求めたのはデカダンス

吉田美野

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 笑顔を取り繕って一旦スマホを置くが、心臓がドクドクと嫌な速度で鳴っている。落ち着かない。
 盛り上がる会話の中、友人らといっしょに声を立てて笑いながらも伊織は心ここにあらずだった。ようやくメッセージを開く気になったのはしばらくあと、化粧室に席を立ったときだった。

『今日これから会えますか?』

 目に飛び込んできた文字列に、伊織は驚愕し、それから狼狽した。

 ――今日これからって、今日? 今?

 あとからジワジワと喜びがやってくるが、ハッとしてメッセージが届いた時間を確認する。もう一時間近く経っているではないか。
 いても立ってもいられず、伊織は席に駆け戻り「ごめん! あの、俺、帰るわ!」と宣言すると、コートとマフラーを掴んだ。明日香と宏大は目を丸くしている。

「どうした? 急に」
「ごめん、急ぐから! お金は今度でいいか?」
「それはいいけど……」

 困惑顔の宏大と違い、何か察したらしい明日香は「いいからいいから、早くいってらっしゃい」とニコニコしている。

「ありがと! じゃまた!」

 店を飛び出した伊織は、足早に駅に向かいながらコートに袖を通し、電話を掛けた。

 仕事が終わった時間にメッセージをくれたのだとしたら、もう帰宅してしまっただろう。それでも会いたい。家に押しかけたら迷惑だろうか。わずかな時間だったとしても、彼の顔が見たかった。こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。

 息が弾む。歩みはどんどん早くなってほとんど走っているような状態だ。
 星川は五コール目で電話に出た。

『遠田さん?』

 柔らかな声のトーンに安堵する。
 それからきゅう、と胸の奥が締め付けられる。

「星川さん! あのっ、すみません! 俺、今メッセージ見て……もう、帰っちゃいましたかっ?」
『いえ、大丈夫ですよ。よかった、返事がないから、今日は諦めようと思っていたんです』
 その答えに安堵して、それからそわそわと切り出した。
「よかったら、これから家、来ませんか?」



 *


 鍵を開けて「どうぞ」と星川を先に部屋に入れる。
 扉が閉まった瞬間に、星川に強く抱き締められた。

「会いたかったです……」

 囁くような星川の声に、安堵と喜びがジワジワと胸の内から全身に広がっていく。同時に、ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたみたいに息が苦しくなる。会いたいと思っていたのは伊織だけではなかった。

 だが星川はすぐ気恥ずかしそうに「すみません」と言って伊織を開放し、さらに一歩下がって距離を取った。それを残念に思いつつも、靴を脱ぐ前からがっつくわけにもいかず「どうぞ、あがってください」と促した。

「飯、食べました? 何か作りましょうか」
「いや、悪いので……遠田さんは食事済んでますよね」

 たしかに食事が済んでいてもおかしくない時間ではあるが。なぜわかったのだろうという疑問が顔に出ていたのだろう、星川が「すこし、お酒の匂いがしたので」と苦笑する。それから気まずそうに頬を掻いた。

「俺が連絡したからお邪魔してしまったんですよね。すみません……。でも、久しぶりに会えて嬉しくて、申し訳ないのに、ちょっと舞い上がってます」

 その言葉に、伊織の方こそ舞い上がってしまいそうだった。伊織の心配はすべて杞憂だった。
 嬉しくて、そして目の前の男が愛しくて、伊織は微笑んだ。

「ちょっとつまんできただけなので、あまり腹は膨れてないんですよ。星川さんに付き合ってもらえたら嬉しいです」
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