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第18話 夜闇の逃走
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ドンッ。
蝶番ごと宿屋の扉が弾け、木片が部屋中に撒き散らされた。
舞い上がる白い埃の向こうから――黒い影が雪崩れ込んでくる。
「――確保せよ」
短く、無機質な命令。
現れたのは、階級章を外した軍の実働部隊だ。
顔は布で隠され、手には実戦用の短剣や警棒。
その装備に迷いはない。『証拠隠滅』という特務を帯びた、掃除屋の目だ。
「ッ、やっぱり来やがったか!」
ライルが椅子を蹴り飛ばし、侵入者の進路を塞ぐ。
男たちは躊躇なく椅子を斬り捨て、真っ直ぐに俺――いや、俺が抱える『新しいカバン』へと視線を固定した。
「目標、記録の奪取。抵抗する者は排除する」
「させない!」
ミナが床を蹴った。
小柄な体が弾丸のように飛び出し、先頭の男の懐に潜り込む。
「ぐっ!?」
男が短剣を振るうより速く、ミナの回し蹴りが胴を捉えた。
鈍い音が響き、男が廊下まで吹き飛ばされる。
「匂いが嫌いだ。鉄、血、命令だけの匂いだ!」
ミナは四つん這いの姿勢で威嚇し、牙を剥いた。
その背中には、野生の獣の覇気が立ち昇っている。
「レティア、光源を潰せ! 目くらましだ!」
ライルの叫びに、レティアが即座に反応する。
彼女は書きかけの書類と羽ペンを投げ捨て、杖を構えた。
「分かってるわよ! ――光よ、爆ぜろ! 爆閃光《フラッシュ・バースト》!」
杖の先から強烈な閃光が迸る。
「ぐあああっ!」
狭い室内が真昼以上の白光に包まれ、暗闇に目を慣らしていた襲撃者たちが呻き声を上げて顔を覆った。
「今よ! 健二、ライル! 窓から逃げて!」
レティアが叫ぶ。
「えっ、でも二人は!?」
俺が躊躇すると、レティアは俺の胸倉を掴み、窓の方へ突き飛ばした。
「報告書《それ》がなくなったら終わりなのよ! 私たちは足止めして、必ず追いつく! あんたは『数字』を守りなさい!」
「健二、走って!」
ミナも叫ぶ。
その手には、いつの間にか食事用のフォークが握られていた。
「あたしの鼻があれば、逃げても追いつけるから! 早く!」
「……くそっ、死ぬなよ!」
俺はカバンを抱きしめ、ライルと共に窓枠を乗り越えた。
ここは二階。
下は路地裏の闇だ。
「跳ぶぞ、健二!」
ライルに続いて、俺も闇の中へと身を投げた。
◇
俺たちが闇に消えた直後、宿屋の一室。
閃光が収まり、視力を取り戻した襲撃者たちが再び雪崩れ込んでくる。
その数、十人以上。
「目標逃走! 追え!」
リーダー格が窓へ向かおうとするが―― ヒュンッ! 風切り音と共に飛来したフォークが、窓枠に深々と突き刺さった。
「通さないよ!」
ミナがテーブルの上に飛び乗り、尻尾が高く持ち上がり、張り詰めた弦のように動きを止める。
「ここの匂いは、あたしが守る!」
「邪魔だ、獣風情が!」
三人の兵士が斬りかかる。
だが、ミナは壁を蹴り、天井梁へ飛びついた。
上空から兵士の脳天に踵落としを見舞う。
「匂いが多すぎて鼻が痛い! でも……健二たちの匂いだけは、絶対に消させない!」
一方、レティアは杖を構え、冷静に呪文を紡いでいた。
「数が多いわね……。まともに相手をする義理はないわ」
彼女は懐から数本の『安物の魔導チョーク』を取り出し、床にばら撒いた。
「起動! 《スリップ・フロア》!」
摩擦係数をゼロにする初歩的な魔法。
だが、狭い室内では凶悪な罠となる。
突入してきた兵士たちが次々と足を滑らせ、将棋倒しに転倒していく。
「ぐわっ!?」
「なんだ、床が……!」
「あらごめんなさい。ワックスをかけすぎたみたいね」
レティアは不敵に微笑み、窓の外を一瞥した。 (行きなさい、健二。……時間稼ぎの代金は、あとでもらうわ!)
