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珈琲
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窓の隙間から入ってきた風が俺の前髪を揺らし、夢から覚めた。
酒を飲まなかったからだろうか、あまりに清々しい気分のせいで、予定の二時間前には起きてしまったようだ。時計の針がまだ四時を指していない。二度寝をするのも良い時間だが、すでに眠気は消え去っていた。
窓の外はまだ夜を残しながらも、うっすらと町に点々と浮かび上がる光が、近づく朝を予感させる。あの光は朝ご飯を作っているのだろうか。それとも、今まで仕事をしていて、これから床に就くのだろうか。それぞれの朝と夜がすれ違っていた。
「コーヒーが飲みたい」
うすぼんやりとした夜には、真っ暗なコーヒーが似合う。舌の上に残る静かな苦味が恋しくなってきた。
音を立てないように部屋を出て、厨房まで明かりも点けずに歩いた。暗いと言えども、階段の輪郭はわずかに見えた。手すりをなぞりながら、ゆっくりと降りていく。
一階に着くと、厨房にはすでに明かりが灯っていた。微かに開いた扉から、一筋の光が洩れて真っ白な線を廊下に引いている。
先客がいたようだ。
扉を開けると、一足先にコーヒーの香りを堪能しているメリアが本を読んでいた。
俺に気付いていないのだろう。文字を追う目がこちらに向くことはない。
濃い青色のマグカップから立ち上る湯気が部屋に溶けていく。時折聞こえるページを捲る音は、ひらひらと舞っていた。
本を読むメリアは、またいつもと印象がまったく違う女性になっていた。
落ち着いた暗めの赤いキャミソールと灰色の短パンという簡易な姿を、暖かそうな白いカーディガンで包み、知的な眼鏡をかけて、本の世界に没頭している。
この姿を最初に見ていたのなら、俺はメリアを誰よりも儚い女性だと思っただろう。まるで一輪の花のように美しいメリアに、声をかけるのも躊躇した。
そんな自分が気恥ずかしく、声をかける代わりに軽く扉をノックした。
「あら、早いのね。おはよう、プロト」
顔をあげたメリアが、少しずれた眼鏡を指で戻した。
「ごめんね、だらしない姿で」
カーディガンで身を隠すように気直し、読んでいた本をそっとテーブルに置く。
「気にするな。俺もノックの前に入ってすまん」
自分の分のコーヒーを用意する。粉をマグカップに入れ、ポットのお湯を注いだ。温かい湯気に乗せて、風味豊かな香りが漂った。
「メリアは、いつもこの時間に起きてるのか?」
「ううん。今日はなんだか、目が覚めちゃっただけ」
少しぬるくなったコーヒーを、メリアが啜る。うっすらと眼鏡を曇らせて、へへっとだらしない笑みを浮かべた。
「昨日のサン、めちゃくちゃ酔ってたね」
「目も当てられないくらいにな」
思い返すだけでも苦笑してしまう。あの画家見習いが温厚な男だったから良かったものの、下手すれば喧嘩にも発展しかねない物言いだった。
「サンらしくないって思ったけど、今思えば、あれがサンらしいのかもしれない」
「あいつはあんな乱暴な男だったか?」
「ううん。アンドロイド作りに全てを懸けていた男よ。だからこそ、自分の自信作にいちゃもんをつけられて頭に来たのかも」
「いちゃもんって言うほどのものでは無かったけどな」
少し、人間とは違うと指摘されただけ。それは俺にとって、猫に『君は犬じゃないからワンと鳴かない』と言うのと同じくらい当然のことだった。当然すぎて、何も感じない。
「まったく、どれだけ過保護なんだ」
「そりゃ、プロトはサンの初めての子供みたいなものだからね」
「サンは誰よりも、俺が人間じゃないことを知っている。あいつに限ってそんな盲目的な感情は持ってないだろう」
今では外見や行動は人間そのものだが、当然材料は金属だったり化学物質だったりと、生物としてかけ離れた物体だ。それを一から組み立ててきたサンが、今更俺に対して生物としての慈愛を持つのだろうか?
