ぎの雑労働(アルバイト)をしながら研究を続ければいい。

 だがわたしの話を聞き、その秘密を守ると約束し、わたしの与える任務を果たすというなら、キミの望むものを与えよう。徴兵期間は国法だから短縮は出来ないが、キミの研究に必要なだけの金を全額国庫から補助することもできるし、軍直属の工業技術院の研究員に推挙したっていい」

 ヤヨイの目が輝いた。

「それは・・・、ほんとうですか」

「キミの電気学科のボーア先生も、助教授のフェルミ先生も、院生のみんなも、研究費を稼ぐために本を書いたり講演をしたり、あげく酒場でアルバイトまでしているそうだな。

 キミもそうだと聞いた。

 でも、もう、そのようなことはしなくてよくなる。

 わたしにはそれだけの力がある。・・・どうかね?」

 一も二もない。

 オシロスコープだけじゃない。他にも買いたい計測器が、作ってもらいたい観測機器がたくさんある。理論しか知らなかったトランジスタも作ってみたかった。小さくてもいいから電波望遠鏡も作ってみたい。宇宙の彼方から来る未知の電波に耳を澄ませたい。電気や電波の学問は、途方もないカネがかかるのだ。

 ヤヨイはその魅力的な提案に飛びつきたかった。でも、何をするのか知らなければ請け合えるかどうかはわからない。そのことを、ウリルに言った。

「お話の秘密は守ります。誰にも話しません。でも、どんな・・・」

「大丈夫だ、ヤヨイ。キミのことはキミ自身よりも知っていると言っただろう。キミなら必ずやり遂げられるし、キミに無理なら、他の誰にも出来ないだろう。

 受けてくれないか、ヤヨイ」

 これが分かれ道だな、とヤヨイは思った。

 だが、高価な機材があれば思う存分研究ができる。その魅力には、どうしても、抗し切れなかった。

「どんな、任務なのですか」

 ウリルは言った。

「わたしの任務は、帝国を揺るがし、混乱させようとする人物を調査し、排除することだ。憲兵隊の仕事とも似ているが、時には法を犯してでも任務を達成せねばならない。そういう意味では憲兵隊よりも過酷だし、危険を伴う」

「ですが、何もかもお調べになったのならご存じでしょう。わたしが過去に付き合った友達には自由主義者と係わりがある者もいました。そんな人間に務まりますか」

「全部調べたと言っただろう。今はもう彼とはかかわっていないことも、キミがそうした思想に与していないことも、全て調べてある。今、キミは正直に過去を話した。それだけで合格だよ、ヤヨイ」

「誰かを、調査するんですね」

「そうだ」

「誰を・・・」

「やってくれるかね」

「・・・はい。わかりました。やります!」

 ヤヨイは言った。

 言ってしまってから、ちょっと後悔しないでもなかった。だが、もう決めたことだ。潔さでも、ヤヨイは強い女の子だった。

 ウリル閣下はふうと吐息をついて、微笑した。

「対象は、軍人だ。レオン・ニシダ少尉。偵察部隊の精鋭軍人で部下の信頼も篤い。全ての軍人が手本とするような、若いが優れた指揮官だ。調査する対象は、彼女だ」

 長い時間、ウリルの黒い瞳がじっとヤヨイを見つめ続けた。その間にレモネードのグラスの氷が融け、せっかくの飲み物が生ぬるくなってしまうほどに。

「レオン、ニシダ少尉・・・。レオン少尉・・・」


 

 こうしてヤヨイは、皇帝直属の特別機関のエージェントになった。
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