◇
着地と同時に受身を取り、泥にまみれながら起き上がる。
頭上では、激しい戦闘音が響いていた。
「こっちだ! 表通りは封鎖されてるかもしれねぇ!」
ライルが俺の腕を引き、迷路のような路地裏へと駆け出す。
「はぁ、はぁ……っ! あいつら、本気で殺しに来てたぞ!」
走りながら、俺は息を切らせて叫ぶ。
新しいカバンは麻と革で出来ていて、前の営業カバンより体にフィットする。
中には、書き上げたばかりの報告書と、写刻版のデータ、そしてミナたちの証言メモ。
これが奪われれば、人型ヴァルグルムは「ただの魔物」として処理され、SOS魔導符の真実は闇に葬られる。
「軍部はメンツのためなら何でもやる組織だ! 特に今回は『魔王軍残党との対話』なんて、奴らの存在意義に関わるからな!」
ライルは走りながら、路地の分岐を迷いなく選んでいく。
「右だ! こっちの細道は荷車が通れねぇから、馬での追跡は撒ける!」
首都ノワルマルシュの裏路地は、昼間見た活気ある顔とは別の表情を持っていた。
腐った残飯の臭い、酔っ払いの寝息、そしてどこまでも続く暗闇。
だが、ライルにとってここは「庭」だ。
「おっと、そこは段差だ。気をつけろ!」
「よく見えるな!」
「商人は夜逃げのルート確保も仕事のうちなんでね!」
だが――軍部も甘くはなかった。
「――いたぞ! 路地裏D区画!」
屋根の上から声が響く。
見上げると、月明かりを背に、軽装の追っ手が魔導探知機を持って並走しているのが見えた。
「げっ、屋根伝いかよ! マジで?」
ライルが舌打ちして叫ぶ。
「魔導探知機を持ってる奴がいる! カバンの中の『雷紋の欠片』の魔力反応を追ってるんだ!」
ヒュッ! 風切り音と共に、俺の足元の石畳にボウガンの矢が突き刺さる。
「ひいぃっ!?」
「止まるな! 止まったら蜂の巣だぞ!」
ライルが路地の角にある木箱の山を蹴り倒した。
ガラガラと崩れ落ちた木箱が、後方から迫る追っ手の進路を塞ぐ。
「へっ、在庫処分セールだ! 持ってけドロボウ!」
減らず口を叩きながらも、ライルの額には脂汗が滲んでいる。
「ライル、どこに向かってるんだ!?」
「商人ギルドは無理だ、玄関前で待ち伏せされてる! とりあえず『市場の地下倉庫』を目指す! あそこなら隠し通路がある!」
俺たちは必死に足を動かす――心臓が破れそうで、喉に血の味がする。
だが、カバンを握る手だけは緩めない。 (この中には、ジョゼアやミナたちの想いが入ってる。絶対に、渡さない!)
路地を抜け、少し開けた場所に出た瞬間―― 前方から、黒い影が三つ、音もなく舞い降りた。
退路を断たれた。
「……逃げ足の速いネズミだ」
追っ手のリーダー格が、冷たい声で告げる。
手には抜き身の剣を持ち、殺気が肌を刺す。
その外套の下には、身分を隠すために削り取られた軍紋の跡が見えた。
「万事休す、かよ……」
ライルが短剣を抜き、俺を背に庇う。
「健二、俺が隙を作る。お前だけでも――」
「無駄だ」
リーダーが剣を振り上げる。
「処理しろ」
その刃が振り下ろされようとした、その時。
ガギィィィンッ!!