「持つと思うよ? サンなら特に」
メリアは何か確信にも似た表情で頷く。
「幼馴染の勘か?」
「それもあるのかな? でも、昨日のサンの話、ほぼ全部がプロトの話だったよ?」
そう言われると、なんともむず痒い。
「自慢の息子って感じだった」
「そりゃどうも」
妙な空気に耐えられなくなり、入れたばかりのコーヒーを一気に煽った。
☆
「それ、何を読んでるんだ?」
メリアがテーブルに置いた本を手に取る。文庫サイズのそれは、一般的なものより少し厚いように思えた。裏表紙には何も書かれておらず、表紙には簡素なフォントで書かれた『色彩』の二文字だけ。購買意欲や経営戦略を感じさせない、シンプルな本だ。
パラパラと捲ると、その文章に驚いた。適当に開いた一編だけでも、あまりの強烈さにどうも感想がすぐに浮かんでこない。
『海は虹色に輝いていて、空は真緑の雲を浮かべてながらキラキラと黄色く光っていた。黒い砂浜に座る私は、透明な貝殻を片手に歌を歌うのだ。どこかで聞いたことのある子守歌を。真っ赤な君の隣で』
「素敵でしょ、その本」
「えっと……まぁ芸術は難しいよな……」
本をテーブルに戻すと、メリアは再びそれを手に取って開いた。
「その本の作者は誰なんだ?」
「マロンよ」
「マロン……色彩か……」
インターネットを使って、作者と作品で検索をかけてみる。いったいどんな人物があの作品を手掛けたのだろうか。あの、前衛的というか、破壊的というか……。
検索結果は、該当なしだった。
「該当無しだと……?」
「? どうしたの?」
メリアが首を傾げた。
「いや、その本の作者をネットで調べようとしたら、何も検索にかからなかったんだが……本当にマロンって名前か?」
「あぁ、そういう事ね。検索にかかるわけ無いわ」
眼鏡をはずし、テーブルに置いた。
「その本は、私の友達が書いたものだから。趣味で」
「マジか……」
改めて本に目を向けた。
表紙などのデザイン性は置いておいて、印刷や製本の技術は出版された本そのものではないか。ここまでしっかりしたものを、素人が創り上げられるものなのか?
「趣味で作ったとは思えないほどの完成度だな」
「彼氏が製本業に携わってるんだってさ。それで、誕生日のお祝いに、自分の小説をちゃんとした本にして何冊かくれたんだって。素敵な彼氏さんよね」
「嬉しいものか?」
「とっても。少なくとも、友達は一番の宝物だって言ってたわ。自分の分の本は肌身離さず持ち歩いてるんだって」
「ふぅん」
それほどに喜ばれたのか、これは。
誕生日というのは、とても特別な日であり、誰もが祝福される日だ。俺も、このレストランのメンバーにしてもらったように、俺も誰かを祝う日が来るだろう。
たとえばメリア。
こいつとは三か月の付き合いだが、その間に誕生日が訪れるかもしれない。俺の主人であるメリアにも、何かプレゼントをして喜んでもらうのは護衛である俺の使命の一つなのだろうか。難しい判断だから、それはカリメロにでも聞くとしよう。みんなの誕生日も事前に確認しておかなければ。
もしその時、メリアが喜んでくれるプレゼントとは、何なのだろう。
「なら俺も、メリアの誕生日には本を作ってやるよ」
「あいにく、私は小説は書いてないわ。凄くロマンチックな提案だったけどね」
「日記書いてるだろ。それを本にすればいい。みんなに配れるくらいは作ってやるから安心しろ」
「そんなことをしたら、私はプロトと一生口をきいてやんないからね」
喜んでくれると思ったのに、なぜかジト目で怒られてしまった。乙女心は難しい。
「人の小説はロマンチックなのに、自分の日記はダメなのか」
「日記なんて人に読まれて嬉しい人はいないわ」
「そんなものか」
人に読まれる必要のない日記なら、いよいよ俺には必要のない習慣なんだが。
だが、それを言えばメリアは尚更ジト目になっていくのだろう。
機嫌を直してもらうために、空になったメリアのマグカップに新しいコーヒーを追加してあげた。
「ありがとう」
新鮮な湯気を堪能し、息で冷ましながら一口。
そして、端正な眉間に深い皺が入った。
「苦い……」
「そりゃ苦いだろ。コーヒーだし」
「ブラックは飲めないの……」
「それは失敬……」
なんとも複雑な表情でテーブルの隅に置いてある砂糖を手に取り、すかさず三つ入れる。それを混ぜる姿を黙ってみていたメリアは、ボソッと呟いた。
