夢追人と時の審判者!(四沙門果の修行者、八度の転生からの〜聖者の末路・浄土はどこ〜)

一竿満月

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能鷹隠爪

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 信長の包囲網は朝倉義景や浅井長政、六角義賢、比叡山延暦寺、石山本願寺、三好三人衆、荒木村重などに加え、相模の北条氏政、丹波の内藤如安、近江の甲賀衆、伊賀の伊賀衆、さらにもともとは織田方だった河内の三好義継、大和の松永久秀、そして将軍である足利義昭も参加した。
 信長の周りは敵だらけ、かつて信長が建ててくれた二条城で挙兵をした足利義昭も一度は天皇の勅命で講和を結ぶものの、再度挙兵をした。
 しかし、頼みの綱である武田信玄が病没したため、武田軍は甲斐に帰国しまっていた。義昭はこれを知らなかった。武田軍が帰国したことで、信長包囲網は事実上瓦解した。足利義昭は追放され、朝倉義景、浅井長政、三好義継らは自害した。松永久秀は降伏し、石山本願寺と信長が和睦を結ぶなど、信長に反発していた勢力はそれぞれ無力化していった。
 家康は武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどした。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させ、奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えた。

 武田信玄の作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かした。これに対して信玄の後継者である武田勝頼も攻勢に出て、天正二年には東美濃の明智城、遠江高天神城を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。
 同年、家康は犬居城を攻めるが、城主天野景貫の奇襲により敗退した。この時、武田に内通していたとして、家臣の大賀弥四郎らを捕え、鋸挽きで処刑した。
 勢力を回復し三河・遠江において武田方への反攻を開始し、天正三年には織田・徳川連合軍と武田氏との間で行われた長篠の戦いにおいて武田氏に大勝を経ても家康は対武田に悪戦苦闘が続いたが、信長は室町幕府をはじめ、反信長勢力を次々と滅ぼして畿内・西国・北国へと統一政策を行った。
 このため、信長と家康の関係は共通の利害を消失し対等な盟友と関係は形式的なものとなり、実質的に家康は信長に従属する立場になり家康もその立場を甘んじて受け入れた。
 なお、信長と盟を結んでいた水野信元も家康と同様に立場を弱くし、天正三年十二月には信長から武田勝頼との内通を疑われ討伐された。このとき信元は甥である元康を頼って岡崎に逃げたのだが、家康は信長の命で彼を殺害した。

 天正六年に上杉謙信が死去すると、信長の脅威は完全に無くなることとなり、この頃になると、信長の領土は畿内の大半から北陸・中国・四国・東国の一部を支配するという広大なものとなっていた。それに対して家康は、三河と遠江の二ヶ国だけしかなく、もはや元康の力など必要としなくても信長には天下を統べる実力を保持していた。

また、上杉謙信の死後には越後で御館の乱が発生し、養子の上杉景勝と上杉景虎が跡目を争った。武田勝頼は乱に介入し景勝と同盟を結び両者の和睦を調停するが、景勝が乱を制し景虎を滅ぼしたことにより景虎を支持していた北条氏との甲相同盟は破綻し、翌天正七年九月には北条・徳川間で対武田の同盟が結ばれた。
 同月十五日に家康は嫡男・松平信康とその生母である築山殿を処刑している。

 天正十年に信長・家康の連合軍は武田領への本格的侵攻を行い、武田氏を滅ぼした。武田遺領の分割において、信濃は織田家臣の森長可と毛利秀頼、甲斐本国は河尻秀隆、上野国は滝川一益にそれぞれ与えられ、家康には駿河一国が与えられた。この時、家康が安土城にいる信長のもとに赴いて、信長から賜るという形で与えられており、もはや両者の関係が全く対等ではなくなっていた。形式的には家康は同盟者であり織田家臣ではなかったものの、実質的には信長の臣下の立場になっていた。

 しかし、同年六月二日に堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った。
 帰国後、家康は直ちに兵を率いて上洛しようとしたが、鳴海で秀吉が光秀を討った報を受けて引き返した。
 一方、織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。
 旧武田領国のうち上野一国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていた滝川一益は、旧武田領を治めてまだ3か月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨て畿内へ敗走した。
 また、甲斐一国と信濃諏訪郡支配を担った河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった。追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直率いる六万の軍が武蔵・上野国境に襲来した。
 滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走した。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも八千人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った。