重い金属音が響き、火花が散った。
追っ手の剣が、横合いから割り込んだ「巨大な鉄塊」に弾き飛ばされる。
「……おいおい、夜中に騒がしいな。商売の邪魔だぜ」
現れたのは、筋骨隆々のドワーフ。
その手には、巨大なハンマーが握られている。
そして、その背後から、ぞろぞろと屈強な男たちが現れた。
腕に「職人組合」の腕章を巻いた、鍛冶師や荷運び人たちだ。
「へっ、おせぇよ! 相変わらず容赦ねぇ一撃だな、ドルゴの旦那!」
ライルがニヤリと笑い、親しげにその名を呼んだ。
「昔、俺が売りつけようとした偽物をそのハンマーで粉砕された時……マジでちびるかと思ったぜ」
(あ、あの人は……!) 俺は息を呑んだ。
間違いない。
以前、俺たちに超高級ビール『黄金杯』をご馳走してくれた、あの気前のいい職人商人だ。
「はんっ、俺の目は誤魔化せねぇよ。安っぽいメッキを被った偽物は、叩き割るに限る」
職人商人――ドルゴはニヤリと笑い、追っ手たちを睨みつけた。
「こいつらは俺たちの商人仲間だ。軍部の安っぽいゴロツキ風情が手を出していい相手じゃねぇぞ?」
追っ手のリーダーが舌打ちをする。
「……チッ、民間人が。公務執行妨害だぞ」
「知ったことか。ここは商人の街だ。商売のルール(仁義)が法律なんだよ!」
ドワーフたちが一斉に工具や武器を構える。
その数、十数人。
路地裏の地理を熟知した彼らの「壁」が、軍部と俺たちの間に立ちはだかった。
「……行け、健二!」
職人商人ドルゴが背中越しに叫ぶ。
「地下倉庫への道は開けといた! 朝まで隠れりゃ、こっちの勝ちだ!」
「ありがとうございます……!!」
俺とライルは背中越しに叫び、一瞬も足を止めずに再び走り出した。
背後で、職人たちの怒号と、金属がぶつかり合う音が響く。
職人たちが作った隙を抜け、俺たちは市場の地下へと続く重い鉄扉をくぐり抜けた。
そこは『地下大倉庫』。
首都ノワルマルシュの胃袋を支える、巨大な食料保管庫だ。
ひんやりとした冷気と、様々な香辛料の匂いが混ざり合った独特の空気が漂う。
複雑に入り組んだ棚は迷路のようで、天井には氷の魔石が埋め込まれ、青白い光を落としていた。
「はぁ、はぁ……ここまで来れば……」
俺が膝に手をついた瞬間。
背後の闇から、ヒュッという音がした。
「まだだ、健二! 伏せろ!」
ライルに突き飛ばされ、俺は床を転がる。
俺がいた場所の木箱に、短剣が突き刺さっていた。
職人たちの壁をすり抜けた、数名の精鋭――「影」のような追っ手が侵入していたのだ。
「しつこい野郎だ……!」
ライルが舌打ちし、周囲を見渡す。
「だがな、ここは商人の倉庫だ。戦場じゃねぇ!」
ライルは近くの棚に並んでいた瓶を鷲掴みにすると、追っ手に向かって投げつけた。
パリーン! 瓶が割れ、強烈な刺激臭が広がる。
「ぐっ、なんだこれは!?」
「高濃度の揮発性香油だ! 目と鼻に来るぞ!」
ライルがニヤリと笑う。
「さらにオマケだ!」
彼は懐から火打ち石を取り出し、香油のまかれた床へ放る。
ボッ!! 一瞬で炎の壁が上がり、追っ手の足を止める。
「健二、D-3棚だ! あそこの留め具を外せ!」
ライルの指示に、俺は反射的に動く。
営業時代に培った『在庫配置図』の記憶――かつて倉庫整理で嫌というほど叩き込まれた習性が、異世界の今、生存本能と直結する。
あの棚の積み方は重心が高い。
一番下の留め具を一つ外せば、連鎖的に崩れる。
「了解、荷崩れ誘発!」
俺は走り抜けざまに、留め具をハンマー代わりの石で叩き飛ばした。