「もう一個……」
「何?」
「砂糖もう一個!」
言われるがままにもう一個投下し、ティースプーンで回し溶かす。
「ほら、どうぞ」
俺からマグカップを受け取ったメリアは、まだ信用しきってない顔でペロリとコーヒーの表面を舐めた。
そして、やっとお許しの頷きを頂いた。
「うん。美味しい」
「甘党なんだな」
「コーヒーに砂糖は四つ。私の護衛なら、義務教育よ」
満足そうにちびちびと啜りながら、小さく笑った。
「俺はそんな甘そうなもの、コーヒー飲んでる気分にならなそうだな」
「飲んでみてよ。案外美味しいよ?」
差し出されたマグカップを受け取った。
「わざわざ飲まなくても、味は想像つくんだが……」
「知識だけじゃ人生つまらないでしょ? 何事も経験よ」
「えぇ……」
「主人の頼みも聞けないのかしら?」
楽しそうに笑みを浮かべるメリアは、明らかにブラックコーヒーを飲まされた仕返しをしたくて堪らないらしい。
生唾を飲み、意を決して一口もらった。
味は、勿論予想通りだ。
舌にまとわりつく甘味が、個人的に好きにはなれない。コーヒーとは苦いものという認識がある上でこんな甘いものを飲むと、感覚に相違が生まれてバグを感じてしまう。
「プロト、凄い顔してるわよ」
あまりの甘味に硬直してしまった俺からマグカップを受け取り、自分も一口飲んだ。
「うん、美味しい」
「味覚ってのは不思議なもんだな。ここまで個人で変わるものなのか……」
自分のブラックコーヒーで口直しをしながら、改めてレストランという商売の難しさを思い知らされた。
☆
それからも、一時間に満たない時間、メリアと談笑をした。
窓の外がまだ夜の香りを残していた頃に起きたはずだったが、気が付けばちらほらと人が遠くで行き来し始めるほどに町も起き始めていた。
「そろそろ朝が来るな」
「そうね。今日が始まる。そろそろ準備しないと」
二人でマグカップを洗っていると、うちの住み込みメイド長も眠い目を擦りながら厨房に入ってきた。
「ふわぁ……おはようございます……」
「おはようカリメロ。今日も随分と眠たそうね」
「マロン様から頂いた本を読んでいたのですが、気が付いたら遅い時間になってしまって」
「そんなに没頭したの?」
「いえ……ちょっと学の無い私には難しすぎて、そもそも理解に時間がかかると言いますか……」
申し訳なさそうに頬を掻くカリメロは、誤魔化すように渇いた笑みを浮かべた。
「それより、お二人ともお早いですね。特にプロト様は、昨日は十時くらいまでお眠りになられていたのに」
「昨日は酒も飲んでなかったからな」
「お二人で朝のコーヒーですか。微笑ましいですね」
「私は少し、プロトに意地悪されたけどね」
メリアが言った。ブラックコーヒーを飲ませたことをまだ根に持っているのか。
「メリアだってお返ししただろうが。それでお互い様だろうが」
「お二人は私が寝ている時に、何をし合っていたのですか……?」
「少なくともお前が考えているようなことは起きてないから鼻血を止めてくれないか。あと血涙も」
「私も混ぜてほしかった……!!」
「うるさい奴だな……砂糖でもミルクでも混ぜてやるから、元気出せっての」
目に見えてげんなりしているカリメロのためにコーヒーを淹れた。今朝だけで俺はいくつコーヒーを淹れればいいんだ。
「あ、もうコーヒー最後だったな」
残った粉を全て投入し、お湯を注いだ。砂糖もミルクも少し入れ、カリメロに渡した。
「あれ、まだ残ってたと思ったのですが」
受け取ったコーヒーを啜りながら、コーヒーのストックを確認する。
「あら、本当。買ってこなければいけませんね」
「買い出しなら俺が行こう」
「プロト様、場所は分かりますか? うちのコーヒー豆は特定の店でしか調達しないのですが」
「すまん知らん」
「じゃあ、私と行きましょうか。ついでに街を案内するわ」
「では、お店は私にお任せください。プロト様はメリアお嬢様とデートを楽しんできてくださいませ」
「買い出しを楽しんでくるよ」
適当に受け流し、洗い終わったマグカップを片付けた。
「ついでに調味料もお願いして宜しいでしょうか?」
「おう」
「あとはトイレットペーパーなどの備品もお願いします」
「了解」
「あとは何か土産話を楽しみにしています」
「旅行とかじゃないのに……?」