 一方、甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら五万五千人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。家康は甲府の尊躰寺に本陣を置いていたが、新府城に本陣を移すと七里岩台上の城砦群に布陣し、若神子城に本陣を置く北条勢と対峙した。

 ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。
 和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の五か国を領有する大大名へとのし上がった。

 信長死後の織田政権においては織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・織田信雄と手を結び、天正十一年には織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、勝家と手を結んだ信長三男・織田信孝を自害させることで、さらに影響力を強めた。
 家康は賤ヶ岳の戦いで勝った秀吉に、戦勝祝いとして松平親宅が入手した茶器の初花を贈った。
また本能寺の変で光秀に加担した疑いで京都から逃れてきた元関白の近衛前久を家康は保護していたが、秀吉と交渉して近衛を無事帰洛させることができた。

 天正十二年に秀吉は信雄家臣の津川義冬・岡田重孝・浅井長時の三家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、家康と同盟を結んだ信雄は同年三月六日に親秀吉派の三家老を処刑した。
 これに激怒する秀吉は、信雄に対し出兵を決断した。信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は三月十三日に尾張国へ出兵し信雄と合流し、北伊勢方面に出兵していたが、十七日には徳川家臣の酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し、家康は二十八日に尾張国小牧山に着陣した。

 秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、森長可と池田恒興らが三河国に出兵した。四月九には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した。
 小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、常陸国の佐竹氏ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。
 秀吉と家康・信雄の双方は同年九月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とした。
 戦後の和議は秀吉優位で、越中国の佐々成政が自ら、厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが、家康は承諾しなかった。
 天正十三年に入ると、秀吉は関白に補任され、豊臣政権を確立し、紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力は秀吉に服属した。 
 これに対して家康は、東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた五か国を領有し相模国の北条氏とも同盟関係を築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田の割譲に対して、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗した。
 家康は大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵した。
 勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正十一年から十二年にかけて地震や大雨に見舞われ、特に天正十一年五月から七月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も百年来の大水に見舞われた。
 その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、天正十二年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶った。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになった。

 こうした情勢の中、同年九月に秀吉は家康に対してさらなる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせた。
 同年十一月十三日には石川数正が出奔して秀吉に帰属した。この事で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し改革した。

 天正十四年に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み、四月二十三日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫を正室として差し出し、五月十四日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となった。さらに十月十八日には秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、二十四日に家康は浜松を出立し上洛している。
 家康は十月二十六日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、翌二十七日に大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明し、家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った。
 十一月一日に京へ上り、正三位に叙される。このとき、多くの家康家臣も叙任された。
 同月十一日には三河国に帰還し、翌十二日には大政所を秀吉の元へ送り返した。
 十二月四日に出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、本城を浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。

 天正十五年八月に再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。
 同年十二月三日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国の監視が託された。同月二十八日秀吉の推挙によりさらに朝廷から左近衛大将および左馬寮御監に任ぜられ、このことにより、家康は駿府左大将と呼ばれた。

 天正十八年七月五日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の五か国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。
 家康の関東移封の噂は戦前からあり、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが、結局北条氏の旧領国に移されることになった。

 秀吉は関東・奥羽の惣無事という目的を達成するために家康に関東の安定と奥羽の抑えを期待した。一方、家康は豊臣政権から政治的・軍事的保護を得ている以上、移封を拒絶することは出来なかった。ただし、関東移封に関しては流動的な側面があり、その後も奥羽情勢の悪化に伴って陸奥国への再移封の噂が流れた。
 この移封によって三遠駿と甲信(上杉の北信を除く)百二十万石から関東二百五十万石(家康二百四十万石および結城秀康十万石)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。
 江戸へ入府した家康は、関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、百万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって統治した。

 天正十九年六月二十日に秀吉は奥州での一揆鎮圧のため号令をかけて豊臣秀次を総大将とした奥州再仕置軍を編成した。家康も秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、藤島一揆、九戸政実の乱などの鎮圧に貢献した。
 文禄元年から秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった。この時に伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣が家康の指揮下にあった。
 文禄四年七月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、家康も秀吉の命令で上洛した。これ以降、江戸城よりも伏見城に滞在する期間が長くなった。
 そして、慶長元年に秀吉の推挙により内大臣に任ぜられ、これ以後は江戸の内府と呼ばれた。家康の立場が高まったのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより政治制度を直接学ぶことになった。 
 そして、今まで長~~く隠していた爪を本人の意思を無視して、周りの家臣が研ぎだした。
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