ズズズ……ガラガラガラッ!! 巨大な木製の棚がバランスを崩し、雪崩のように追っ手の方へと倒れ込む。
小麦粉の袋が破裂し、視界が白く染まった。
「在庫管理ミスによる事故発生!」
俺は叫びながら、ライルと共に粉塵の向こう側へと駆け抜けた。
「くそっ、前が見えん!」
背後で追っ手の声が遠ざかっていく。
地下倉庫の最奥。
古びた隠し扉を抜けた先は、かつて密輸に使われていたという狭い地下水路だった。
湿った空気と、水滴の落ちる音だけが響く。
ここまで来れば、さすがに追っ手も撒いただろう。
俺とライルは、壁にもたれかかるようにして座り込んだ。
服はボロボロ、手足は擦り傷だらけだ。
「……はぁ、はぁ。死ぬかと思った」
「へっ、いい運動になったじゃねぇか」
ライルは強がって見せたが、その手は少し震えていた。
彼は懐から、安酒のスキットルを取り出し、一口煽ってから俺に差し出した。
「……飲め。気付け薬だ」
俺は受け取り、喉に流し込む。
カッと熱いものが胃に落ちて、少しだけ震えが止まった。
薄暗い水路の中、俺たちはしばらく無言で呼吸を整えた。
ライルが天井のシミを見上げながら、ぽつりと口を開く。
「……あいつらの手口、嫌なほど見覚えがあるぜ」
「え?」
「足音の消し方、追い込み方……。俺がガキの頃、施設で見せられた『掃除屋』の動きそのままだ」
ライルは苦い顔で笑った。
「だから読めたんだよ。……俺も昔は、あっち側に行きかけたからな」
そうか、ライルが軍部の密偵に気づけた理由。
それは彼自身が、その冷たいシステムの一部になりかけた過去があるからなのか。
「……なぁ、健二」
ライルが視線を俺に移す。
「お前、元の世界じゃただの営業マンだったんだろ? 剣も使えなけりゃ、魔法もねぇ」
「……ああ」
「なんで、ここまでやる? 命懸けで魔物の子供を守って、軍部と喧嘩して……。最初は『元の世界に帰りたい』だけだったじゃねぇか」
その問いに、俺はカバンの革を撫でた。
かつての俺は、ただ商品を右から左へ流すだけの存在だった。
伝票を処理し、頭を下げ、数字を合わせるだけの日々。
そこに「誰かの命」や「想い」が乗っているなんて、考えたこともなかった。
「……最初はそうだった。でも今は、繋ぎたいんだ」
俺はカバンの中にある、書きかけの報告書と証拠品を思い浮かべた。
「現場の想いとか、命の震えとか……そういう『形のないもの』を、ちゃんと届く形にして、相手に渡す。それが俺の仕事だから」
かつて日本では、ただの歯車だと思っていた。
でも、異世界で気づいた。
商いとは、人と人を、命と命を繋ぐことだと。
「このカバンの中身は、ジョゼアやミナ、レティアたちが命懸けで作った『希望』だ。それを届けるのが、今の俺の誇り(プライド)なんだよ」
そう答えると、ライルはふっと笑い、帽子を目深にかぶり直した。
「……へっ、かっこつけやがって。ま、そういうバカな商人は嫌いじゃねぇよ」
水路の先、遥か彼方から、微かな風が吹き込んでくるのを感じた。
「……風だ。出口が近いぞ」
ライルが立ち上がり、俺に手を差し伸べる。
「行こうぜ、健二。夜が明ける」
俺はその手を掴み、立ち上がった。
「ああ。王都へ行こう」
ノワルマルシュの夜は、まだ明けない。
だが、出口の向こうには、微かな朝の光が待っているはずだ。
俺たちの足取りは、傷だらけだが、迷いはなかった。
この街全体が、俺たちを守ろうとしてくれている。
「商人は、信用で繋がってる」――その言葉の意味を、俺は走りながら噛み締めていた。
蝶番ごと宿屋の扉が弾け、木片が部屋中に撒き散らされた。