俺はどこまで買い出しに行かされるんだ。
「まったく、あんまり馬鹿な事いわないでよね」
隣で話を聞いていたメリアが苦笑気味にカリメロに注意した。
「でも、確かに二人で出かけるわけだし、エスコートは頼むわね」
「何カリメロの影響を受けてんだ。俺とメリアはそういう関係じゃないだろう」
「あら、男性が女性にエスコートするのは、ただのエチケットよ?」
「それをマグナムにも言うか?」
「彼は既婚者だから」
「いやまぁそうだけど」
どうも納得がいかない。
だが、鼻歌混じりに厨房を出ていったメリアの後ろ姿に、何か言うのも野暮な気がしてやめた。
酒を飲まなかったからだろうか、あまりに清々しい気分のせいで、予定の二時間前には起きてしまったようだ。時計の針がまだ四時を指していない。二度寝をするのも良い時間だが、すでに眠気は消え去っていた。
窓の外はまだ夜を残しながらも、うっすらと町に点々と浮かび上がる光が、近づく朝を予感させる。あの光は朝ご飯を作っているのだろうか。それとも、今まで仕事をしていて、これから床に就くのだろうか。それぞれの朝と夜がすれ違っていた。
「コーヒーが飲みたい」
うすぼんやりとした夜には、真っ暗なコーヒーが似合う。舌の上に残る静かな苦味が恋しくなってきた。
音を立てないように部屋を出て、厨房まで明かりも点けずに歩いた。暗いと言えども、階段の輪郭はわずかに見えた。手すりをなぞりながら、ゆっくりと降りていく。
一階に着くと、厨房にはすでに明かりが灯っていた。微かに開いた扉から、一筋の光が洩れて真っ白な線を廊下に引いている。
先客がいたようだ。
扉を開けると、一足先にコーヒーの香りを堪能しているメリアが本を読んでいた。
俺に気付いていないのだろう。文字を追う目がこちらに向くことはない。
濃い青色のマグカップから立ち上る湯気が部屋に溶けていく。時折聞こえるページを捲る音は、ひらひらと舞っていた。
本を読むメリアは、またいつもと印象がまったく違う女性になっていた。
落ち着いた暗めの赤いキャミソールと灰色の短パンという簡易な姿を、暖かそうな白いカーディガンで包み、知的な眼鏡をかけて、本の世界に没頭している。
この姿を最初に見ていたのなら、俺はメリアを誰よりも儚い女性だと思っただろう。まるで一輪の花のように美しいメリアに、声をかけるのも躊躇した。
そんな自分が気恥ずかしく、声をかける代わりに軽く扉をノックした。
「あら、早いのね。おはよう、プロト」
顔をあげたメリアが、少しずれた眼鏡を指で戻した。
「ごめんね、だらしない姿で」
カーディガンで身を隠すように気直し、読んでいた本をそっとテーブルに置く。
「気にするな。俺もノックの前に入ってすまん」
自分の分のコーヒーを用意する。粉をマグカップに入れ、ポットのお湯を注いだ。温かい湯気に乗せて、風味豊かな香りが漂った。
「メリアは、いつもこの時間に起きてるのか?」
「ううん。今日はなんだか、目が覚めちゃっただけ」
少しぬるくなったコーヒーを、メリアが啜る。うっすらと眼鏡を曇らせて、へへっとだらしない笑みを浮かべた。
「昨日のサン、めちゃくちゃ酔ってたね」
「目も当てられないくらいにな」
思い返すだけでも苦笑してしまう。あの画家見習いが温厚な男だったから良かったものの、下手すれば喧嘩にも発展しかねない物言いだった。
「サンらしくないって思ったけど、今思えば、あれがサンらしいのかもしれない」
「あいつはあんな乱暴な男だったか?」
「ううん。アンドロイド作りに全てを懸けていた男よ。だからこそ、自分の自信作にいちゃもんをつけられて頭に来たのかも」
「いちゃもんって言うほどのものでは無かったけどな」
少し、人間とは違うと指摘されただけ。それは俺にとって、猫に『君は犬じゃないからワンと鳴かない』と言うのと同じくらい当然のことだった。当然すぎて、何も感じない。
「まったく、どれだけ過保護なんだ」
「そりゃ、プロトはサンの初めての子供みたいなものだからね」
「サンは誰よりも、俺が人間じゃないことを知っている。あいつに限ってそんな盲目的な感情は持ってないだろう」
今では外見や行動は人間そのものだが、当然材料は金属だったり化学物質だったりと、生物としてかけ離れた物体だ。それを一から組み立ててきたサンが、今更俺に対して生物としての慈愛を持つのだろうか?