舞い上がる白い埃の向こうから――黒い影が雪崩れ込んでくる。
「――確保せよ」
短く、無機質な命令。
現れたのは、階級章を外した軍の実働部隊だ。
顔は布で隠され、手には実戦用の短剣や警棒。
その装備に迷いはない。『証拠隠滅』という特務を帯びた、掃除屋の目だ。
「ッ、やっぱり来やがったか!」
ライルが椅子を蹴り飛ばし、侵入者の進路を塞ぐ。
男たちは躊躇なく椅子を斬り捨て、真っ直ぐに俺――いや、俺が抱える『新しいカバン』へと視線を固定した。
「目標、記録の奪取。抵抗する者は排除する」
「させない!」
ミナが床を蹴った。
小柄な体が弾丸のように飛び出し、先頭の男の懐に潜り込む。
「ぐっ!?」
男が短剣を振るうより速く、ミナの回し蹴りが胴を捉えた。
鈍い音が響き、男が廊下まで吹き飛ばされる。
「匂いが嫌いだ。鉄、血、命令だけの匂いだ!」
ミナは四つん這いの姿勢で威嚇し、牙を剥いた。
その背中には、野生の獣の覇気が立ち昇っている。
「レティア、光源を潰せ! 目くらましだ!」
ライルの叫びに、レティアが即座に反応する。
彼女は書きかけの書類と羽ペンを投げ捨て、杖を構えた。
「分かってるわよ! ――光よ、爆ぜろ! 爆閃光《フラッシュ・バースト》!」
杖の先から強烈な閃光が迸る。
「ぐあああっ!」
狭い室内が真昼以上の白光に包まれ、暗闇に目を慣らしていた襲撃者たちが呻き声を上げて顔を覆った。
「今よ! 健二、ライル! 窓から逃げて!」
レティアが叫ぶ。
「えっ、でも二人は!?」
俺が躊躇すると、レティアは俺の胸倉を掴み、窓の方へ突き飛ばした。
「報告書《それ》がなくなったら終わりなのよ! 私たちは足止めして、必ず追いつく! あんたは『数字』を守りなさい!」
「健二、走って!」
ミナも叫ぶ。
その手には、いつの間にか食事用のフォークが握られていた。
「あたしの鼻があれば、逃げても追いつけるから! 早く!」
「……くそっ、死ぬなよ!」
俺はカバンを抱きしめ、ライルと共に窓枠を乗り越えた。
ここは二階。
下は路地裏の闇だ。
「跳ぶぞ、健二!」
ライルに続いて、俺も闇の中へと身を投げた。
◇
俺たちが闇に消えた直後、宿屋の一室。
閃光が収まり、視力を取り戻した襲撃者たちが再び雪崩れ込んでくる。
その数、十人以上。
「目標逃走! 追え!」
リーダー格が窓へ向かおうとするが―― ヒュンッ! 風切り音と共に飛来したフォークが、窓枠に深々と突き刺さった。
「通さないよ!」
ミナがテーブルの上に飛び乗り、尻尾が高く持ち上がり、張り詰めた弦のように動きを止める。
「ここの匂いは、あたしが守る!」
「邪魔だ、獣風情が!」
三人の兵士が斬りかかる。
だが、ミナは壁を蹴り、天井梁へ飛びついた。
上空から兵士の脳天に踵落としを見舞う。
「匂いが多すぎて鼻が痛い! でも……健二たちの匂いだけは、絶対に消させない!」
一方、レティアは杖を構え、冷静に呪文を紡いでいた。
「数が多いわね……。まともに相手をする義理はないわ」
彼女は懐から数本の『安物の魔導チョーク』を取り出し、床にばら撒いた。
「起動! 《スリップ・フロア》!」
摩擦係数をゼロにする初歩的な魔法。
だが、狭い室内では凶悪な罠となる。
突入してきた兵士たちが次々と足を滑らせ、将棋倒しに転倒していく。
「ぐわっ!?」
「なんだ、床が……!」
「あらごめんなさい。ワックスをかけすぎたみたいね」
レティアは不敵に微笑み、窓の外を一瞥した。 (行きなさい、健二。……時間稼ぎの代金は、あとでもらうわ!)
◇
着地と同時に受身を取り、泥にまみれながら起き上がる。
頭上では、激しい戦闘音が響いていた。
「こっちだ! 表通りは封鎖されてるかもしれねぇ!」
ライルが俺の腕を引き、迷路のような路地裏へと駆け出す。
「はぁ、はぁ……っ! あいつら、本気で殺しに来てたぞ!」
走りながら、俺は息を切らせて叫ぶ。
新しいカバンは麻と革で出来ていて、前の営業カバンより体にフィットする。
中には、書き上げたばかりの報告書と、写刻版のデータ、そしてミナたちの証言メモ。
これが奪われれば、人型ヴァルグルムは「ただの魔物」として処理され、SOS魔導符の真実は闇に葬られる。
「軍部はメンツのためなら何でもやる組織だ! 特に今回は『魔王軍残党との対話』なんて、奴らの存在意義に関わるからな!」
ライルは走りながら、路地の分岐を迷いなく選んでいく。
「右だ! こっちの細道は荷車が通れねぇから、馬での追跡は撒ける!」
首都ノワルマルシュの裏路地は、昼間見た活気ある顔とは別の表情を持っていた。
腐った残飯の臭い、酔っ払いの寝息、そしてどこまでも続く暗闇。
だが、ライルにとってここは「庭」だ。
「おっと、そこは段差だ。気をつけろ!」
「よく見えるな!」
「商人は夜逃げのルート確保も仕事のうちなんでね!」
だが――軍部も甘くはなかった。
「――いたぞ! 路地裏D区画!」
屋根の上から声が響く。
見上げると、月明かりを背に、軽装の追っ手が魔導探知機を持って並走しているのが見えた。
「げっ、屋根伝いかよ! マジで?」
ライルが舌打ちして叫ぶ。
「魔導探知機を持ってる奴がいる! カバンの中の『雷紋の欠片』の魔力反応を追ってるんだ!」
ヒュッ! 風切り音と共に、俺の足元の石畳にボウガンの矢が突き刺さる。
「ひいぃっ!?」
「止まるな! 止まったら蜂の巣だぞ!」
ライルが路地の角にある木箱の山を蹴り倒した。
ガラガラと崩れ落ちた木箱が、後方から迫る追っ手の進路を塞ぐ。
「へっ、在庫処分セールだ! 持ってけドロボウ!」
減らず口を叩きながらも、ライルの額には脂汗が滲んでいる。
「ライル、どこに向かってるんだ!?」
「商人ギルドは無理だ、玄関前で待ち伏せされてる! とりあえず『市場の地下倉庫』を目指す! あそこなら隠し通路がある!」
俺たちは必死に足を動かす――心臓が破れそうで、喉に血の味がする。
だが、カバンを握る手だけは緩めない。 (この中には、ジョゼアやミナたちの想いが入ってる。絶対に、渡さない!)
路地を抜け、少し開けた場所に出た瞬間―― 前方から、黒い影が三つ、音もなく舞い降りた。
退路を断たれた。
「……逃げ足の速いネズミだ」
追っ手のリーダー格が、冷たい声で告げる。
手には抜き身の剣を持ち、殺気が肌を刺す。
その外套の下には、身分を隠すために削り取られた軍紋の跡が見えた。
「万事休す、かよ……」
ライルが短剣を抜き、俺を背に庇う。
「健二、俺が隙を作る。お前だけでも――」
「無駄だ」
リーダーが剣を振り上げる。
「処理しろ」
その刃が振り下ろされようとした、その時。
ガギィィィンッ!!