「持つと思うよ? サンなら特に」
メリアは何か確信にも似た表情で頷く。
「幼馴染の勘か?」
「それもあるのかな? でも、昨日のサンの話、ほぼ全部がプロトの話だったよ?」
そう言われると、なんともむず痒い。
「自慢の息子って感じだった」
「そりゃどうも」
妙な空気に耐えられなくなり、入れたばかりのコーヒーを一気に煽った。
☆
「それ、何を読んでるんだ?」
メリアがテーブルに置いた本を手に取る。文庫サイズのそれは、一般的なものより少し厚いように思えた。裏表紙には何も書かれておらず、表紙には簡素なフォントで書かれた『色彩』の二文字だけ。購買意欲や経営戦略を感じさせない、シンプルな本だ。
パラパラと捲ると、その文章に驚いた。適当に開いた一編だけでも、あまりの強烈さにどうも感想がすぐに浮かんでこない。
『海は虹色に輝いていて、空は真緑の雲を浮かべてながらキラキラと黄色く光っていた。黒い砂浜に座る私は、透明な貝殻を片手に歌を歌うのだ。どこかで聞いたことのある子守歌を。真っ赤な君の隣で』
「素敵でしょ、その本」
「えっと……まぁ芸術は難しいよな……」
本をテーブルに戻すと、メリアは再びそれを手に取って開いた。
「その本の作者は誰なんだ?」
「マロンよ」
「マロン……色彩か……」
インターネットを使って、作者と作品で検索をかけてみる。いったいどんな人物があの作品を手掛けたのだろうか。あの、前衛的というか、破壊的というか……。
検索結果は、該当なしだった。
「該当無しだと……?」
「? どうしたの?」
メリアが首を傾げた。
「いや、その本の作者をネットで調べようとしたら、何も検索にかからなかったんだが……本当にマロンって名前か?」
「あぁ、そういう事ね。検索にかかるわけ無いわ」
眼鏡をはずし、テーブルに置いた。
「その本は、私の友達が書いたものだから。趣味で」
「マジか……」
改めて本に目を向けた。
表紙などのデザイン性は置いておいて、印刷や製本の技術は出版された本そのものではないか。ここまでしっかりしたものを、素人が創り上げられるものなのか?
「趣味で作ったとは思えないほどの完成度だな」
「彼氏が製本業に携わってるんだってさ。それで、誕生日のお祝いに、自分の小説をちゃんとした本にして何冊かくれたんだって。素敵な彼氏さんよね」
「嬉しいものか?」
「とっても。少なくとも、友達は一番の宝物だって言ってたわ。自分の分の本は肌身離さず持ち歩いてるんだって」
「ふぅん」
それほどに喜ばれたのか、これは。
誕生日というのは、とても特別な日であり、誰もが祝福される日だ。俺も、このレストランのメンバーにしてもらったように、俺も誰かを祝う日が来るだろう。
たとえばメリア。
こいつとは三か月の付き合いだが、その間に誕生日が訪れるかもしれない。俺の主人であるメリアにも、何かプレゼントをして喜んでもらうのは護衛である俺の使命の一つなのだろうか。難しい判断だから、それはカリメロにでも聞くとしよう。みんなの誕生日も事前に確認しておかなければ。
もしその時、メリアが喜んでくれるプレゼントとは、何なのだろう。
「なら俺も、メリアの誕生日には本を作ってやるよ」
「あいにく、私は小説は書いてないわ。凄くロマンチックな提案だったけどね」
「日記書いてるだろ。それを本にすればいい。みんなに配れるくらいは作ってやるから安心しろ」
「そんなことをしたら、私はプロトと一生口をきいてやんないからね」
喜んでくれると思ったのに、なぜかジト目で怒られてしまった。乙女心は難しい。
「人の小説はロマンチックなのに、自分の日記はダメなのか」
「日記なんて人に読まれて嬉しい人はいないわ」
「そんなものか」
人に読まれる必要のない日記なら、いよいよ俺には必要のない習慣なんだが。
だが、それを言えばメリアは尚更ジト目になっていくのだろう。
機嫌を直してもらうために、空になったメリアのマグカップに新しいコーヒーを追加してあげた。
「ありがとう」
新鮮な湯気を堪能し、息で冷ましながら一口。
そして、端正な眉間に深い皺が入った。
「苦い……」
「そりゃ苦いだろ。コーヒーだし」
「ブラックは飲めないの……」
「それは失敬……」
なんとも複雑な表情でテーブルの隅に置いてある砂糖を手に取り、すかさず三つ入れる。それを混ぜる姿を黙ってみていたメリアは、ボソッと呟いた。
「もう一個……」
「何?」
「砂糖もう一個!」
言われるがままにもう一個投下し、ティースプーンで回し溶かす。
「ほら、どうぞ」
俺からマグカップを受け取ったメリアは、まだ信用しきってない顔でペロリとコーヒーの表面を舐めた。
そして、やっとお許しの頷きを頂いた。
「うん。美味しい」
「甘党なんだな」
「コーヒーに砂糖は四つ。私の護衛なら、義務教育よ」
満足そうにちびちびと啜りながら、小さく笑った。
「俺はそんな甘そうなもの、コーヒー飲んでる気分にならなそうだな」
「飲んでみてよ。案外美味しいよ?」
差し出されたマグカップを受け取った。
「わざわざ飲まなくても、味は想像つくんだが……」
「知識だけじゃ人生つまらないでしょ? 何事も経験よ」
「えぇ……」
「主人の頼みも聞けないのかしら?」
楽しそうに笑みを浮かべるメリアは、明らかにブラックコーヒーを飲まされた仕返しをしたくて堪らないらしい。
生唾を飲み、意を決して一口もらった。
味は、勿論予想通りだ。
舌にまとわりつく甘味が、個人的に好きにはなれない。コーヒーとは苦いものという認識がある上でこんな甘いものを飲むと、感覚に相違が生まれてバグを感じてしまう。
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あまりの甘味に硬直してしまった俺からマグカップを受け取り、自分も一口飲んだ。
「うん、美味しい」
「味覚ってのは不思議なもんだな。ここまで個人で変わるものなのか……」
自分のブラックコーヒーで口直しをしながら、改めてレストランという商売の難しさを思い知らされた。
☆
それからも、一時間に満たない時間、メリアと談笑をした。
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「そんなに没頭したの?」
「いえ……ちょっと学の無い私には難しすぎて、そもそも理解に時間がかかると言いますか……」
申し訳なさそうに頬を掻くカリメロは、誤魔化すように渇いた笑みを浮かべた。
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「昨日は酒も飲んでなかったからな」
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「私は少し、プロトに意地悪されたけどね」
メリアが言った。ブラックコーヒーを飲ませたことをまだ根に持っているのか。
「メリアだってお返ししただろうが。それでお互い様だろうが」
「お二人は私が寝ている時に、何をし合っていたのですか……?」
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「私も混ぜてほしかった……!!」
「うるさい奴だな……砂糖でもミルクでも混ぜてやるから、元気出せっての」
目に見えてげんなりしているカリメロのためにコーヒーを淹れた。今朝だけで俺はいくつコーヒーを淹れればいいんだ。
「あ、もうコーヒー最後だったな」
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「あれ、まだ残ってたと思ったのですが」
受け取ったコーヒーを啜りながら、コーヒーのストックを確認する。
「あら、本当。買ってこなければいけませんね」
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「すまん知らん」
「じゃあ、私と行きましょうか。ついでに街を案内するわ」
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「買い出しを楽しんでくるよ」
適当に受け流し、洗い終わったマグカップを片付けた。
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「おう」
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「了解」
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「旅行とかじゃないのに……?」
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「まったく、あんまり馬鹿な事いわないでよね」
隣で話を聞いていたメリアが苦笑気味にカリメロに注意した。
「でも、確かに二人で出かけるわけだし、エスコートは頼むわね」
「何カリメロの影響を受けてんだ。俺とメリアはそういう関係じゃないだろう」
「あら、男性が女性にエスコートするのは、ただのエチケットよ?」
「それをマグナムにも言うか?」
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