重い金属音が響き、火花が散った。
追っ手の剣が、横合いから割り込んだ「巨大な鉄塊」に弾き飛ばされる。
「……おいおい、夜中に騒がしいな。商売の邪魔だぜ」
現れたのは、筋骨隆々のドワーフ。
その手には、巨大なハンマーが握られている。
そして、その背後から、ぞろぞろと屈強な男たちが現れた。
腕に「職人組合」の腕章を巻いた、鍛冶師や荷運び人たちだ。
「へっ、おせぇよ! 相変わらず容赦ねぇ一撃だな、ドルゴの旦那!」
ライルがニヤリと笑い、親しげにその名を呼んだ。
「昔、俺が売りつけようとした偽物をそのハンマーで粉砕された時……マジでちびるかと思ったぜ」
(あ、あの人は……!) 俺は息を呑んだ。
間違いない。
以前、俺たちに超高級ビール『黄金杯』をご馳走してくれた、あの気前のいい職人商人だ。
「はんっ、俺の目は誤魔化せねぇよ。安っぽいメッキを被った偽物は、叩き割るに限る」
職人商人――ドルゴはニヤリと笑い、追っ手たちを睨みつけた。
「こいつらは俺たちの商人仲間だ。軍部の安っぽいゴロツキ風情が手を出していい相手じゃねぇぞ?」
追っ手のリーダーが舌打ちをする。
「……チッ、民間人が。公務執行妨害だぞ」
「知ったことか。ここは商人の街だ。商売のルール(仁義)が法律なんだよ!」
ドワーフたちが一斉に工具や武器を構える。
その数、十数人。
路地裏の地理を熟知した彼らの「壁」が、軍部と俺たちの間に立ちはだかった。
「……行け、健二!」
職人商人ドルゴが背中越しに叫ぶ。
「地下倉庫への道は開けといた! 朝まで隠れりゃ、こっちの勝ちだ!」
「ありがとうございます……!!」
俺とライルは背中越しに叫び、一瞬も足を止めずに再び走り出した。
背後で、職人たちの怒号と、金属がぶつかり合う音が響く。
職人たちが作った隙を抜け、俺たちは市場の地下へと続く重い鉄扉をくぐり抜けた。
そこは『地下大倉庫』。
首都ノワルマルシュの胃袋を支える、巨大な食料保管庫だ。
ひんやりとした冷気と、様々な香辛料の匂いが混ざり合った独特の空気が漂う。
複雑に入り組んだ棚は迷路のようで、天井には氷の魔石が埋め込まれ、青白い光を落としていた。
「はぁ、はぁ……ここまで来れば……」
俺が膝に手をついた瞬間。
背後の闇から、ヒュッという音がした。
「まだだ、健二! 伏せろ!」
ライルに突き飛ばされ、俺は床を転がる。
俺がいた場所の木箱に、短剣が突き刺さっていた。
職人たちの壁をすり抜けた、数名の精鋭――「影」のような追っ手が侵入していたのだ。
「しつこい野郎だ……!」
ライルが舌打ちし、周囲を見渡す。
「だがな、ここは商人の倉庫だ。戦場じゃねぇ!」
ライルは近くの棚に並んでいた瓶を鷲掴みにすると、追っ手に向かって投げつけた。
パリーン! 瓶が割れ、強烈な刺激臭が広がる。
「ぐっ、なんだこれは!?」
「高濃度の揮発性香油だ! 目と鼻に来るぞ!」
ライルがニヤリと笑う。
「さらにオマケだ!」
彼は懐から火打ち石を取り出し、香油のまかれた床へ放る。
ボッ!! 一瞬で炎の壁が上がり、追っ手の足を止める。
「健二、D-3棚だ! あそこの留め具を外せ!」
ライルの指示に、俺は反射的に動く。
営業時代に培った『在庫配置図』の記憶――かつて倉庫整理で嫌というほど叩き込まれた習性が、異世界の今、生存本能と直結する。
あの棚の積み方は重心が高い。
一番下の留め具を一つ外せば、連鎖的に崩れる。
「了解、荷崩れ誘発!」
俺は走り抜けざまに、留め具をハンマー代わりの石で叩き飛ばした。
ズズズ……ガラガラガラッ!! 巨大な木製の棚がバランスを崩し、雪崩のように追っ手の方へと倒れ込む。
小麦粉の袋が破裂し、視界が白く染まった。
「在庫管理ミスによる事故発生!」
俺は叫びながら、ライルと共に粉塵の向こう側へと駆け抜けた。
「くそっ、前が見えん!」
背後で追っ手の声が遠ざかっていく。
地下倉庫の最奥。
古びた隠し扉を抜けた先は、かつて密輸に使われていたという狭い地下水路だった。
湿った空気と、水滴の落ちる音だけが響く。
ここまで来れば、さすがに追っ手も撒いただろう。
俺とライルは、壁にもたれかかるようにして座り込んだ。
服はボロボロ、手足は擦り傷だらけだ。
「……はぁ、はぁ。死ぬかと思った」
「へっ、いい運動になったじゃねぇか」
ライルは強がって見せたが、その手は少し震えていた。
彼は懐から、安酒のスキットルを取り出し、一口煽ってから俺に差し出した。
「……飲め。気付け薬だ」
俺は受け取り、喉に流し込む。
カッと熱いものが胃に落ちて、少しだけ震えが止まった。
薄暗い水路の中、俺たちはしばらく無言で呼吸を整えた。
ライルが天井のシミを見上げながら、ぽつりと口を開く。
「……あいつらの手口、嫌なほど見覚えがあるぜ」
「え?」
「足音の消し方、追い込み方……。俺がガキの頃、施設で見せられた『掃除屋』の動きそのままだ」
ライルは苦い顔で笑った。
「だから読めたんだよ。……俺も昔は、あっち側に行きかけたからな」
そうか、ライルが軍部の密偵に気づけた理由。
それは彼自身が、その冷たいシステムの一部になりかけた過去があるからなのか。
「……なぁ、健二」
ライルが視線を俺に移す。
「お前、元の世界じゃただの営業マンだったんだろ? 剣も使えなけりゃ、魔法もねぇ」
「……ああ」
「なんで、ここまでやる? 命懸けで魔物の子供を守って、軍部と喧嘩して……。最初は『元の世界に帰りたい』だけだったじゃねぇか」
その問いに、俺はカバンの革を撫でた。
かつての俺は、ただ商品を右から左へ流すだけの存在だった。
伝票を処理し、頭を下げ、数字を合わせるだけの日々。
そこに「誰かの命」や「想い」が乗っているなんて、考えたこともなかった。
「……最初はそうだった。でも今は、繋ぎたいんだ」
俺はカバンの中にある、書きかけの報告書と証拠品を思い浮かべた。
「現場の想いとか、命の震えとか……そういう『形のないもの』を、ちゃんと届く形にして、相手に渡す。それが俺の仕事だから」
かつて日本では、ただの歯車だと思っていた。
でも、異世界で気づいた。
商いとは、人と人を、命と命を繋ぐことだと。
「このカバンの中身は、ジョゼアやミナ、レティアたちが命懸けで作った『希望』だ。それを届けるのが、今の俺の誇り(プライド)なんだよ」
そう答えると、ライルはふっと笑い、帽子を目深にかぶり直した。
「……へっ、かっこつけやがって。ま、そういうバカな商人は嫌いじゃねぇよ」
水路の先、遥か彼方から、微かな風が吹き込んでくるのを感じた。
「……風だ。出口が近いぞ」
ライルが立ち上がり、俺に手を差し伸べる。
「行こうぜ、健二。夜が明ける」
俺はその手を掴み、立ち上がった。
「ああ。王都へ行こう」
ノワルマルシュの夜は、まだ明けない。
だが、出口の向こうには、微かな朝の光が待っているはずだ。
俺たちの足取りは、傷だらけだが、迷いはなかった。
この街全体が、俺たちを守ろうとしてくれている。
「商人は、信用で繋がってる」――その言葉の意味を、俺は走りながら噛み締めていた。
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